35、「生きろ」


 最も古い記憶はセルドと過ごすようになる少し前、死の恐怖に怯えながらスラム街でただ只管に生きていた頃だ。それ以前の記憶は無く、何故自分が其処にいたのかも分からない。
 セルドを暮らすようになって過去を振り返る余裕が出来た。だけど、それからすぐにセルドは死に、以来過去を振り返る勇気は無くなった。過去を封印し、何もかもを誤魔化しながらこの瞬間まで生きている。
 だけど、また、過去を振り返る余裕が出来た。そうして、紅く染まった記憶の断片を思い返し、その中にある微かな灯火のような記憶を繋いで行くと最古の記憶に辿り付く事が出来た。
 温かい腕に包まれた、木漏れ日の記憶――。
 だけど、今となってはそれが本当の過去なのか都合のいい幻想かの判断は出来なくなってしまっていた。



 ソラは足を引き摺りながら本陣の中を歩いていた。怪我は当然の事ながら回復せずに体を蝕み続けているが、革命軍は最後の決戦に向けて北への進軍の準備を進め、出発を目の前にしている。
 メロウ=ワーカーの参入、そして、西の砦の無血開城。それらが齎したのは、革命軍が作ろうとしている平和な世界への希望と期待。革命は、回り道をしながらも確実に思い描いた未来を作り始めていた。

 北は年中氷に覆われた極寒の世界。ソラが生まれたのは恐らくその周辺なのだが、積雪の記憶が殆ど無いところから考えると北の地でもまだ温かい南の方だったのかも知れない。
 ソラにとってこの進軍は帰郷と言う事になるが、それについての記憶が余りにも曖昧過ぎて実感は湧かない。北の地のスラムの厳しい毎日は忘れたくとも忘れられないのだけども。

「ソラ」

 元帝国騎士のメロウが呼び、ソラは振り返った。

「お前、北の生まれだったよな?」
「ああ。何で?」
「いや」

 メロウは言い辛そうに眼を伏せ、ソラは面倒臭そうに舌打ちしつつ傍まで歩み寄る。

「何だよ、はっきりしろ」
「お前が帝国を脱出してから色々調べた。少し言い辛いんだが……」
「要領を得ねぇな。何についての話だ?」

 メロウはぐっとを息を呑み、ゆっくりと続けた。

「お前の生まれが分かった」

 ソラは、目を瞬かせる。突拍子も無い言葉で信憑性に欠ける言葉だ。メロウは怪訝そうに見つめるソラの手を引いて自分に割り当てられた(と言っても西の砦の兵士全員だが)テントに入れる。そして、自分の荷物の中から探している間にソラは傍にあった木箱に腰を掛けた。

「俺の生まれ?」

 メロウは答えず黙ってソラの前に一枚の地図を広げる。ここ数日嫌と言う程見させられた北の地方の地図だった。

「北には名も無き少数民族がいる。透き通るような白い肌と銀色の髪を持っていると聞く」
「銀……」
「瞳は青く宝石のようで」
「――宝石、ね」

 ソラは何気無く触れていた銀髪から手を離し、苦笑する。ソラの蒼い瞳には落胆の色が映り込んでいた。

「銀髪と聞いた時はまさかと思ったが、俺はそんな綺麗な青は持っちゃいない」

 そう言ってくすんだ蒼い瞳を向けるが、メロウは「続きがある」と言って更に口を開いた。

「今生存するのは様々な民族との混血。宝石のような青い瞳はその長い歴史の中で生まれたものだ。純血は、青空のような色だったと言う」
「……だったって事はもう」
「見ろ」

 メロウは広げた北の地図の南部分を指差す。

「彼等が住んでいたのはこの辺りだな。深い谷間の……」

 ソラは眉を寄せ、地図を睨む。谷間の場所には何の地名も存在しない未知、または無の空間として描かれていた。だが、ソラはその意味を頭の片隅で理解している。そして、それが恐らく正解だと――。

「村は帝国によって滅ぼされた」

 やはりな、とソラは納得する。同時に、それに対して何の感慨も起こらない事に虚しさを覚えた。

「彼等の持つ美しい容貌は見る者の目を引く。だから、今でこそその存在は闇に紛れている人身売買の賞品として高い人気があったらしい。今生き残っている混血は様々な民族の中に溶け込む事で身を守って来た、言い換えれば人身売買が盛んだったと言う証拠にもなる。殲滅の理由は恐らく、打歩――」
「人身売買による離散、帝国による殲滅……。酷い血塗れの歴史だねェ」

 ソラはそれだけ呟くように吐き捨てて立ち上がった。
 始めからそんなものに期待なんてしていない。だから、自分の故郷が滅んでいようが家族が殲滅していようが懐かしむ記憶も無いソラには何の感慨も起こせないのは当然の事で。
 今の自分には帰る場所がある。ソラにとって重要なのはそれだけだった。

「故郷がどうなってようが知ったこっちゃねェ。大体、俺を捨てた親が何処で野垂れ死のうが関係無いね」

 ソラはテント出て行った。



 帝国の王宮は革命軍に占拠されている。放たれていた炎は既に消えたものの、多くのものは消失して残っていない。その廃墟と化した故郷をサヤは一人で歩いている。
 嘗てはリューヒィ達と談笑し、ソラと出会った王宮の中庭も焼け野原となっていた。建物内部も皆が土足で走り回った為に赤絨毯は見る影も無い。汚れ一つ無かった壁も煤に塗れている。修復は既に始まっているが、元通りになるにはどれ程の時間が必要なのだろうか。
 サヤはこの城で生まれ、この城で育った。外の世界と隔離されたこの鳥籠の中で生涯を終えるのだと思っていたが、ソラはその扉を開けて手を差し伸べたのだ。

「酷い有様だな」

 ソラは気配も無く背後に立つ。反射的に振り返ったサヤはその姿を確認して肩を落とし、力無く微笑んだ。
 耳を澄ませば聞こえる物音は皆、この城を修復する為のものだ。その廃墟の中を高く鳴きながら通り抜けて行く風は酷く冷たく、淋しかった。
 サヤはソラに背を向け、美しかった筈の中庭をゆっくりと歩き始めた。彼女は知らないが、ソラが救出されるまで閉じ込められていた塔もこの場所にある。ソラは無言でそちらに目を向けないようにしながら一定の距離を保ちサヤの後を追う。

「王は死ぬよ」

 ポツリとソラは独り言のように言った。サヤは何も言わずに苦笑するだけで、ソラは妙な苛立ちを覚える。

「何も思わないのか? たった一人の、家族だろう」
「哀しいと言ったら、状況は変わるの?」

 漸くサヤは振り返った。その表情には哀しみが刻まれ、それでも尚微笑もうとする様がいじらしく思えた。

「お前が変えたいと言うのなら、俺は世界を敵にしても変えてやるよ」

 サヤは黙って首を振る。ソラはどうすればいいのか分からずに眉を寄せた。

「家族とか、そんな感情を交えるにはもう遅過ぎるよ。そんな小さな理由で動いたら今までの戦いが全て水の泡になる」
「でも、そうして犠牲にした感情は未来自分自身に復讐するぜ?」
「それでも」

 サヤが頑なに言い張るので、ソラも自分の話を切り出せずにいた。彼女がこうして涙も見せずに堪えているのに、どうして自分が平気な顔をして家族の話を出来るのだろうか。
 ソラはメロウに聞いた話を誰にも言わぬまま、永遠にしまい込んでおこうと決めた。だけど。

「……ソラの家族は」

 突然、正にその話題を振られたのでソラは暫く沈黙を守ってどうしようかと考えた。黙っておけば楽なのだろうけども、サヤにだけは嘘を吐きたくないのだ。
 だから、覚悟を決めてゆっくりと口を開いた。

「俺の家族は帝国に滅ぼされた北の少数民族だと聞いている」

 すると、サヤが痛ましそうな目を伏せるので透かさず「だけど」と続けた。

「別に親が死のうが生きようが関係無い。俺も捨てられた半端者だ」

 自嘲っぽく笑ったが、サヤは表情を強張らせたままだった。ソラはやはり話すべきではなかったと思って歩き出す。焼け野原には芝生が植え直され、何気無く視線を其処此処に映しているとあの塔が視界に入り込んでしまった。
 ソラの足は止まり、視線は外せなくなった。あの暗闇の中で行われた拷問による傷は今も深く刻まれ癒えず、フラッシュバックする精神的外傷は未だに起こる。ソラは無意識に震える自分を抱き締めていた。
 喉の奥が焼け付くように熱く、声も出なければ呼吸も上手く出来ない。幾ら吸っても吐く事が出来ず、異変に気付いたサヤが慌てて駆け寄った。ソラは既に膝を着いてしまっている。焦点の合わない視線だけがやけに鋭く、像は結んでいないだろうのに崩れ掛けた塔を見たまま動かせない。余りにも突然の事だったのでどうすればいいのか分からず右往左往したが、ソラがその塔を見ている事に気付いて、それを遮るようにソラを前から抱き締めた。
 抱き締めた体は痙攣のように震え、少女であるサヤから考えても酷く細い。傷の癒えぬ体はボロボロで崩れてしまうような気がした。それでも、サヤは力を込めてソラを抱き締める。このまま何処かに消えてしまわないように、強く。
 視界を遮られたソラは平静を取り戻しつつあった。無意識に左手はサヤの背中を握り締めている。指先が白くなる程に握り締めた手が震えているのは、自分自身に対する悔しさだった。
 弱い自分が大嫌いだった。だけど、強くもなれない。どちらにも属せずに今もこうしてたった独りで生きているけれど、どうしてこの子は汚れた自分を抱き締めてくれるんだろうか?

「大丈夫」

 ソラを抱き締めたままでサヤは言い聞かすように言う。

「大丈夫だからね。独りじゃないよ」

 サヤが何を言っているのか分からずソラは蒼い目を瞬かせる。
 リューヒィもイオも、どうして皆同じように『独りじゃない』と言うんだろう。その言葉の意味を追い掛けてソラは首を傾げるが、サヤは抱き締める力を一層強くした。

「子供を大切に思わない親なんていないんだよ」
「――――」

 ソラは、何も言えなかった。それは違うと否定の言葉を吐き出そうとしたが、終にそれは二酸化炭素になって空気に溶けてしまう。
 平気で子を殺す親はいる。子供を人と思わない親もいる。現にソラはそうした人間を見た。でも、否定出来なかったのは、サヤの為だった。この言葉はソラに向けて言った訳ではなく、自分自身に言い聞かせているのだ。
 無性に泣き出したい気持ちが込み上げて来た。ソラは無言でサヤを抱き返し、目を閉ざした。

 この少女は、一体何時から独りでさ迷っていたのだろう。

「苦しかった?」

 酷く穏やかに、ソラは問う。閉ざした目は闇を見つめているが、嘗て苦しめ続けたあの地獄は浮び上がっては来ない。瞼を越えた先で蹲っているサヤの姿を見た気がした。

「独りになるのが、恐かった?」

 サヤが頷く気配があった。ソラは微かに笑みを浮かべる。

「ソラがいなくなったら私は、独りだもん」
「独りじゃないよ」
「だって、私は、ソラの付属品でしょ?」
「何言ってんだ」

 ソラは笑った。

「お前は『品』なんかじゃない。今ここに生きている人間じゃないか。……それに、付属なら俺は嬉しいけどな」

 ソラの開いた目がサヤの翡翠の瞳と合った。涙を零れ落ちそうな程溜めてサヤは小首を傾げる。ソラは、そんなサヤの心の中が覗き込める気がした。規模は違うけれど、この子もまた歪もうとしているのだ。
 だけど、まだ引き返せる。この子は闇の中に向かおうとしていたけれど、間に合った。だって、もう其処には誰も行かせない。

「ずっと一緒にいられる」

 蒼い瞳を歪め、ソラは微笑んだ。サヤは、初めてソラの本当の姿を見たと思った。
 これまでソラはサヤに自分を曝け出そうとはしなかった。弱みを見せる事は常に死に直結し、サヤに見せればそれは不安となって双方の背中に圧し掛かる。そうやって独りきりで生きられる程に人間は強くない。けれど、寄り掛かっただけで倒れる程に弱くもないのだ。

「独りだなんて哀しい事、二度と言うなよ」

 そう言って、ソラは口を結んだ。少し前のカルファーの話が脳裏を掠め、胸にチクリと刺されるような痛みが走る。それまで突き放して来た多くの感情が戻って来るのが分かった。
 感情なんて所詮は只の自己満足。それでも、人が嬉しい時に笑い、哀しい時に泣くのにはそれ以上に何か大きな意味がある気がする。だからもう、何かに怯えて隠したり封じ込めたりする必要なんてない。
 ソラはサヤから離れ、口を開いた。

「……俺の家族は恐らく死んだ。現存する仲間は皆、俺とは違う混血だと言う」

 呟いた声は空気中に霧散しそうな程に儚かった。

「微かだけども、俺にも家族の記憶みたいなものはある。それが本物なのか都合の良い妄想なのかは分からないけどな」

 ソラは黙った。
 本当は、会いたかった。道行く親子がずっと羨ましかった。繋いだ手や肩車に何時だって目を奪われた。家族が欲しかった。
 だけどもう、二度と会えない。記憶の片隅にあったものが事実が幻かは永遠に分からない。どうして、自分だけがこうして生き残っているのだろうか。
 カルファーの話ではないが、こうした容貌だ。人目に付かずに生きるのにも限界はあり、きっとすぐに見つかる。それでも自分と同じ瞳をした者の情報が無いのは、恐らく殲滅されたからだろう。

 どうして、自分だけが生き残った?

 その答えはすぐに導き出せた。恐らくきっと、生かされたのだ。商品のように扱われ、打歩なんてものの為に殺されて行く中で守られた。言葉で言う以上に難しい事だった筈だ。それこそ命懸けで――。
 少し前の自分なら、どうして一緒に連れて逝ってくれなかったのかと責めただろう。だけど今は。
 今は、こうして生きている事を顔も覚えていない両親に感謝したい。

 こうして、誰かの傍にいる事が出来る。


「独りぼっちじゃない。お前には俺がいる」

 目の端に、暫く見なかった修羅が佇んでいるのが見えた。此方を見る目は穏やかなものだけど、剣はすぐにでも抜けるように柄を握っている。
 答えはもう、ずっと持っていた筈だ。それこそ初めから。以前辿り着いた筈の答えは突き放し、今もさ迷いながら探している。
 落としてしまったのなら、拾えばいい。無くしてしまったなら探せばいい。初めから存在しないのなら、作り出せばいい。今更誰かの為になんて生きられない。背負って来た重過ぎるものを預けてしまおうなんて無責任な事は出来ない。
 だから、行けるところまで行こう。そうして倒れた時に差し伸べてくれる手がある事を誇りに思おう。
 今この瞬間を全力で生きよう。それが死者に対する唯一にして最大の罪滅ぼしだ。

「世界中がお前の敵になっても、俺はならない。俺だけはお前の背中を押してやる」


 俺も、もう独りじゃないから。
 何度も死にたいと願った。生まれなければよかったと思った。だけど、誰もそれを許してはくれなかった。
 それは、“生きろ”と言うメッセージだった。死ぬなと、背中を押す掌。決して綺麗な感情だけではなく、汚れ切った憎悪や憤怒もあっただろう。でも、皆“死ね”とは言っていないのだ。

 生まれた意味なんて分からない。だけどきっと、命は生きる為に生まれたのだと願いたい。
 誰も独りじゃないのだと、胸を張って言えたらどんなにいいだろう。でも、人はみんな独りぼっちで淋しいんだ。そういう冷たさを知っているから、温もりの大切さが分かる。

 不意にセルドの声が脳裏を掠めた。

――……知るってのは、不幸な事でもある。だが、同時に幸せでもある。お前はこれから生きていく中で沢山の哀しみを知るだろう。だけど、喜びも知る。こんな世界だ。どっちが多いかなんて言うまでもねぇけどな

 冷たさを知らないで温もりは分からない。傷を知っているから癒しを知っている。淋しかったから手を差し伸べられる。辛かったからこそ優しさをあげられる。

 声が聞こえた。
 修羅の声が耳元で囁くように一言だけぽつりと落として行った。その後姿は見られなかった。囁いた後で自分の中に溶け込んでしまったからだ。
 妙に耳に残った声は、修羅と同じく胸の中に染み込んで行った。


 生きろ。