36、誰かの望むモノ<前編>


 ソラとイオが再び帝国まで戻ったのは、北に向かう為の準備とメロウ達を紹介する為だ。二人が起こした無血開城は瞬く間に世界へ広がり、革命軍を後押しするような希望の光となった。

 目まぐるしく動く世界、時代の節目は確かにここにある。帝国が世界を恐怖で支配し続けた暗黒の時が明け、やがて光溢れる自由の時を向かえるだろう。
 ソラは、帝国の王宮内部を一人で歩きながらそんな事をぼんやりと考えていた。

 つい最近来たばかりの場所だが、その時は今程の余裕は無かった。今は亡き帝国騎士カルファー=レイドリックに無理矢理引き摺られ、王に会わせられた。その先の事は未だに思い出す事は出来ないけども、この塵一つ落ちていない赤絨毯や汚れ一つ無い白い壁は忘れる筈が無い。
 綺麗な王宮。それだけでは、終われない。

 あの頃と何も変わらないここは異常だ。眩暈と吐気が訪れ、ソラは壁に手を着いた。

 ここには色々な思い出が多過ぎる。思い出せば心の糧となるような幸せは、あの夜の出来事で蓋をされてしまっているせいで振り返れない。でも、もう、蓋を開けなければならない。隠し続ければ悲劇は重みを増すだけだ。

 そうして、王宮のとある一室の扉を押し上げた。ドアノブに触れただけで体中に静電気のような感覚が駆け巡る。心の芯が恐いと震えているのが分かった。
 開くと、見覚えのある空間が広がっている。やはり、何一つ変わっちゃいない。
 きっと、あの日のまま何も――。

 窓辺にある机の上には開いたままの分厚い本、横を向いた椅子、カーテンは半開きで夕焼けに染まった空が見える。この机の上に、飲み掛けのコーヒーが置かれていたらあの頃に戻ったのだと錯覚してしまっただろう。
 レナード=ルサファの部屋は、彼が死んだ日以来何も変わってはいない。きっと、セレスが生きていた頃にそのまま残しておいたのだろう。微かに積もった埃が流れる時の重みを実感させた。

 初めてここに来たのは、サヤと会った日だった。
 何も知らずにサヤと話し、怒り出したリューヒィに連れられてここに来た。レナードは椅子に座ってコーヒーを啜りながらこちらを見ていた。

「……レナードさん」

 ぽつりと呟くように呼んでみたが、何も起こらなかった。
 この国は何時までもこうして変わらないのだろうか。色々なものを壊し、歪め、呑み込んで行く。叫び出したい衝動に駆られるが、やはり、何を叫べばいいのか分からない。

 机の上に置かれた分厚い赤のハードカバーの本に何気無く目を通す。余り字は読めないが、恐らく哲学的な事を記しているのだと思った。それが余りにもレナードらしくて、笑った。
 目を閉じると、あの頃に戻ったような気がする。椅子にはレナードが座っていて、自分はリューヒィと並んでベッドに腰掛ける。レナードの小難しい話にリューヒィが楽しそうに相槌打つ横で、自分はそれを子守唄代わりにうつらと船を漕ぎ始める。その内、セレスやサヤが紅茶やコーヒー、手作りのマーマレードでも持って来るだろう。気付くと眠っていて、甘い匂いの中でリューヒィに揺り起こされる。
 ソラは、目を開けた。
 自分以外、誰も存在しない空間が目を閉ざす前と同じ状態で広がっている。酷く、虚しい。

 守りたかったものは、全てこの手で奪ってしまった。レナードもリューヒィもセレスも殺した。サヤだけは守ろうと戦い続けてここまで来たけれど、この世界に百パーセントと言う確証は無い。あるとすれば、それは人はやがて死ぬと言う事だろう。

 窓の向こうで山々の中に呑み込まれて行く夕陽、茜色の空が群青を帯びてグラデーションを作り出す姿を遠くに眺めている。やがて消える茜色の叫びが、今なら聞こえるような気がした。

 今度は、王宮の誇る巨大な図書館に向かう。中庭を通らなければならない為に、あの崩れ掛けた塔を視界に入れないようにして向かうのは少し困難だった。あの記憶もいずれは振り返らなければならないものだろうけども、今はまだ出来ない。かさぶたにもなっていない傷を抉り出したところで何の解決にもならないからだ。残るのは悪化し膿んだ傷と疼くような痛みだけ。
 意識を色々な場所に漂わせながら動く足は自分でも驚く程に軽い。戦争の爪痕が残る城壁が遠くに見えて、漸く息を吐けた気がした。何も変わっていない訳じゃない。時間は確かに流れている。

 図書館の正面に立った瞬間、恐らく慟哭にも近い感情が喉の奥から溢れそうになった。あの、凛然と佇んでいた建物は何処へ消えた。
 目の前で廃墟になってしまった図書館。何も変わっていないこの帝国が多少でも崩れている事が嬉しく感じられていたが、ここだけは残っていて欲しかった。ここは、リューヒィがいつも通い詰めていた場所なのだ。
 余りにも退屈でリューヒィに声を掛けると、必ずと言っていい程ここに連れて来られた。どちらにしても、文字は読めないから退屈でしかない。だから、黙々と本を読み続けるリューヒィに寄り掛かって居眠りばかりしていた。日が暮れた頃になればリューヒィも本を置き、居眠りしているところを揺り起こす。
 思えば、いつも起こしてくれるのはリューヒィだった。

 何故か夢の中にでもいるかのように足元がふわふわして眩暈がする。色々な神経を歩く度に落としてしまっているんじゃないかと何気無くポケットに手を突っ込んだ。こんなところに神経が入っている訳が無い事くらい、分かっている。
 擦り切れた布の袋小路。分からない何かを探す指先は柔らかいものに触れた。それを摘んで眼前に運ぶと、それが白い鳥の羽根である事を知った。ふっと思い出して空を見上げるけれど、闇に沈もうとしている空の中にあの白い鳥の群れは発見出来なかった。

 いる訳が無い。そのくらいは分かっているけれど、探してしまう。
 探しているのは本当に鳥だったのか。でも、会いたいのは――。

 再び王宮内に戻り、見慣れた廊下と階段を通ってあの部屋に行く。思い出したくない惨劇の舞台、自室だった。
 ドアノブに触れた手は微かに痙攣のような震えが見られ、指先からは鉄の冷たさが伝わる。もうすぐ冬なのだから当然だろう。しっかりと掴んでドアノブを回す。
 扉を開けると、自分の部屋は無くなっていた。机も椅子もベッドもカーテンも無い。何も無い白い空間。あの出来事を呑み込む汚れ一つ無い白。気持ち悪い。
 額を抑えながら窓辺に向かう。覗き込んで見える中庭の景色は当時のままだった。あの頃なら、こんな時間でも兵士や騎士の誰かしらが稽古に励む姿と声があったのに。
 焼け野原になった緑の芝生。目が慣れ、暗くなっていて見えない塔が見えてしまう前で窓から離れる。窓硝子に背中を向けると白い壁に茶褐色の染みが無数見られた。息が詰まりそうになりながら、ゆっくりと近付く。
 ひんやりと冷たい石膏の白い壁、染み込んだ血液。やはり、あの事件はここで起こったのだ。

 目を閉じると蘇る声。吐気がした。胃の中から何かが込み上げて来る。眩暈が酷く、立っていられない。叫べばある程度気は紛らわす事が出来たかも知れないが、何を叫べばいいのか分からない。
 窓の外は暗くなり、夜が来る。あの日から何度目の夜だろうか。
 眠っていると転がって来たノック、開けると血塗れのリューヒィがいた。

 親友が、逃げろと訴える。意味が分からなくて動けず、その切羽詰った状態をとにかく落ち着けて手当てしようと思ったのだ。そうしたら、背後で薄く笑うレナードが見えた。
 黒刀は、リューヒィの腹部を食い破った。口から溢れ出る赤黒い液体を頬に浴び、肩口に倒れ込んでくる親友の向こう側に心を殺したレナードが笑っていた。耳元で掠れる声のまま逃げろと訴えるリューヒィ、訳が分からなかった。でも、恐くなった。
 嘘だと願った。夢だと祈った。それでも何も変える事は出来なかった。
 致命傷を受けたリューヒィの呼吸がどんどん減って行く。体温の低下は死が目前にある事を知らせている筈だったのだ。それなのに、出来た事は振り切られたレナードの剣を反射的に後ろに跳んで避ける事だけだった。

 悲鳴を上げても、命乞いをしても結果は変えられなかっただろう。レナードの頭の中には殺す以外の選択肢は存在しなかったんだから。
 ……ならせめて、最後の最後まで敵としてくれたなら、こんなに苦しむ必要も無かった。
 血も情けも無い極悪非道の人だったなら、こんなに気にする事は無かった筈だ。でも、レナードは違った。大切なものを守る為に戦って戦って、その違いのせいで生まれた戦いで負けて死んだ。

 悔しい。

 頭の中が揺れている。グラグラと色々な景色が混ざり合って、目の前にあるものの色が分からない。
 白と赤、茶褐色、黒。まるで、人間みたいだ。正義振り翳しながら人を殺し、泣きながら笑い、恨みながら助ける。人間なんて訳が分からない。この国の色みたいに純粋な赤と白で括れたなら、きっと楽なのに。

 人が恐いと思いながら、自分も狂気の中に飛び込みながらもまたここに戻って来てしまう。矛盾しながら、色々なものを失いながらここに立っている。
 酷く、悔しい。

 何で、思い出は失われないんだろう。命には終わりが来る。それなのに、思い出には死程のれっきとした終わりが見えない。それどころが、時間が経つ程に重みを増し、心の中でどす黒い塊になっては熱を帯びて内側から焦がして行く。
 あの声が、悲鳴が、笑い声が、姿が、表情が、掌が忘れられない。今も脳裏に焼き付いて離れない。

 レナードを殺した。どっちが死んでもおかしくない状況で――いや、普通に考えれば死んだのは自分だった。傷だらけでろくに動けなかったのに、無傷だったレナードが死んだ。もしかすると、いや、きっと彼はわざと負けたのだろう。そうでなければ、世界最強の名を背負う彼がこんな怪我した子供に負ける訳が無い。

 そういうところが嫌いなんだ。
 リアリストで冷たくあしらって来る癖に、こんな風に甘くなる。どちらかにしてくれ。こんなのは卑怯じゃないか。

「……何で……」

 答えの返って来ない問いは部屋の中に反響し、頭上から降り注ぐ。
 体の中で黒く渦を巻くものがある。それをどうにかしなければならないのだと脳から命令が来たけれど、その方法を知らない。どうすればいいんだろうか。
 指先の痙攣と同じく膝が震えていた。喉が張り付いて声が出ず、視界の上半分が白いカーテンでも垂らされたように霞んで見える。背後からの覚えの在る気配は、また、あいつだろうか。

――行けよ

 自分の姿をした修羅がまた立っている。これは幻覚だろうか。それとも、依然言ったように同じ人格の裏と表なのだろうか。答えなんて分からないけれど、ひたりと足音が聞こえて肩を掴まれた。酷く、リアルだ。肩を掴んだ手は細く、触れられた皮膚の中に水分のように溶け込んで行った。
 彼の言う意味が分からない。一体、何処に行けと言うんだ。

 窓に何かが衝突する微かな音が聞こえた。
 どんよりと鉛色に曇った空が堪え切れなくなったのだろう、雨が降り出している。湿気を帯びた空気を感じようと外に出ようとして、最後に色褪せた血液を見た。これで本当に、閉ざされた蓋を開ける事は出来たのだろうか。
 疑問の答えは分からない。何かを吐き出したい衝動はあるけれど、どうすればいいのか分からない。分からない事ばかりで、ならせめて洗い流せたらと思った。
 血に塗れた手は洗えば元通りになる。人を斬った汚れた心はどうやっても戻らない。通り過ぎた過去はそのまま変わらないのに、変えられないのに、この国は全てを無かった事のように呑み込んで隠してしまう。それが、恐い。

 中庭は既に雨に塗れていた。炎に巻かれたであろう芝生はやはり茶褐色を帯び、其処此処に薄く生えては所々に土を露出させている。少し離れたところにあの塔が見えた。全身が疼くような恐怖はあったけれど、以前のように立っていられない程の恐怖は訪れなかった。
 恐いのはこの世界なのだと今更知った。
 事実を当たり前のように隠してしまうこの世界が恐いのだ。いつかは自分の存在も闇に消されるだろう。だけど、それは別に構わない。問題は其処ではないのだ。

 この世界はきっと、同じ事を繰り返す。何度地獄を訪れても、その事実を誰かが隠してしまうから分からないのだ。
 恐い。冬の寒さの中、異質な悪寒を感じた肌は粟立っていた。

 自分のものである両足が何処に向かっているのか分からない。もしかしたら、自分の裏の人格である修羅が操っているのでは無いかと童話染みた考えを浮べて苦笑した。いよいよ激しくなった雨は冷たく、確実に体温を奪って行く。元々体温は高く無いし体も丈夫ではない。何より、雨に塗れるのが大嫌いだった筈だった。
 幼い頃の精神的外傷がフラッシュバックする。それなのに、今は色々な神経が麻痺して考えが及ばない。
 また、あの狂気の中に落ちてしまうのだろうか。せっかく皆が救い出してくれたのにこんなにも簡単に堕ちてしまうのでは合わせる顔が無い。でも、この下って行く螺旋階段のような狂った神経は麻薬の中毒症状と同じではないかと考えてしまう。中々、離れてはくれないのだ。

 足は王宮から離れた。けれど、歩いて行ける距離にある場所で停止する。ソラは其処を見て納得した。
 墓地だ。そうだ、ずっと、ここに来たかった。

 湿った空気の中、泥と化した土の上に歪な足跡を刻んで行く。覚えの無い名前ばかりだけど、その中には多少覚えのある名前もある。任務を共にした仲間も、数回会話した程度とは言え僅かな部下も。
 雨脚が激しくなると視界が悪い。それで無くとも半分は何処からかカーテンがぶら下げられているようになっているのだから、二人の墓を探すのは困難だった。

 精神が螺旋階段を下って行く。またあの闇の中に堕ちてしまうのか、と人事のようにぼんやり考える。あの生白い無数の手や足元を満たす血液。

 俺はまた、自分自身を殺してしまうのだろうか。

 ふと、気付いた。殺したものは生き返ったりしない。なら、今ここにいる自分は一体何なのだろうか。
 歩き回っているのは、腐った体を引き摺っているのは、ここにいるのは誰なんだ。落ちて行く精神を繋ぎ止める鎖が欲しい。また、多くの人に迷惑を掛けてしまう。

 ここにいるのは。



「何処に行くんだ」

 ザァザァと喧しい中ではっきりと聞こえた声だった。いや、そう思った。でも、振り返っても誰もいない。墓地に気配は無いのに声がする。いよいよ現れたのかと笑い出したくなった。
 ふと傍の墓石に目を遣る。『リューヒィ=ヴァイサー』の墓は、其処にあった。

 ソラはゆっくりとしゃがみ込み、鈍色の十字架の形をした墓石を眺める。祈りの言葉の一つでもリーフに訊いておくべきだったと今更ながら後悔した。
 先刻聞いた声はここから発せられたような気がしたけれど、勘違いだろう。死者は蘇らない。でも、彼等はあの時助けてくれた。リューヒィは、進路を指差して教えてくれた。死者は蘇らないけれど、思い出は残る。その時になってやっと思い出が残る事の意味を理解した。

「……久しぶり」

 返事が返って来ない事は分かっているが、ソラは墓石に向かって呟く。雨音が五月蝿く、前髪から雨水が滴り落ちた。

「意外と元気だろ。少しは文字読めるようになったんだぜ。お前みたいに頭良くないし、気持ちを綺麗な言葉で伝える事も出来ないけど精一杯やってるんだよ」

 そうして、何気無く隣りに目をやるとリューヒィのものと同じ形をした墓石に『レナード=ルサファ』と刻まれているのが見えた。
 隣同士にしたのは、セレスの気遣いだろうか。少しだけ羨ましいと思った。それから、今度セレスの墓も此方に移そうと考える。ソラはゆっくりと立ち上がり、二つの墓を見詰めた。

「レナードさん。俺、まだ生きてるよ」

 雨音だけの世界にソラの声が掠れるように響く。

「こんなに長生きするつもりは、無かったんだぜ」

 とは言っても、どうせ十八其処等だろうけど。

「……あの時、本当に助けに来てくれたの?」

 声が震えた。

「俺が憎くないのか? ……あの夜、何で本気で俺を殺そうとしなかった。守りたいものがあったんだろ」

 視界が霞む。貧血だろうかと考えるが、声は止まらない。

「レナードさん、俺に死にたいかって訊いたよな。今は俺、答えられそうだ」

 少し笑うが、表情は動かす事が出来なかった。
 何かを吐き出したい衝動が襲って来る。でも、どうすればいいのか分からない。この胸の中で暴れ狂う憎悪や憤怒、悲愴をどうすれないいのか分からない。

「生きたいよ……」

 脳裏を駆け巡る様々な思い出。量が多過ぎて頭が破裂するんじゃないかと思った。
 何処かで吐き出さなければ。でも、何処でどうやって。

 息が出来ない。

 ぱしゃり、と水の跳ねる音がした。ソラは膝を着き傾く。薄く地面に堪った水、頬が沈んだ。