37、蛹<後編>


 帝国軍の残党は王を匿いながら北の地に逃げ、忠誠を誓う小国を盾にするようにしている。革命軍はそれを追い、現在北の地に向かった。そして、その小国を取り囲む革命軍が見たものは、盾にして来た何の罪も無い民衆を虐殺する帝国軍だった。

 町中が血に染まっているのが、遠くからでも分かった。
 ソラはその光景を少し離れた崖の上から眺めている。血に染まった町、もういる筈の無い住民の叫び声が今も聞こえて来る気がした。

 柄じゃないと思いながらも、悔しかった。
 悔しくて仕方が無かった。

 王と最後に会った時を思い出した。あの腐った泥沼のような、ヘドロのような目。肥え太った体、崩れ落ちる寸前の老木のような顔、腹の底に響くような低い声。きっと、この世界であの王程憎み恐れた男なんていないだろう。
 大切なものを奪い壊し、奪わせた。そして、追い詰めては崩して行く。

――お前が守ろうとするものを全て壊してやりたくなるのだ。必死に抱え込んでいる全てのものを――

 あの言葉を思い出すと、全身を恐怖が寒気となって襲う。あの王によって刻み込まれた傷がジクジクと痛み、指先や膝が震えて視界が霞み出す。

 壊させてなるものか。
 奪われたくないから必死に抱え込んでいるんだ。お前に一体何の権限があって、奪い、そんな事を言う。

 目の前で奪われてしまったものが自分とは何の関係が無くても、こんなにも哀しくて悔しい。どうやったって守れる訳の無かった筈のものが壊されていると自分の無力さに死にたくなる。こんなに欲張りではなかった、筈だったんだけど。
 でも、身を裂くような『守りたい』と言う願いはずっとあったのだ。そう、ずっと守りたかった。
 あんなにも簡単に人の大切なものを奪う王のような人間がいれば、その反対側にも当然人がいる訳で。そうして世界は均衡を保って来た筈だ。


「こんな事ってあるかよ……」

 何時の間にか隣りに立っていたイオが、微かに炎が残る町を見詰めて言った。きっと、住民を一人残らず殺す為に火を放ったんだろう。こんな事ってあるかよ。イオが呟く。

「やってくれるじゃねーか」

 ソラは口角を吊り上げて言った。内心はイオと同じように激怒し、激昂してこのまま帝国に殴り込みに行きたいくらいだったがそれは許されない。イオがこうして怒っている間は、残酷なくらい冷静でなければならない。感情に身を任せてしまったら、大切なものは簡単に崩れ落ちてしまうからだ。

 鬼や悪魔には何時だってなれる。
 そう、大切なものを守る為なら何時だって心なんて捨てられる。

「帝国がこうして自分を守る為に悪行を重ねる程に、世界は俺達の思い通りになっていく。……そんな事、向こうは分かっちゃいないだろうけどな」

 自嘲するように言うとイオの鋭い視線が突き刺さったが、ソラは気にせずに前を見据えたままだった。
 帝国はこうして汚れて汚れて、罪を背負って人々に憎まれ恨まれ呪われて滅びなければならない。後に出来る世界にほころびが出来ないように、汚れた部分は全部背負って真っ新な世界を残してくれないと困る。
 そんな残酷にも思える冷淡な感情を、イオはどう見ただろうか。ソラはぼんやりそんな事を考えながら崖を後にした。


 革命軍と帝国の戦いは終結を目の前にしている。事態が膠着しているのは、帝国が人質を取って近付くなと訴えているからだ。ここで革命軍が降伏勧告でもすれば話は早いのかも知れないが、それはいずれ革命軍の首を締めるだろう事をソラは分かっている。時間が掛かる程に生まれる帝国への同情はイオも気にしていたが、彼等はこうして見事に全ての期待を裏切ってくれた。

 帝国は、革命軍がいなくならなければこうして町を一つずつ潰すと言って来た。

 馬鹿だな、とソラは大声で笑い出したい衝動に駆られた。
 そうして逃げる程に足場は崩れて行き、味方はいなくなる。まるで、過去の自分を見ているようじゃないか。

 ソラは、膠着している状況で自分のやるべき事を見つけている。きっと、他の誰に言っても咎められ止めさせられる行為だ。だけど、自分にしか出来ない。

 全ての終わりを見詰め、ソラの足は血の臭いの元へと吸い寄せられるように動き出していた。


 人質されている町の前に立つと、酷い血の臭いで気分が悪くなった。これまで随分と人を斬って来たが慣れる事は無いし、そうなってはならないと思う。それは自分の中に敷いたルールの一つだ。人の側に在る為に。
 蔑まれた通りの鬼や悪魔になったのなら、それは人ではなく人形だろう。もう、あの闇の中には戻りたくない。

 町は当然だが、革命軍を抑える為に帝国軍が守っている。まさか名も姿の知れ渡ったソラが入り込める程に甘い訳も無く、離れたところからどうしようかと首を捻っていると突然手首を引かれた。
 岩陰に引っ張り込まれ、いきなり頭から謎の液体を被せられる。極寒の中、何の準備も無しに水を浴びるのは自殺行為だ。反射的に身震いして剣の柄を握るが阻まれた。
 液体は何か濃暗い色をしていて、視界の悪さに抑えられていない方の手で顔を拭う。手の甲にこびり付いた黒色の液体を見て、その色を漸く知った。顔を上げれば、数刻前に会ったばかりの二人の顔があった。

「ケルマ、ローズ……」

 二人は口の前に指を立て、子供にするように静かにと示す。訳が分からずに顔に掛かったを拭い、頭を振って液体を飛ばそうとするとローズが阻む。

「帝国に単身で乗り込むんでしょう?」

 声を揃える二人を前にソラは渋々頷く。すると、二人は揃って笑みを見せた。
 昔見た無邪気な笑顔に、安心した。変わってなんかいないじゃないか。

「手伝います」
「手伝うって……」

 ローズはソラの顔を拭いながら別の服を差し出す。何処にでもありそうな普段着だ。

「ソラ先輩の姿は目立ちますからね」

 その言葉に納得し、ソラは差し出された服を取った。少し長い前髪がいつもと違う色で液体を滴らせながら視界に映り込む。ソラの容姿で最も目立つのはこの銀髪だから、丁度いいだろう。
 極寒の中で着替えるのは焦ったが、終えると二人が満足そうに頷く。その様子が余りにも昔のままだったので、安心と同時に疑問を覚える。数刻前には命懸けで剣を交し合ったと言うのに、これはどうした事だろうか。
 ソラが疑惑に満ちた目で見ている事に気付いた二人は顔を見合わせて笑った。

「俺達だって、救いが欲しかったんですよ」

 哀しそうな目でケルマは言い、ソラがそれまで着ていた服を足元の積雪の下に埋めた。それ以上、ソラは言葉を繋げられない。
 ローズは銀灰色の瞳で僅かに俯いたソラの顔を覗き込む。

「どうして、ソラ先輩は一人でここにいるんですか」
「俺にしか出来ない事だからだ」
「背負い込むんですか」

 ケルマは足元の雪を均し、顔を上げる。

「そうして背負い込んで、貴方は幸せですか?」
「……何で、お前にそんな事言われなきゃならねェ」
「分からなかったんですか?」
「俺達が、アンタがいなくなった後の帝国でどう思ったのか」

 ソラは、閉口した。
 帝国にいた頃の事は殆ど思い出せない。だけど、思い出せる断片にはサヤやリューヒィやレナード、微かにセレスやメロウ達がいるばかりだ。だけど、帝国の頃の事はどれも失われてしまったと言う喪失の記憶。
 それなのに、今でもこうして慕ってくれる仲間がいる。
 次々に脳裏を駆け巡る失った人達。でも、その先には二人がいる。

「帝国で、俺達を人として見てくれたのはアンタだけでさ」

 鬼や悪魔と蔑まれた中で、知らなかったとは言えソラは普通に接してくれた。それだけが救いで、希望で、光で。
 でも、もしもソラがマナエル一族の事を知ったからと言っても特別態度を変える事は無かった。興味なんて、無かったから。その頃は自分の生活だけで精一杯で、大切なものを守る為だけに生きていた。――それでも、守り切れなかったのだ。
 ずっと恨んでいるだろうと過去を振り返れずにいた。だけど、其処に手を差し伸べてくれたのもやはり失った人達で。振り返れなかった記憶の中で背中を押し、思わぬところから誰かが手を差し伸べてくれる。

 独りじゃないと、微笑んでくれたのは誰だ。

 ソラは苦笑し、二人の頭をくしゃりと撫でた。感情を消失させた人形に成り下がりながらも、こうして信じてくれていたのか。

「幸せですか?」

 ローズの微笑みを見て、少しだけ肩を落とす。目の前にいるこの二人を壊してはいけないのだと本能が告げた。言葉を発せずに数回開閉を繰り返すとケルマが真っ直ぐ睨む。

「もっと、自分の為に生きて下さいよ。アンタばっかりがそうして苦しい事背負って、仲間は皆幸せになれんスか?」
「……俺以外に誰がやる」

 ソラは帝国の方へと歩き出している。

「俺以外の誰が帝国軍を蹴散らし、王を殺し、憎悪を背負って行けるんだ」
「だから、それが」

 ローズの続けようとした言葉はケルマによって遮られ、小走りでソラの前に出る。

「馬鹿な先輩の為に人肌脱ぎますから」

 そう言って、追って来たローズと並んだケルマは早足で歩き出した。



 帝国の警備はやはり厳重なもので、騎士団の一員であるケルマとローズが入る事さえも時間が掛かった。ましてや、不審者のソラを連れているのだから掛かる時間は倍だ。
 その厳重な警戒が滑稽で可笑しくなった。こうして身を守ろうとする程に、王は全てを失って行くのだ。

 仏頂面の不審者は随分な時間咎められたが、ケルマとローズの権限で通過を許された。その時の二人はやはり、感情の消失した人形のようだった。

 最初に見た町は、崖の上から見たあの血に染まった町だった。何の気配も無い無機質な存在を暫く見詰めているとケルマが急かす。
 何人死んだのだろうか。数えてもこの永い戦争が生み出した犠牲者の一欠片にしか満たないような存在だろうが、街路に溢れ染み込む血液の鉄の臭いが悔しかった。
 綺麗事なんて知らない。でも、悔しい。どんなに汚れてもこの手には救えないものがある。見捨てなければならないものがある。悔しい。何で、この手はこんなにも小さいんだろう。目の前にあるもの一つ守れずにここまで来た。多くのものを諦めながら生きたけれど、そうして捨ててしまったものは決していらないものなんかではない。

 この手が今まで奪って来たものは、誰かにとっては命以上に大切なものだった筈だ。

 そう考えると、ここに立っている事が恐くなる。この手はまた誰かの大切なものを奪い、自らの大切なものを失わせるんだろうか。

「ソラ先輩」

 ケルマに腕を引かれ、ソラは思考の中から戻って来た。
 悪い、と小さく呟いて先を行くローズの後を追う。



 二人に連れられて辿り着いたのは中心部に位置する町だった。
 この国は険しい山を背にし、斜面に町を立てている。丁度、城は正面から取り囲む革命軍を睨み付けるように高い位置から見下ろしている。白い建物が雪の中に溶け込んだ幻想的な国なのだが、今は帝国により紅に染められてしまっていた。
 中心部の町は、普段はこんな辺鄙な場所にあるとは言えども活気に溢れた首都のような場所だ。だが、現在は所々崩壊して嘗ての面影も消し去ってしまっている。
 ケルマはその人気の無い町の表通りから外れた路地裏に身を潜め、兵士による厳しい警備の続く広場を見た。ケルマとローズはともかくとしても、正体を隠しているとは言えソラが簡単に通過出来る様子ではない。どうしようかと後ろのソラを振り返ると、腰の剣に手を伸ばしているので慌てて止めた。

「ちょっと、何をしてるんですか? 正面突破なんかしたら、乱戦になりますよ」
「じゃあ、どうするんだ。このまま手を拱いていても人は死ぬぜ」
「そんな乱暴な。それに、我侭です」
「さっき、自分の為に生きろって言ったのは何処のどいつだ」

 ソラは立ち上がり、ケルマを押し退けて広場を覗き込む。
 兵士が十五人、騎士が二人。簡単には行かないだろうが、ここで帝国兵を引き付けられれば正面が手薄になる。
 ローズはソラの真意を悟って同じく腰の剣に手を伸ばした。

「……囮作戦ですか」

 ソラは頷き、はっとしたケルマは苦笑した。

「何時の間にそんな打ち合わせをして来たんですか。革命軍も中々無謀な事をしますね」
「打ち合わせなんかしてねェ。俺の勝手な行動だ」
「……馬鹿ですか?」
「馬鹿じゃなきゃ出来ねェよ。でも、これなら失敗しても革命軍には何の迷惑にもならない」

 めちゃくちゃだとケルマは思った。それでは、これはただの自殺行為じゃないか。ここで帝国兵を引き付けても革命軍が動く保証は無い。だけど――。
 ケルマは、溜息を吐きつつ剣の柄を掴む。

「住民に被害が及ばないようにします。ソラ先輩はここに隠れてて下さい」
「……お前等、何で」
「あたし達は、ソラ先輩が考えている程綺麗な心は持ってません」

 ローズは立ち上がってソラを見た。その隣りにケルマは並び、改めてこの二人は双子なのだとソラは思い知る。

「善良な人間なんかじゃない。ここまで来る為にも色々なものを奪って来たし、歩いたのも光なんて何処にも無い泥濘だらけの道だった」
「最後くらい、綺麗に飾りたいんですよ」
「……ここで、死ぬつもりか?」
「見っとも無く生き長らえるのは、御免です」
「惨めに生きるくらいなら、潔く首を切った方が胸を張れる」

 その言葉が心臓に突き刺さった。気付くとソラはケルマの胸倉を掴んで壁に叩き付けていた。
 突然の行動への驚きと鈍い痛みにケルマが眉を寄せ、ローズは目を丸くする。ソラは、泣き出したい衝動に駆られた。でも、吐き出せない。この激情を吐き出す術を知らない。だが、こんなものは甚だ可笑しい。

「死ぬ事が美しいって? 笑わすんじゃねーよ」

 蒼い眼が、正面の銀灰色の瞳を鋭く射抜いている。

「死の何処が美しいんだ。俺は今まで常に人を殺し、自分自身死にたいと思って来たけどな……それが美しいだなんて感じた事は一度だってねェよ」

 沢山、殺した。
 敵も味方も、友達も恩人も殺した。その度に突き付けられる自らの弱さ、その果てにある絶望。死者の目は呪い、お前を許さないと訴えて来る。あの目を忘れない。

「死ぬ覚悟なんざ誰にでも出来るんだよ。例えそれが惨めで後ろ指差されるような人生でもな、最後の最後まで生きようと足掻いてる命の方がよっぽど美しいと俺は思うぜ?」

 ケルマは目を伏せている。ソラはその胸倉を掴んだままだったが、ローズが微かに震え指先が白くなっている手を掴んだ。

「あたし達はソラ先輩程強くは生きられません。強さも弱さも中途半端なんです」

 ソラは投げ捨てるようにケルマを離した。
 すぐに背中を向けようとしたが、立ち並ぶ二人の姿に異様なものを感じた。この二人は異常だ。
 まるで、人間ではない別の生物のようだ。

 例えるなら、何かの蛹だ。羽化の時を迎えられなかった蛹。きっと、広げるべき羽はもう――。


 ちぃ ちぃ


 あの鳴声が、聞こえた。
 咄嗟に顔を上げると、背にした建物の窓辺に小さな鳥の巣が出来ている。中から顔を覗かせる白い小鳥の嘴は橙。デジャヴだ。
 伸ばしたくなる手を押し止め、代わりに目の前に並ぶ二人の肩を抱き締めた。
 こんな事をする柄じゃない。むしろ、自分は今までそうして温もりを分けて貰って来た人間だ。でも、冷たさが分かるから温もりを知れた。温もりを知れたから分けて上げられる。
 ケルマとローズは困惑している。

「ソラ先輩?」

 ソラは黙ったまま、頭上から降って来る鳴声を今一度耳にした。こんな極寒の地で、帝国に支配された地獄のような世界でも生きている。翼はまだ羽ばたけないけれど――。
 もう、羽化するべきなのだ。身を守っている堅い殻は捨てていい。その代わり、羽化して翼を広げるまでの間は守ってやる。

「お前等は弱くなんてない。中途半端なんかじゃない。ここまで、こうして生きて来たじゃないか」

 二人の肩が震えたのが分かった。自らを守り続けていた殻に罅が入ったんじゃないかとぼんやり考える。

「どんなに見っとも無くってもいい、とにかく生きろ! そうしたら俺は、お前等の為に何度でも手を差し伸べてやる」

 ローズが、ソラの腕を握り締める。微かに肩が震えているが、気付かないふりをした。ケルマは呆然と立ち尽くしているが、微かに肩が震えた。笑っているらしい。
 離れると、感情を失って人形にしか見えなかった二人が人になっている事がありありと分かった。

「ソラ先輩、約束ですよ」

 二人は小指を絡ませ、目の前に出す。
 子供染みているとは思ったが、ソラも同じく小指を絡ませた。

「絶対に死なない事」

 最後に笑い、ケルマとローズは広場に走った。
 その背中が小さくなるまで見詰め、ソラは白い息を吐く。

 ちぃ ちぃ

 頭上からの鳴声。あの時の小鳥は元気だろうか、と暢気な事を考えつつ剣を鞘から抜き放った。鋭い鞘走りの音が冷えた空気に響く。

「――正念場だぜ」

 小鳥の声は、まだ聞こえている。