38、大切なもの


 身を切るような極寒の澄んでいた筈の空気が鉄分の臭いに溢れている。
 幻想的に真っ白い筈の町中が地獄のように紅く染まっている。

 一人の兵士の目に、銀髪の少年の持つ血に塗れた剣が振り上げられたのが見えた。閃光のような凄まじい勢いを受け止める術は無い。次の瞬間には、身を守ってくれる筈の鎧兜が悲鳴を上げていた。
 ソラは鉄の鎧を裂き、曝け出された腹部を一度切り裂いた。鮮血が舞う雪の中、その兵士には止めを刺さず端に蹴り飛ばす。壁に衝突した兵士は呻き声を上げて起き上がらなかった。

 もう、どのくらいこうして戦い続けているのだろうか。
 ソラは奥歯を噛み締めて体中を走る痛みを遣り過ごしつつ敵を薙ぎ払う。今は以前と違って好き勝手に暴れられる体でも命でもない。だが、他に誰が出来ると言うのか。

 不意に見上げた青空は何時の間にか曇り、雪の華をちらちらを風に舞わせていた。



「中央に革命軍が乗り込んで来たぞー!」
「急げ!」

 ケルマとローズは声を張り上げ、他の地区に散らばった帝国兵や騎士を呼ぶ。その声を聞き付けて走り出す仲間にソラのいる方向を指差し、駆け足で向かわせた。
 こうして他の地区の警備を薄くさせ、一ヵ所に集める。そうして集まった敵を全て相手にする等と言う離れ業は世界最強の名を背負っているソラにしか出来なかった。だが、長時間持つとは思えない。
 二人は馬に跨って四方八方を駆け、声を張り上げる。この帝国側の動きに気付けば間も無く革命軍は突っ込んで来るだろう。言わば、時間との戦いだ。
 走って行く仲間の後姿を確認し、ローズは革命軍の包囲を見た。遠く、統率された人々が走って来る。距離はそんなに遠くないが、間に合うか。ローズは馬の横腹を蹴った。



 帝国の異常に気付いたのはメロウだった。双眼鏡で町を観察していたところ、帝国兵が慌しく中央に集まって行くのが見えた。兎に角それをイオに報告して更に観察すると、集まって行く中央都市に走る銀色の閃光が確認出来た。それがソラである事に気付くのに時間は掛からなかった。
 イオは鬼の形相だったが、冷静に考え判断し、出撃を指令する。
 先頭を馬で駆けるイオ、その隣にメロウはどうにか追い付いた。

「囮だな」
「解ってるよ」

 苛立った口調でイオは吐き捨てた。
 これで無事に町を落とす事が出来たら、まず始めにソラを殴ってやろうと人知れず誓う。どうしてここまで分からず屋なのか。


 帝国軍が、革命軍の接近に気付いたのは彼等が目の前に迫った頃だった。それを抑えるだけの警備、準備が無い。一気に雪崩れ込んだ革命軍、先頭のイオは真っ直ぐ中央都市の広場に向かった。
 広場は酷い有様だった。それは帝国側の見方だが、何せたった一人の少年にやられているのだ。人海戦術を持ってしても歯が立たない。動けなくなった兵士達は誰も死んでいない。
 ソラは目の前に振り下ろされた剣を軽く避け、その兵士の肩に足を掛けて跳び上がった。空中に突き出される無数の槍を往なしながら着地した先では目にも留まらぬ剣捌きで周囲の兵士が一気に倒れ込む。
 確かに、圧倒的な強さだった。だが、ソラも人間だ。疲労は蓄積され、動きは鈍る。だが、止まれば死ぬ。ケルマとローズが戻ったのは其の時だった。
 帝国軍は仲間、それも軍の幹部の騎士である二人が裏切ったと言う事実に動揺し、統率が崩れ始めた。其の中で風のように左右対象の動きで駆け抜けるケルマとローズはソラの脇を固めるように立った。
 取り囲む帝国軍は一定の距離を置いて近付けず、ソラは漸くまともな呼吸をした。そして、同じく汗だくの二人を見て少しだけ笑った。

「遅いじゃねェか」
「何言ってんですか、十分早いでしょ」
「もう汗だくで最悪ですよ」

 文句を並べる二人の横顔はついさっきとは違って見える。生き生きとした、とでも言うのだろうか。
 ソラは背中を向けた二人に囁くような声を零す。

「俺は今のお前等の方が、ずっと好きだけどな」

 ケルマとローズは、二人一緒に顔を綻ばせた。
 同時に、その広場にも革命軍が雪崩れ込んで来た事実が知らされる。動揺する帝国軍は隙だらけで三人は一気に走り出した。
 ケルマとローズもソラが誰一人殺していない事を解っている。その甘い考えに乗るのも悪くは無いと、少しだけ余裕の出来た脳で考えていた。



 程無くして革命軍が到着した。其の頃には広場は既に三人が殆ど制圧していて、到着した革命軍の仕事と言えば動けない帝国軍の捕縛程度のものだった。
 戦闘で疲弊した三人は広場の端で座っていた。特に疲労の激しいソラは壁に寄り掛かって荒い呼吸を整えていたが、其処に影が落ちた。光を背にしたイオは壁のように立ち塞がっている。

「お前は好い加減にしろよ……」

 ソラは目を合わせずに頭を掻いている。イオの拳が怒りに震えているので、ケルマとローズは殴ろうとしているのかと視線を交わし、前に立ち塞がる。
 初対面だが、イオは二人には目もくれない。代わりに座り込んだまま目も合わせないソラを睨み下ろしている。
 ケルマとローズは眉を寄せて剣の柄を握った。

「何だよ、お前」

 ケルマが詰め寄ると、イオは既に作ってあった拳を素早く振り下ろした。ゴチン、といい音が響く。頭蓋骨内部に響く痛みにケルマが蹲り、心配したローズが傍にしゃがみ込む。

「テメェ等もだよ、この馬鹿」

 イオは二人を睨み付け、そのままついでに正面のソラの頭も殴り付けた。
 ソラは思いの他痛かった為に殴られた部位を摩っている。重傷の体に鞭打って人間離れした力を持って戦場を駆け巡っていたと言うのに、同世代の少年に殴られただけで目の端に涙が薄く溜まった。星が出るような痛さだ。
 そうして目の端に涙を留めながらソラは立ち上がってイオを睨み付ける。

「うるっせェな! お前は俺の世話係か!」
「幾ら金積まれても、土下座されたってお前の世話なんかしねェよ! 命が幾つあっても足りゃしねェ!」
「悪かったな! それで、お前に迷惑掛けたかよ!」

 もう一発、イオの鉄拳がソラの頭部を襲った。
 前のめりに倒れたソラは積雪の地面と仲良くしながら恨めしそうにイオを睨んでいる。

「……お前、ソウジュに似て来たな……」

 ポツリ、と呟いてソラは目を伏せた。イオは何とも言えぬ複雑な気持ちになり、怒りは何処かへと消えた。嬉しいような悲しいような。
 ソラは目の前の白い雪に染み込んだ血液を眺めている。この戦いで少なくとも自分は誰も殺していない。それが贖罪だとは言わないけれど、何も奪ってはいない。酷く苦しいけれど、昔と比べれば何もかもが違う。闇から引っ張り出してくれたあの手の温もりを忘れない。だから、このくらいの苦しみは背負って行ける。イオが何を言いたいのかは分かるけれど、自分以外にそれが出来た者は無かった。
 適材適所なのだと、思っている。

「別に、死んだって文句は言わねェよ」

 吐き捨てた言葉は積雪に吸い込まれた。頭上で再び持ち上げられた拳は、ケルマとローズが押えたので振り下ろされる事は無かったけれど。
 イオはその手を引っ込めてからソラの前に胡座を掻いた。

「文句くらい言えってんだ。そんなに不甲斐ねェリーダーかよ」

 その言葉に反応したのはケルマとローズだ。まだ二十歳にも満たない少年が革命軍のリーダーだとは聞いていたが、まさか本人だとは夢にも思わない。
 黒々とした髪は短く爽やかな印象だが、柘榴石のような煌く双眸は強い意志を感じさせる。改めてイオを見て、二人はなるほどと納得した。ソラと張り合えるだけの度量がある。
 ソラは溜息を零し、雪を払いつつ起き上がる。服が溶けた雪によって俄に湿っていた。


 そんな遣り取りをアルスは遠く眺めている。
 全てを変えたあの雪の夜に見たソラは、あんな顔をしただろうか。鬼や悪魔の類にしか見えなかった感情の無い蒼い瞳、恐怖の対象でしかなかったものだ。宝石のように透き通ってもいなければ、沼のように濁ってもいない。くすんだあの蒼は大空の色なのだ。其処に何か、宝石以上の輝きを見た気がした。



 夕陽が沈もうとしている。戦場となった町中も落ち着きを取り戻し、帝国による支配から解き放たれた住民はそれぞれの無事を喜び合い、革命軍、主にリーダーであるイオへ感謝を告げていた。
 そんな夕刻、ソラは町から離れた街路の石段で白く染まった山々を眺めていた。連なる山脈、その中に浮ぶ城は何処か不気味な雰囲気を醸し出している。ソラは其処にいるだろう王の姿を思い出して奥歯を噛み締めた。
 憎悪や悲愴や憤怒の念は今も尚消えない。アルスが嘗て自分に向けていたものもそれと同じものだが、彼女はそれでも助けてくれた。其処にある強さが羨ましかった。

 強くなりたかった。
 大切なものを守れるくらいに、強く。

「ソラ」

 サヤはソラの隣りに腰を下ろした。
 町中が漸く落ち付いたのでリーフより許可を貰ったのだろう。ソラはそんな事を考えながら疲れた顔で少しだけ笑って見せた。

「帝国が滅ぶよ」

 ソラは白い山を背景に浮び上がる城をしゃくる。もう目と鼻の先、時間の問題だろう。
 サヤは少しだけ寂しそうな表情を浮かべ、掠れるような声で返事をした。

「戦争が終わったら何をしたい?」

 サヤが無邪気な笑顔を向けたが、その裏にどんな感情が張り付いているのか予測出来ているソラは心臓に軋むような痛みを感じた。
 叶わない望みでも、願う事は許されるだろう。ソラはサヤの方を向く。

「笑顔が見たい」
「笑顔?」
「ああ、心の底からの笑顔。帝国にいた頃、リューヒィ達が生きていた頃みたいにさ、日向で飯でも食いながら」

 ソラは、白い歯を見せて笑った。
 当たり前の日常がここには無い。在る筈の光は失われている。だから、こんな時代は二度と来なければいい。こんな思いは誰もしなくていい。終わらせなければならないものだ。
 サヤもまた、笑った。

「私も、ソラと笑い合っていたいな。嬉しい時に笑って、悲しい時は泣いて、そうやって生きていけたら幸せ」
「何だよ、随分安っぽいな」
「そう?」

 サヤは悪戯っぽく笑う。
 彼女は、気付いただろうか。ソラはその未来が永遠に訪れない事を悟っていると。
 望みながらも、不可能である事を理解してソラは笑う。其の時だった。

 ヒュゥ、と細い音がした。ソラの目に夥しい数の矢が映る。激しい戦闘の疲れのせいか、其れに対しての動きが僅かに鈍かった。代わりに、嘗てその光景で多くの命が失われる様を目の当たりにしたサヤの動きは素早かった。

 矢の雨が降る。
 その光景を少し離れたところからアルスが偶然目撃した。

 黒い雨のようだった。其の中に二人の姿が掻き消される。サヤがソラを庇おうとして前に踊り出たかと思った瞬間、素早くソラがサヤを自分の影に隠した。
 地を打つ音、血液が空中に踊る。悲鳴が轟いた。

「ソ――」

 一瞬、声が出なかった。無数の矢の中で蹲る二人の姿、アルスは足元に転がった矢を拾い上げ、城壁から矢を放った兵士達に向けて弓を引いていた。
 小さな窓から顔を覗かせて射た者達には笑顔が浮んでいる。アルスは、自分が何故そんな行動を起こしたのか分からない。分からないけれど、弓はその窓の中に在る笑みを捉え矢を放っていた。
 弾かれた矢は微かな弧を描いて小さな窓の中に突き刺さった。中にあった笑顔の兵士が絶命したのを確認し、すぐさま別の矢を拾い上げた。
 見える笑顔を全て射た。殺して殺して殺して殺して殺した。無心に引き続けた指先が赤みを帯びていたが、アルスは気付かない。窓にあった笑顔全てが無くなってから、自分の指先が出血している事に気が付いた。

 矢の中の二人は動かなかった。だが、悲鳴に駆け付けたリーフが素早く二人の手当てに動き出す。少し遅れて来たイオの顔は蒼白だった。それからエルスやメロウ、ケルマにローズ、シルフィが駆け寄る。
 地面に広がった矢は血の海に浮んでいるようだった。

「しっかりしろ!」

 何度も呼び掛ける声、ビクリと背中が震えた。
 ソラは、背中の鋭い痛みに眉を寄せながらゆっくりと瞼を押し開けた。

「サヤ……!」

 背中に無数の矢を刺さらせたまま、自分が守った筈のサヤの方を見た。透き通るように白かった顔だが、今は血の気が失せて蒼く見える。抱き上げた手にはじわりと血液が広がった。

「おい、サヤ……!!」

 揺すろうとするソラをイオが押え付け、サヤはエルスが急いで止血する。アルスのお陰で城壁の兵士は粗方片付き次の攻撃は無かった。だが。

「嘘だ……!」

 ソラの声は震えていた。死人のように唇は紫になり、目には動揺が見て取れる。動かないサヤの傍に駆け寄ろうとするが、イオだけでなくメロウにも押え付けられているので叶わない。リーフは地面に押え付けたソラの背中の服を裂いて矢を抜こうとする。矢は簡単に抜けないような構造なので、それらを引き抜くには多少なりとも肉を切らなければならない。
 表情を歪ませてナイフを刺すリーフ、怪我を負っている筈のソラは積雪の上に縫い付けられ、それすら気付かないように動かないサヤを泣きそうな目で見ていた。
 数刻前のサヤの笑顔が脳裏を掠める。声が、温もりが失われる。


――戦争が終わったら何をしたい?

――私も、ソラと笑い合っていたいな。

――嬉しい時に笑って、悲しい時は泣いて、そうやって生きていけたら幸せ



 それが、欲深かったとでも言うのか?
 この世界は笑う事さえ許してくれないのか? 地獄の中で見つけた小さな幸せさえも認めてはくれないのか?

 サヤが動かない。手当てをしているエルスの顔には焦りが浮び、駆け付けた他の革命軍の医者達がサヤを慎重に運ぶ。背中の左側に刺さっていた一本の矢、心臓まで達したのだろうか。
 連れて行かれたサヤが見えなくなっても、ソラはその方向を見ていた。背中の矢は一本ずつナイフの助けを借りながら抜かれて行くが、其の度に地面に広がった赤は深みを増している。
 痛覚が麻痺している。色々な器官が機能を失っている。耳は聞こえず、声は出ず、脳は壊れたようにあの光景を繰り返させた。

 何だ、これは。悪夢だろうか。
 こんな馬鹿な事があるのか。許されるのか。

 何時だって大切なものは奪われて、血塗れたこの手は間に合わない。

 頭の中でチカチカと赤い光が瞬いている。何処かで見たこの光はデジャヴだ。また、精神は螺旋階段を下って行くのだろうか。また、狂気の中に落ちなければならないのか。
 自分を殺さなければ、たった一人の少女さえも守れないのか。ただ一つの光さえも、届かないのか。


「ソラ!」

 イオは、目の前で光を失おうとしている蒼い目を見た。焦点が合わず、何処か遠くを見ている。この目はあの時と同じように硝子玉になってしまうのか。だが、イオはソラの目を真っ直ぐ半ば睨むように見詰めた。
 そんな事は、させない。

「サヤが死ぬ筈、無いだろう!」
「――」

 蒼い瞳に微かな光が戻った。
 ソラはイオの顔を確認し、唇を白くなる程噛み締めた。背中ではリーフが最後の一本を抜く為にナイフを刺すところで、それが薄い背中に刺さった瞬間、プツリと唇が切れた。
 血液が雪を染める。

 ソラは雪の中に顔を埋め、誰にも聞こえないような声で呟いた。

「畜生――」



 紅過ぎる太陽が闇に呑まれ、寒さは増し夜が来た。
 粉雪のちらつく中、エルス達はサヤを運び戻って来ない。傷は深いらしく、縫合等の手術が必要となった。帝国を後一歩で滅ぼす事が出来ると言うのに意気消沈する革命軍には焦りも浮ぶ。
 サヤは、『大地の姫君』と呼ばれている。その命と引き換えにどんな望みも叶う。このまま帝国の矢によって死んでしまったのなら、恐らくこの戦争は負ける。そういう願いを込めて矢を放ったのだろうから。

 イオのお陰でどうにか狂気の中に落ちずに踏み止まったソラは、傷口を全て縫い終わってからずっと教会に行っていた。祈りの言葉も方法も知らないので、無言で睨むような、それでいて何処か縋り付くような目を掲げられた十字架に向けている。

 沢山殺した。其の分だけ、沢山の死に目を見た。
 セルド、リューヒィ、レナード、セレス……。シロヤやソウジュ等の仲間の死も見た。

 死は余りにも身近で、誰も気付いてはいないが常に傍で息を潜めている。
 そして、呆気無い程簡単に訪れてしまう。それをよく知っているからこそ、ソラはずっとこうしている。

「連れて行かないでくれ……」

 震える声は、信じた事も無い神に訴えている。

「俺なんかどうなってもいいから、あの子だけは連れて行かないでくれよ……ッ!」

 今も鮮明に思い出せるあの笑顔は、このまま永久に見る事の出来ないものになるのだろうか。
 泣き叫びたいけれど、吐き出す術はまだ知らない。涙は流せても、胸の中で鉄のように黒く固まってしまった激情はもう溶かせない。だから、酷く苦しい。

「リューヒィ……、頼むから、守ってくれよ。レナードさん、セレスさん、助けてやってくれよ……!」

 拳を強く握れば、肩口の傷が疼くように痛む。それにさえ嫌悪を覚えた。

「セルド……ッ」

 今度こそ本当に全て失うのだろうか。ここまで汚れながら走って来て、結局何一つ守れないのか。
 何の為に戦った、何の為に奪った、何の為に強くなった、何の為に歩いた、何の為に生きたんだ。

 搾り出すような声は祈りの言葉ではない。縋り付くような願いだ。
 イオはそのソラの隣りに立ち、掴み合わせるような形で両手で祈りの姿勢を取った。イオもまた、神は信じていない。そういう生まれだから仕方無い事だが、今だけは祈りの言葉の一つも知らない自分の無知さが許せなかった。

「強くなりたかったんだ」

 掠れるような声でソラは呟いた。
 イオは横目にソラ項垂れるソラを見る。握り締めた拳が震えていた。

「守る為に強くなりたかった。なのに、この手は何時だって奪い、大切なものは守れない。……人間って、何なんだよ」

 言葉を紡ぐ唇の出血は収まっているが、ソラは塞がり掛けた傷口をまた噛み締めた。皮膚が裂ける音が空間に微かに反響する。

「何で傷付け合うんだ。何で、こんなにも弱いんだよ……!」

 イオは目を閉ざした。
 戦争を起こしたのは、イオだ。イオがやらなくとも他の誰かがやった事には違いないが、それはただの言訳だろう。だが、こうして傷付いて傷付けて辿り着いた未来がこんなものであっていい訳が無い。
 人は強くなんてない。だけど、ソラが考え諦める程に弱くもない筈だ。
 ソラの口から顎を伝って滴り落ちる血液がまるで涙のように見え、酷く悔しくなった。

「誰だって強くない。……強くない事なんか十分承知。でも、誰もが必死に強くなろうとしてる。泥だらけでも、惨めでも、貶されても最後の一瞬まで生きて行こうって」

 イオは、世界の暗い部分ばかりを見て来た少年を見詰めた。何の因果か、時代の節目に生まれ、こうして世界最強の名を背負わされた少年と肩を並べている。
 世界への諦観は仕方が無い。でも、それだけで終わるのでは余りにも悲し過ぎる。

「それに、お前が思う程人間は弱くない。……サヤは死なないよ、強い子だから」

 脳裏にサヤの笑顔が過る度に、心臓を直に掴まれたような息苦しさが襲う。知らず知らずの内に、あの笑顔に救われて来たんだと改めて思った。
 苦しかっただろう。辛かっただろう。それでも、逃げ出さなかった。ソラでさえ何度も狂気の中に落ちたというのに、サヤは背筋を伸ばしてここまで来たのだ。その強さが羨ましかった。
 ソラは口を開く。開いた傷口が外気に晒され、疼くように痛んだ。

「でも、守れなかった。俺は、何の為にここにいるんだ。たった一人さえ守れずに……ッ! 何で俺なんか存在してんだよ……!」
「……生まれた意味なんか、死んだって分かんねェよ。でもな、命は皆生きる為に生まれたと俺は信じたいね」

 再び沈黙が流れる。痛いくらいの静寂の中、外で降り頻る雪の音が聞こえるような気がした。
 その静けさを破るように二人が背中を向けている扉が開いた。リーフは、今も十字架の前に立っているソラに対して酷く痛ましそうな目を向ける。

「寒いでしょう?」

 独り言のように言ってから暖炉に火を灯した。
 ソラは振り返ってリーフを見た。

「祈りの言葉を教えてくれないか?」
「ソラ」

 リーフは静かに微笑むが、其処にも疲労が垣間見える。

「言葉なんてものに頼っちゃいけない。大切なのは信じる心だから」
「……俺は、神を信じたくない」
「なら、君の信じるものに祈るんだ」
「俺の、信じるもの」

 ソラは再び十字架に向き直る。
 思い浮かべた無数の人影。ここまでの人生で、こんなにも多くのものを信じたのかと自分の事ながら少しだけ驚いた。
 ソラとイオがそうして祈っていると、再び扉が開いた。二人は振り返らなかったけれど、リーフは其処に立っている人達に微笑みを投げ掛ける。
 アルスが、シルフィが、メロウが、ケルマが、ローズが二人を囲むように十字架の前に立って祈り始めた。
 暖炉の中で薪が爆ぜる音がする。少しずつ熱を帯びた空気が広がる様は、この教会にいる人々と似ている。少しずつ、広がっている。

 サヤがソラに手を差し伸べ、ソラがイオを変え、イオがソラを救った。
 その輪にはリーフも組み込まれている。

 アルスから憎悪が消え、シルフィから寂しさが消え、リーフから絶望が消えた。
 メロウやケルマ、ローズに絆が戻った。

 彼等の歩いた跡が道になった。崩れては支え合って来た。
 そうして出会った仲間は失われる事の無い大切なものだ。命が終わっても、失われないものがある。


――お前は独りじゃない――



 何処かから、そんな声が聞こえた気がしてソラは振り返った。その目に映ったのは何時の間に来たのか、一様に祈る皆の姿だった。
 目頭が熱くなるのが分かった。独りじゃない、誰かが優しく囁く。

 この世界は余りにも冷た過ぎる。でも、光が無い訳では無い。



 エルスが安堵の顔で教会に駆け込んで来たのは、それから間も無くしての事だった。



 転がるようにソラが救護テントに駆け込むと、サヤが穏やかな呼吸を繰り返して眠っていた。
 遅れてやって来たイオ達もその姿を見て安心し、シルフィ等は張り詰めた糸が切れてしまったようにその場に座り込んだ。
 ソラは寝息を立てるサヤの金髪に触れ、自然と笑顔を零していた。

 生きている。

 それを確認すると同時に剣の柄を握った。そして、イオ達の方に振り返った時には笑み等消え失せている。蒼い瞳には寒気を感じさせる鬼火のような炎が灯っていた。
 静かにテントから出るソラの後を追うようにイオはその背中を見る。ここからどんな言葉が出ても驚きはしないが、何を言うかはもう分かっていた。
 ソラは鬼火を灯したまま、鋭い眼差しで口を開く。

「もう、終わりにしよう」

 全ての覚悟を決めた目だと、人目で分かった。
 イオは頷き、その肩を掴む。

「派手に行こうか」

 イオは笑った。