39、断罪の刻
篭城を続ける王のいる最後の砦。城門の大きな扉は固く閉ざされ、城壁は高く崩す事は出来ないだろう。
帝国側は、革命軍が降伏勧告を出すのを待っているようだった。だが、その全ての思惑は一人の少年が現れた事によって裏切られる事になる。
ソラは巨大な両開きの扉の前に立ち、それを見上げた。革命軍の面々は城壁を取り囲み、イオはソラから少し離れた後方で見守っている。ソラは小馬鹿にするように鼻で笑った。
「これで、守ったつもりか」
蒼い瞳がギラリと光った。包帯に覆われた手が腰に差した剣の柄を握っている。
剣が抜き放たれる。多くの人間には、その抜刀の瞬間さえ見る事が出来なかった。イオは辛うじてその瞬間を目に捉えたが、次の瞬間には扉が切り開かれている事に息を呑んだ。
扉を切り裂く閃光を見たのはケルマとローズだけだったが、その人間離れした力に背筋が寒くなった。
ソラは開かれた扉の前に立ってイオの方を振り返る。表情は少しだけ笑っているが、其処に泣き出したくなるような寂しさを覚えた。
「いつか、この革命は伝説になるのかもな」
それだけ呟いて、ソラは門の中に消えた。
イオはすぐに革命軍の選りすぐりである精鋭部隊に出撃令を出し、自身も先頭に立って城の中に入った。
城内に侵入したが、帝国軍の攻撃は無かった。兵士が皆、倒されている。彼方此方から溢れる呻き声を聞く限り誰も死んでいないのだろうけども、既に階段を上っているソラが僅か一瞬の間にそれだけの事をしたのかと思うと同じ人間なのか疑いたくなる。先に行くソラに表情は無く、降って来る矢を目にも留まらぬ早さで切り落としてしまうので見えない壁があるように見えた。
帝国は、きっと世界最強と呼ばれたソラの力を侮っていたのだろう。
イオは仲間に指令を出して散らせ、自分はソラの後を追った。
細く頼り無い背中だが、沸沸と蒼白い炎が立ち上っているのが分かる。
消し切れなかった憎悪や憤怒が殺気として漏れ出しているのだろう。イオは声を掛ける事が出来なかった。
ソラは無言で足を進め、初めて来る筈の場所なのに躊躇無く道を行く。向かって来る帝国兵を相手にもせずに殺さない程度に切り倒す。顔は前を向いたまま微動だにせず、側から見れば兵士達が勝手に倒れているようにしか見えない。
内部の赤い絨毯の廊下を進み、雅やかな階段を上り、二人は確実に王との距離を縮めていた。
そして、階段を上り切って角を曲がる直前にソラは足を止め、漸くイオの方を見た。
「行くぜ」
不敵に笑い、ソラは剣を抜き放った。
黒い刀身、その剣は今まで幾つの命を奪ったのだろう。これが其の中で手にせざるを得なかった強さなのだから、イオにはソラの人生を考える事は出来なかった。世界最強でなければ生きられなかった人生等、想像出来る筈も無い。
ソラが角から飛び出した瞬間、一筋の閃光が突き抜けるような勢いで走り抜けた。
鈍い音を立て、投げられた槍が壁に突き刺さっている。石の壁を突き抜ける力を考えるとぞっとした。だが、ソラは気にも留めずに腰を落とす。イオは覚悟を決めるように小さく息を吐き出して角を飛び出した。
大きな扉の前に数人の兵士、そして、四人の騎士が守るようにそれぞれ武器を構えている。
ソラは口元を結んだ。
「ソラ=アテナ、参る」
「イオ=フレイマー、参る」
イオも同じく剣を抜き放ち、腰を落とす。最後に顔を見合わせて笑い、床を蹴った。
其の頃、建物の外では僅かな戦闘が続いていた。
帝国兵は負けを分かっているのに革命軍に挑み続ける。メロウは兵士に指揮を出し、剣を交えながら帝国思想の根強さを実感した。
これでは王を処刑出来ないだろう。良くても生涯幽閉だろうが、それで革命軍が納得出来る筈も無い。どちらかを選べば再び戦乱が起こるかも知れない。
どうするのだろうか。
メロウは目の前の兵士の剣を弾き、首に切っ先を突き付けた。
少し離れたところでケルマとローズも剣を振っている。メロウと同じような不安にも似た考えはあったが、どうにかするのだろうと高を括っていた。
裏切り者と蔑む兵士を斬りながら二人は確実に数を減らして行く。だが、先程メロウから殺すなと釘を刺されているので止めは刺さない。甘い考えだと思うが、やはりそれに乗るのも悪くは無いのだ。
二人は自分達が裏切り者だと罵られても構わないと思っている。そもそも、帝国に忠誠等誓ってはいない。生きる為にした選択が帝国の騎士になると言うものであっただけだ。帝国が滅ぼうが世界が破滅しようが知った事では無い。必要なのは、二人にとって大切な人が生きていると言う事だ。それはお互いでもあり、仲間でもある。
ケルマとローズは周囲の残党を粗方片付けると、恐らく王がいるだろう最奥の部屋を睨み上げた。
アルスとシルフィはその戦闘には関わらず、サヤの眠るテントから雪空に響く戦闘の音を聞いている。其処から目と鼻の先だと言うのに救護テント等の立ち並ぶ町中は酷く静かで平和だった。
戦乱と平和の同居は有り得るのだと、改めて知った。
サヤは、まだ目覚めない。エルスも心配しているが、ソラやイオは彼女が目を覚ますのを待たずに行ってしまった。惨い戦いを見せたくないと言う気持ちもあるだろう。腹の中で荒れ狂う怒りを抑えられないと言う事もあるだろう。
だけど、本当は会いたくなかったのかも知れない。会えば行けなくなるから。
そうして、二度と帰って来られないかも知れない戦場に出て行った二人の背中を思い出すと遣り切れない気持ちになる。守られるべき子供が、大人の罪を償う為に傷付いている。
イオが始めに望んでいたのは、復讐だった。
エルスはその感情の歪みにも気付いていたし、そのまま行けば彼がやがてどんな未来に行き着くのかも分かっていた。なのに、止められなかった。手を差し伸べる事さえ出来なかったのだ。
そのイオに手を差し伸べ、歪んだ闇の中から光の下に引き摺り出して道を照らしてくれたのは、世界中全ての罪を背負わされて泣く事も許されなかった少年だった。
そう、自分の感情一つ自由に出来なかった少年だ。何かを信じる事も出来ず、全てを奪われ否定されながら自分以外の者の意思の下で生かされた少年。
――信じろと言ったお前は、俺の何を信じてくれるんだ?
あの時、エルスは何も言う事が出来なかった。そんなソラを見捨てずに手を差し伸べたのはイオだった。
自分を犠牲にして、あんなにも憎んだ帝国に下る事で革命軍を助け、漸く救出された時の怪我はそれまで見た事も無いような酷い傷ばかりだった。生かさぬよう殺さぬように負わされた拷問による傷痕、それだけで無くソラが受けた多くのものをエルスは癒す事が出来なかった。
やはり、彼を助けたのはイオであり、サヤでもある。
エルスは確かに医者で、多くの命を救って来た。でも、その分だけ多くの命を取り零して来た。救えなかった命を見ないふりで誤魔化したのは、仕方無いのだと言い聞かせる為だ。でも、それとは違って拾い続ける人もいた。
胸の中で荒れ狂う激情を吐き出せなかった少年を知っている。
この時代はもう終わらせなければならない。こんなに辛い道を子供に歩ませてはならない。
エルスは黙って雪空を見上げた。戦闘の声は、続いている。
リーフは教会で十字架に祈っている。もう、神には祈らない。自分の信じるものだけに祈る。
戦争の終結を前にして思い出されるのは駆け回った戦場、そして、殺した父、初めてソラとサヤに出会った日だ。
――正解や不正解なんてどうでもいいよ。そうやって括られたら、どうせ俺は不正解なんだから
そうしていなくなった二人。次に革命軍の本部で会った時の彼の目は死んだように光を失っていた。世界への諦観は加速し、多くのものを諦めながら歩いて来たんだろう。
帝国から救出する時、閉じ込められていた塔は光の無い地獄だった。リーフはソラがどんな目に遭ったのか知っている。普通の人間ならとっくに正気を手放しただろう空間に閉じ込められ、狂気の中にも何度も沈みながらも帰って来た。
たった一つの為だけに全てを犠牲にする事は愚かだ。そうして捨てたものは安くも無ければ軽くも無い大切なものなのだから。
でも、ソラは帰って来た。取り零したものを何時までも後悔して、背負い切れなくなったものまで馬鹿みたいに拾い上げて。捨ててしまえば楽なのに、それもしない。その愚かさに呆れながらも何処か神懸かった強さに憧れ、同時に併せ持つ脆さ故の優しさが思わず微笑んでしまうくらい好きだった。
失ってはならないもの。
彼は、自分自身がそうだとまだ気付けないだろうか。
王の間の前には十数人の帝国兵が倒れている。皆気を失ってはいるが、死んでいない。イオは頬を伝う汗を拭い、自分よりも明らかに運動量が多いソラを見るが汗など全く無い。顔色一つ変えず、イオに一瞥くれると扉を押し開けた。
王は、開かれた扉を見て息を呑んだ。雅やかな木造の扉は、あの少年を曝け出す。
「お久しぶりです」
ソラは、王を見て薄く笑った。
カツンと硬質な音が空間に響く。イオは少し遅れて王の間に足を踏み入れたが、初めて見る王の小ささに愕然とした。確かに肥え太っているが、紅いマントに埋まった顔は白い髭を蓄えた老木のようだった。目はヘドロのような緑に濁り、本当にサヤの実父かと疑った。だが、薄い笑みを浮かべたまま距離を縮めるソラの後姿から酷い殺気が蒼白い炎のように沸き上がっているのを見て本人なのだと疑問を抱きながらも渋々納得した。
「サヤは一命を取り留めました」
ソラが言うと、王は玉座から慌しく立ち上がった。椅子は後ろに倒れ、王は更に後退さる。だが、ソラは其処で歩を止めた。
ぶら下げられた剣からは血液が滴り落ちて深紅の絨毯に丸い染みを作る。その手は包帯に包まれ痛々しく、通常ならばこんな運動は不可能である筈の重傷だ。それなのに、ソラは真っ直ぐ背筋を伸ばして立ち、剣を構えている。
イオは其の後姿を見詰めていた。イオにとっても王は故郷を滅ぼした憎き相手だが、ソラの蒼白い炎を見れば抑える出来た。彼がきっと片を付けてくれるだろう。そうしている間にメロウやケルマやローズが駆け付けた。
ソラの蒼い瞳には憎悪や憤怒が蒼白い殺気の炎として燃え滾っている。王を真っ直ぐ睨み付け、逸らさない。王は怯えながら尚も後退さり、壁にぶつかった。
「ま、待て!」
片手を上げて制す王の顔には焦りが浮かんでいる。ソラは表情一つ変えないが、必死の形相で叫ぶ王に冷ややかな視線を送った。
「私と手を組まないか!? そうすれば、更なる力を得る事も出来るぞ?! 共に世界を掴もうではないか!」
必死に訴える王を見て、メロウ達は思わず飛び出そうとした。「この後に及んで何を言うのか!」とメロウは叫ぶがイオが制す。
ソラは、そんな王を冷たい目で見下ろしている。
「残念だが、傷付けるだけの強さなんてもういらねェ」
亡きレナードの真っ黒な剣が持ち上げられ、切っ先を王に向けられた。
「俺にもさ、守りたいものや守るべきものは沢山あったんだぜ?」
蒼い瞳に映っているのは、この世で最も恨んだ帝国の王。大切なものを奪い、奪わせここにいる。今、理性を手放せば誰の目に映る事も無く王の首を飛ばしただろう。
目の前で見っとも無く怯える姿に吐き気がした。こんな男に大切なものは奪われたのかと思うと悔しくて仕方が無かった。
「命を投げ打ってでも守りたかったものはあった。守る為なら死んでも構わない、其のくらい大切なものがあったんだ」
ソラの脳裏に奪われ、二度と帰って来ないものの笑顔が過った。此方に向けられる笑顔は優しくて、悔しくて泣きたくなる。
「でも、守り切れなくて、幾つも取り零して……それでも、俺はこうして生きている……」
ソラは王を睨み付け、剣を突き付けた。ここで王を殺してはいけない事くらい皆分かっているが、ソラにはその権利がある。止める権利は誰にも無い。
「前に、俺の抱えてるもんを全て壊してやりたいって言ったよな。……アンタの何処にそんな権利があるッ!!」
蒼い目に薄く涙が溜まっていたのは、悲しいからではない。ただ、悔しいのだ。
ここにいる憎くて堪らない老人を満足の行くように惨殺したところで、失われたものは永遠に帰って来ない。あの笑顔はもう向けられる事は無いし、声も聞けない。あの温もりには永遠に届かない。
悔しくて、悔しくて、悲しくて。
「アンタの何が偉いんだ! アンタにとっちゃ虫けらみてェな人生でもなぁ、こっちは必死に生きてんだよ!」
悔しい。
悔しいよ。幾ら爆発させても怒りは解消出来ない。
ソラの目からは涙が零れ出していた。悔しくて堪らない。
王を殺せば、自分の中で荒れ狂う憎悪や憤怒の炎は消えるのかと思った。大切なものを失った喪失感は癒されるんじゃないかと思った。でも、何も変わらない。変えられない。
悔しい。
「……うっく……う……」
殺し切れなかった嗚咽が漏れる。メロウはそっと傍に寄り、頭一つ分小さいソラの頭を胸に抱いた。まるで、兄弟のようだった。
イオはその隣に立ち、惨めな王を睨み付ける。
「俺達はアンタを永遠に許さねェ。永遠にな」
そう言ったイオの隣にケルマとローズが並ぶ。そうして王の前に立ち並んだ五人は揃って真っ直ぐ見据えている。それは、戦場の中では有り得ない程に澄み渡った瞳だった。
やがて、すぐに革命軍が駆け付けて王は捕縛され連れて行かれた。ケルマやローズはそれに付き添って行き、残ったソラは涙を袖で拭い去る。
「……大丈夫か?」
メロウが覗き込むが、ソラは低く掠れるような返事をして笑う。酷く儚い笑顔だった。
「最後の仕事があるから」
イオはその意味を問おうとしたが、ソラは既に背中を向けて王の間を出て行ってしまった。
戻ったソラは真っ先にサヤのいる救護テントに向かった。王が捕縛された事で辺りは騒がしかったが、テントの中は切り取られたように静かである。ソラはサヤの横たわるベッドの横の椅子に座った。
サヤは、薄く目を開けた。翡翠の瞳は数回瞬く。
「やっと、目ェ覚ましたか」
ソラは笑った。サヤは体を起こそうとしたが傷が痛むのか眉を寄せ、ソラは起き上がるのを止めてベッドに戻す。
サヤは不満げに口を尖らせた。
「終わったの?」
「……ああ、王は捕まった。裁判になるが恐らく処刑と言う判決は出ないよ」
サヤは、そう、と一言だけ興味も無さそうに呟いた。そして、両手で自分の顔を覆って搾り出すような声を出す。
「もう、私もどうしたらいいんだろう……」
ソラは腰から剣を鞘ごと抜いて横に立て掛けてから、泣いているような声で言うサヤの方を見た。サヤの顔は、見えない。
「それでも、あの人は私の父上様なのに……涙も出ない……」
王は罪を重ね過ぎたし、サヤから見ても思い出に残るような出来事なんて無かった。でも、血の繋がった実の父には代わり無い。
なのに、何の感慨も沸き上がらないのだ。生涯幽閉になっても会いに行く事は無いだろう。
「『死なないで』の一言さえ、きっと言えない……」
ソラは、そんなサヤの頭を撫でた。
「別に、聖人君子になれなんて言ってねーよ」
そうして、ソラは続ける。
「清廉潔白なお姫様なんかじゃなくっていいさ。お前がどんな汚い言葉を吐き出したって俺は幻滅したりしない。お前が、俺を見捨てないでくれたように……」
サヤは顔を覆っていた手を退けてソラを見た。微笑んでいるのだろうが、涙で霞んだ視界ではよく見る事は出来ない。ただ、その不器用な優しさが嬉しかった。
二日後、帝国の王宮前の広場は溢れんばかりの人が押し掛けた。北の地で捕らえた王の処分を決める為の裁判が行われる為に訪れた人々には各々深い、深過ぎる程の感情が瞳に映り込んでいる。
悲鳴や怒号、憎悪や狂喜が渦を巻いている。イオはその広場を見下ろせる王宮の部屋の片隅で壁に凭れ掛かってその成り行きを見守っていた。
サヤはその裁判に深く関わっている為に、壇上に作られた席に着いている。其処にはメロウ等の帝国兵は勿論、革命軍のイオを除いた幹部が並んでいた。
イオが其処にいないのは本人の我侭だ。本当は王等殺したい。この世にある最も惨い方法で殺してやりたいけれど、恐らく其れは叶わずに精々生涯幽閉がいいところだろう。この世界には帝国思想が宗教のように根強く残っているから、革命軍が幾ら言ったところで叶わない。だけど、その革命軍が生涯幽閉等と言う処置で満足する訳も無い。
結局、どうしたって不満は残るのだ。解消の方法は無い。
イオは小さく溜息を吐いた。戦争が終わったと言うのに、妙にすっきりしない。何気無く隣りで椅子に座って剣の手入れをするソラを見た。
「……剣なんか磨いてどうする」
ソラは首を竦めて苦笑したが、答えなかった。
イオは首を傾げつつ窓の外に目を遣る。広場は酷い騒ぎで二つの勢力が拮抗し、武力は用いていないけれど戦争を思い起こさせた。その騒ぎを遠くに聞きながらイオは眉間に皺を寄せている。本当に平和は訪れたのか甚だ疑問に思った。
「戦争は終わったんだよな?」
訊くが、ソラはやはり苦笑した。
「終わったよ。だから、皆武器を捨てたんだろ?」
「……これが平和なのか?」
何が可笑しいのかソラはクスクスと笑っている。
結局、イオにはこの男が最後までよく分からなかった。神の名を背負った少年。本当に、神の化身だったのではないかとさえ思うのだ。もしかしたら、彼は神の子供じゃないだろうか。そんな御伽噺のような事を考え、イオは一人苦笑する。
「なあ、イオ」
ソラは剣を腰に差し、立ち上がる。
「自分で言うのもどうかと思うけどさ、俺って結構変な人生歩いてんだよ」
「……そうだな」
「こんな俺でも何時かは幸せになれるんじゃないかって、昔は思ってた」
「なれるさ。これから、なればいい」
イオの言葉にソラは小さく笑う。
「幸せの形なんて一つじゃないよな。例え信じ続けた未来に自分がいなくても、きっと、大丈夫だよな」
「――ソラ?」
ソラは窓を開けた。冷たい風が一気に吹き込んで髪を舞い起こし、外からの激しいざわめきをより鮮明なものとした。犇めき合う人々を背景にソラはテラスに下りて欄干から身を乗り出し、壇上で行われる討議を見下ろす。
サヤとメロウの頭が見えるが、二人はだんまりを決め込んで討議に関わらないようにしている。ソラは苦笑し、イオの方に振り返った。
「ガキの頃に思い描いた未来なんて来なかった。それでも、俺は十分満足したよ」
ソラは微笑みを浮べ、蒼い瞳を瞬かせる。
イオは、その瞳が硝子玉のようになっていた頃を思い出した。あのがらんどうの無機質な瞳が、今はこうして輝いている。だから、もう過去は切り捨てて自分の幸せを追い駆けてもいいんだと言って遣りたかった。ここにあるのが、例え望んだ結果では無くても――。
だが、ソラが言ったのはそんな意味ではない。蒼い目が見詰めているのはそんなものではないのだ。
「この世は遣ったら遣り返される世界だよな」
「傷付けた分、傷付けられるって? 昔、リーフに言われた事があるよ」
イオは其の時を思い出して苦笑した。ソラも自嘲気味に笑う。
「じゃあ、俺は挽肉だな」
そう言って、今度は壇上の王の姿を見た。実の娘さえも私利私欲の為に利用して殺そうとした男は、今では惨めに判決を待つ罪人だ。向けた背中には大勢の罵声が突き刺さっている。逃げ場など、無い。
ソラは喉を鳴らし、乾いた笑いを漏らす。
「様ァねェなァ。少しくらい、後ろを振り返ってみたらどうだよ」
王の後ろは革命軍と帝国の意見が拮抗し合う混沌とした人の群れだ。どちらが勝ったとしても王は逃げられない。
「……見てみろよ、罪はお前を許さない」
一度鼻を鳴らすと、ソラはイオを見る。
薄暗い室内で柘榴石のような深紅の瞳が煌いている。反対に、蒼い瞳は宝石のように透き通りもせずくすんでいる。
イオは、思うのだ。確かに宝石の輝きを持っていない。だけど、これは宝石の『原石』なのでは無いかと。
無限の可能性を秘め、何時の日か光り輝く――。
イオは、これからその輝きを見せるのだろうと思っている。これから磨かれるのだろうと。
だけど、ソラは振り返って笑った。凛と背筋を伸ばしての笑顔。その儚さに、心臓が握られるような痛みを覚える。何時か見たようなものだ。
嫌な予感が、鋭い槍のように胸を貫く。
これは、彼が革命軍を救う為に犠牲となって帝国へ下った時に見せた笑顔だ――。
ソラは欄干に足を掛ける。その背中に向かって思わず手を伸ばしたが、ソラは振り返ってあの笑顔を見せた。
「イオ、今までありがとうな」
その言葉を残して、欄干から飛び降りた。イオはすぐさま其処に駆け寄ったが、伸ばした手は何も掴まない。落下していくソラの姿、銀髪が上に流れ、腰の黒い剣が光ったのが見えた。
「ソラ――ッ!!」
イオの悲鳴のような声が響き、広場にいた全ての人間が落下するソラを見た。小さな子供がそれを指差し、隣りの母親の手を引く。あれは、何? 母親は答えるどころか動く事さえ出来ない。
其処以外の時間が停止したようだった。
サヤの目にも其れは見えた。
落下したソラは猫のように軽々と着地し、剣を収める。次の瞬間、背中を向けていた王から紅過ぎる血液が噴出した。
倒れる、首が落ちる。血液が飛沫を上げる。
数秒の沈黙が流れたが、すぐに広場は悲鳴に包まれた。
テラスの欄干からその様を見たイオは動けなかった。脳が痺れたように働かない。目の前で起こった事が理解出来なかった。
ソラが、王を殺した。この場で、何故。
そんなものは、決まっている。何処にも行く事の出来ない未来を切り開く為に、全てを背負い込んだのだ――。
王が大量の血液と共に倒れると、壇上の老人達がすぐに大声で叫んだ。
ソラを捕らえろ、と。
ソラは抵抗しなかった。大勢の兵士に地面に叩き付けられ、縄を打たれ、引き摺られる。
サヤは口を覆って、大きな瞳が落ちてしまうのではないかと錯覚する程に見開いていた。この展開を誰が予測しただろうか。
連行される刹那、ソラはサヤに向けて微笑んだ。ありがとう、と声が聞こえたような気がした。
思わずメロウが駆け寄ろうとしたが、近付けない。兵士に囲まれたソラの姿は見えなくなる。広場にあったどうしても交わる事の無い二つの薄汚れた感情は、この舞台を引っ繰り返した少年を憎む事で交わったのだ。全ての憎悪を一身に背負って――。
「これが、お前の望んだ結末なのか……!?」
イオは、届かなかった手を握り締めた。少し伸びた爪先が掌に食い込んで血が滲むが気付かない。乱暴に連れて行かれるソラの背中を見ていたが、視界が掠れた。
――ガキの頃に思い描いた未来なんて来なかった。
どんな未来を思い描いたんだ。少なくとも、こんな結果を望んではいなかっただろう。
――それでも、俺は十分満足したよ
そんなもの間違ってる。こんなものが幸せだったなんて、思いたくない。
イオは両目を固く閉ざした。涙が溢れている。
「馬鹿、野郎……」
また、この手は届かなかった。
其の日の内にソラの処分は決まった。
サヤやメロウ達の意見等無視されての満場一致、公開処刑。
戦乱を締め括る最後の舞台となった――。
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