4、他人の定規


――だから、お前は生き続けろ

 思い出されたセルドの言葉。
 なあ、俺は……。あんたに恥じないで済むくらい一生懸命生きられたかなぁ……?



 頬に跳ねた冷水でふっと目が覚めた。視界に飛び込んで来た灰色の重苦しい空間はまったく覚えの無い場所で、ソラは軋む身体を半分起こした。血塗れの服越しに無機質な石の感触が伝わって来る。
 状況が読めずに周りを見回すと、目の前に小さな木の扉が見えた。そこには鉄格子が嵌め込まれていて、疑うまでも無くここは牢屋だと知った。

 何で、牢屋にいるんだ。
 あの時、殺された筈じゃなかったのか。

 思い出を辿るように腹に触れると、手当ての施された傷が残っている。確かにこの傷はあの男に付けられたもので、全ては現実だと物語っていた。
 ズキン、と腹部の傷が疼いてソラは顔を歪めてゆっくり倒れ込んだ。

(何で……殺さなかった)

 あの時、あの場所で死んだ筈だった。それがどうしてこんな場所に閉じ込められて生かされているんだ。情けか? 気の迷いか? こんな馬鹿な事あるか?
 その時、扉の向こうの鉄格子から誰かが顔を覗かせた。ソラがその人物を睨み付けると、鉄格子の向こうの眼鏡の少年はビクッとしてすぐに隠れた。
 でも、気配は扉の向こう側から一向に消えない。隠れているだけで何をしているのか。

「何の用だ」

 ソラがその見覚えの無い少年に向かって呼び掛けると、少しの沈黙が続いて眼鏡の少年は怯えたような目をしてようやく顔を出した。

「……飯だよ」

 そう言って扉の下の小さな穴から一つの黒パンと一杯のスープを中に入れた。でも、ソラは一切動かないで扉を蒼い瞳で強く睨み付けていた。
 一瞬、その強い敵意と眼鏡の少年はぶつかって一歩退いた。煌煌とした目の輝きは、炎を連想させて見る者全てに少なからず恐怖を与える。
 眼鏡の少年もまた、恐ろしいと感じていた。迷い込んだ事は無いけれど、出口の無い洞窟と言うのはこんな感じなんだろう。暗くて淋しくて、底冷えする。

 ソラは馬鹿にするように小さく鼻で笑った。

「臆病者」

 口角を吊り上げてソラは言った。眼鏡の少年はむっとして睨み付けて来たが、すぐにその目は消して否定する。

「うるさい。違う」
「何が違う? 何の苦労も知らない世間知らずで温室育ちのお坊ちゃんのだろーがよ」

 その眼鏡の少年の目を見て、ソラは冷静に『嫌いな目』だと思った。当たり前に生きて、守られて、大切にされて来た幸せな目だと、生きているだけで偉いと勘違いしている目だと思った。

「消えやがれ、目障りだ。それも持って帰れ」

 ソラは僅かな食事を睨み付けて言い放つ。あからさまな敵意は見事なほどその眼鏡の少年にぶつかって行った。
 だが、眼鏡の奥の翡翠の目に恐怖が映ったのは僅か一瞬の事で、それはすぐに強い意志を持つ光を帯びた瞳に変わりソラを見つめる。

「駄目だ。俺はお前に食わせるように頼まれてんだよ」
「はっ! 人の言う通りにしか生きられないのかよ、この蛆虫野郎」
「……そんな風に孤独に人を遠ざけて……」

 眼鏡の少年は少し俯いて、ポツリと零した。

「……生きてる意味あるのか……?」

 瞬間、ソラの頭に血が上った。真っ赤に染まった視界。その言葉こそ、そのまま彼等に投げ返してやりたい言葉だ。当たり前に生きているこんなヤツになんて死んでも言われたくない。
 生きてる意味は誰にも否定させない。それだけは、絶対に何が起こっても。


「うるせーよッ!!!」


 強過ぎる敵意に憤怒に憎悪、人が恐れるあらゆる感情を含んでソラは叫んだ。眼鏡の少年は肩を跳ねさせる。

「テメェの定規で俺を計るんじゃねぇッ!!」

 ソラの怒声に気圧されて眼鏡の少年は目を背けた。本当は、その目を直視出来なかっただけなのかも知れないけども。
 その声を聞きつけたのか遠くから一つの乾いた足音が響く。
 だんだん近くなり、やがて、扉の前で止まった。

「何、騒いでんだ」

 低めの落ちついた声。それを聞いた瞬間、ソラの頭に上った血が一気に冷えた。
 この声は……あの時の……。

――お前は知らない。この世界の美しさを

 腹の傷がじくじくと疼いた。急に傷口が暴れ出すように開いて血が滲み出して顔を歪める。
 金髪紅目の男の名を眼鏡の少年は言った。

「レナード、さん」

 レナードは余裕を持った笑みでそれに答え、扉の前に立って鉄格子の向こうを覗き込む。そこには薄暗い石に囲まれた冷たい部屋の中央で腹を抱えて蹲る少年の姿。こんな子供が厳重な牢屋に放り込まれているのは異質だ。
 だが、レナードは何事も無かったように言う。

「何だ、暴れたのか?」

 小さく鼻で笑う声が耳に届いて、ソラは必死に鉄格子の向こうを睨んだ。逆光で輪郭しか見えはしなかったけれど、必死に。
 レナードはそんな事何一つ気にしない。

「お前、名前は?」

 ソラは答えない。
 レナードはふう、と溜息を吐いて代わりに名乗った。

「俺はレナード=ルサファ。帝国騎士。現在、世界最強の称号を持ってる」

 “世界最強”。なるほど、適わない訳だ。小さく舌打ちしてソラは腹を抑えた。一度開いた傷はそう簡単に塞がる訳でも無く、溢れた紅い血は石の上に落ちて行く。
 それでも、ソラはレナードを睨み付ける事を止めなかった。

「そんなヤツが……何で俺に構うんだよ……!」
「何故って?…お前が世界を乱すからだよ」

 レナードはいっそ残酷な程に冷静だった。

「平等で、美しい国。そんな理想世界をお前は血塗れにして汚しているんだよ」
「ふざ……けんな!」

 息をするだけで血がポタリと垂れて行き、視界が霞んで意識が朦朧とする。
 それでも、ソラは言い返す。

「平等も美しさも、そんなものは俺が今まで見て来た世界の何処にも存在しなかった!」
「それはお前がガキだからだよ。狭い世界の事しか知らない……井の中の蛙だ」
「井の中の蛙はどっちだ!」

 上から見下すレナードの言葉が悔しくて、無性に悔しくて、腹の痛みも忘れてソラは言った。

「確かに光はあって世界全てが真っ暗だとは言い切れない。でも、お前の理想世界なんて何処にも存在しない!」

 ソラにとってのセルドのように、温かくて優しい太陽のような人もいる。世界がひたすら残酷だとは言い切れないかも知れない。でも、この世界には哀しみを哀しみであると知る事さえ出来ない人もいる。
 不自由を不自由であると、不幸を不幸であると、生きている意味を、生きたいと願う事を知らない人だっている。

 そんな世界の何処が平等で美しい?

「自分が幸せだからって、世界中が百パーセント幸せだなんて思い込むんじゃねぇ!」

 誰もが幸せであるなんて不可能だって事くらいは解る。でも、誰かが死んでいく片隅で誰かは笑い、誰かが餓死しそうなほど腹を空かせている中で誰かはゴミのようにパンを捨て、誰かが必死に生きて行くのを誰かが殺す。
 こんな不条理の中の平和なんて有り得ない。

「確かに俺はガキで無知だ! でも、世界の冷酷さはお前等の何百倍も知ってる!」

 レナードはソラの言葉に無表情で、見下していた。まるで、興味無いと、存在全てを否定するような目で。

「……で? 可哀相な自分に同情してくれってか?」
「俺は……そこまで馬鹿じゃねぇし、自分の事を可哀相だなんて思った事は生まれてから一度もねぇよ……」

 そんな事が言いたいんじゃない。ただ、言いたいのはもっと単純な事で。
 ソラは飛びそうな意識の中で小さく吐き捨てるように言った。

 「何もかも……、決め付けんな。意味だとか、価値だとか……、お前の基準で人に値札を付けんな……」

 他人にしか解らない事があるように、本人にしか解らない事だってあるだろう。それなのに、全部解っているみたいな顔で思い込んで決め付けて押し付けて。
 人の価値なんて一目で解るもんじゃないだろう。自分の見たもの全てが真実だとも限らないだろう。知っている事も知らない事もあるだろう。
 レナードも、その眼鏡の少年も。人を上から目線で見下して……人は笑われれば悔しいと、傷付けられれば痛いと解らないのだろうか。

 皆、自分と同じように生きているんだと解らないのか?
 それは決して綺麗事や言い訳で覆い隠していいものではない。

「どんなに汚れた世界でも……必死に生きてるヤツはいるんだよ……!」

 声を振り絞って、途切れ途切れの言葉を言って、ソラはゆっくりと目を閉じた。
 痛みよりも悔しさが遥か上を行っていた。それを支えに意識を保とうとしていたがここまでのようだ。

 指先からどんどん力が抜けて行った。



 血溜まりの中、動かなくなったソラをレナードは立ち尽くして見ていた。
 自分よりも年下のこんな少年が、魂の篭ったこんな言葉を必死にぶつけて来た。それは、何故? 同情されたかったから? 違うだろう。
 理解されたかったんだ。それも自分だけの哀しみじゃなくて、世界中の哀しみを。

「リューヒィ」

 眼鏡の少年は呼ばれて顔を上げた。

「あのガキ……手当てして上に運んでおいてくれ」

 レナードは踵を返して歩き出した。
 眼鏡の少年からはその表情は決して伺えなかったけれど、ついさっきまでの余裕は何処にも無くかった。何かを悔いるような、罪を償うような……そんな背中だった。


――平等も美しさも、そんなものは俺が今まで見て来た世界の何処にも存在しなかった!


 ソラのその叫びが、レナードの頭の中にいつまでも響き渡っていた。