5、存在意味


――テメェの定規で俺を計るんじゃねぇッ!!

 俺は、あんな必死の叫びを生まれて初めて聞いた。
 何かを守るように、それだけを見つめて他のものは殴り捨てて。

 自分と大して変わらぬ歳だろう少年は、ついさっきまでの激しさが嘘のように昏々と眠りこくっていた。腹の傷はかなりの重傷だったらしく、医師が随分と慌てていたが今は落ちついたようだ。
 眼鏡を掛け直してソラの横の椅子に座る。

 白銀の髪、蒼い目。
 一体何処の人種だ?今まで一度として見た事が無い。混血だろうか。いや、それにしても白銀なんて生まれる訳が無い。

 「……う……。」

 小さくうめいてソラは表情を歪めた。
 目を覚ましたかと覗き込んだが、ソラはまた寝息を立て始めている。

 「……なぁ、お前は何を背負ってんの……?」

 呟くようなその質問がソラに届く事は無かった。



 ソラがふと気付くと、暗い路地裏に独りで立っていた。
 誰かにいないかと見回して見るけれども何も無くて、ただ足元には何処かへ伸びて行く古い石畳があった。

――誰もいないのか?

 裸足でさ迷い、足の裏からひんやりとした石の冷たさが伝わって来る。何時からか雨も降り出して寒さに鳥肌が立った。天高くそびえる建物が視界を遮って、まるで『他には目をくれずに進み続けろ。』と命令しているようだ。
 ここが何処なのか、何となく察しは付いていた。
 ここは、あのスラムだ。

 知ってる人なんて何処にもいない。
 明日生きている保証なんて何処にもない。

――死ニタクナイ?……生キテイタクナイ?

――解ラナイ。

 誰も助けてくれない。
 俺は今、存在している?生きてる?俺は今、誰かの意識の中に存在している?

『まだガキじゃねぇか。しかも、男だ』
『めんどくせぇ。何でもいい』
『そうだな。……この際、男でも女でもいいか』

 取り囲む男達。逃げ場が、無い。
 怖い、恐い。

――誰か助けて!


 ザーッ ザーッ
 雨が、強くなった。聞こえる音全てにノイズが掛かって、視界がぼやける。まるで、自分の事じゃないみたいに呆然として現実から逃げた。
 誰も、助けてなんてくれない。動けなくなって、力が入らなくて、悔しかった。

――俺は、我侭ですか?

 権力や名誉、富を欲した訳じゃない。不老不死とか幸せとか、そんなものでもない。ただ、願ったのは一つだけ。
 苦しくても、悲しくても、辛くてもいいから。一秒でもいいから、認めて欲しかったよ。

――皆、気付いている?俺、ここに存在してるよ。

 お願いだから、通り過ぎないで。気付かないまま行かないで。俺は本当にここに存在してる?
 どうでもいいなんて言葉で片付けないで。一言でもいいから、存在してる事を教えて。無関心のまま放っておかないで。

――お願いだから。

 生きてる意味が無いなんて言わないで。意味が無ければ生きていちゃいけないなら……何で俺は生まれて来たの?
 幸せなんていらないから、平和なんていらないから、汚れていたっていいから、意味を下さい。



「……から……」

 ポツリと寝言が聞こえてリューヒィはソラの顔を見た。その表情は苦痛に歪んでいて、額には汗の雫が幾つも浮んでは流れている。
 何かの重病のようでゾッとした。でも、ソラは続けて呟く。

「俺は……今……存在してる……?」

 閉じられた目から一筋の涙が零れ、予想外の状況にリューヒィは挙動不審になりながら耳を傾けていた。
 こんな質問は今まで生きて来た十五年間聞いた事が無いし、した事もない。

「存在してるよ……?」

 そんなの訊かなくたって解る事じゃないか。方法的懐疑で知られたかつての数学者デカルトでさえ、ものを疑う自分の存在は疑えなかったじゃないか。
 リューヒィの言葉は届かないで部屋の中に転がる。ソラはそれ以上の言葉を繋ぐ事はしないで、再び深い眠りに落ちて行った。



 リューヒィは帝国に古くから使える学者の一族で、彼はその使命に従って学者として貢献している。
 だから、リューヒィは今まで何かに不自由した事は無いし、その才能から大切にされ育った。人を憎む事も恨む事も知らずに、命を大切にする綺麗事の中で『普通』から見れば幸せな人生を歩んでいて、もちろん誰かに生命を脅かされる事も無い。
 さらに、もともと物欲は無かったが欲しい物はいつでもすぐに手に入ったし、お腹が空けば食事があった。知識を欲すれば国の図書館に行けばいい。知識が増えると言うのは、学者の血が色濃く流れるリューヒィにとっては無い例えようの無い悦びである。だから、自分の知らない事を教えてくれる先生や学者、本が好きだった。また、自分にそんな人生を歩ませてくれるこの世界が大好きだった。毎日が楽しみで充実している。

 そんなある日、リューヒィは新たな情報を得た。

――確かに俺はガキで無知だ!でも、世界の冷酷さはお前等の何百倍も知ってる!

 知らない事を知れるのは、確かに悦びだった。でも、あれは――。
 あの『叫び』は、悦びを与えてなんてくれなかった。

 押し寄せる恐怖と憎悪。溢れ返った悲愴に憤怒。

 あの『叫び』が伝えて来たのは、闇だった。絶望と言い換えてもいい。そんな感情を今まで抱いた事は無く、そしてこの先も抱く事は無いだろう。
 それはリューヒィには絶対に知る事の出来ない事だ。目の前に広がる喉から手が出るほど欲しい不可触の知識。でもそれは、絶対に触れてはならない。触れれば、きっともう立ち上がれない。

「……リューヒィ!」

 右手で眼鏡を直してからリューヒィは背後の声に振り返った。

「レナードさん」

 黒く磨かれて光る鋼の鎧に、帝国出身の証明にもなる金の髪。さらに紅蓮の瞳が輝いた長身。『世界最強』の騎士、レナード=ルサファ。
 レナードは腰に差した剣を揺らしながらゆっくりと距離を縮める。

「……アイツは?」

 探るような目つきでレナードは言った。

「寝てます。……医者が、よく生きてたなって言ってました」
「ああ、そうだろうな。……完全に、殺したつもりだった。俺が殺し損ねたのはアイツが初めてだ」

 冷たい目をしたレナード。つくづく恐ろしい男だと感じてリューヒィは苦笑した。こんな男が敵では無く、味方で本当によかった。

「頑丈なのかね……銀髪蒼目のあのガキは。剣の腕は荒っぽいわりに基礎が出来ていた。でも、正規の場所で習った剣じゃないだろうな。あれは……生きる為の剣だった」

 美しさも格好良さも正義も何も存在しない、ただ自分が戦いで勝ち生き残る剣。無茶苦茶でもあった。
 リューヒィは問う。

「何で、アイツを拾って来たんですか?」
「ああ……」

 重傷のソラを担いで来たのは、他ならぬレナードだった。殺す筈の標的をわざわざ瀕死にして連れ帰ったその理由がリューヒィには解らない。その行動に何の価値があり、どんな意味があるのか。
 知らない事を貪欲に知ろうとするのはリューヒィの長所でもあり、同時に悪い癖だ。レナードは困ったように眉を下げて笑う。

「一対一の戦いで俺に傷を負わせたのは、あいつが初めてだったからだ」

 レナードは自分の右頬を指差した。そこには薄く線一本の傷……と言うのも微妙だが確かに切り傷がある。今ではもう塞がりかけていて殆ど解らないけども。

「それに、……何でだろうな……」

 意味深に笑って、レナードはまた歩き出して行く。その先の言葉を言わないままレナードはリューヒィの視界から姿を消した。
 『殺せなかった』と。確かにレナードはそう答えそうになった。それは大きな理由だったけども、『世界最強』の称号を持つ騎士はそんな甘さではいけない。

(『世界最強』は、常に冷静沈着で自分を見失わない。感情に任せて勝手な行動をしない)

 自分に言い聞かせるように心の中で呟き、レナードは廊下に乾いた足音を響かせた。



 数時間後、リューヒィが部屋に戻った頃には大きな窓には夕陽が浮んでいた。部屋は出た時と変わらずにソラはベッドの上にいる。ただ、変わった事と言えば。

「……起きてたのか」

 目を覚ましていた事だけ。
 ソラは蒼い目を動かしてリューヒィを素っ気無く見たが、すぐにその視線は夕陽へと移る。リューヒィは溜息を吐いた。

「起きれるか? 飯、持って来るよ」
「……出来るなら、こんなところにいない」

 それを聞いてリューヒィは小さく笑った。ソラは睨んで来たけども、それが一層面白かった。
 牢屋で見た時は漠然と広がるあの闇が増長させていたのか、ひたすらに恐ろしく感じた。けど、今は。この夕陽に照らされているのは、自分と大して歳も変わらぬただの意地っ張りな少年で。

「なあ、お前の名前は何て言うの?」
「……」
「俺はリューヒィ=ヴァイサー。帝国の学者だ」

 ソラは何も言わないけども、リューヒィは話し続ける。

「なぁ、名前は?」
「………………ソラ」
「え?」
「ソラ=アテナ。……これで満足か?」

 皮肉たっぷりにソラは言ったが、リューヒィは考え込む。

(ソラ……アテナ?)

 妙に引っ掛かる名前だと思った。

「アテナ…、ギリシャ神話最大の神の名前だな。それも女神だ」
「知るか」
「司るのは…学問、技芸、知恵、…戦争か」

 銀髪蒼目の神の名を持つ少年。何処か不思議な感じがした。

「なぁ、ソラ。ソラって呼んでもいいか?」
「もう呼んでんじゃねぇか……」
「そうだな!」

 リューヒィは笑った。

「ソラ、外の世界は何がある? 俺は生まれも育ちも帝国だから、その向こうを見た事が無い。見てみたいとは思うけど、何かよっぽどの事が無い限り外には出られないし」
「…外には、現実が広がっているだけだ。それ以上でも以下でも無い」

 人が人を傷付け憎み殺し合う。罪と罰が交差し続け終わりなんて無い螺旋。生きる為に殺し、殺され、怯え、追われる。本当の弱肉強食がそこにはあって、必要なのは強さだけ。知識なんて道端の石ほども価値が無い。
 逃げる事も目を背ける事も出来ない。
 そんな世界に憧れる気持ちが解らない。

「……ただの、現実だ」

 夢も希望も存在しない場所。
 ソラはそれだけを言って黙った。リューヒィは期待していた答えとは程遠い言葉に、話を切らざるを得なかった。しばらくの沈黙が流れて、リューヒィはまた話す。

「ソラが寝てる時、寝言で変な事言ってたぞ」
「呪いの言葉でも言ってたか?」

 ソラは口角を上げて意地悪っぽく笑うが――、すぐにその笑みを消す事になる。

「『俺は今存在してる?』って」

 その言葉を聞いた瞬間、ソラは小さく舌打ちして吐き捨てた。

「お前には関係無い」
「何でだよ」
「お前には解らない」

 リューヒィは動きを止めた。氷のような冷たい目を見て、はっきりと『近付けない』と感じた。いや、『近付いちゃいけない』と言う義務の方が近いかも知れない。
 しばらくリューヒィが動けないでいると、ノックの音がして扉が開いた。

「リューヒィ」

 ひょっこり顔を出したのはレナード。妙な緊張感の流れる部屋に何でも無いみたいに割り込んで来て普通に椅子に座った。

「お前、身体は?」

 ソラがレナードを見たのは一瞬で、すぐに窓の外に目を移す。大きな拒絶の意味だったが、レナードは気にしない。

「生きてて良かったな。いや、よく生きてたな」
「俺は生きたいなんて望んでいない」
「でも、死にたいとも言わなかったな」

 レナードは静かに言う。

「お前は俺が『死にたいのか?』と訊いた時に『解らない』と言った。今は?」

 ソラが何も言わないと、レナードは剣を抜いて動けないソラの首に突き付けた。慌てるリューヒィを無視して質問を繰り返す。

「今、お前は死にたいか?」

 レナードの剣がソラの首の皮の一番上を薄く切り、血が滲む。その目は真剣で、『死にたい』と答えればすぐにでも殺してくれそうだ。でも。

「興味無い」

 はっきりとソラは言った。

「生かされるのも殺されるのも真っ平ご免だ。退け! 殺す気も無いくせに剣を抜くんじゃねぇよ!!」

 レナードは目を細めたが、同時にソラも苦痛に目を細める。大きな声を出せば裂けた腹に響くと解っていたのに、蒼い目がレナードを睨み付けた。
 すると、レナードは静かに剣をしまって後ろを向いた。そして、肩を小刻みに震わせている。リューヒィが覗き込むと、レナードは声を殺して笑っていた。

「……お前って、面白いな……」

 レナードは腹を抱えながら言う。ソラとリューヒィはきょとんとしてそんなレナードを見つめた。

「俺に向かってそんな事言って来たのはお前が初めてだよ」

 確かに、『世界最強』の名に臆す事無く自分の意思信念を真っ直ぐ主張した者はソラが初めてだった。

「その度胸、気に入った。……騎士にならないか?」
「はっ!?」

 声を上げたのはリューヒィだった。

「そんな勝手に決めていいんですか?!」
「いいだろ別に。団長は俺だ」

 レナードはもう決定したように笑うが、ソラは不機嫌そうな声で言う。

「嫌だ」
「ああ?」
「絶対に嫌だ」

 レナードは子供っぽく笑った。

「いーや、駄目だ。もう決定。今俺が決めた。お前は騎士になれ」
「おい、リューヒィ! 何なんだコイツは!」

 ソラの抗議も無視してレナードはその頭をぐりぐりと撫でた。

「怪我が治るの待ってるよ。……名前……」
「ソラ=アテナですよ」

 リューヒィが困ったように笑って答え、ソラはそれに舌打ちした。

「じゃあな、ソラ」

 勝手な事を言って勝手に決めて、レナードは勝手に帰って行った。抗議も文句も言えずにソラはその流れに圧倒されながらも溜息を吐いた。

「勝手過ぎる……!」
「はははっ! すごいだろ、あの人!」

 リューヒィは笑い泣きしながら言う。

「俺の自慢の先輩なんだ。昔から世話やいてくれる兄みたいな人だ」

 そう言うリューヒィは誇らしげだった。

「さて、俺も行くかな。レナードさんの率いる騎士団は帝国最強だ。だから、稽古とかもかなりキツイだろうし早く治せよ!」

 そして、リューヒィも部屋を出て行く。残されたソラは頭を深く枕に預けた。

(何だあいつ等は)

 呆れ苛立ちながらも、不快さを感じていなかった事にソラは気付いていた。
 『ソラ』と呼ばれたのは何年ぶりだろう。最後は、セルドのあの声だった。結局、幾ら強くなったって大切なものは守れない。自分が生きるのだけで精一杯だった。


――今、お前は死にたいか?


 その質問の答えを、ソラはまだ探していた。