9、護りたい


 ソラがある指令を受けて帝国を発ったのはもう五日も前の事だった。何の前触れも無くレナードが目を伏せてそれを伝え、リューヒィは何かおかしいとは感じていたものの、ソラが二つ返事で承諾したので何も言えなかった。
 でも、その事を五日後にこんなにも後悔する事になるのなら、あの日あの瞬間、それを止めるべきだった。



 ソラが帰って来た日は、清々しいほどによく晴れた朝だった。
 澄み渡った空は、ソラの瞳によく似ている。ぼんやりそんな話をサヤとしながら、リューヒィは王宮の庭に座り込んでいた。

 そこに現れたのはレナードと、一人の女。
 金髪に紫の瞳をした美しい大人の女性。白衣を着たいかにも研究者らしい彼女の名前はセレス=スカーレット。帝国が誇る科学者であり、唯一の女性騎士。そして、レナードの恋人でもある。

 のんびり、他愛の無い話をしながら紅茶を啜り、茶菓子を頬張る。
 いつもと変わらぬ穏やかな一日が今日も始まる。

 平和だと、そう思っていた。
 こんな日々がこれからも続いて行くだろうと信じていた。

 その時だ。


「きゃあああああッ!!!」


 女性の悲鳴が響いて、レナードはすぐ剣を取ってその方向に駆け出していた。少し遅れてセレスが追い掛け、リューヒィとサヤは動けない。
 何が起きたのか、それは、レナードが悲鳴の元に辿り着くよりも早く解った。

 カツン カツン。
 乾いた足音が静かに響く。それを見ている者は誰も動けず、目も逸らせない。息する事さえ出来ない。
 白い廊下に豪華な深紅の絨毯。その上を歩くのは。

 歩くのは紅い鬼。

「……ッ!」

 レナードは目を疑った。
 見覚えが無い訳が無い。つい五日ほど前に会ったんだ。綺麗な銀の髪と蒼い瞳を湛えていたこの少年。

「……ソラ……」

 今は、全身真っ赤に染まった鬼のようだ。
 表情は無く、目に光は無く。死体が歩いているような印象さえ受ける。

「どうして……!」

 ソラは、レナードを見なかった。見えなかったと言う表現が正しいのか。
 ただただ乾いた足音が通り過ぎた。

 セレスは呆然とその後姿を見つめる。

「何が、起こったの?」

 何か恐ろしいものを見た後のようにセレスは真っ青だった。目を伏せて口を噤んだレナードに掴み掛って同じ質問を繰り返したが、答えは無い。
 だが、少ししてセレスはその手を離した。

「何したか知らないけど……あなたはあの目を忘れちゃいけない。あなたは自分のした事を忘れちゃいけないんだよ!?」

 一人の子供の、心を壊したと言う事を。
 レナードは苦笑した。

「一つ、小さな山村を滅ぼさせた。村人の殲滅も」

 ソラに渡したのは帝国印封筒。そして、向かわせた村は反乱を企んでいると黒い噂の絶えないところだった。そんな場所に帝国の騎士が訪れたとしたら、村人は逃げるか襲って来るかのどちらかだ。
 きっと、村人たちは後者だったんだろう。

 セレスはレナードの頬を思いっきり叩いた。パーンッと星が出るようないい音は廊下に響く。それきり、セレスは踵を返して立ち去った。残されたレナードはただ、苦笑するだけ。
 ソラの歩いた後に出来た血の後が妙に生々しく感じられた。



 ソラは見慣れた廊下の角を曲がる。真っ白で汚れ一つ無い壁を見るほど、自分が異質だとよく解った。
 ふと気付くと、進行方向の三メートルほど離れたところでリューヒィとサヤが顔面蒼白で立ち尽くしている。ぼやけた意識の中、視界だけは妙にリアルで二人の表情がよく解った。

「……ソラ……!」

 呼んだのは、リューヒィだった。でも、ソラは何の反応もしないで通り過ぎようとする。

「おいっ!」

 そのソラの両肩を掴んで壁に押し付けた。予想以上に軽々とソラは壁に衝突し、蒼い目がリューヒィを見る。
 だが、その先に言葉は無い。それが悔しくて、搾り出すような声でリューヒィは訊いた。

「何が、あったんだよ……」

 ソラは答えない。同じ質問を繰り返してもその反応は変わらず、リューヒィ自身、今自分の心の中にある感情が怒りなのか哀しみなのか理解出来ずにいた。

「答えろよ……!」

 透き通るような銀の髪、大空のような蒼い瞳。
 神話の世界の人物のような少年は、地獄の住人へと変化している。よく皺を寄せた顔も、不器用な笑い方も、真っ直ぐ前を見据えた眼もそこには存在しない。ソラ=アテナと言う少年はそこにいなかった。
 少しして、ソラはぽつりと呟いた。

「お前に……関係無いだろ……?」

 無表情が、酷く恐ろしかった。
 リューヒィはその胸倉を掴む。

「関係無い訳あるか!」
「もう、放っておいてくれよ。俺なんて」
「ふざけんな! 放ってなんておけるか! そうしたら……死んじまいそうな顔してるくせに!」
「それが、正解なんだよ」

 小さく、息を吐くようにソラは笑った。
 蒼い目は濁っていて、もう誰だか判別出来ないくらいだった。でも、そこには確かに深い悲愴と憤怒と、絶望が刻み込まれている。一体誰が、何が悪いんだか解らないけども悔しいと思った。

「俺は、存在しなきゃ良かったな」

 その一言が、サヤの胸に突き刺さった。
 数日前に、生きる意味は見つけたと教えてくれたのはソラだったのに。

「何で……生きてんだよ……ッ」

 ソラは眼を伏せた。

「何で生きてんだよ……、俺は! 何十人も殺して傷付けて、何で生きてんだよ! 本当に死ぬべきは俺なのに! 何であの時、殺してくれなかったんだよッ!!!」

 帝国に運ばれて来た時、牢屋でリューヒィが手当てなんかしなければそのまま死んだのに。そうしたら、あの村は今も存在したのに。
 でも、叫んだソラの手をサヤはそっと掴んだ。

「でも、私は……ソラがいてくれた事、神様に感謝したよ?」

 自分をこんな訳の解らない命にした神に、恨んでばかりだった神に。
 サヤは微笑み、リューヒィも眼を伏せる。

「死ぬなんて……言うなよ」

 キッと睨み付けた緑の目、リューヒィは泣きそうだった。

「お前が今ここに存在する事、生きて帰って来た事、それは俺にとっては凄い数式や新しい物質を発見するよりも名誉で嬉しい事なんだから。頼むから、死ぬとか……俺なんてとか言わないでくれよ……」

 ポタリ、ポタリと涙が零れた。先に泣き出したのは、ソラだった。
 頬を伝う涙は血塗れの中で透明なまま流れ落ちる。殺し切れなかった声が嗚咽となって漏れ、気付けばリューヒィも泣いていた。
 サヤはそんなソラを優しげに見つめる。

「人生ってさ、そういうものなんじゃない? 迷って傷付いて失敗して後悔して、行き詰まって何もかも嫌になって逃げ出したくなるけど、顔上げて少しでも前に進もうとする。あなたはずっとそこで蹲ってるの? 強くなんてならなくていいよ。誰かの為なんかに生きなくていいんだよ。だから、逃げないで」

 リューヒィは鼻を啜った。

「人間の目が何で前に付いてるか知ってるか? それはな、そうやって前に進む為なんだよ」

 ソラの蒼い目と、緑の目がぶつかる。
 リューヒィはサヤとは反対の手を掴んだ。

「人間の手がどうして横に付いてるか知ってるか? それはな、こうやって隣りの誰かと手を繋ぐ為なんだよ。お前の手は誰かを殺して来ただけのもんじゃない。何かを護って来た傷だらけの手なんだ。だから、俺はそれを誇りに思う」

 ソラは、顔を上げない。上げられない。
 サヤもリューヒィも優しくて、綺麗で。自分ばかりが汚く見えた。今まで逃げて誤魔化して、向き合う事なんか出来てない。生きてる価値無いと言われても反論出来ない。
 だけど、こうやって必要としてくれる人がいる。それはどうしようもないくらい嬉しい事だった。

「お前が自分の生きる意味が解らないって言うんなら、俺たちがその理由になってやる。だから、そうやって一人で背負い込むな。何の為の、友達なんだよ……」

 『友達』だと、リューヒィは言った。それは自然な言葉だったけども、ソラは初めて言われた言葉だった。
 今まで友達なんていなかった。血の繋がった家族もいないし、育ててくれた人は死んだ。だから、ようやく出来た大切な繋がりなんだと知っている。

「お前はどう思ってるか知らないけど、俺はお前の親友でありたい。心配もするし、怒りもする。倒れそうなら支えてやるし、泣き出しそうなら相談にも乗ってやる。だから、自分が独りきりだとか、価値が無いだとか思うな」

 学者と言う事から、リューヒィは今まで剣は握らなかった。戦いになれば真っ先に死ぬだろう。
 でも、いつか剣を握る日が来るならソラやサヤの為に振いたい。護りたい。

 この傷だらけの体引き摺って生きてる命や、ボロボロの心抱えて強いふりしてる命の為に。


 リューヒィは、笑った。

「何があっても、俺はお前の事を見損なったりしない。裏切ったりしない」
「私だって傍にいる」

 そんな二人が綺麗だと、ソラは泣いた。
 汚れ切った自分が心底いやで、逃げ出したくて。でも、そんな自分を必要だと言ってくれる。

 だから、これからは奪うだけの剣は捨てよう。
 何も奪いたくないと願うのは、綺麗事だろうか?子供の理想論だろうか?それでも、奪うより護りたいと願った。

 その蒼い目からは、絶望はもう消え失せていた。


「……ありがとう」

 生まれて初めての『ありがとう』は、微かに震えた声。それでも、リューヒィとサヤは優しげに微笑む。
 自分の嫌いなところなら幾つでも言える。でも、逆は一つも言えない。そんなソラでも、誰かの優しさや強さは知っていた。
 哀しみだとか、苦しみだとか、辛さだとか。そう言った感情は誰にでもあって、一番身近だから理解され易い。でも、喜びだとか嬉しさは人それぞれに違うから解らない。
 それでも、無条件で誰かが当然のように自分を信用して傍にいてくれると言う事は紛れも無い幸せだ。だから、そう言うものこそ護らなければならないんだ。大切にすべきは痛みや絶望なんかじゃなくて、温かさだ。

 例え血塗れでも、穢れていても、剣は捨てない。
 その先に何が残っても、護るべきものがあるからこそ振おう。

 護りたい。
 大切なものを護りたい。

 この温かさを護りたい。


 サヤは片手をソラの顔へと伸ばし、袖で頬に飛び散った返り血を拭う。リューヒィは一瞬ぎょっとしたが、サヤは到って普通の様子だった。
 その純白の絹のドレスの袖は確かに赤黒くなったが、代わりにいつものソラが姿を現す。

「ソラ、……私の騎士にならない?」
「……は?」
「帝国第一王女直属の護衛部隊隊長。今まで、そんな信頼出来る人がいなかったから……」

 サヤは小さく困ったように笑う。

「高い忠誠心を持っていて、揺ぎ無い信念があって、一生懸命生きていて、犠牲だとかは絶対考えない優しい人。……ね、ソラ。私はあなたを信じていい? 信頼させてくれる?」

 凛と見据えた翡翠の瞳は、淋しげだった。
 サヤは、ソラとは違う。周りに温もりが無くて、孤独に育ったソラ。周りに温もりはあったのに、一人籠の中に閉じ込められ孤独を抱えるサヤ。
 誰も孤独を感じないで、誰とも関係無く笑い合い、不幸を数えるより歌える世界だったらよかったのに。

 ソラは蒼い目を少しだけ歪めた。

「あんた、俺が誰だか忘れたのか?」

 それか微かな笑顔だったが、皮肉でない純粋な微笑みだった。

「俺は騎士だ。……傷付けるだけの剣は、もういらない」

 護れる人になりたい。傷付けるよりも救える人でありたい。
 ソラは笑った。

「俺が護るよ」

 人の痛みはその人のもの。似ていても違う。でも、ソラはサヤが哀しかった事を知ってる。だからこそ、護りたいと思った。
 傷付けたくないと、願った。護りたいと、祈った。

――誰に?

 そんなの決まってる。いるかも解らない神じゃなくて、自分自身の心に。



 「護るから」

 初めてソラが笑った日。