「出やがったな、ハヤブサ」
無表情だったペリドットの面に、深い笑みが浮かび上がる。近江の背後で那生は、その名に耳を疑う。
殺し屋でありながら、同職者にさえ恐れられる神出鬼没のダーティ・ヒーロー。金色の眼、群青の鷹。最速のヒットマン、ハヤブサ。伝説とさえ囁かれるその男が、此処にいる。
那生の目に映るのは、笑みを浮かべたペリドットと、至近距離の射撃を何の予備動作も無く躱した近江の背中だけだ。
皺の寄ったスーツを伸ばそうともしない近江の背を凝視する。まさか、この男。
「悪いな。こいつは譲れねぇ」
背中に回した左手が微かに引かれる。繋がれた鎖が微かに音を立てた。
近江は何かを伝えようとしている。人差し指、中指、薬指が背を伸ばす。3……?
意味不明のサインに首を傾げそうになりながら、那生はその指先をじっと見詰めた。
「なら、此処で死ぬか? ハヤブサ」
ペリドットの言葉と共に、近江はピースサインを出した。否、これは、2?
ならば、もしかするとカウントダウン。近江は何かを待っている。
人差し指が残された。
「遅過ぎるぜ、ペリドット」
ゼロ。
突然、視界は白煙に埋め尽くされた。どちらが前かも解らないその中で、何の迷いも無い強い力で引っ張られる。鎖が微かに音を立て、耳元で銃声が数発響いた。
「こっちだ」
銃声に紛れた近江の声と同時に、那生の体は突如落下した。悲鳴すら喉の奥に消え失せる。
内蔵が引っ繰り返るような強烈な浮遊感の中、力強い腕が那生の体を抱え込んだ。そして、同時に乾いた足音が湿った空間に反響した。鼻を突く異臭に顔を顰める。だが、右手を何者かが強く掴んでいた。
「付いて来い!」
暗闇の中で、見覚えの無い金色の瞳が浮かび上がる。緩く歪められたその目は笑っているようだ。
この状況で? 命を狙われて、銃口を向けられる中で?
猛禽類を思わせる金色の瞳の傍で、黒ずんだ何かが頬に張り付いている。血だろうか。ペリドットの銃弾が頬を掠めたのかも知れない。
周囲に反響する足音と異臭、水音。闇の中、此処が下水道だと判った。一寸先も見えないというのに、漆黒に塗り潰された視界で近江の手が何の迷いも無く前へと導いていく。
「あんた、まさか」
近江の足取りが緩まり、漸く足を止める。肩で息をする那生に比べ、近江は息一つ乱さず振り返った。
ゆったりとした動作で、懐から煙草を取り出す。コンビニで売っているような安っぽいライターに火が灯される。オレンジ色の光に照らされた近江の顔が浮かび上がった。
金色の眼。そして、その右目の傍に今にも翔こうとする黒ずんだ鳥の刺青。解りづらいが、これは、群青?
「ハヤブサなの……?」
神出鬼没、最強最速の、伝説のヒットマン、ハヤブサ。臆病者と罵られるこの男が、そのハヤブサだというのか。
俄には信じ難い目の前の光景に、那生は言葉を失った。近江は紫煙を燻らせながらライターの炎を消し去る。周囲は再び闇に包まれた。
「あんたが、あの伝説の殺し屋?」
やっとの思いで吐き出した言葉に、近江は微かな灯りの中で不敵に笑った。それはそれまで見せて来た近江とは明らかに異なる、冷笑にも似ていた。
「お褒めに預かり光栄です」
わざとらしい程に恭しく頭を下げ、近江は言った。
「伝説になった覚えは無いが、ハヤブサってのは俺のことだ。尤も、随分と美化してくれているみたいだけどな」
皮肉っぽく笑い、近江は那生を見た。
周囲は水音に満ちている。ペリドットが追いつく気配は無い。完全に撒いたのだろうか。あの、国家公認という殺し屋を。
「CD-Rを渡してもらおうか」
無表情のまま、近江が掌を差し出す。那生は言った。
「持っていないのよ」
「何?」
「確かに拾ったんだけど、返してしまったわ。それより、どうしてそんなものを探しているの?」
あの若過ぎる天才科学者が持ち歩いていたというCD-Rが一体何だというのだ。中に何が記録されているというのだろう。煙を吐き出す近江は、差し伸ばした掌を引っ込めた。
「中に、大切なデータが入っているのさ」
「大切なデータって?」
「答える義務は無ぇな、刑事さん?」
近江は挑発的に笑みを浮かべた。だが、那生は殆ど反射的に懐から拳銃を取り出し、その眉間に突き付けていた。
「あるわ。私は刑事で、あなたは犯罪者。これは尋問よ」
「殺し屋に法律を語る気か?」
先程から思っていたことだが、この男はどうして恐れないのだろう。眉間に突き付けられている銃は本物で、指先を引くだけで命は消え失せる。死ぬのが怖く無いのか、引く筈がないと確信しているのか。それとも、避けられる自信があるのか。この至近距離の銃弾を。
近江はきっと、那生の問いには答えないだろう。獰猛さを隠す金色の瞳は、目の前の那生を拒絶している。
真実は闇の中。けれど、脳裏に浮かぶのはフランス人形のように美しいあの少女だ。感情を押し殺したあの子は、一体何を思っただろう。短い人生で、未来を理不尽に奪われて、何の為に生きたのだろう。
「……知りたいのよ」
ぽつりと零した那生の言葉に、近江は眉を顰めた。
「どうして、あの子は殺されたの?」
重い沈黙が流れた。呼吸すら消え失せてしまいそうな静寂に、水音が虚しく反響している。短くなった煙草を壁に押し付けて、近江は腰を下ろした。釣られるように那生がしゃがみ込む。長く酷使した両膝が悲鳴を上げていた。
再び取り出されたライターが、近江の顔を照らし出す。群青の鳥の刺青が踊っているようだ。噂の通りなら、これは鷹。
肺一杯に煙を吸い込み、吐き出す。ライターが消された闇の中で金色の瞳が煌々と輝いていた。
「……人の領域を侵したのさ」
近江に表情は無かった。
「あの子は優秀過ぎた。覚えているか、嘗てのウイルステロを。殺人ウイルスHadesは、既に開発されたワクチンによって終息宣言が出されているが、あの子はHadesを進化させた殺人ウイルスを、作り出してしまった」
Hades、冥府の王と名付けられた史上最悪の殺人ウイルス。十年程前に起きた未曾有のウイルステロで猛威を振るったそのウイルスを、あろうことか更なる殺人ウイルスへと進化させたというのか。
どうして。何の為に。
「研究者ってのは、純粋な生き物だからな。目の前の成果に囚われて、人としての倫理を忘れてしまったんだ。ましてや、それは十歳にも満たない幼い少女。いかに簡単に、残酷に、より多くの人の命を奪えるのか。それを追究した結果が、ペリドットの探すCD-Rだ」
「それが、バンシーなの?」
「そうだ」
「どうして、ペリドットはそんなものを……?」
国家公認の殺し屋がどうしてそんな恐ろしい殺人ウイルスを探し求めるというのか。自問すると同時に、答えは那生の中で恐ろしい考えに行き着く。この国が、殺人ウイルスを手に入れようとしている。どうして。
「理由は解らねぇし、知りたいとも思わねぇ。だが、あのデータは開いてはならないパンドラの箱。中には凡ゆる災いが封じ込められているんだぜ」
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