靴底が剥げた。 愛用していた革靴は、決して傷んでいた訳ではないのだけど、もう随分使い込んでいたから、もしかしたら寿命だったのかも知れない。元々高価なブランド品でもない、セール品にしては頑張った方だろう。 渋谷のスクランブル交差点は人で溢れていた。午後五時に差しかかろうという初夏は、正にこれからが活動時間だという若者達が彼方此方に向かって歩いて行く。ここぞとばかりに露出する若い女が、剥げた靴底に手間取っている近江の横を通り過ぎた。まるで、目の前に相手がいるかのように大声で話す様子は、携帯電話を持っているとはいえ何処か奇妙なものに見えた。顔の半分もを覆う大きな眼帯を着けた近江ですら街に溶け込んでいるというのに、だ。 昼間は汗を流させた太陽も漸く傾き、涼しい風が吹き始めるかと思えばこの密集した人込みだ。全く、嫌になる。元来、人と行動する事の少ない近江にとっては不快な空間である事は間違いなかったが、生きていく以上これは仕方の無い事だ。無人島にでも行けば清々するかもしれないが、それでは商売あがったりだ。 信号は点滅を始めた。慌てて片足を引き摺るように走り出すが、周囲の若者は焦る様子もなく堂々と闊歩して行く。同類にはなりたくないものだと二十代前半の青年にあるまじき思考で、横断歩道を渡る。 少しずつ人気の無くなる横断歩道。苛立った挙句、剥げた靴底は仕方なく懐へしまった。目の前には鮮やかな金髪の男が歩いている。後頭部だけでは国籍すら不明だ。古着故のファッションなのか、ただ単に洗濯していないだけなのか、皺の寄った白いTシャツにはじわりと汗の染みがある。黒いスーツを着用した近江は既に汗も引いているというのに、この若者は随分と新陳代謝がいいんだなと、人事のようにその背中を見ていた。 腕には龍のような青い刺青があった。手首まで走るその消えないイラストは、若さ故の過ちだなと思った。やがて年をとって、彼が就職活動を行う時にはとんでもない枷になるだろう。刺青なんて、するんじゃなかった。きっと、そう思う日が来るだろう。 言葉にしなければ、考える事は自由だ。その権限をフル活用し、全くもって失礼極まりない事や同情を思う。それも、近江が口に出す事も怖がる臆病者だからだ。近江哲哉、あだ名はチキン・テツ。最早否定する気は無い。 漸く横断歩道を渡り切った、その時だった。何となく見詰めていた汗染みのある白い背中がくるりと振り返り、青い龍が跳ねたように見えた。ドッ、と胸に当たる小さな衝撃。再び龍が跳ねた時には、男の白いシャツには赤い染みが現れていた。 沈み掛けた太陽の光が、てらりと光る銀色を照らす。見慣れた赤い色がそこらに広がっていると思った時、不意に胸に触れた掌が真っ赤に染まっていた。そこで漸く、自分は刺されたのだと気付いた。 「なっ……」 何が起こったのだ。 信号のように点滅する視界。すぐ傍で聞こえた悲鳴は、先程まで大声で電話をしていた若い女の声だった。 目の前の男は何事も無かったかのように颯爽と人込みに消えて行く。咄嗟に手を伸ばしたが、届く筈も無く体は渡り切った筈の横断歩道へと倒れこもうとしていた。 酸素が薄いと感じるのは、周りに人が多いからだろうか。すぐ後ろには車の通過する音が聞こえている。 ああ、やべぇな。 何処か現実味を帯びない頭の中で、ただそう感じた。死というものが身近な存在である事は、職業柄、近江自身がよく解っている。ただ、こんなにも呆気ないものなのかと妙に冷静な頭の中でそう思った。だが。 「テツ!」 聞き覚えのある声だ。白く霞んだ視界に、また金色が映った。止めを刺しに来たのかとは思わなかった。自分を呼ぶ声に聞き覚えがあったからだ。それも当然だろう。自分はこれから、この男と会う予定だったのだから。 「テツ! しっかりしろ!」 刺青の男を追った筈の手は、その金髪の男に掴まれていた。車の通過する横断歩道へと倒れ掛かった体は歩道に戻され、そのまま崩れるように座り込む。 「……よう、神藤」 神藤京治が、柄にも無く焦ったような顔で自分を見るものだから何だか可笑しくなった。今日は渋谷の街並みに溶け込むような、ラフな服装をしている。潜入捜査を得意とする神藤らしいなと思った。 近江は喉を鳴らして笑い、懐へ手を伸ばした。血液の広がる中から取り出したのは、先程懐にしまった靴底だ。ナイフの通過した穴が開いている。安いが故の硬くて歩き難い靴底が幸いしたのだろう、お陰でナイフは心臓までは至らなかったようだ。それを見て神藤は瞠目し、顔を伏せると肩を震わせた。笑っているらしく、押し殺した声が聞こえる。 とはいえ、辺りは騒然とし、既に血の海だ。誰かが通報したのだろうパトカーのサイレンが聞こえる。まずいな、とは思ったが体が動かない。神藤は近江の腕を肩に掛け、さっと立ち上がった。そして、すぐ傍に停めていた車に向かって歩き出す。 「つくづく、悪運の強いヤローだよ」 そう言って笑いながら、神藤は近江を後部座席に放り込んだ。車が発進させたと同時に、救急車とパトカーが停車した。近江の血で染まった歩道は既に事件現場だが、加害者も被害者も逃げてしまうとは不可思議な状況だろう。 走り出した車内で、神藤はバックミラーで近江の様子を伺った。仰向けになって腕で目元を覆う姿はいつもの近江の様子とは掛け離れている。微かに聞こえる呻き声が神藤を僅かに焦らせた。胸を刺されているのだから当然だが、出血は止まらず後部座席は黒い染まっている。 「おい、大丈夫か」 返事は無い。一刻も早く止血しなければならないのだろうが、神藤にはその技術が無い。病院へ向かわなければならないだろう傷であっても、近江を病院へ搬送する訳にはいかない。道端で刺されたとあっては、事件性を疑う警察と必ず顔を合わせなければならない。それが出来ないのが、この仕事の辛いところだ。 裏道を進み急ぐ神藤に聞こえぬような小さな声で、近江は呟いた。 「青い、刺青……」 あれが誰だったのかなんて近江には解らない。見知らぬ通行人、つまりは他人としか言いようが無い。 あの青い刺青にも見覚えは無いし、近江自身、恨みを買った覚えはあるが仕返しされる理由が思い当たらない。 悔しいのか、腹が立つのか、悲しいのか、苦しいのか。色々な感情が混ざった頭の中は少しずつ霞み始めた。貧血による砂嵐だと気付いた時、近江の意識はふっと離れて行った。 |
―Dear friend.―
1,Day when falcon was born.
「お前はお前のした事に責任を持て。お前が奪ったものを永遠に忘れるな」 初めて人を殺した日、親父はそう言った。常日頃、能書きを垂れるような親父ではなく、かといって無口だった訳ではないけれど、冗談が好きで誰とでもすぐに打ち解け、軽口ばかり叩く親父が、いつになく真剣な顔でそう言った。 中学三年の冬だった。高校受験を間近に控え、自分の進路はどうしたものかと、まあ、そんなに真剣に考えていた訳ではないけれど、その一日の結果を理由に自分の人生は決まった。決定に後悔はないけれど、その理由には未だ後悔ばかりしている。 殺したのは、同級生だった。少年法を盾に逃げる事だって出来た罪だけれど、この世界は全てから逃れる事を許す程に優しくは無く、罪を感嘆に忘れてしまえる程に人間は器用ではなかった。 中学校の校舎裏で、五人組の同級生に呼び出された。所謂リンチだった。子どもというのは真っ白いキャンバスのような存在だと謳われる反面で、親ですらぞっとするような残虐性を秘めているのだ。 唯一の肉親であった親父の職業柄、世界各地を点々とする日々を送っていた。日本にいる事すら珍しく、三ヶ月と同じ場所にいられずに、友達なんて禄にできなかった。授業の進み具合も学校それぞれで異なっていたので、勉強なんて殆ど出来ないも同然。顔に大きな眼帯を着けた無愛想な顔をした転校生を受け入れてくれる優しい子どももいれば、その反対もまた然り。寧ろ、後者の方が多かったと近江は思う。 だから、教室の窓から教科書を全て捨てられても、自分の机に低レベルな落書きがされていても、校舎裏に呼び出されてリンチをされても近江にとっては有り触れた日常一コマに過ぎず、決して悲しんだり苦しんだりするようなことではなかった。だから、その事を親父や教師に言う事は一度も無かった。そもそも、近江がボコボコになって帰って来ても父親は何も聞かなかった。それどころか、つい一度かっとなってやり返してしまった時に一言「それで、満足したか?」と聞かれた事が悲しかった。 正に親父の言う通りだった。けれど、解って欲しかったのだ。毎日の陰湿なイジメ、暴力。何に心を許し、何処で休めばいいというのだ。自分なんて生まれなければよかったんだとさえ思ったその悲しみを、ほんの少しでも理解して欲しかった。その日は自分に共感してくれない親父への苛立ちと諦観から部屋に篭ってしまった。 その日の夕方、家に担任の教師が来た。その暴力事件について連絡しに来たのだろう。被害者側が激怒している事、学校側が下す近江への処分の事。親父はいつものように煙草を吸いながら、興味も無さそうに聞いていた。始めは自分には関心が無いのだと思った。けれどその態度で、親父は言った。 「でも、あのガキ共が今までテツにして来た事の方が酷くはねぇか?」 親父は全て知っていた。解っていた。自分の息子が今どんな世界で生きているのか、そして、何に苦しんだのか。 「先に言ったもん勝ちかよ。……テツはちゃんと、人を傷付けた事実を受け入れて苦しんでいるよ。なのに、あんたは責任転嫁したガキ共庇って親の言いなりになって、一体何なんだよ。それが教師だって言うなら、俺にだって出来るぜ」 そう言ってコーヒーを一口啜った。コーヒーはブラックに限ると豪語する親父らしく、その日もコーヒーは深い闇の色をしたブラックコーヒーだった。 黙り込んだ教師に、親父は更に言った。 「そういう愚かで浅はかで、物事の分別も出来ない、救えない犯罪者予備軍みてぇなガキ共を教育という形で叩き直して行くのがアンタ等じゃねぇのかよ。……アンタ等に出来ねぇってんなら、俺がそいつら殺しに行っていいか?」 冗談めかして言った親父の目は笑っていなかった。顔を強張らせた教師は何も言い返せず、ただ向けられた親父の死んだような笑みを見ていることしか出来ない。 親父は少しだけ笑った。 「……冗談さ」 そうして、コーヒーを飲み干して。 「どうせ、あと一週間でこの地も去る予定だった。丁度良かっただろう? これで全部テツに罪を着せて、聖職者面が出来る」 その言葉を聞いて、この地ももう去るのかと何処か遠いところで何の感慨も無く思った。どうでも良かった。ただ、親父が自分の為に言ってくれているという事が嬉しかった。 「帰れ。……言い忘れたが、俺は教師が大嫌いなんだ。これ以上、俺の神経逆撫でするんじゃねぇよ」 ギン、と強く睨み付けた親父は普段のおどけた姿とは酷く掛け離れていた。初めて感じる親父の放つ殺気に驚きつつ、慌てて帰って行く教師の背中をすっきりした気持ちで見ていた。 部屋に再び静寂が戻り、親父はコーヒーを入れに席を立った。そして。 「テツ、聞いてたんだろ」 扉の向こうにいる息子を呼んだ。戸惑いながら扉を開け、既に平静を取り戻した親父を見た。 「なあ、親父……」 コーヒーを入れる背中へ向かって話し掛ける。ラフな部屋着の背中はいつもとは何処か違って見えた。 「もっと自由に生きようぜ、テツ。何にも縛られず、もっと自由にさ」 親父は振り返って笑った。 「生きたいように生きろよ。……やられたからやり返すってのは、不毛な事だ。非生産的だ。だからと言って、堪える必要はねぇよ。人に諦観を抱くんじゃなくて、もっと、人を好きになれ。お前は今まで人の汚いところばっかり見て来ただろうけどよ、それだけじゃないんだ」 「……知ってるよ」 仕方の無い事なんだと諦める方が楽なのだ。どうでもいいと切り捨てる方が簡単なのだ。結局、自分が傷付く事を恐れていた事も既に気付いていた。 「俺は結局、臆病なだけだったんだ」 何て惨めなんだろう。大人ぶって冷めた態度して、結局は全て自分を守る為だった。けれど、親父は笑わなかった。 「そうだな、お前は臆病者さ。……でも、お前はそれでいい。勇敢である事が褒められる世の中でも、臆病だからこそ大切なものが守れる。自分を大切にできないやつは他人も大切に出来ない」 悲しさを知っているから、人に優しく出来る。そうして、コーヒーを片手に自分の頭を撫でた親父が突然歪んで見えた。裸足だった足の甲に透明な水滴が零れて、初めて自分が泣いていると気付いた。 初めて、親父の前で泣いた。恥ずかしさは無かった。自分の胸に抱き寄せた親父がとても大きく感じられた。それでいいと言った親父がどうしようもなく強くて、大きく感じた。 強くなりたいと思った。いや、強くなろうと誓った。何よりも、自分自身の為に。それが、後に近江の人生を変える切欠になった。 それ以来、近江は世界中各地を転々としつつも、父の言葉を胸に生きていた。笑いたい時は笑った。腹が立った時は怒った。我慢する事は沢山あったけれど、それでも、自由に。ハヤブサと呼ばれる親父のように。 そして、運命の日。中学三年の冬。首都圏某所、某中学校。久しぶりに遭遇する程度の酷いイジメに近江は中々に手古摺っていた。陰湿な姿の見えないイジメではなく、とても解り易い過激なイジメだった。 やり返す事は容易い。けれど、それでは何の解決にもならない。どうしたものかと思っていた頃、校舎裏に呼び出され、五人組に囲まれ、リーダー核の少年が何も言わずに拳を振り上げたその時だ。 「やめろッ!」 正義感の強いクラスでも人気者だった少年が、突然校舎裏に現れ、拳を振り上げた少年の横っ腹を蹴り飛ばした。見事な一撃に蹴られた少年は吹っ飛び、近江は目を白黒させた。誰かが自分を庇う事なんて初めてだった。 少年はアクション映画のように痛快に五人組を蹴散らして行く。その様は思わず拍手を送りたいとさえ思うものだった。けれど、やはり、思春期の少年は過激だ。 リーダー核の少年はポケットからナイフを取り出した。銀色に光るそれを構え、一直線に駆けて行く。それを見た周りの少年もまた刃物を取り出し、その正義感の強い少年へ突進した。 少年は動けなかった。その時の近江に選択肢は無かった。 正に一瞬の出来事だ。手前にいた少年のナイフを蹴り飛ばした。そこまでは良かったが、運悪く弾き飛ばされたナイフがリーダー核の少年の頚動脈を切り裂いた。 鮮血が噴水のように噴出した。リーダー核の少年は咄嗟に自分の首を押さえ、噴き出るものを止めようとする。両膝を着き、首を押さえる指の隙間から噴出す血液。一瞬遅れて悲鳴が上がった。 倒れ込む血塗れの少年。近江もまた、血塗れだった。頭の中は真っ白だった。正気などある筈もない。その惨劇に中てられた少年達は何を思ったか、そのまま近江へナイフを向けた。 空を切るナイフ。近江はそれを避けながら、呆然とただ動かなくなった少年を見ていた。覚えているのは、そこまでだ。 気付いた時、五人は皆首から鮮血を流して死んでいた。近江が漸く正気を取り戻した時には腰を抜かした正義感の強い少年と、駆け付けた教師と野次馬と化した生徒と、遠くで鳴り響くサイレンのみになっていた。 正当防衛だった行為を責める者はいなかった。誰もが近江の受けていたイジメを知っていたからだ。それまで何も言わなかったクラスメイト達が揃って近江の無罪を主張した。けれど、遺族は決して納得出来る訳も無く。 責める事はしなかった。けれど、しめやかに行われた葬儀に、近江の参加は許されなかった。それが全ての答えだと、解った。 程無くして、近江は再びその地を去らなければならなくなった。誰にも告げずに去ろうとしたその朝、初めて一人のクラスメイトが現れた。あの時、止めに入った正義感の強い少年だった。 「近江!」 駅へ向かう近江を呼び止め、駆けて来る少年を見て、近江はその少年の名前を知らなかった事に気付いた。 「……行くのか」 「ああ。もう、此処にはいられないんだ。お前のせいじゃない。全部、俺の都合だよ」 「いや、あの時俺が行かなければ、お前が……あんな事をしなくてもよかったんだろ」 そう言って少年は苦い顔をした。けれど、近江は笑った。 「……嬉しかったんだ」 「え?」 「初めてだったからさ、あんな風に誰かに庇ってもらったの」 そう言うと、少年は苦笑して手を差し出した。 「また、また会おうな。俺の事忘れるなよ、必ず、借りは返すから」 「……ああ」 近江が手を取ると、少年は言った。 「俺の名前、神山比呂だ。ヒロでいい。だから、俺はお前の事、テツって呼ぶ」 「ああ。また、会おうな、ヒロ」 何だかくすぐったいような感情を覚えながら、近江は神山と別れた。神山は近江の姿が見えなくなるまでずっと手を振っていた。 そして、それから数週間後、近江は右の目尻傍に一つの刺青を入れた。それは群青の鷹。最速のヒットマンと呼ばれたハヤブサを名乗る者の印だった。 |
2010.5.15