親父が死んだのは、あれから数週間後だった。国際的な犯罪組織GODLESSが引き起こした未曾有のウイルステロを、柄にも無く止めようとして敵組織の殺し屋に殺されたのだ。 碌な死に方が出来るとは思っていなかっただろう。濃霧の奥に消えて行く背中を見詰めながら、死に急ぐ親父のことを思った。何か使命を帯びたような神妙な顔つきだったことを未だに覚えている。その親父の右手には群青の鷹が羽ばたいていて、双眸は金色に煌いていた。 最後に見た親父は最速と謳われたヒットマン、ハヤブサだった。自分もまた最期はハヤブサとして迎えるのかも知れない。それとも、チキン・テツのまま死ぬのかも知れない。はたまた、近江哲哉という一人の男として終われるかも知れない。いずれにせよ、生きていこうと思った。あの日親父が向けた死にに行く背中は余りにも哀しかったから。残された自分自身も、託された少女自身もきっと苦しかった。だから、あんな背中は絶対に向けたくない。絶体絶命であっても、必ず戻るという気概でいたいのだ。たとえ、それが臆病者だと言われても。 「テツ、起きたか」 目を開ければ、一番最初に飛び込んで来たのは神藤の皮肉っぽい笑みだった。その奥に見える節目だらけの天井に見覚えがある。ベッドに寝心地もしっくり来て、ここが自分の寝泊りしている情報屋・白木彩子の喫茶店の二階だと気付いた。 起き上がろうとして、胸に走った激痛に顔面が歪んだ。神藤は嗤った。 「手術したんだ。輸血もな」 「ああ、そういえば」 自分はあの日、神藤と待ち合わせをしていた。場所へ向かう途中、見も知らぬ男に突然刺されたのだ。偶然、懐に入れていた靴底のお陰でナイフは心臓に達しなかったらしい。サイドテーブルには穴の開いた靴底が置かれている。 「靴底ってところが、お前らしいよな」 殺し屋なら、銃やナイフであるべきだろう。 神藤がそう言った。近江は苦笑し、穴の開いた靴底を眺めている。その時、乾いた音が室内に転がった。二回のノックの後、喫茶店の主である白木彩子が入って来た。 「テツ、目が覚めた?」 起き上がらずに近江は返事をした。すると、彩子はポケットから一枚の薄っぺらい紙切れを押し付けた。 「請求書。今回の手術費用だよ」 闇医者に診せたのだから、相当な金額をふんだくられるのは解っていた。解ってはいたけれど、余りにも高額で近江は黙り込んだ。 「……冗談だろ?」 「本当よ」 「支払いは何時だ」 「本人に訊きなさい。その金を出したのはあたしでも、神藤でもないわ」 どういう事だと尋ねるよりも前に、彩子は扉の向こうを示した。 「テツ、あんたに依頼よ」 大金を叩いてまで近江を助けたその依頼人は一体誰だと、近江は目を見張った。だが、扉の影から現れたのは人ではなかった。 闇に溶けるような一匹の黒猫だった。黒猫は一声鳴き、足音を立てずに近江のベッドへ近付いた。血のようなワインレッドの双眸をしたその黒猫は、軽い足取りでサイドテーブルへ上った。 「……春一……!」 驚いたような近江を見て、神藤が眉を寄せる。猫はまた一度鳴き、座り込んだ。 神藤は春一と呼ばれた黒猫を凝視し、近江へ問い掛けた。 「何だよ、この猫は」 「古い馴染だ」 近江が荒っぽく撫でても、春一は微動だにせずされるがままになっている。訳が解らないという神藤を余所に、近江は春一に話し掛けている。 「久しぶりじゃねぇか、春一!」 一向に手を止めない近江に苛立ったかのように、春一は鋭い爪を滑らせた。咄嗟に避けたが、近江の指先には微かに赤い線が付いている。 「いい加減にしろ」 その低い声は誰だと、神藤が問うよりも早く次の声がした。 「最速の名が泣くぜ、テツ?」 そう言って嗤ったのは、目の前の黒猫だ。近江は「手厳しいな」と苦笑して赤い線の残る指を握った。 呆然とする神藤に向かって、近江は言った。 「紹介するよ、こいつは春一。俺の古くからの馴染みなんだ」 「しゃべっ……」 「猫が喋っちゃならねぇのか」 そう言った春一の声は苛立ちを含んでいる。近江は笑った。 「猫は喋らないのが常識だ。……で、何の用だよ」 春一は神妙な顔付きになって(尤も、神藤や彩子には全く解らないだろうが)、一言一句間違わないようはっきりと言った。 「殺して欲しいやつがいるんだ」 猫が殺しの依頼をするなんて、世も末だなと近江は思った。相手は何処のボス猫だと揶揄すればまた鋭い爪が、今度は間違い無く皮膚を切り裂くだろうと悟って近江は問い返した。 「何処の誰だ」 春一は彩子を一瞥した。彩子は頷き、口を開く。 「ホークアイ。遠距離からの狙撃に長けたゴルゴ13顔負けのプロの殺し屋よ」 そう言って近江に手渡した一枚の写真。雑多な街並みの写真には、大勢の通行人が写り込んでいる。近江がその写真を覗き込むと、春一は鋭い爪で一つの影を指差した。 「こいつだ」 「……こいつは」 写真の端に写った金髪の男。半袖から生える二の腕には躍動的な青い龍の刺青が存在している。近江には見覚えのあるものだ。 「腕に入れた特徴的な刺青から、ブルードラゴンと呼ばれる事もあるわ。どちらかと言えば、その名前の方が知れているでしょうね」 「ブルードラゴンか」 横にいた神藤が、写真を覗き込んで言った。 「よく、こんな写真が撮れたな。ブルードラゴンって言えば、金さえ積めばどんな依頼もこなすってフリーの殺し屋だ。世界各国を飛び回る暗殺専門のやつで、これまで何百人もの要人を暗殺して来た、恐ろしい男だよ」 「マジかよ……」 偶然写り込んだのだろう。そのブルードラゴンの刺青に見覚えがあることを恨みながら、近江は言う。 「俺を刺したのも、こいつだ」 神藤と彩子は顔を見合わせた。近江は溜息を零す。 チキン・テツと呼ばれる近江が、人からの恨みを買うということは考え辛い事だ。会った事も見た事も無いフリーの殺し屋に突然、命を狙われるなんて事は妙だと思う。金で動く殺し屋ならば、誰かが近江の暗殺を依頼したという事だ。見に覚えはないけれど。 「GODLESSじゃないのか?」 以前、近江が壊滅に追い遣った国際犯罪組織GODLESSは、日本支部が消えただけであって組織そのものが消えた訳ではない。だが、そのGODLESSが復讐に近江を殺しに掛かっているというのは、合点行かない。 「GODLESSを攻撃したのはハヤブサだ。俺とは関係無い」 ハヤブサというのは神出鬼没の最速のヒットマン。顔も性別も一切不明。ただ、ハヤブサには二つの印がある。それが、群青の鷹、金色の眼。 近江は自身の右目を覆う眼帯に触れた。 「お前、まだあの訳の解んねぇ屁理屈してんのか」 呆れたように春一が言った。 ハヤブサとは、群青の鷹と金色の眼を持つ者だ。故に、右手に群青の鷹と金色の双眸をした近江の父、近江邦孝はハヤブサだった。息子である近江哲哉もまた、その二つの印を持っている。ただし、それは分厚く大きい眼帯の下だ。 眼帯を着けた近江はただの臆病な殺し屋であり、ハヤブサではない。それが近江の持論だ。尤も、ハヤブサの正体が近江哲哉であることを知るのはほんの僅かな人間だけだが。 「誰かがお前の情報を売ったって事も考えられるぜ」 神藤はじろりと彩子を見た。彩子は金さえ積めばどんな情報も売る情報屋。脅されても強請られても、金が無ければ一切の情報は口にしない。だが、情報を売った相手を口外するのは情報屋のタブーであり、信用を失くす事は生死に関わる。 彩子は神藤がそう言っても、眉一つ動かさない。それは十分有り得る事であり、彩子の仕事であるからだ。 近江は再び溜息を零した。 「……何にせよ、俺はそのブルードラゴンには会いたくないな。その依頼は断る」 「内容を聞いて断るなんざ、とんだ臆病者だな」 「お生憎様、俺の通り名はチキン・テツだぜ? 大体、何でお前がブルードラゴンを殺したがってるって言うんだよ」 一瞬の沈黙が流れた。それはほんの僅かな時間だったというのにも関わらず、酷く重く苦しいものに感じられた。その沈黙を作り出したのが春一ならば、その沈黙を破るのもまた春一だった。 「主人が殺された」 |
―Dear friend.―
2,Black cat that talks.
春一の主人は氏家朝美と言った。三十五歳、独身。三度の飯より解剖が好きな変態だった。元々は親父の古くからの友人で、親父が死んだ後も何かと世話になった女性だった。 外見はとても美しかった。十年以上の付き合いになるが、その外見は殆ど変わる事がなく、妙な薬でも接種しているのだろうと思っていたが、あながち間違いでもないように思う。 茶色のウェーブ掛かった髪は肩に付かないくらいで切り揃えられていた。会う時、彼女はいつも研究者らしく白衣を身に付けていた。天才と謳われる若き医師であると同時に、優秀な科学者でもあった彼女は常に奇妙な薬の研究をしていた。彼女の自室には檻に入れられた実験動物達が蠢いていて、それはモルモットに限らず、犬、猫、鳥、魚。人類に最も近いと言われる猿人類も混ざっていたから今考えると恐ろしい。 飄々とした人柄で、この人は大地震が来ても生き残るだろうし、地球最期の日が来ても変わらず研究を続けるだろう。そんな風に思わせるような人だった。 そう、彼女は殺そうとしても殺せるような人ではなかった。暫く会っていなかったが、彼女が殺されるような状況にいた事なんて、全く知らなかった。 「……氏家博士が、死んだのか?」 「そうだ、殺されたのさ」 近江は目を固く閉じた。暗闇に彼女の姿は鮮明に蘇るというのに、もうこの世にはいないのだ。 「殺したのは……、ブルードラゴンか?」 春一は頷いた。近江は苦い顔をする。 「どうして、氏家博士が……」 「それは、お前がこの依頼を受諾してからだ」 近江は目を開き、春一を見た。主人を失った猫が、敵討ちに殺し屋へ依頼するなんて健気な話じゃないか。いや、物騒な話だろうか。 暫しの沈黙が流れ、近江は答えた。 「そんな依頼、真っ平御免被るぜ」 呆れたような顔で近江は言った。春一は低い声で問う。 「何故だ」 「当たり前だろ! 俺はそのブルードラゴンに殺されかけてんだぜ!?」 ブルードラゴンは、近江を殺したつもりでいるだろう。もしも、生きている事が知れたら再び命を狙われる。それならばいっそ、死んだと思われていた方がいいに決まっている。わざわざ生きている事を知らして、殺されに行くなんて馬鹿のする事だろう。 春一は忌々しげに言った。 「死ぬのが怖ぇか」 「当然! まだ死にたかねぇ」 それに、と近江は言う。 「俺は復讐の依頼は受けない。幾ら金積まれてもな」 「……それは、ハヤブサとしてか。それとも、チキン・テツとしてか?」 「近江哲哉として、だ」 はっきりと言い切ったその様は、普段のチキン・テツと呼ばれる姿からは想像も付かない。近江は肩を落とした。 「復讐は虚しいよ」 「知ったような事を言うな。お前に何が解る」 「解んねぇから、言うんだ。全部を解り切れるなら、綺麗事なんて並べねぇさ」 春一は鋭く言った。 「だが、綺麗事は人を傷付ける」 「今更。俺は殺し屋だよ?」 一切態度を変えない近江に苛立ち、春一は舌打ちをするとサイドテーブルから飛び降りた。 「そうかよ」 それだけ言って、春一は出て行こうとした。その小さな背中に問い掛けた。 「何で、俺に依頼する。金さえ出せば何でもする殺し屋はごまんといるだろ」 此処にいる神藤だって、そうだろう。それでもわざわざ手術費用まで出して、自分に依頼する理由が解らない。 春一は振り返った。 「……俺は、殺し屋が嫌いなんだ」 そして、春一は出て行ってしまった。 近江は拳を握り締めた。春一と出会ったのは、氏家朝美の研究室だ。彼女が若い頃、人間と同等の知能を与えるという実験を様々な動物へ行っていた。多くの動物が死んだが、その内で妊娠していた雌猫の胎から産まれた子が人間と同等の知能を持ったという。それが春一だった。 喋る事の出来る猫ということで世界へ発表すれば彼女はノーベル賞ものの評価を受けただろう。けれど、春一は誰にも発表されぬままに彼女に育てられた。喋れるけれど、酷く無口な猫。宝の持ち腐れだ。 春一は研究室にある檻で殆どの時間を過ごしていた。極偶に彼女のデスクで丸まっている事はあったけれど、可愛がられているというよりは実験動物の一匹でしかなかったように思う。それでも、春一は彼女の為に復讐しようと言うのだ。猫は恩義を感じないというけれど、一体彼の何がそうさせるのだろう。 「彩子」 「何?」 「ブルードラゴンは今、何をしている?」 「五十万」 そう言って彩子は請求書を書いた。だが、近江は首を振る。 「……今、金はねぇ」 「それじゃ、情報は売れないわ」 沈黙が流れた。神藤は溜息を吐き、髪を掻き混ぜた。 「俺が出すよ」 神藤が仕方ないと請求書を取った。だが、そこに書かれた文字を見て忌々しく思った。宛名は既に神藤京治だ。書き直された様子はない。始めから、神藤が出す事は解っていたのだろう。 近江はニッと笑い、ベッドを降りた。傍に掛けられた愛用の白いワイシャツと黒いスーツ。ブラインドの隙間から差し込む光は紅く、時刻は既に午後六時を過ぎている。 「復讐は受けないんじゃなかったのか?」 「復讐じゃねぇよ。これはただの正当防衛だ」 屁理屈だな、と神藤は思った。近江は彩子から走り書きのメモを受け取り、ジャケットに腕を通すと部屋を出て行った。 |
2010.5.15