自分の限界を知ったのは何時だ。自らに諦観を抱いたのは一体何時からだ。幾ら問い掛けたとしても、決して答えは返って来ない。それらはきっと、今まで歩いた道程で培った様々な経験が、自己防衛機能として反映された結果だろう。それが大人になるという事だと思う。 人はやがて大人になる。子どものままでは社会不適合者だ。殺し屋なんて仕事をしておいて、社会に置ける人間の在り方なんてものを語る気は全く無い。けれど、綺麗事は口から零れ出る。 「夢を見たんだ」 首都圏某所の某株式会社の高層ビル。一見すればそれはただの企業ビルの一つに過ぎないのだろうけれど、裏の世界なんてものはこうして、上辺だけの平和を語る世界とは隣同士だ。 綺麗に清掃されたエレベーターには、美しく化粧を施された添乗員がいた。偽の許可証を首から提げている近江と神藤を疑いもせずに、指定された階へ恭しく案内する。 近江は言った。 「刺されて、眠っている間だ」 「昏睡状態の時か」 近江は頷く。振り返りもしない添乗員は、この会話を聞いているのだろうか。聞かれたからどうなるものではないけれど、静か過ぎる密室で聞くなという方が難しいだろう。だが、近江は平然と言葉を続けた。 「ガキの頃の夢だった。まだ、親父が生きてた頃のな」 エレベータが到着した。添乗員に挨拶されながら、近江と神藤は二十一階で降りた。ドアはすぐに閉まって下へ降りて行く。 「能書き垂れるような親父じゃなかった。俺には殆ど干渉しない。ガキの頃は馬鹿だったからさ、親父は俺に関心がないんだとか、俺は邪魔なんだとか、そんな事ばっかり考えてた。……実際には訊いた事なかったから、真相は解らないけどな」 確かに、世界には子を子とも思わず簡単に殺す親がいる。その逆もまた然りだけれど、近江邦孝とこの近江哲哉はその例には当て嵌まらないように神藤は思うのだ。実際に会った事はないけれど、伝説とさえ言われるハヤブサはそんな人間として大切な部分が欠落しているような男では無い筈だ。 「そんな親父が初めて、俺に能書き垂れたよ。でも、それは綺麗事って訳でもなくてさ、なんか、かっこよかったんだよ」 自分も綺麗事を並べる。説教もする。けれど、親父のようなかっこよさはないだろう。きっと歩んで来た道程が違うのだから重みが違う。 「俺にはまだ言えないだろうけど、つい青臭い事言っちまう」 近江はある部屋の前で止まった。長い廊下には同じ扉が幾つも並んでいるけれど、立ち止まったその扉には表札が付いている。『氏家朝美』と、春一の主人の名前だ。 ノックも無く扉を開けて近江は部屋に入って行った。鍵も付けないなんて無用心だとは思ったが、神藤は何も言わなかった。 正面の壁一面は窓になっていた。広がる高層ビルの群れが一望できる良い景色だ。手前には黒いデスクが設置されているが、手前にはデスクと同化するように黒い毛玉が蹲っている。 「よう、春一。いじけてんのか」 春一はむくりと顔を上げた。ワインレッドの瞳が鋭く近江を睨んだ。 「何しに来た」 「ちょっと、調べものだ」 そう言って、近江はブラインドを下げた。大きな窓を覆うブラインドを下げたところで気休めにしかならないというのは、殺し屋をしている近江自身が痛い程に解っている。 近江は黙って高い本棚にぎっしりと詰められた無数のファイルを睨んだ。青いファイルは大量生産されたもので、ラベルには何も書かれていない。挫けそうだと思ったその時。 「何を探してる」 デスクの上で毛繕いをする春一が言った。 「お前の利益になるものなんて、何も無いぜ」 「……ああ。でも、俺の不利益になるものはありそうだ」 春一は顔を上げた。近江はファイルの森を睨んだまま黙っている。 このファイルは生前の彼女が重ねて来た実験の結果、及び考察だろう。全ての記録はいずれ抹消される。けれど、その抹消されるべき記録を欲している人間がいるとすれば? 「彼女は、何故殺された」 「お前が知る必要はない」 「だが、知る権利はある」 近江は自分の左胸を指した。 「俺が狙われる理由が、他に思い付かねぇ。俺が刺されたのは、口封じだろ」 とはいえ、近江にはその原因である情報が解らない。けれど、それは当然だ。何故なら、近江は知らないから。 「お前、何処まで知ってる」 怪訝そうに春一が尋ねた。けれど、近江は笑う。 「何も知らねぇ。俺の言葉は憶測の域を出てない」 カマ掛けたのか、と春一は舌打ちした。だが、誤解で殺されかけた近江に向かって不平不満をぶつける程に無神経にはなれない。 「だが――」 と、言い掛けたところで近江は口を閉じた。 一瞬の沈黙、そして、微かな音がした。近江は跳ねるようにデスクの春一を抱き込んで倒れた。瞠目する神藤に、近江が叫んだ。 「伏せろ!」 また、微かな音。それがガラスの割れる音だと気付いた時、ブラインドには黒い焦げが滲み、穴の空いた床からは白い硝煙が昇った。 「お客さんだぜ」 壁に張り付いて、近江はブラインドの隙間を覗いた。遠くに見える高層ビルは五百メートル以上離れているが、そこにガラス片のような鋭い光が見える。 「Mr.ホークアイ。通称、ブルードラゴン……か」 春一を抱え、近江は走り出した。 鷹の目とはよく言ったものだと感心してしまう。化け物と言われるにはそれなりの理由があるようだ。扉を蹴り飛ばし、転びそうな勢いで疾走する近江は、既に神藤を置き去りにしている。とても追い付けないと神藤は歩を緩め、やがて足を止めた。神藤が逃げる必要はないのだから。 取り残された神藤は暫しの間考え、踵を返した。 一方、廊下を走り抜けた近江は丁度降りて来たエレベーターに転がるように乗り込んだ。甘い香りが鼻を突いたその瞬間、エレベーターの異変に気付く。先程はいた筈の添乗員がいない。 鋼鉄の扉が、絶望的な音を立てて閉じる。近江が勢いよく起き上がり、開くボタンを押した時、地の底を揺るがすような低い轟音が響いた。 (冗談だろ!) 密室が激しく揺れ動き、体制を崩した近江は倒れ込んだ。春一は揺れに耐え切れず壁に打ち付けられる。轟音が爆破の音だと気付いた時、遥か頭上で嫌な音がした。 ブツン。 ワイヤーが切れたのだと、理解した時にはもう動くことは出来なかった。 落下し始めた密室。胃の中のものが浮き上がる浮遊感。絶叫マシンは嫌いだと心の中で悪態吐く。 砂嵐のような世界で、足元から声がした。 「……博士……」 現実味を帯びないその声は、聞き間違いだったかも知れない。 |
―Dear friend.―
3,Your name.
生まれた時からずっと、世界には鉄格子があった。それはお前を守る為だと言った彼女は決して、笑ってはいなかった。ただ真剣な顔を向けている彼女もまた密室に閉じ込められているように感じ、ここは二重の監獄なのだと思った。 体中が軋むように痛んだ。春一は言う事を聞かない体に鞭を打ち、前足でしっかりと体を支え、ワインレッドの目を開いた。世界は闇に染まっていた。 「――よう」 気配は感じていた。闇に慣れた目に、彼の姿は良く見える。常に片目を眼帯で覆っていた彼もまた、闇は隣人だろう。 常人には一寸先も見えぬ闇の中で、近江は春一を見つけていた。 「やっと、目ェ覚めたかよ」 眼帯を外したその男は、既に臆病者の仮面を外したプロの殺し屋だった。近江はポケットから煙草とライターを取り出し、火を点した。橙の光が一瞬煌き、やがて闇に消える。 近江は溜息にも似た紫煙を吐き出した。 「今思えば、火薬の臭いがしていたな」 添乗員の香水で反応が遅れたのだと近江は笑った。状況が掴めない春一は、ともかく自分が生きているという事だけは理解した。 「なあ、春一」 近江はじいっと闇を見詰めている。 「GLAYって麻薬、知ってるか?」 ぴくりと春一が近江を見た。 「何処で聞いた」 「情報屋と親しくてな」 口角を吊り上げ、皮肉っぽく笑う近江は常日頃の彼の姿とはかけ離れている。 「死者に会える幻のドラッグ。それが重度の幻覚作用なのか、それとも別の何かなのかは解らない。だが、その噂に唆されて消えた人間は数多い。依存性は他の違法ドラッグとは桁違いの悪魔の薬」 ふうっと煙を吐き出し、近江は春一を見る。 「開発者は氏家博士だろう?」 春一は答えなかったが、沈黙こそが正解と近江は理解している。 「その危険性に気付いた博士は、ドラッグ及び関係資料を根こそぎ処分しようとした。だが、それに気付いた恐らくは開発組織に殺されたというところだろう」 春一はとうとう笑った。 「その、通りだ。よく解ったな」 「あの人は変人だったが、自分の中にきちんと正義を持っていた」 「お前に何が解る」 「解るさ。……GODLESSとの一件で、解毒剤を開発してくれたのは彼女だった」 まだ記憶に新しい忌まわしき未曾有のウイルステロ。百五十万をも越える死者を出したあの事件では、近江自身ウイルスの後遺症を負うと共に、唯一の肉親である父を失った。 近江邦孝の死を逸早く知った氏家朝美博士は、生還を果たした近江哲哉の治療を行うと共に、持ち帰ったウイルスの研究を行い、見事その治療薬を開発した。それは世間に出回らぬ貴重な品であった。 治療薬を公表すれば彼女の研究は高く評価されただろうし、高値で売り捌けば巨額の富を得る事もできただろう。それを彼女がしなかったのは、富や名誉に一切興味を持っていなかったということもあるが、彼女に信条に反していたという事が大きいのだと思う。 ハヤブサ及び近江哲哉が復讐には手を貸さないという信条を掲げているのと同じように、彼女もまた自分の仕事に誇りを持っていた。 「俺はあの人に借りがある」 彼女の研究結果である特効薬を見返りを求めず勝手に世間へ公表した事、彼女の治療を無償で受けた事。まだ、何も返せていない。 近江の治療と言っても、それは心理的な問題で、ウイルスには感染していない。地獄絵図と化したあの町から生還した近江は当時中学生であり、その精神的な負傷を責める事は誰にも出来ないだろう。 「俺は復讐には加担しない。だから、お前の依頼は受けないが……彼女の死に干渉する理由がある」 闇の中で、金色の瞳が輝いた。父譲りのその色は太陽の光に似ている。闇の世界に身を置きながら、太陽と共に在るとはなんて皮肉だろうと春一は嗤った。 「お前は、勘違いしてるよ」 春一は言う。 「あの人はそんな立派な人じゃない。ただ、自分の研究以外には興味を持てなかっただけだ。あの人にとっちゃ、全ての事象は研究対象であり、それ以上でも以下でもない。お前は恩義を感じてるみたいだが、あの人は実験動物くらいにしか感じていなかっただろうよ」 俺と同じように。 そう言って嗤った春一を、近江は真っ直ぐに見ていた。本当に、そうだろうか。彼女は確かに冷たい人だったが、ロボットでも何でもないただ一人の女性だった。 彼女の笑顔なんて見たことがない。豊かな表情の変化は見たことがなかったけれど、彼女の纏った空気がその表面上に現れぬ喜怒哀楽をありありと表している事を近江は知っている。 幾ら猫だといっても、彼女と最も長い時間を過ごして来た春一に解らない筈がない。 春一は確かに数多くの動物実験の中で生まれた偶然の一つに過ぎない。けれど、実験動物には情を移さないという彼女が春一を時折鋼鉄の檻から出し、傍に置いていたのはどうして。多くの実験動物を番号で呼び、名前を覚えるのが苦手だった彼女がこの猫を唯一『春一』と呼んだのはどうして。 自分は実験動物の一匹でしかないのだと嗤う春一が、こんなにも悲しそうなのはどうして。 不意に、彼女の部屋にあった数多くの檻を思い出した。全ては空になっていたけれど、一つひとつ番号が振られていた。動物実験は正直理解し難いけれど、彼女が決して何の感情も持たない冷たい人だったとは思えない。 彼女の机に最も近かった春一の檻に付いた白いネームプレートは色褪せ、殆どの文字が読めなかった。判別可能だったのはただ一文字、番号の『番』という漢字だった。 「お前の入っていた檻に、ネームプレートがあった。殆ど読めなかったんだけどよ、唯一、番号の『番』って漢字だけは読めた」 「……そりゃ、そうだろ。俺は実験動物の一匹でしかなかったんだから……」 ああ、と近江は思う。何時だってこの世界は、気付いた時には遅過ぎる。 「違うんじゃねぇのか」 ぴしゃりと言い放った近江の言葉に、自然と俯き掛けていた春一は顔を上げた。 「立春から春分の間、その年に初めて南寄りの風が吹く。春の訪れを告げる風って言えば、もう、一つしかないだろ」 綺麗事も青臭い事も好きではない。まだ若い自分の言葉は他人行儀な綺麗事でしかなく、時には言葉がナイフのように誰かを傷付ける。 けれど、それでも。 「あそこには、『春一番』って書かれてたんじゃねぇか?」 近江は紫煙を吐き出した。 「春は暖かい日と寒い日を繰り返しながらやって来るらしいぜ。お前は博士にとって、長い冬の終わりを告げる温かい風。この先、何度寒さが襲って来ても、やがて必ず春が来る。そんな一陣の風だった……」 春一は何も言わず、ただ近江の言葉を聞いている。その顔からは何の感情も読み取る事は出来ないが、近江は続けた。 「いいだろ、別に。そう信じたっていいだろ。それで誰が迷惑するってんだ。それで誰が傷付くってんだ。いいじゃねぇか、少しくらい幸せに考えたって。少しくらい夢見たって、いいじゃねぇか」 抱き締めるだけが愛情ではない。守る為に遠ざけた、そんな愛情を信じたい。失われたものを取り戻すことは出来ないけれど、思い出すことは出来るはずだ。 殺し屋に敵討ちを依頼する程の思いを、ただのお節介なんかで終わらせたくない。春一が博士を愛していたのと同じように、博士もまた、春一を愛していたと信じたい。 確かめるにはもう遅過ぎるけれど、思う事は自由だろう。 暗闇で、微かに春一が笑った。そして、紅い首輪を引っ掻いて足元の何かを落とした。それを瓦礫を避けるように器用に蹴飛ばして近江の元へやる。 拾い上げてみると、それは透明なケースに入ったICカードだった。 「GLAYの開発、研究データだ。ブルードラゴンはこいつを狙ってる。お前の元に行く事を、何故だか恐れていたみたいだけどな」 なるほど、とICカードを繁々と見る。その時、鋼鉄の密室が轟音と共に揺れた。天井から降り注ぐ砂埃。近江は立ち上がる。 懐から銃を取り出した近江に、春一は笑って問い掛けた。 「復讐は、しないんだろ」 近江もまた、笑った。 「いいんだ、これは正当防衛。それから……ただの恩返しだ」 そう言って跳び上がり、天井を蹴り上げた。密室は酷く揺れたが、取り払われた天井の穴には闇が巣食っている。だが、その中に小さな太陽が見える。 「相変わらず、だな」 ハヤブサの意思は、生きている。 春一は近江を追うように天井へ跳び上がった。 |
2010.5.15