――なあ、春一。

 足元に横たわる黒い毛玉。近江はもう動かなくなった春一の死体をただただ見詰めた。数分前までは生きて、会話ができたあの不思議な黒猫。
 ぶっきら棒で、酷く不器用で、照れ屋で、とても優しいただ一匹の友達。近江にとっては、唯一の友達だった。

(この声が、お前に届くだろうか)

 ふと上げた面に表情は無い。死体のような無表情をブルードラゴンは恐怖のままに見ることしかできなかった。身動き一つできず、言葉一つ発せず、ハヤブサと呼ばれる最速のヒットマンを呆然と見詰めた。

「俺はお前を許さない」

 冷たく言い放った近江の目は、既に光を失っている。光を失った太陽というのもまた奇妙なものだとは思うが、ブルードラゴンは銃を握る手に無意識に力を込めた。
 ブルードラゴンの銃弾が放たれるよりも早く、近江は地面を蹴った。打ち抜かれた脹脛からは出血が続いているのにまるで気付かぬような素振りで、近江は銃弾を放った。
 音を殺された発砲音。空気の抜けるような微かな音がして、ブルードラゴンの右肩を撃ち抜いた。
 素早く物陰にブルードラゴンは隠れたが、その肩からは夥しい出血が続いている。目がチカチカする。痛みで右半身が痺れているような気がして、ブルードラゴンは気休めに空気の塊を吐き出した。
 だが、次の瞬間。
 今度は左肩に銃弾が撃ち込まれた。

「ぐ、ぅ!」

 気配も感じさせないその一瞬の畳み掛けに呆然とするしかなかった。
 カツンカツンと、硬質な足音が聞こえて、白く霞むブルードラゴンの視界の向こうから黒い人影が近付いて来る。
 それがハヤブサと呼ばれる嘗て弱虫と罵った同級生であると、ブルードラゴンは未だに信じられない。

「人を殺すとき、何を考える?」

 闇の中に響く声は平静の近江と何ら変わらないけれど、この状況で出せるその神経こそが狂気だ。怒りも焦りも恐れも憎しみも何も存在しない。
 ブルードラゴンは何も答えなかった。近江は闇に沈んだまま、静かに続けた。

「別に念仏唱えろとか、十字架切れとか、後悔や懺悔しろって言ってる訳じゃねぇんだよ」

 そんなもん、俺だってしたことねぇ。
 闇の中にぽっかりと浮かび上がった近江の姿を月明かりが眩しく照らした。柔らかく笑い掛けるその反面で、銃口は真っ直ぐブルードラゴンを捉えている。

「ただ、てめぇが手を下した死体を見て、思わねぇか?」

 近江は目を細めて笑っている。

「自分もいつか、こうして死ぬんだってな」

 近江がそう言った瞬間、ブルードラゴンの体中を電気のような衝撃が走り抜けた。生物が生命の危機を感じたときに発する危険信号。その体中を走り抜けた電撃にブルードラゴンは反射的に銃を握った右腕を持ち上げた。

「ほざけ、クソ野郎!」

 一瞬にして放たれた銃弾。だが、当たらない。首を傾けるだけで避けた近江の余裕綽々という態度にブルードラゴンは更に焦りを感じた。
 自分もこうして死ぬ、と言った近江の言葉が何度も何度も、壊れたテープレコーダーのように繰り返し再生された。
 自分もこうして死ぬ、こうして死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ……!
 恐怖なのか狂気なのか、ブルードラゴン自身にすら判別できない。ただ震える指先は碌に標準も合っていないのに次々銃弾を放たせる。やがて銃弾が尽きた頃、悪寒のような恐怖が全身を撫でていった。
 銃弾を失った銃が虚しくカチカチと鳴っている。近江は冷めた目で見下ろしながら、一言問い掛けた。

「お終い?」

 ブルードラゴンの手が下ろされたと思った瞬間、銃を捨てて上げられた。近江は意味が解らないというように眉を寄せた。

「た、助けてくれっ!」

 怪訝そうに見詰める近江に、ブルードラゴンは媚びるような声で、引き攣った笑いを浮かべた。

「あの科学者を殺したのは確かに俺だが、頼まれたことだ! 断れば俺が殺されてた! 仕方無かったんだ!」

 畳み掛けるようにブルードラゴンは叫んだ。

「なあ、お前にも解るだろ? こんな商売してんだから、仕返しなんて不毛じゃねぇか?」

 何も言わない近江にブルードラゴンは更に続ける。

「悪かったよ、なぁ、この通りだ!」

 軽々しく下げられた頭には何の説得力も感じなかったが、近江は黙ってその姿を眺めていた。胸の中に沸々と浮かび上がるのは怒りや憎しみではない。ただただ単純な呆れだ。

「頼む、助けてくれ! お前だって昔、俺のダチを殺した! これでおあいこだろ!?」

 人の命は引き算できないなんて、結局は同じ穴の狢である近江には言えなかった。けれど、これがブルードラゴンかと呆れてしまう。
 嘗て対峙した父の仇である死神の異名を持つ殺し屋、目黒はこんなに見っとも無く命乞いをしなかった。目黒も薄汚い快楽殺人鬼と化していたが、今目の前にいる男はそれ以下だ。本来なら殺す価値も無い蛆虫だ。けれど、一度殺すと決めた男を見逃す程に、近江は甘くもなければ柔軟でもない。
 近江は目を細め、ブルードラゴンの脳天に照準を定めた。緩まぬ腕に、ブルードラゴンは喉の奥から引き攣るような声を上げた。

「お前で六人目だよ」

 近江哲哉として、殺すのは。
 数瞬遅れて届いた銃声に、近江の声はブルードラゴンへ届いたのかも解らなかった。





―Dear friends.―

5,Dear friend.





 脳を撃ち抜かれたブルードラゴンは即死だ。脳天に開いた穴から零れる血液と脳漿を冷めた目で見下ろし、近江は肩を落とした。
 背後に感じる微かな気配。零れた溜息は呆れか、安堵か。

「いつから此処にいたんだ。……神藤」

 闇に染まった回廊に響く足音。精錬された流れるような足運びは既に常人のものとは掛け離れていて、足音だけでこの男を見つけることができると近江は思っていた。
 振り返った近江の視界に、闇から目の覚めるような金髪が浮かび上がった。昼間に会ったときと同じラフな服装。あの高層ビルで別れてから神藤が何処で何をしていたのかも解らないけれど。

 けれど、神藤がブルードラゴンを殺す理由は存在しなかった。

 近江は放たれることの無かった自分の銃を見詰め、溜息を零した。あの瞬間、背後に感じた微かな気配に近江の指先は鈍った。それが神藤の気配だと気付いた時には既にブルードラゴンの脳天には穴が開いていた。

「ついさっき、此処に着いたばかりさ」

 能面のような無表情を貼り付けて、神藤は感情を映さない声で言った。

「此処に着いたら、派手にドンパチしてやがるからさ、見に来たんだよ」
「見に来たやつが、どうして手を出すんだ……」

 崩れるように、近江は座り込んだ。今更、撃ち抜かれた脹脛が痺れるように痛み始めたのだ。思えば随分と血を流したような気がする。
 神藤は座り込んだ近江の横に立ち、ブルードラゴンの死体を見下ろした。

「お前が殺す必要がない」

 どういう意味だと問おうとして、顔を上げた近江の視界に哀しそうな顔をした神藤の横顔が映った。言葉は喉の奥に消えてしまった。
 追及する言葉を失った近江は懐から煙草を取り出し、慣れた手付きで火を灯す。闇に浮かび上がった光は人の命のように儚く美しい。

「これ以上、罪を背負わないでくれ」

 縋るように呟いた神藤の、彼らしかぬ弱々しい声に近江は目を閉じた。神藤が何を言おうとしているのか解らない。

「お前に、何の関係があるんだよ」
「……」

 答えない神藤に、近江は苛立った。元々気は長くないが、今は貧血と疲労で考えることすら億劫だ。

「要領を得ねぇな」

 それでも、神藤は黙ったままだ。

「……ずりィぞ、お前。人の獲物横取りして、知らん顔かよ」
「うるせぇ。これは、俺が決めたことなんだ」
「ハア? 訳解んねェ」
「大体、テツが悪ィんだろ。勝手に何でもかんでも忘れやがって」
「俺が悪いのかよ」

 溜息代わりに紫煙を吐き出す。闇に溶けて行く白い煙を見詰め、近江はふと思った。

「……お前、俺のこと『テツ』って呼び始めたの何時からだ?」

 いや、違うと近江は首を振った。それよりも。

「お前と初めて会ったの、何時だ?」

 神藤は目を細め、近江を見た。混乱している近江を一瞥し。神藤は溜息混じりに答えた。

「中学三年の、冬だよ」
「あ……」

 十年近く昔のことだ。ただでさえ人の顔を覚えないのだから仕方が無いと、近江は思い込もうとしたが、できなかった。今、自分の横に立っているこの男の名前は。

「神山、比呂……か?」

 神藤は息を吐くように笑った。

「遅ェよ、馬鹿」

 もっと早く言えよとは、言えなかった。苦虫を噛み潰したような顔をする近江を見て、神藤は苦笑する。
 近江は苛立ったように髪を掻き混ぜた。

「あー、畜生。なんで、なんで」

 その先を続けることはできなかった。近江には問い掛ける資格も、上手い言い方をする技術もない。そんな心の内を悟って、神藤は笑った。

「中学三年の冬。あの事件を切欠に、色々と勉強したんだぜ?」

 一時は刑事にもなろうとしたのだと、神藤は笑った。

「約束したからな。お前と、また会おうって。この世界に入って死に物狂いでキャリア積んで、彩子の店でやっとてめぇに会った。なのに、てめぇは俺のこと一切覚えていねぇし、どんな落ちぶれた生活してるかと思ったらチキン・テツなんて呼ばれて立派なヒモ生活。正直、俺ァがっかりしたぜ」

 一息に言い切った神藤は肩を落とした。
 でも、と神藤は続ける。

「でも、反面、安心したんだ。この世界入って、てめぇの情報は中々掴めなくて、数年で俺自身精神的にやられちまったからさ、中学三年でそれを経験したてめぇがどんな人間になってるのか、生きているのかすら解らなかった。けど、会ってみたらお前何も変わらないで笑ったからさ、お前が俺に気付かなくてもいいと思った。今更言って、古傷穿り出す必要も無かったから」

 彩子の喫茶店のカウンターで、苦い残り物のコーヒーに顔を顰めている近江の横に素知らぬ顔をして座り、仕事を持ち掛けた。気付くんじゃないかと焦り半分期待半分で話し掛ければ、近江は何も気付かずに話に乗った。それが始まりだ。
 仕事自体は簡単なものだったけれど、殺し屋とは思えない程に明るく純粋なその生き様に、自分の辿って来た泥濘が固まって行くような気がした。自分の『今まで』がとても価値のあるものだと教えられているようで、殺し屋だろうと聖職者だろうと、誇りを持って生きていく姿に希望をもらった。
 だから、この臆病者と同職者に愛情混じりに罵られる男と共に仕事がしたいと思った。例え、自分が誰だか気付かなくても構わない。そう思っていた。

「……引き込んじまったのか、お前を」

 ぽつりと呟いた近江に、神藤は笑った。

「馬鹿、そうじゃねぇだろ。そんなこと言ったら、俺だって同じだ。お前をこの世界に引き込んだのは俺も同じだろ」
「いや、俺はどの道此処にいたよ」

 それに後悔も恥じもないけれど。
 だが、神藤は「それでも」と食い下がる。

「それでも、お前の手を血塗れにしたのは俺だ。殺し屋としてじゃなく、近江哲哉っていうガキを殺人者にしたのは俺なんだ」

 そんな負い目を感じて来たのだろうかと、近江は目を伏せた。
 此処にいることに何の後悔もない。自分の選択が誤っていたとは思っていない。あの事件も、近江の未熟さが引き起こしたものだ。誰のせいでもないから。誰を責めるつもりもない。

「考え過ぎだよ、てめぇは」

 撃ち抜かれた脹脛を庇いながら立ち上がる近江に、神藤が出した手は取られなかった。近江は闇に溶けるように横たわる春一の死骸を抱えた。
 冷たく硬直した死骸には、生前の触り心地の良かった毛並みも存在しない。けれど、その背を近江は優しく撫でた。

「神藤」

 神藤は顔を上げた。
 近江はポケットから取り出したICカードをコインのように空中へ跳ね上げる。反射的に神藤はそれを撃ち抜いた。
 跡形も無く粉々に砕け散ったそれが何か、神藤は気付いていただろう。近江は笑った。

「これで、いいんだよ」

 近江の指す『これ』とは、砕け散ったICカードのことなのか、それとも、この現実のことなのか神藤には量り兼ねた。だが、問い返すこともなく神藤は笑った。
 片足を庇いながら歩いて行く近江の歩調に合わせて、隣を歩く神藤の足取りは俄かに軽く、普段の彼のスムーズな足運びに比べると浮き足立っているようだ。

「それにしても」

 馬鹿にするような笑いを浮かべて、神藤は言った。

「猫が友達なんて、寂しいやつだな」
「余計なお世話だ」

 神藤は馬鹿にするように言ったが、内心では解っている。近江が気付かないだけで、彼の周りには大勢の味方がいること。彼が心を開かないだけで、友達は沢山いること。
 春一の背を優しく撫でながら、近江は「いいんだよ」と言った。

「ダチなんざ、信頼できるやつが一人いれば十分だろ?」

 それが誰を指しているのかなんて言わずもがな。
 神藤は満足そうな笑みを浮かべ、ゆっくりと歩いて行く。
 臆病でもいいと言った父の声が、近江の脳裏を過ぎった。自分は臆病で、人を信頼することすら難しい。けれど、自分でも気付かないうちに多くの人を信頼して、多くの人に助けられて来たのだろう。
 命を張って護ってくれた春一に、自分は何ができたのかも解らない。けれど、今からでもできることがあるならしてやりたいと思う。春一は、氏家博士と同じ場所で眠らせてやろうと思った。
 正解や不正解も解らないこのグレーゾーンの世界で、必要悪と呼ばれる奇妙な存在として、これからも生きていこう。やがて来る死期がどんな形かは解らないけれど、目の前にいるのがどうしようもない下種だったとしても、人生に何の悔いもないと誇っていられるように自由に、生きていこう。自分らしく生きていくことこそが、自分を信頼してくれた者達へ返せる唯一のことだと思うから。
 不夜城と呼ばれる眠らぬ街の向こうから、日が昇る。明けていく夜を思いながら、近江は煙草に火を点けた。




2010.6.20