劇場は静まり返っていた。
 首都圏某所のこの劇場は、国内有数の規模で五万もの人間を収容することができるというのに、今はただ一人の少女の為に機能している。劇場のボックス席、国内外のVIPの接待を目的とした所謂この特等席からは、間も無く開演される世界的にも評価の高いオペラが何者にも邪魔されることなく一望できるのだ。赤い布張りの椅子に浅く腰掛ける一人の少女は、高価だと一目で解る白い絹のワンピースを纏っている。
 十歳にも満たないのではないだろうか。警備としてボックス席の入口に立つ御坂那生は、フランス人形のように何処か現実離れして美しい少女をじっと見詰めた。
 この少女は、EUに加盟する某国の要人である。天才的な頭脳を持ち、大人でさえ不可能な砂上の楼閣にも等しい様々な理論を実現し、特に此処二年程は世界中から注目を浴びている一人の立派な研究者だ。お忍びでオペラを鑑賞に訪れたと聞いていたが、この厳重過ぎる度を超えた警備では最早意味など無いだろう。劇場の凡ゆる出入口を固める警官と、少女を囲むボディガード。劇団員も一人残らず身体検査を受け、ネズミ一匹通さぬという徹底ぶりに、那生は溜息を零す。
 皺にならぬようにとスカートを払う仕草さえも精錬されるこの少女と、一回り以上も年の違う自らの姿を一別し、溜息を零す。一週間着続けたグレーのスーツは既に皺が寄り、埃っぽい。少女の秘書を名乗る高飛車な女性が怪訝そうに自分を見ていたのも頷けると、窓に映る自らの姿を見て苦笑した。
 今年で二十六になる。警視庁捜査一課の刑事であるが、この少女の来日に伴って護衛の一人として徴収されたのだ。普段は凶悪犯を相手に、女ということを感じさせない働きぶりを見せている、つもりだ。故に、このような息も詰まるような堅苦しい場所は苦手で、なんの事件性も感じられない現状にはほとほと疲弊している。
 零しそうになる溜息を欠伸と共に呑み込むと、足元に銀色のコインが音も無く走るように転がった。それは那生のパンプスの爪先に衝突すると、コインはまるで狙撃されたかのようにぱたりと沈黙した。何気無く指先でつまみ上げる。銀色のコインには美しい女性の横顔が浮かび上がっていた。


「すみません」


 今にも消え入りそうな、少女の細い声がした。
 顔を上げた視線の先に、美しい少女の相貌がある。透き通るような白い肌と、宝石のような碧眼。長い睫毛が震えている。
 伸ばされた少女の小さな掌に、銀色のコインを乗せる。ボディーガードがじろりと此方を鋭く睨んだ。母国の通貨だろうか。否、それをこの少女が此処で落とすのは不可思議だ。思考の渦に飛び込みそうな中で少女は、作り物のように美しいその面に笑みを浮かべた。


「ありがとう」


 同性でありながら、見惚れてしまう程に美しい微笑みだった。言葉を無くすとはこのことだ。何の言葉も返せないまま、劇場には開演を告げるブザーが鳴り響く。徐々に証明を落とす場内で、周囲の警備に緊張が走る。そんな中で、少女は小さな物音をさせ、白い鞄の中から掌に収まる小さな透明なビニール袋を取り出した。中にはピンク色の丸い菓子が入っている。暗くなる視界で、それが若い女性の好むマカロンだと解った。
 席に戻る少女が、此方を見て笑った。年相応の何処か悪戯めいた笑みだった。
 仰々しい劇場セットの中、派手に着飾った男女が舞踏会に興じている。オペラに何の関心も無い那生にとっては実に退屈な時間だったが、天才と呼ばれる少女は一心に舞台を見詰めている。
 何が面白いのだろう。ポケットに忍ばせたマカロンの形を服越しになぞり、舞台に目を移す。スポットライトを浴びた男優が大声で叫びながら、己の悲運を嘆いていた。そのときだった。
 足元に何かが突き刺さった。それは奇しくも、先程のコインが転がったのと同じ場所だった。
 膝を着いて確認すると、絨毯には熱を帯びた穴が空いている。それが何か理解すると同時に顔を上げ、席に座る少女を見る。長い金色の髪を垂れさせる少女の後頭部。眠ってしまっているようだった。――頭蓋骨に、穴が空いていなければ。


「お、い!」


 那生の声に、ボディガード達が一斉に少女へ目を向ける。項垂れる少女は動かない。肩を揺すられる少女の膝下から、白い鞄が落下した。
 悲鳴とどよめきが破裂した。
 公演を止めるように飛ばされた指示を後ろに、二階席である少女を射殺した銃弾を放ったであろう三階席へ向かって走り出していた。
 場内には明かりが灯され、激しい明暗の変化に目眩がした。弾丸のように走り抜ける廊下には大勢の警察関係者が溢れている。この厳重な警備の中で犯行に及ぶとは、正に大胆不敵。だが、目の前で救うことのできなかった虚しさと自責の念が、犯人への賞賛を打ち消し憎悪を生み出す。網膜に浮かぶ少女の美しい微笑み。十歳にも満たないだろう幼い少女。
 一体、誰が。
 近年、銃器による殺人事件が増加している。法律で禁止されるその凶器は、今も凡ゆる経路で国民の手元へと届き、凶悪な事件を引き起こす。個人的な怨恨による殺人事件もあれば、無差別殺人。そして、その中には素人の仕業とは到底思えない射殺事件が含まれていた。此処数年は、そうした正体不明の玄人による犯行が目に見えて増加し、変死として処理されることが多い。
 正体不明の玄人。警察関係者は揃って口を噤んでいるが、その存在は最早疑いようが無かった。――そう、『殺し屋』の存在だ。
 金さえ払えば、どんな人間も殺す。そんなSFのようなものが、現実には存在する。那生は、この犯行もまた彼等によるものだと踏んでいた。
 警察にも殺し屋のリストは極秘ながら存在する。ヤクザ崩れのようなチンピラもいれば、サラリーマンのような好青年もいる。千差万別のその殺人鬼の中に、那生にとってどうしてか強く記憶に残った者がいた。
 金色の眼、群青の鷹。同業者でさえ恐る最強の殺し屋。性別、年齢、全てが謎に包まれたその者は警察の犯罪者識別番号では8823号、それを知ってか知らずか、またの名を最速のヒットマン――、ハヤブサ。
 国際犯罪組織GODLESSを壊滅に追いやり、数年前の未曾有のウイルステロでは無償でワクチンを提供した。暴走しがちな殺し屋のブレーキ役でもある。確固たる己の信念を持つその男は、神出鬼没ながら、所謂ダーティヒーローとも考えられている。
 だが、人を殺して何が正義だ。
 那生は常常そう思っていた。目の前にいるのが誰であれ、犯罪者には等しく罰を与えなければならない。
 三階席の扉を押し開ける。空調によって重みを増した扉の向こうに人影は無い。気配を殺し、何処に潜んでいるかも解らない殺人犯に備えて銃を構える。


(何処だ)


 少女は確かに上から狙撃されていた。あのボックス席が狙えるのはこの三階席しかないのだ。だが、此処にも当然、警備はあった筈で。
 静寂に包まれた三階席の違和感に漸く気付く。反射的に壁に背を貼り付けるように飛び退いた。おかしい。此処には、仲間がいた筈だ。それがどうして、誰もいないのだ。
 じりじりとしゃがみ込んだまま足を進める先に、何かがぶつかった。水溜まり――否、血だ。


「ひっ、」


 零しそうなった悲鳴を寸でのところで呑み込んだ。目の前には物言わぬ肉塊と化した仲間達の死体が血溜まりの中に転がっている。開き切った瞳孔、硬直した指先。死んでから随分と時間が経っている。犯人は恐らく、オペラが開演するよりも前に警官達を射殺し、その死体の中で悠々とターゲットを狙っていたのだ。ポケットに触れる。少女から手渡されたマカロンの膨らみに寒気がする。あの瞬間、犯人の銃口は既に此方を睨んでいた。
 素人ではない。玄人も玄人。警官は全て一様に脳天を撃ち抜かれ即死している。殺し屋、だ。那生は確信的にそう思った。
 応援を呼ぼうと無線に手を伸ばす。だが、その時。


「酷ェな」


 背後より、声がした。
 咄嗟に振り返った先に、見覚えのない男が立っていた。漆黒のスーツを纏うその様はまるで、昼下がりのサラリーマンだ。だが、その右目どころか顔の半分もを覆う大きな眼帯は余りにも異質だった。死体を見下ろすその様はまるで死神のようで。
 死体の傍に膝を着き、左目は瞬きもせずに沈黙した警官を見ている。


「あんた、」
「あん?」


 今、気付いたかのように顔を上げた男が動きを停止する。そして、その左目に那生を移すと大げさに肩を跳ねさせて後退った。壁に張り付くその姿はまるで猫のようだ。


「お前、まさか」


 一歩一歩と後退っていく男は、間違いなく扉へ向かっていた。殺意の欠片も感じさせない男の様子に、詰めていた息を吐いた。どう見ても警察関係者ではないが、この惨劇の犯人でも無さそうだった。ただ、一般人でないのは明らかだ。


「ちょっと、待ちなさい」


 懐から警察手帳を取り出し、突き付けると男は引き攣るような声を上げた。


「お巡りさんが、何の用だよ。俺は悪いことは何もしてないぜ!」
「動かないで、挙動不審よ。此処は立ち入り禁止の筈」
「そりゃあ、知らなかった。すぐに出て行くよ」
「待ちなさい!」


 逃げようとする男に手を伸ばす。だが、男の腕は那生の手をまるで舞い散る木葉のように躱す。そのまま半身になって走ろうとするところで、那生は再び手を伸ばす。逃げる。此処で取り逃がせば、二度とこの男は現れないだろう。この、重要参考人は。
 扉に手を伸ばした男が視線を彼方此方に走らせながら後退る。その時だ。


「うっ」


 小さな声を上げ、男は後ろに倒れ込んだ。
 死体に躓いたのだ。なんて罰当たりな。
 強かに尻を打ったらしく右手で摩っている。那生は腰から取り出した手錠を、男の左腕に嵌め込んだ。金属音が虚しく響き、男が息を呑む。手錠の片側は咄嗟に、自分の右手に繋いだ。この男が逃げようとするのは明白だったからだ。


「おい! お前、何しやがる!」
「逃げようとするあんたが悪いのよ! いいから、付いて来なさい!」


 起き上がらない男の左手を封じる手錠を引けば、大げさに抗議する。周囲の惨劇が嘘のような落ち着きに目眩がする。一般人なら、卒倒してもおかしくない光景だ。それは、この男が只者ではないという証明に他ならないのに、狙撃した犯人とはどうしても思えない。


「あんた、名前は」
「おい、職務質問じゃねぇか!」
「当然でしょ。早く答えなさい」
「その前に、これを外しやがれ!
「外したら逃げるじゃない!」
「当たり前だ!」


 二十代前半だろうか。眼帯のせいではっきりとは解らないが、整った顔をしている。
 焦ったように男が手錠を外そうと藻掻くが、外れる筈も無い。男が更なる抗議の言葉を続けようと口を開いたが、それは発されること無く消え失せた。代わりに響いたのは悲鳴にも似た男の声だった。


「伏せろおおお!」


 手錠ごと体を引き寄せられ抱き込まれる。不平など言葉にする間も無く、この世の終焉を思わせる地を揺するような轟音にかき消されていった。
 男が被さる奥で、天井に無数の亀裂が走る。崩壊していく壁。罅割れる床。大地震――否、爆破だ。男の背に無数の瓦礫が崩れ落ちる。嗚咽にも似た呻き声を漏らし堪える男の顔が苦痛に歪む。だが、その時。
 立つこともままならぬ激しい揺れの中で、視界いっぱいを覆う程の巨大な瓦礫が目に映った。死を覚悟したその瞬間、那生の意識は闇の中へと転がり落ちていった。







The Dirty Hero!

1,Sick humor.







「……て、……さ」


 温かな微睡みの中で、掠れるような男の声がした。それが何者なのか考える余力など、那生には無かった。体が鉛のように重く、瞼を押し上げることすら億劫だ。こんなにのんびりと眠っているのは何年ぶりだろうか。
 もう一眠りしてしまいたい。抗いがたい欲求の片隅で、その男の声が何か唐突に思い出した。そして、意識は急浮上した。
 ぱちりと瞼を開いた先に、見慣れない節目だらけの天井があった。自宅でないことは明白だった。六畳程の部屋の床は煤けた板張りで、白かっただろう壁は煙草の煙か黄ばんでいる。
 那生の眠っていたベッドに腰掛ける、見覚えのある黒い背中は煤だらけだった。振り返りもせず、男は言った。


「遅ようございます」


 厭味ったらしく言って、男は振り返った。記憶の通り、右目を覆う大きな眼帯。切れ長な左目は睨むように此方を見ている。
 ゆっくりと体を起こし、何気無く右手を額に伸ばす。だが、異質な重みに手首を見れば手錠が嵌っていた。そうだ、この男に繋いだままだ。


「此処は?」
「俺の家だ」
「何で……」
「お前、覚えてないのか?」


 そう言って、男は手元のリモコンでテレビを点ける。地上波デジタル対応なのだろう。鮮やかな画質の向こうで、現実離れした現実が写っていた。
 崩壊した建物は、あの劇場だ。大災害でもあったかのようにぺしゃんこに潰れ、切口上で実況する女子アナの顔付きは神妙だ。幾度となく繰り返される『爆破テロ』と『死傷者多数』の単語に、寝起きとは関係なく目眩がした。喧しく鳴り響くサイレンが現実のものなのか、テレビから響くものなのかも解らない。
 劇場は爆破されたのだ。あの少女を射殺し、全ての証拠を隠滅するかのように。
 大きく溜息を吐こうと息を吸い込むと、男が空気の塊を吐き出した。


「ったく、付いてねぇよ。他人の仕事に巻き込まれて、警察に捕まって……」
「流石、テツだよな」


 突然、扉が開いた。
 ベニヤ板のような薄い扉を押し開けたのは、金髪の若い男だった。眼帯の男と同じくらいだろうか。ジーンズにTシャツというラフな服装ながらも、その長身故か整った面故か、よく似合い絵になっている。金髪の男は那生を見て微笑んだ。


「目が覚めたんだね、良かった」
「私、眠っていたの……?」
「ああ。あの爆破が大体午後六時頃だったから、三時間くらいかな」


 腕時計を見て男が言う。つまり、今の時刻は午後九時。
 本部に連絡しなくては、と懐に手を伸ばす。だが、利き腕である右手は眼帯の男と繋がっている為に取り出すことは阻まれた。


「ちょっと、邪魔しないでよ!」
「はぁ? 俺が一体何時邪魔したって言うんだよ!」


 邪魔したのはお前だろ、と眼帯を直しながら男が言った。金髪の男がからからと笑う。


「まあまあ。少しくらい、感謝したって罰は当たらないと思うぜ? あの爆破の中、君を助けたのはテツなんだから」


 テツと呼ばれた眼帯の男は目を逸らす。不本意だったと態度が言っている。
 だが、恐らくそれは事実だろう。那生にはあの爆破の記憶が殆ど無いが、崩壊する中で自分を庇ってくれたのは名前も知らぬこの男だ。
 この男は何者だろう。


「あんた、一体何者なの?」


 眼帯の男は答えなかった。だが、その肩越しに金髪の男が言った。


「こいつは近江哲哉。俺達はテツ、って呼んでる」
「人呼んで、チキン・テツ」


 音も無く開いた扉の向こうから、一人の女が現れる。薄茶のパーマ掛かった髪を後ろで一つに結わえた美しい女性だった。
 近江が睨んでも、女性は可笑しそうに笑うだけだった。


「私は白木彩子。こっちの金髪は神藤京治」
「あ、私は」


 左手で警察手帳を取り出そうとして、もたつく。すると、彩子は微笑みを浮かべたままに言った。


「御坂那生、二十六歳、独身。警視庁捜査一課の刑事ね。父は某証券会社勤務、母は七歳の頃に他界。警察を目指したのは中学三年の冬。友人が轢き逃げ事故に遭ったことから、犯罪を憎むようになった」
「な、」


 どうしてそれを知っている。言葉を無くした那生に、彩子は不敵に笑った。


「改めて、情報屋の白木彩子よ。知りたいことがあれば何時でも相談に乗るわ。勿論、ただでとはいかないけど」


 片目を閉じて悪戯っぽく彩子は笑う。情報屋というものが実際に存在するとは、目の前にしても信じ難い。これは何か質の悪いドッキリなのではないだろうかと、現実逃避にも似た妄想を思い浮かべたところで神藤が言った。


「君の知りたい情報の一つを、俺がただで提供してやろうか?」
「止めとけ、ただより高いものは無いぜ?」


 軽口を叩くように近江が言って、そこで漸く笑みを浮かべた。神藤が釣られるようにして笑いながら言った。


「俺達が何者なのか」


 笑みを浮かべた近江と神藤が揃って那生を見る。不敵な笑みの奥の感情は解らない。
 初回サービスだ、と近江が言った。その言葉の先を聞きたいようで、聞いてはならないと思った。だが、那生に耳を塞ぐという選択肢は残されていない。近江は笑っていた。


「俺達は、――殺し屋だ」


 全くもって、性質の悪い冗談だ。テロを報道していたテレビは次のニュースに移り変わっている。今夜は流星群だとはしゃぐ馬鹿な人間の笑い声が気まずい沈黙を埋め尽くした。だが、那生は笑うことすら出来ず、目眩に左手で額を押さえるので精一杯だった。