後悔のない人生というものが送れたのなら、どんなに幸せなのだろう?
自らを殺し屋と名乗る二人の男を前に、那生は沈黙を守るより致し方無かった。目の前の現実を否定したい気持ちと、受け入れなければ前に進めないという焦燥感。非現実的な現状に目眩がする。このまま瞼を閉じれば、また元の現実に戻れるのだろうか?
神藤は此方の気も知らず、懐からアルミ性の銀色の名刺入れを取り出した。
「何か依頼があるなら、是非。安くしておくよ」
微笑みさえ浮かべながら、警官に名刺を手渡す殺し屋。果たして、自分は殺しを依頼するような人間に見えるのだろうか。言葉に出来ない問いは喉の奥に呑み込んだ。一先ず名刺を受け取ったところで、那生はベッドに腰掛ける近江に目を向けた。
少女が射殺されたということは伏せられ、爆破テロによる死亡が確認されたと報道されている。暗殺されたことに何の代わりもないのに、隠す必要があるのだろうかと疑問に思う。ポケットの中のマカロンは受け取った当初のまま、滑らかな稜線を描いていた。
犯行は恐らく、三階席から行われた。その場にいたのは自らを殺し屋と名乗るこの近江哲哉のみだ。捜査員は例外無く一人残らず射殺されていた。
「ねえ」
近江の一つの眼球が那生を見た。切れ長ながら、くっきりとした二重瞼の奥には漆黒の瞳がある。
「あんたが、殺したの?」
あの少女を。
那生は黙って近江の様子を伺っていた。だが、近江は動揺することなく無表情に口を開く。
「それを訊いて、どうするんだ? あの子が生き返る訳でもないのに、犯人探しに何の価値がある」
「知らないわ、そんなこと。私はただ、知りたいだけよ」
敵討ちをする気は無い。それ程に那生はあの少女のことを知らなさ過ぎる。
ただ、自分は警察官だ。殺人鬼を取り締まる義務がある。
「俺を巻き込むなよ! 無関係の一般人だ。黙秘するぜ!」
「なら、結果として逮捕されても構わないというの?」
「逮捕って」
息を吐くように近江は笑った。既に手錠で繋がれているというのに、今更だなと思った。
飄々として本音を見せない近江に、那生は沈黙した。事実は解らないが、近江は現状、限りなく黒に近い灰色だ。それでも、那生にはどうしても近江が殺人鬼と呼ばれる人種には見えないのだ。
傍で二人の様子を伺っていた神藤が、苦笑混じりに言った。
「いいことを教えてあげようか」
「神藤」
近江が言葉を止めようとするより早く、神藤は話を続けた。それは一言一句危機間違うまいと、酷く明瞭に那生の耳に突き刺さった。
「どうして、テツがこの現状を甘んじて受け入れているのか解るかい?」
意味を理解するのに時間が掛かった。
戒められた近江の左手には不自然な肉刺がある。銃器を日常的に使用する、常人には有り得ないものだ。それはつまり、この男は日常的に銃器を使用し、持ち歩いているということの証明に他ならない。
だが、銃を持っているのなら、どうして彼は今も手錠に繋がれているのだろうか。こんな鎖、銃弾の前では何の意味も無い筈なのだ。
それはつまり。
「あんた、銃を持っていないのね」
近江は目を逸らした。それは肯定を示している。
あの時、近江がどうしてあの場にいたのかは解らない。だが、あの時の近江は銃を所持していなかった。
不満げに鼻を鳴らし、近江は言った。
「今は持ってる。だから、此処でお前を殺すことくらい、訳無ぇんだぜ?」
「なら、どうしてそうしないの」
「金にならない殺しなんざ、真平御免被るぜ!」
近江は笑った。警官を前に堂々としたその態度は、銃を持っているという自信故なのか、現行犯でなければ捕まる筈がないという確信なのかは解らない。それでも、近江がこの手錠を外さない理由は。
那生が再び口を開いたその瞬間、近江と神藤が揃って弾かれたように顔を上げた。
「お客さんだぜ、テツ」
「丁重にお断りして貰えるか?」
そう言って、近江は立ち上がった。ふと顔を上げた先に、彩子の姿が無い。
逃げ足の速い女だ、と近江が舌打ちする。神藤は懐に手を伸ばした。銃を取り出す気だ、と直感的に那生は思った。そして、次の瞬間。
近江が那生の腕を引き寄せた。その途端、羽目殺しの窓が音を立てて崩れ落ちた。細かい硝子の粒子はベッドに突き刺さる。神藤の口角が釣り上がる。
「早過ぎるぜ、――ペリドット」
ぽつりと零し、近江は那生の手を引く。突風のように扉を蹴破り、転がり落ちるように階段を駆け降りる。素直に玄関から靴を履いて飛び出す近江に、芸の無い男だと頭の奥で思った。
夜の町は騒がしかった。それもその筈で、あの劇場爆破から間も無い。パトカーや救急車のサイレンが鳴り響く夜空の下、那生達は今、狙撃されている。
アスファルトに突き刺さった銃弾。一体何処から狙っているのだろう。
「こっちだ!」
転がるように路地裏に逃げ込む近江は、害虫空間処理剤で燻り出されたゴキブリのようだった。ゴミ貯めのような淀んだ空気をものともせず彼方此方に迂回し逃げ回る近江に、引き摺られるように那生も走った。パンプスのヒールが壊れそうだと、この現実離れした状況の中で呑気に思った。
舌を噛みそうな速度で疾走する近江の背中を見ながら、那生は唐突に思った。どうして、逃げるのだ。私は警察なのに。そう考え付くと同時に足は凍り付いたように止まった。
「お前、死にてぇのか!」
「私は逃げないわ!」
静寂に包まれた暗闇に、荒い呼吸が反響する。
那生は懐に手を伸ばす。其処には変わらず愛用の拳銃があった。
「ニューナンブM60か。そんな玩具でやり合おうってか?」
「玩具かどうか、試してあげましょうか?」
手に馴染むその感触に、自然と口角が釣り上がるのが解った。今回の要人護衛の為、幸か不幸か特例として拳銃の所持が認められていたのだ。
その銃口を突き付けると、近江は驚きもせず肩を竦めただけだった。
「じゃあ、ついでにこの手錠も外してくれよ。銃撃戦に巻き込まれるのは、御免だからさ」
「それは駄目よ。あんたは重要参考人なんだから」
「俺を連れてどうにか出来る相手なのか? よく言うだろ、二兎を追う者は一兎をも得ずって」
それに、と近江は拳銃を指した。
「ニューナンブM60の装弾は全部で五発。対して相手はワルサーPPKだ。007が使ってるのも、この銃だな」
「……あんた」
何者だと問いかけようとして、那生は口を噤んだ。この男は既に名乗っている。自分は、殺し屋だと。
近江は無表情だった。
「装弾数は、七発」
「どうして、それが解るの? あんた、相手に覚えがあるのね」
気になるのは、先程、近江が零したペリドットという単語。銃声だけで解るとは思えない。
近江はわざとらしく溜息を零して言った。
「相手に覚えはあるが、狙われる覚えは無いね」
「ペリドット」
那生の言葉に、近江は舌打ちした。
「お前は関わるべきじゃなかったよ」
「どういう意味?」
「八月十六日」
「何?」
「お前の命日」
にこりともせず、近江が言った。
背筋が凍り付くような無表情だった。
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