銃口を宛い、引き金に手を掛ける。周囲に満ちた水音に耳を済ませ、静かに指を引いた。
サイレンサーの無い銃からは、何者にも阻害されることの無かった銃声が闇に響き渡った。それはまるで誰かの悲鳴のようで、嘆きのようで、断末魔のようだった。
ゼロ距離で銃弾を放った先は、玩具のような色をしたマカロンだった。けれど、そこには銃弾が放たれたと同時に吹き出した高温の熱風による焦げ目と共に原型を失わせる穴が空いていた。これでいい。
薄汚い下水道の中で、一筋の光も見えない天井を見上げて目を閉ざした。瞼の裏に浮かぶフランス人形のような少女の美しい顔と、感情を伺わせない宝石のような緑の瞳。
「安らかに眠れ」
近江は微笑んだ。今頃、あの世に着いただろうか。あちらの世界では、もっと自由に生きられるといい。
チキン・テツこと近江哲哉として稼業を続ける中、随分と久しぶりにハヤブサへの依頼が来た。それは十歳にも満たない天才科学者の少女からだった。こんなにも幼い依頼人は初めてだったが、自らを殺して欲しいという依頼も初めてだった。
少女の開発してしまった悪魔の殺人ウイルス、バンシー。嘗てのウイルステロを越える悪夢を引き起こしかねない最悪のウイルスに危機感を覚えた少女は、自分のしてしまったことへの罪悪感に苛まれていた。出来ることなら、消し去ってしまいたかった筈だ。けれど、世間はそれを許さなかった。だから、彼女は自らの暗殺とデータの抹消を依頼したのだ。
原型を失ったマカロンの中に、2cm程のCD-Rがある。科学者が目先の成果に囚われて、人間としての倫理を忘れてしまった結果がこのデータだ。これは開けてはならないパンドラの箱。こんなものは消えてしまうべきだ。
「さあ、お前の目的はこれで消えたぜ」
闇に沈んだ右手側に目を向ける。水音に紛れて微かな足音が響いていた。不快な異臭に包まれながら、温かな光を放つ緑の瞳。ペリドットの名の如く、闇の中でも輝いている。国家公認の殺し屋。
「俺の目的を知っているのか?」
ゆっくりを頭を上げるワルサーPPKは、昔からペリドットが愛用する銃だった。此方の眉間を捉えているだろうその銃口をじっと見詰め、近江は表情を固くした。距離は凡そ3m程度、銃口初速は310m/sだ。十分、避けられる。だが、ペリドットの口角が僅かに釣り上がったのに違和感を感じた。
ペリドットを包む凍り付くような冷たい空気。これは、殺意だ。
「あの少女を殺し、バンシーのCD-Rを奪う。それが、お前の目的だろう」
ペリドットは答えなかった。近江は続ける。
「それが、国からの司令だろう?」
薄く笑ったペリドットの指先に力が込められる。
――撃たれる。
近江の体は跳ねるようにアスファルトを蹴った。耳を劈くような銃声が至近距離で響き、アスファルトに銃弾が跳ねた。続け様にもう二発。足元を狙う銃弾は確実に近江を追い詰めていく。傍を流れる下水に空き缶が浮かんでいる。狭い空間に反響する銃声が更に一発。
ワルサーPPKの装弾数は七発。残りは三発。
「ペリドット!」
浮かぶ空き缶を拾い上げ、ペリドットに向けて投げ付ける。寸前にペリドットの放った一発が頬を掠めた。
反射的にペリドットが空き缶を撃った。穴の空いた缶が下降する先に、緑色の瞳が見えた。同時に懐から銃を取り出し、一気に距離を詰めた。空き缶が弾かれて再び下水に飛び込んでいく。ワルサーPPKが火を吹いた。近江の足は宙を蹴っている。
(――ちぃッ!)
漆黒の銃身が、銃弾を弾いた。これで、七発。
ペリドットのグレーのスーツの肩口を掴んだ。糊の効いた上等な生地に、空き缶を拾った時の下水が染み込む。
ゲームセットだ。近江が銃口を向けた瞬間、ペリドットが空になった筈の銃を向けて笑う。
(まさか)
互いの眉間に銃口を突き付け、二人は向き合った。
口角を釣り上げるペリドットの笑みが強がりとは思えない。向ける銃には確実に、近江を殺せるだけの銃弾が込められている筈だ。
「随分と手際がいいな」
近江が挑発的に笑った。ペリドットもまた、笑みを深くする。
「ああ。――最速のヒットマンと殺り合ってんだ。最善を尽くすのは当然だろ?」
「そりゃ、光栄なことだぜ」
空き缶を投げたあの一瞬、ペリドットと同様に近江の視界からも相手の姿が遮られた。その時に銃弾を補充したのだろう。つまり、ペリドットのワルサーPPKには四発の銃弾が残されている。
けれど、近江はペリドットに向けて未だ一発だって銃弾を放ってはいない。
「無駄撃ちをしない、お前のポリシーは昔から変わらねぇな」
「ポリシーなんて大それたもんじゃねぇよ。万年金欠なんだ。銃弾もただじゃねぇからな」
ペリドットが笑った。それまで見せたあの仮面のような笑顔とは違う、確かに覚えのある何処か子どもっぽい笑みだ。
何年ぶりだろう。銃口を向けながら、近江はそんなことを思った。ペリドットと出会ってから随分と長い月日が過ぎ去ったように感じた。
「お前の目的は何だったんだ?」
指先に力を込めれば、目の前の人間が死ぬ。その非現実的な状況を忘れたように、近江は問い掛けた。
ペリドットは国家公認の殺し屋。彼は何時だって国家の為、つまりは大義の為にとその銃を握ってきた筈だ。バンシーのデータが存在することで、得をするのは誰だ。あんなものは存在してはいけない筈なのに。
ペリドットが自嘲するように薄く笑った。その本心が見えなくて、近江は銃口を向けたまま声を張り上げた。
「答えろよ、ペリドット! お前は、正義の為に動いていた筈だろ!」
大量殺人兵器が国家の手に渡ろうとしている。正義を語りたくはないが、バンシーは存在してはならない。少なくとも、自分の知る嘗てのペリドットならそう思う筈だ。
その瞬間、ペリドットの指先に力が込められた。
銃声が耳に届く寸前に、近江は体を捻った。耳の傍を銃弾が掠める。躱した近江を銃弾が追い掛ける。
「ペリドット!」
悲鳴のように叫ぶが、ペリドットは弾を入れ替えるところだった。それはまるで、此方が発砲するとは思っていないようだった。
湿った足元に滑りそうになりながら、革靴に力を込める。棒立ちのペリドットの足元はがら空きだ。けれど、近江は引き金を引きそうになる指を必死に押さえ込んだ。
「俺は、正義なんかじゃねぇよ」
独り言のようなペリドットの言葉が空間に響いたと同時に、足元に熱が走った。狙撃されたのだと、銃弾の突き抜けた足に引き摺られるように近江は下水に転がり落ちた。
|