「お前、ハヤブサだろ?」
蝉の声が耳障りだった。油蝉だろうか。酷く、不快だ。
殺気すら感じる灼熱の太陽に焼かれながら、悲鳴を上げるアスファルトの上で自分は果たして生きているのか、それとも死んでいるのか。目の前にいるのは人間だろうか、それとも。
此方を見て怪訝そうに眉を潜めた青年は透き通るような緑の瞳をしていた。日本人離れした彫りの深い顔立ちで、不敵な笑みを浮かべるその青年が言ったのだ。殺し屋として駆け出しで、顔の右半分を眼帯で被っていた近江をハヤブサと関連付ける者など一人だっていなかった。
咄嗟に何の言葉も返せずにいると、青年は笑った。
「やっぱりな。そんな気がしたぜ」
青年――ペリドットは不敵に言い放った。カマを掛けたのだと気付いた時、ペリドットは子どものような無邪気な笑みを浮かべていた。
状況は緊迫していた。いつものように素人の依頼を受け、予定通りに暗殺をしたのだが、その依頼には裏があったのだ。近江が暗殺したのは裏業界で名を馳せる要人。相手の油断もあって難なく暗殺したが、その報復は近江が想像する以上に苛烈で、執拗だったのだ。
要人暗殺から既に二週間が過ぎている。しかし、報復の為の追跡の手を緩めない相手に、流石の近江もほとほと疲弊していた。路地裏で一息吐く近江に、呑気な顔で話し掛けて来たのがペリドットだった。
一般人には見えなかった。だが、同職者にも思えなかった。素性の知れないペリドットもまた、追われていたのだ。ペリドットが何をしたかは知らないが、人間は共通の敵を持つと隣人を味方だと錯覚する。近江も、ペリドットも互いに味方だと錯覚したのだ。
ペリドットの取り出したワルサーPPKが日光を反射して鈍く光った。
「此処は、手を組もうぜ」
そう提案したペリドットが笑った。近江は頷くしかなかった。
此処で更なる敵を作る訳にもいかなかったし、何より、ペリドットに賭けてみたかった。
「よし。お前、名前は?」
「近江哲哉。テツでいい」
「ハヤブサじゃなくて?」
「お前、ハヤブサの証明を知ってるか?」
「ああ……。なるほど」
ペリドットの目の前にいるのは、顔の右半分を大き過ぎる眼帯で被った男だ。ハヤブサと言えば金色の眼、群青の鷹。近江にはその印が何処にも無かったのだ。
眼帯の下に、その印があるのだとペリドットはすぐに解ったが、隠している理由までは解らなかった。それでも、ペリドットには構わなかった。
「じゃあ、テツ。俺と此処を突破しようぜ」
「ああ。足、引っ張んなよ」
「臆病者と罵られるお前に言われたくねぇよ」
知ってたのか、と近江は舌打ちした。随分と、自分の知らないところで広まってしまったものだと思う。此方は相手の情報など全く知らないのに。
ワルサーPPKの銃弾を確認し、ペリドットは路地裏を出て行こうとした。光に満ちた先はまるで天国に繋がっているような錯覚を抱かせる。この路地裏は賑やかの商店街の昼下がりの直ぐ側だ。裏の世界なんてものは、そうして光に満ちた世界と隣同士なのだ。
「言い忘れたぜ」
振り返ったペリドットは、まるで後光でも差しているようだった。緑の瞳、日本人離れした顔立ち、色素の薄い髪と肌。それはまるで天上の人のように見えるのに。――こいつは、殺人鬼だ。
人は勘違いをしている。死神というのが、薄暗い路地裏でみすぼらしい格好をしているとは限らないのだ。
「俺はペリドット。宜しくな」
自らを宝石だと名乗る男に続いて、近江は飛び出した。
そうだ。あの頃のペリドットは国家公認の殺し屋なんかじゃなくて、もっと自由気ままでいい加減な、腕だけは確かな殺し屋だった。当時の危機を回避した後も何かと縁があって、共に仕事をすることもあったけれど、何年か経って会ったペリドットは全てを覚悟し、決意した顔だった。
――国家公認の殺し屋になるんだ。俺は、これからは国家の為にこの銃を使うよ
あの時のペリドットが何を思ったかなんて解らない。けれど、揺らぐことのない確固たる決意は変えることなどできないと解っていたし、変える必要も無かった。
――俺は、正義の殺し屋になるんだ
続けたペリドットの言葉に、近江は何も言えなかった。その言葉の矛盾に口篭った。
殺し屋が正義だなんて、笑わせるぜ。そう吐き捨ててやりたかったけれど、真摯なペリドットの目に何も言えなかったのだ。
(正義って、何だ? 人を殺してまで貫かなきゃならねぇものなのか?)
自分が正義だなんて思ったことはない。どちらかと言えば悪だろう。
だけど、それでも。
(俺には譲れないものがある)
近江の目の前には、闇に染まった下水道がある。蠢く無数の気配は、最早殺気を隠そうともしないで此方を狙っている。
放たれた一発の銃弾を合図に、耳を塞ぎたくなるような銃声が爆発した。狭い空間に反響する騒音に脳幹がぐらりと揺らぐような気がした。
ペリドットのワルサーPPKが火を噴く。近江は懐にあった銃の撃鉄を起こした。
近江の持つ拳銃はベレッタM92だ。父が人生初の海外旅行で初めて購入したという軍隊や警察組織だけでなく、民間にも多く出回る人気の品だ。道楽として父はそのボディを漆黒にし、金色の鷹を特注で刻んだ訳だが、相変わらず中途半端な格好付けだと思う。けれど、この銃を見る度に思うのだ。
中途半端でいい。不格好でもいい。誰に笑われても、睨まれても、何を言われても構わないのだと。
闇の中に漆黒の体が浮かび上がる。顔に赤外線スコープが装着されていた。そんなものを使わなければ殺れない程度の腕の癖に、よくも自分達に喧嘩を売ったものだ。ペリドットも思っただろう。
十五人、前後だろう。下水道に送られた準備万端の刺客は玄人だが、殺しのプロである二人から見れば雑魚も同然だった。
(こいつ等、まさか)
特殊訓練を受けた人間達。他人の土俵で勝負するには早かったように思うが、その統率された動きはまるで軍隊のようだ。
そう、彼等は。
「引くぞ!」
闇の奥でペリドットが叫んだ。そうしたいのは、山々だ。
先程、ペリドットに撃たれた右足の出血が止まらない。せめて、止血しなくては。
ポケットから掌に収まる小さな銀色の装置を取り出す。乱射に近い形で放たれる敵の弾丸を紙一重で躱しながら、近江は指を銜えた。悲鳴のような甲高い音が鳴り響いたと同時に、銀色を落下させた。
視界が一瞬にして白に染まった。敵の呻き声が溢れた。閃光弾だ。瞼だけでは躱しきれなかった強過ぎる光に目眩がした。それでも方向だけは間違わず、近江は走り出す。右足の痛みに揺らぐと、誰かが腕を引いた。
「懐かしい手を使ってくれるじゃねぇか」
激しい明暗の変化に開くことの出来ない瞼の向こうで、ペリドットは笑っているような気がした。
彼と初めて会った時、敵から逃れる為に使った手だ。近江の指笛は閃光弾の合図。
「お前は、本当に変わらねぇなあ」
ペリドットが言った。暫く走った先で、近江は壁に背を預けた。右足を庇う奇妙な走り方は左足への余計な負担が掛かってしまう。
懐から包帯を取り出したペリドットが慣れた手付きで応急処置として止血した。
「閃光弾を使う殺し屋は珍しいぜ。最近はどいつもこいつも手榴弾一発で終わらせようとするのによ」
「爆弾は嫌いなんだ」
息を弾ませる近江のポケットには恐らく、先程の閃光弾のような所謂、非致死性兵器が幾つも隠されているのだろう。
「それより」
近江が言った。
「あいつ等、軍人か?」
「多分な。……俺達を始末しに来たのさ」
国家権力は理不尽だな、と近江は溜息を零した。ペリドットは言う。
「お前がした劇場爆破はテロとして取られてるからな」
「あれは俺じゃねえ。神藤がしたことだ。国の指令でなく勝手に動いたお前が処罰されるのは一向に構わねえが、関係無い俺を巻き込まないでくれよ」
「どちらでも同じことさ。あいつ等の目的は、バンシーだろうから」
「バンシーはもうこの世には存在しない。説得して来てくれ」
近江の言葉に、苦笑してペリドットは首を振った。
「その前に蜂の巣になっちまうぜ」
「この国も腐ったもんだな。最悪の生物兵器を手に入れる為に、テロリストの仕業に見せ掛けて仲間まで殺しやがるんだから」
あの劇場の三階席で殺されていた警官達は、恐らく先程の軍人に殺されたのだろう。全てはバンシーを手に入れる為に。
「大義の為なんて名義があれば、殺人も正当化されるのかよ。馬鹿馬鹿しいぜ」
近江はそう言ったと同時に、那生の言葉を思い出した。誰かの犠牲の上に成り立つ社会など認めないと、那生は言った。
それは綺麗事だと思うし、仕方がないことだとも知っている。所詮、この世は弱肉強食。殺し屋なんて商売をしている自分は人の命を餌に生きている人間だ。けれど、近江は思ったのだ。
平然と、胸を張ってあんな青臭い綺麗事を語れる人間がいる。当たり前のように、国民を守る為に、国家の為にその身を晒す人間がいる。
「とんずらするか?」
ペリドットが馬鹿にするように、口角を釣り上げて言った。だが、近江は首を振った。
「知ってるか? ハヤブサは王様なんだぜ」
子どものような得意気な顔で、近江は言った。背後より再び接近する敵の気配に焦ることなく、近江はただ笑っている。長いものには巻かれろの精神でいる臆病者ことチキン・テツとは別人だ。
近江の何の脈絡も無い言葉にペリドットは返す言葉を探した。けれど、近江は笑いながら言うのだ。
「ハヤブサは自分自身の王様なんだぜ。だから、誰にも従わないし、支配されない。俺にルールを押し付ける気なら、そのルールごと粉砕してやる」
ゆっくりと壁から背を起こし、銃を取り出した。
下水道の曲がり角から、押し殺された無数の足音が迫っている。近江は撃鉄を起こした。同様にペリドットが息を殺して構える。
あと3秒……2……1……。
角から飛び出し、近江は銃弾を放った。先頭の男の赤外線スコープが音を立てて割れた。崩れ落ちる男の背後で銃口が向けられる。絶命した男が膝を着く刹那、ペリドットのワルサーPPKが吼える。
サイレンサーだろうか。敵の放った銃弾は声を上げず足元で爆ぜた。
風のように敵の群れを通り抜ける近江に銃弾など掠りもしない。耳元で聞こえるのは心地好い風を切る音だけだ。後方の男がポケットから何かを取り出す。敵は一様にマスクをしているが、それは顔を見られないようにする為だけではないだろう。
毒ガスか?
容器が爆ぜる前に男を撃ち抜こうと近江が銃口を向けるより早く、ペリドットの9mmマカロフ弾がその脳を破壊していた。最早、夜目が利くとか、視界が広いとか、そんな問題ではない。まるで此方の思考が、呼吸をするのと同じように通じ合っているのだ。
背を向けながら、ペリドットを狙う男の後頭部に風穴を空けた。断末魔すら残させない。金色の瞳が妖しく光り、残像を闇に走らせる。能面のような無表情で、目にも止まらない速度で闇を駆け抜ける。緑の瞳が輝く。
敵は十五人。近江のベレッタM92の装弾数は十五発だ。闇に此方の姿を見失った哀れな敵の肋骨を避けて心臓を貫けば、後方の男の脳天に穴が空いた。
ペリドットと出会った頃、自分は未熟だった。逃げ回ることで精一杯だったが、今はこれだけの敵を前にしても怯むこともなければ逃げる気も起きない。ランナーズハイだ。自覚して笑いそうになる。今ならきっと、神様だって味方するだろう。
その時、突然、視界は白く染まった。一瞬、閃光弾かと思った。
だが、その光に誰より早く目が慣れた近江はすぐに全てを悟った。光に目を眩ませたペリドットの腕を取って、闇に向かって走り出す。
『武器を捨てろ!』
低い男の声だ。強力な発行装置の前で、拡声機で叫ぶのは警官だろう。
闇に逃げ込もうとした近江は足を止めた。進行方向からの強力なフラッシュ。舌打ちが漏れる。随分と手際が良いじゃないか。
『無駄だ!』
女の声。聞いたことがある。
光の中に立つのは、那生だ。恩を仇で返しやがって、と悪態吐きながら肘で顔を隠す。
『お前達は完全に包囲されている』
馬鹿馬鹿しい。こんな茶番に付き合ってられるか。
横目に流れる下水を確認し、溜息を零す。これでは、溝鼠と同じだな。
『投降しろ!』
那生が声を張り上げた。この女は、死にたいのだろうか。
ポケットから小さな缶を取り出す。
「バーカ、お前の命令なんざ聞かねぇよ!」
捨て台詞と共に缶を叩き付ければ、狭い回廊は白煙に包まれた。ペリドットの腕を取ったまま、一瞬躊躇われたが下水に飛び込んだ。汚水だ。嘔吐しそうになる。
動揺する警察と軍人等の声も遠く、近江はペリドットを連れて早々に戦線を離脱した。
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