数時間前までは澄み渡っていた筈の青空は、一切の光を通さない鉛色の分厚い雲に覆われてしまっている。まだ真夏の太陽が燦燦と輝いている時刻だというのに時折凍えるような寒風が吹き付け、濃霧に包まれた町は死んだように静まり返っていた。
 K市を取り囲むようにサイレンは不吉に鳴り響き、昼間の町中をガスマスクを装着した男達が闊歩している。死の色に染まった彼方此方の道路では車が衝突して黒煙を立ち昇らせ、横たわる人々は赤黒い血液を吐き出していた。
 ガスマスクを装着した男はこの国の自衛隊である。呼吸の度に空気の抜けるような不気味な音を発しながら生存者の有無を数時間に渡り、最早機械的に繰り返している。町は死の臭いに包まれ、音といえば瓦礫と化した建物の崩壊する轟音くらいのものだった。
 世界規模にまで広がる国際犯罪組織『GODLESS』による人類史上類を見ない最悪のウイルステロが発生したのは昨日、まだ太陽が頂上に昇り切らない昼前の事だった。蒸し暑い空気を裂くような音と共に神の名を持つ細菌兵器『Hades』は粉雪のように風に乗って降り注ぎ、平和な日常を営む町をあっという間に地獄絵図へと変えた。
 細菌兵器の詳細については現在のところ気道粘膜から感染し、激しい眩暈・嘔吐感と共に融解した内臓を吐き出して死に至る事が解っている。感染者の肌は荒地のように乾き罅割れ、有効な手立ても無いまま、既に百万人以上の罪無き住民達が同一の症状を起こして死亡している。生存者は未だ見つかってはいない。
 細菌の勢力は衰える事を知らず、周囲の町にも被害は広まり何千万という人々が遠くまで避難していた。この地域にいるのは国から派遣された完全防備の仲間だけである。
 自衛隊員は心身共に酷く疲れていた。救う筈だった市民の遺体を無言で運び続け、返事の無い呼び掛けを繰り返し、一種の催眠のような無線からの絶望的な報告を黙って聞いている。遣り切れない思いは背中に圧し掛かり更なる疲れを促進させた。風呂上りのビールではとても癒す事は出来ないだろう。
 何度も呼び掛け続けているせいで声が嗄れ始めて喉を押さえながら軽く咳き込んだ時、横並びになっていた仲間が一様に「あっ」と声を上げた。男は釣られて顔を上げた。白く濁った視界の中にぼんやりと薄い人影が浮んでいる。
 人影はだんだんと濃くなり、やがて自衛隊員達の前に姿を現した。若い、恐らくは中学生程の少年である。完全防備の自衛隊員達に比べ、少年は何処で拾ったのか深緑のガスマスクを装着しているのみだった。着崩した黒い学ランは煤か何かで白っぽく汚れ、肩には傷だらけの鞄が掛けられている。
 少年は自衛隊員達を前にしても特別な行動を取る事も無く冷静に一歩ずつ距離を縮め、あと数メートルというところで足を止めた。ガスマスクの下で何か言っているようだが、くぐもっていて男には聞き取れない。だが、男は少年が抱えているものに目を奪われていた。
 灰色の帽子と水色の汚れたスモッグを身に着けた幼稚園児らしきお下げの少女だった。顔には不釣合いなガスマスクが宛がわれている。少年の腕には幼稚園児のものらしき菜の花色の鞄がぶら下がっていた。
 男が駆け寄ると、少年は抱えていた少女を黄色い鞄と共に押し付けた。驚きつつも咄嗟に受け取り、見れば少女は穏やかに胸を上下させ眠っているようだった。
 仲間の荒げた声で顔を上げると、濃霧の向こうに消えて行こうとする少年の背中が見える。男は叫んだ。

「待ちたまえ!」

 ガスマスクを通しているが、声はどうにか形となって届いたらしい。少年は学ランを翻すようにして振り返ると人差し指を向けた。どうやら男を指差しているのではなく、少女の事を指しているらしい。少年は後ろ向きに歩きながら言う。

「その子はまだ感染していない筈だからさ、守ってやってよ」
「君の名前は……」

 数秒の沈黙の後、少年は静かに答えた。

「――サ」
「えっ」

 声は掠れるようで届かない。だが、大声に気付いて目を覚ましたのか少女が薄く目を開ける。そして、霧の向こうに消えようとする少年の代わりにその名を言った。

「ハヤブサ」

 再び目を戻した男の視界に少年は既にいなかった。雲の中に迷い込んだような濃霧は晴れず、慌てて仲間が後を追ったが結局少年を見つける事は出来なかった。
 その後帰還した男達を待っていたのは疲労を加速させるだけの数字の情報。上官の告げる『生存者無し』という感情の篭らない報告。しかし、男は言った。

「生存者なら、います」

 男は腕の中で再び眠りについた少女を示す。精密検査は必要だろうが、穏やかな呼吸を見る限り少年の言っていた通り感染していないのだろう。
 後日、このテロは国境を越えて大々的に報道される事になる。死者は既に百五十万人を越える未曾有の大惨事となり、中心部のK市を含む無数の町が死滅した。ICUで死を待つだけの感染者が数千。だが、その中で僅か一人が奇跡と称えられ生き残った。

 結局、『ハヤブサ』と名乗った少年は生死不明のまま依然として見つかっていない。






Falcon

1、臆病者






 丑三つ時に差し掛かろうかという首都圏某地区は妖しく光るネオンの輝きの下、昼間の活気を殆ど失わぬままに誰もが活動している。横断歩道を行き来する若者の群れはまるで小さな虫の大群のようだった。
 賑やかな界隈を見下すように聳え立つ高層ビルの屋上には初夏の風が痛い程に吹き付け、生暖かい空気さえも何処か遠くまで運んでしまう。数秒と目を開けていれば立ち所に乾いてしまう筈なのだが、大きな白い眼帯を着けた近江哲哉は左目で瞬きもせずに正面に位置する高級ホテルを睨み付けたまま微動だにしない。
 ホテルの最上階は一泊で数十万の大金が動く所謂スイートルームで、町が一望出来るであろう壁一面に嵌め込まれた大きな窓には白く滑らかなカーテンに覆われ、隙間からは橙色の光が零れている。カーテン越しに輪郭のはっきりしない影が浮び、時折僅かな隙間から太った中年男の脂の乗った顔が見える。近江はゆるりと懐に手を突っ込んで一枚の写真を取り出す。写真の中にはスーツ姿で黒い革張りの椅子に座るあの中年男の横顔が隠し撮りされたらしく花瓶の影から映されている。一瞬しか見る事の出来ない男を見比べ、同一人物である事を確認すると近江は可笑しそうに口角を吊り上げた。
 写真を握り潰し、ファミレスで貰った何の変哲も無いマッチで火を放つ。写真は赤い火をを吹きながら闇に染まり、最後は燃え滓となって強風と共に虚空へと吸い込まれて行った。
 近江は再び懐に手を伸ばす。取り出したのは重厚な光沢を放つ黒い鉄の塊、一丁の銃だった。左手に握った銃の照準を向かいのホテルのカーテンの僅かな隙間に合わせ、撃鉄を起こすと引金に指を掛けて一秒にも満たないであろう刹那の瞬間を待つ。
 穏やかな時間の経過がジリジリと背を焦がすような焦燥感となって訪れる。橙の光に照らされた薄い影を待つ左手は死に絶えたように動かず、無造作に下げた右手の腕時計から微かな秒針の足音が聞こえた。そして、影が姿を晒す刹那。近江は人差し指に力を込めた。
 パシュッ。
 殺された銃声が鳴った数瞬後、窓硝子には蜘蛛の巣状の罅が広がった。彷徨していた姿がゆっくりと倒れる。直線距離にして数百メートル離れているというのにその倒れる音が耳に届いたような気がした。
 仕事終了。
 何処からともなく聞こえて来そうな拍手を脳内だけに留め、余韻に浸る事もせずに素早く自分が存在した痕跡が残っていないか確認する。全ての確認を終え、銃を懐に仕舞うと顔を上げた。鉛色雲が浮ぶ空、星は街の光に負けて姿を消している。だが、何の風情も無いこの空の下こそが近江達、所謂『殺し屋』と呼ばれる人間達の生きる世界だ。
 大きく背伸びすると背骨が乾いた音を立てる。強風に煽られた黒いスーツが風に揺れ、ゴムが緩いのか下がる眼帯をいつもの定位置に戻した。柄にも無く隙だらけになった瞬間、脳内だけに響いていた筈の拍手は突然現実のものとなった。何処からか響く単発の乾いた音が腐った空に反響する。近江は猫のように素早く物陰に身を隠し、早鐘に成り果てた心臓をシャツの上から押さえながら音源の方向に意識を向けた。
 近江が相手の出方を窺っていると拍手は止み、代わりに大きなクリーム色の貯水槽の影から抜け出したような細い影が一つ現れる。薄暗い月明かりだったが、職業柄夜目の利く近江にはその姿がはっきりと見えた。
 十代後半か二十代前半か。汚染された空を背景に取ったすっと背の高い少女は一つの絵のようだった。黒い今風のワンピースが風を孕んで膨らんでは形を崩し、バタバタと耳障りな音を立てる。
 何故。
 呟こうとした声は無音の二酸化炭素へと変えられ、焦りからか眩暈を覚えた。少女の美しく、何処か儚げな笑顔が網膜に焼き付く。耳に栓をするような強風の中、少女の細い声が聞こえる。

「殺し屋さん?」

 近江は答えない。
 見られてしまった。頭を抱えたいくらいの気持ちだったが、事実を書き替える事はもう出来ない。代わりに残酷な選択肢が幾つか浮んだ。
 少女は中々姿を現さない近江に苛立ったように目を険しくさせて一歩ずつ近付いて行く。焦ったのは近江だった。

「何なんだよ、お前は!」
「クライアント」
「な、に――?」

 意に介さない少女の言葉に対して近江の声は掠れていた。微塵も臆す様子を見せない少女は目の前に立つ。夜風に舞う艶やかな長い黒髪が印象的だった。雲間から覗いた密色の半月が照らす顔は透き通るように白く、細い手足は触れるだけで折れてしまうのではないかと思う程に華奢に見える。だが、凛と佇む黒々とした双眸は容姿から醸し出される全ての弱さを否定する力強さが垣間見られた。
 少女は風に泳ぐ髪を押さえ、段差の上から影に隠れる近江を覗くように言う。

「あなた、殺し屋でしょ? ホテルから見えたから、もしかしてって思って来てみたらやっぱりそうじゃない。ねぇ、お願いがあるんだけど」
「大人はガキに付き合う程暇じゃないんだ。いいから、どっか行けよ」

 放逐するように手を払い、近江はゆっくりと立ち上がった。数十秒前まで頭に浮んでいた残酷な選択肢は既に消えている。こんな少女が騒いだところで同情の眼差しを向けられるのが今の世の中だ。
 目の前であからさまに不満に満ちた表情を向ける少女を無視し、さっさと逃げようと唯一の出入り口に向かって歩き出す。だが、銀色に光るドアノブに動く気配があった。近江は素早く先程の物陰に身を伏せ、少女の手を強く引いた。少女は非難の声を上げようとしたが、扉がゆっくりと開いた事に気付いて息を呑んだ。
 現れたのは近江と似通った姿の男数人。黒スーツ・黒ネクタイ・サングラス。いかにも怪しい姿に心の中だけでツッコミを入れ、明らかに堅気ではない連中の様子を観察する。どうやら三対三になっている二つのグループの怪しげな取引現場に出くわしてしまったらしい。近江が自分の運の悪さを呪っている横で少女は食い入るように取引を見詰めていた。
 黒いアタッシュケースが渡され、中身を確認したところで今度は別のアタッシュケースを返す。中身は目が眩むような金なのだろう。近江は六人の顔ぶれを見て溜息を吐く。先にアタッシュケースを渡したグループの一人に見覚えがあった。

「目黒かよ……」

 呟くと隣りの少女が首を傾げる。頭を掻き毟りたい衝動に駆られたが、実行に移す事は無く声を潜めて言った。

「名の知れた同業者だよ」

 近江の隻眼は目黒を捉えている。頬に大きな傷を持った大柄で色黒の男で、髪はきっちりと刈り上げられている。懐には銃が収まっているだろうし、他の場所にも無数の武器が隠されている事だろう。
 本当はすぐにでも逃げ出したかったが、出口は彼等の傍にしかないのでこのまま遣り過ごす事にする。非合法の取引現場が珍しいのか少女は目を離さないし、こんなところが見つかったら命はまず無いだろう。
 取引は、先に渡ったアタッシュケースの中身を再び確認しているところだった。中には無数の小瓶。中身について様々な思考を巡らせるが、近江は目黒の存在を確認した時点でその正体に気付き始めていた。

「俺達……って言うか俺、今日は運が悪かったな。まさか、こんな場所で取引してるとは思わなかったぜ」
「あいつ等が何か知ってるの?」
「ああ、見ろよ。ありゃ、Hadesの死菌だ」

 少女が息を呑んだ。
 GODLESSによるウイルステロから既に十二年の月日が経過しているが、ばら撒かれた細菌兵器Hadesの特効薬は未だ開発されていない。研究にも危険が伴い、先月には軽度だった筈の感染者が死んだと報道されていた。
 世界中が躍起になって研究しているHadesの死菌を手に入れる方法は僅かだ。自力か、頼るか。後者の場合、相手は一つしかない。

「Hadesの死菌なんざ取引出来るグループは一つしか無ェよ。あいつ等は」

 壁に凭れ掛かっている近江の言葉が途中で遮られた。少女は、我を忘れたように立ち叫び声を上げる。

「――GODLESS!!」
「馬鹿!」

 近江はすぐさま少女の口を塞いだが、声に驚いた男達は一斉に懐に手を伸ばして銃を取り出す。我を忘れて叫びたいのは近江も同じだった。
 無数の乾いた音を避けるように物陰に隠れる。耳元でコンクリートが爆ぜ、少女を抱えて身を固めた。向こう側から「回り込め」という指示が聞こえるが、銃声の嵐の中では身動き一つ出来ない。鼓膜が張り裂けるように痛み、気休めに右耳を塞いだ。

(恐ェ!)

 悲鳴を上げたい衝動さえも呑み込む恐怖。
 耳が慣れたところで脱出しようと物陰に隠れたまま立ち上がった。近江は震えながら自分に縋り付く少女を睨み付けたが、説教等していたら一瞬で蜂の巣になるだろう。キュ、と踵を返そうとした瞬間、強烈な殺気が胸を突き抜けた。
 目の端に黒いスーツ姿が映るよりも早く、反射的に膝が折れた。発砲、銃弾が上に流れた髪の中を通り過ぎる。近江はそのまま後ろに倒れ込むが、どうにか懐から銃を取り出して自分を見下す目黒に銃を向ける事に成功した。しかし、向けられる銃は一つではない。
 近江は目黒にだけ目を向けた。夜だというのにサングラス。闇に溶けるレンズの向こうの双眸が狂気に歪んでいるのが解った。目黒は近江に銃を向けながら、その背中に隠されている少女に目を向けて言う。

「こんなところでデートかい? ムードなんか作らず公園でも行けば良かったのになァ」
「空気を読めない男はモテないもんさ。公園なんざガキのスポットだろ。大人はもっとこう、頭使って行動しなきゃならないの」

 なるべく平静を保って言ったつもりだったが、目黒が喉を鳴らして笑うので声は震えていたのかも知れない。向けられる無数の銃口、逃げ場は無い。
 近江は頬を伝う汗を拭って呼吸を整える。緊張と恐怖が混ざった頭では碌な考えは浮かばない。だが、絶体絶命の状況にありながらも背後から聞こえる少女の心臓の音が聞こえて頭が少しだけ冷えた。目黒はサングラスを少し上げ、目を細くして近江の顔をまじまじと見詰める。

「何処かで見た顔だと思ったら……その眼帯。お前、テツじゃねぇのか?」

 クッと目黒が笑う。そして、少女の方を見た。

「こんなチキン野郎に引っ掛かっちまうとは運が悪かったねェ」

 近江は言葉には反応せずにゆっくりと後退さる。目黒の銃は近江の眉間を狙いゆっくりと追うように動かされていた。
 銃を捨てろと言うように目黒が顎でしゃくり、近江は引き攣った笑いを浮かべる。何処かから死へのカウントダウンが聞こえるような気がした。銃を置く素振りを見せながら更に後退さると、欄干に少女の足がぶつかった。これ以上下がれない事を確認するよう近江もそっと欄干の向こうを覗き込む。
 眩暈がする程の高層ビルには風が吹き付け、遥か下で蠢く車や人が塵のように見えた。
 追い詰められた二人を取り囲むスーツの男達。銃を持ったまま両手を上げる近江の背中を少女が叩いた。

「あんた殺し屋なんでしょ! 何とかしてよ!」
「出来るかァ! 俺なんかまだまだひよっこなんだよ! 大体、殺し屋が人助けってどういう……」

 囁きながら言い争う二人だが、ずらりと向けられた銃がそれぞれ撃鉄を起こす音ですぐに目を戻した。誤魔化すような薄笑いを浮かべる近江を見ながら目黒は口角を吊り上げる。

「殺し屋の恥曝しめ……。丁度良い、ここで終わらせてやる」

 目黒の声を聞きつつ、近江は欄干に手を掛けた。

「いやいや、俺の物語はまだ序章だから。プロローグで終わる話なんて無いでしょ」

 そう言い切った瞬間、近江は左手に銃を持ったまま少女を抱えて欄干を一気に飛び越えた。銃を向けていた男達は動揺したが、目黒は表情一つ変える事無く引金を引いた。乾いた音が響き、放たれた銃弾は近江の頬を掠めて血を滲ませる。
 足元から風が吹き上げているようだった。強烈な浮遊感に胃の中身が引っ繰り返る。隻眼に白くくすんだビルの塗装が映り、上からは追い討ちを掛けるように銃声が鳴り響く。鼓膜が破けそうな少女の甲高い悲鳴を聞きながら近江は開け放された窓の縁に右手を伸ばした。手が掛かった瞬間、落下を始めていた体はガクリと急停止する。
 窓の中に少女を投げ込み、一息吐こうとした瞬間に銃弾が革靴の底を掠めたので慌てて中へと飛び込んだ。
 外の騒がしい銃撃戦とは打って変わって真夜中のビル内部は不気味に静まり返り、二人の荒い呼吸が廊下に反響する。屋上から声が聞こえるので座り込んでいる少女の腕を引いた。

「逃げるぞ」

 少女は膝に手を置いて立ち上がり、ゆっくりと呼吸を整える。近江は既に先を歩き始め、苛立ったように頭を掻きながら言う。

「ったく、面倒な事しやがって!」

 独り言のように文句を言い続ける近江の背中を少女は追い、心の中で文句を言いたいのはこっちも同じだと悪態吐いた。





 近江は少女を連れ、終電を乗り継いで首都圏から離れた一軒の小さな喫茶店の扉を押し開けた。薄暗い店内には静かで甘いメロディが流れ、同時に珈琲の香りが鼻腔を突く。点在する客達は新たな存在の侵入を確認し、すぐに興味も無さげにそれぞれ目を戻してしまう。
 居辛い空気が深い珈琲の香りと共に充満している。近江は立ち往生している少女には気も留めずカウンター席中央の背凭れに上着を掛けて座る。すぐにカウンターの奥から店員らしきバンダナを巻いた眼鏡の若い女性が現れ、荒々しく音を立てて近江の前に色褪せたマグカップを置いた。

「随分と遅かったね」

 白木彩子は煙草に火を灯し、白い煙を近江に吹き付けながら言った。顔には悪童のような笑顔が浮び、声を立てて笑う度に後ろで一つに纏めた薄茶のパーマ掛かった髪が揺れる。
 近江は眉を寄せて掌で煙を散らし、珈琲を口に運んだ。長時間放置されていたらしく目が覚めるような苦味が口一杯に広がり、仕方なくマグカップを下ろす。彩子はその反応を待っていたかのように笑い、今度は扉の前で立ち尽くす少女に目を向けた。

「あの子は?」

 近江は不機嫌そうに視線を横へ投げ出し、舌打ち混じりに「その原因だよ」と答える。だが、彩子はどうでも良さそうに「へぇ」と気の抜けた声を返して煙草の煙を近江に向かって吐き出す。咽返る近江も無視し、彩子は声を掛けた。

「こっちに来て座ったら? 珈琲くらいなら出すよ」

 少女は少し戸惑っていたが、遠慮がちに足を踏み出し、一歩ずつ近付いてカウンター席の椅子を引いた。椅子の脚が床と擦れて耳障りな音を立て、近江は眉を寄せて珈琲を再び口に運んだ。当然苦いので眉間の皺は更に深くなった。
 近江から二つ離れた席に座った少女の前に彩子は清潔感のある白いカップを置く。漂う香りは自分に出されたものとは天と地程に違うが、近江は敢えて何も言わずに隻眼を細めて彩子を睨んだ。しかし、彩子は何の反応も見せずに話の続きを急かす。

「それで、どうしたの?」
「GODLESSの取引現場に出会しちまった」
「ドジ」

 彩子は煙草を指に挟みながらころころと笑った。近江は溜息を吐き、マグカップの中を覗く。夜の闇のように暗い茶の液体には疲れた自分の顔が映っている。眼帯は白いままだが、左頬には擦傷が出来ていた。近江は独り言のように言う。

「……目黒がいたんだ」

 言葉を発した瞬間、店内にいた客全員が一斉に近江の背中を見た。彼方此方でカップが乱雑に置かれ、中には珈琲を零した者もいる。少女はそれを見て怪訝そうに眉を寄せ、少し離れた先の眼帯に覆われた横顔に目を遣った。
 近江が顔を上げると、煙草から灰が落ちそうになっている事も気付かない彩子がいた。そして、溜息を零す。
 店内には奇妙な静寂が流れていた。状況に取り残された少女は黙り込んでしまったそれぞれに視線を泳がせ、一人悠々と煙草に火を点け始めた近江に訊く。

「その人が何なの?」

 近江は静かに煙草を吸い、ゆっくりと煙を吐き出した。暗い店内に揺れる紫煙は一筋の飛行機雲のようだった。彩子は一度咳き込み、灰が落ちそうになっていた煙草を灰皿に押し付ける。
 数秒前までは余裕綽々といった様子だったにも関わらず答える様子の無い彩子から目を戻し、少女が首を傾げると、それまでぷかぷかと煙草を吸っていた近江は言った。

「殺し屋稼業やってるやつで、目黒を知らないやつはいねェ。死神の異名を持つ男だ。……あー、畜生!」

 近江は癇癪を起こしたように頭を掻き毟る。脳裏には数刻前の逃亡劇が鮮明に思い出され、今度は額を押さえながらがっくりと項垂れた。
 店内の奇妙な空気は元に戻りつつあるが、やはりどの客も背中を丸めた近江を窺っている。少女は冷静だったが、小馬鹿にするように肩を竦めて言った。

「馬鹿みたい」
「何?」

 すぐに席を立った近江が食って掛かるが、少女は気に留めずに誰もいないカウンター奥の闇を睨み付けている。カウンター越しに彩子が馬か何かを相手にするように近江を押さえる。
 少女は目も向けずに言う。

「あんた、何ビビってんのよ。それでも殺し屋?」
「ちょ、おい、お前。それが目上の人に対する言葉遣いか? お父さんやお母さんに敬語習わなかったのか?」
「こそこそ逃げ回ってさ。こんなチキン野郎だったなんて、ついてないわ」
「おい、無視か? 完全に無視の方向か?」

 尽く無視され、近江は煙草を灰皿に押し付けて舌打ちする。

「大体、お前があの時に声を上げなかったら逃げる必要なんか無かったんだよ!」
「結局は隠れたままだったんでしょ。何で撃たなかったのよ」
「撃てるかァ!」
「まァまァ」

 彩子は近江を押さえつつ、拗ねるような少女の横顔に目を遣った。

「あたしは白木彩子。喫茶店のオーナーで情報屋もやってるから、何かあったら力になるわよ。今なら安くしとくわ。それで、あなたの名前は?」

 少女は少しだけ顔を向け、尖らせた口で呟くように答えた。

「藍澤ヒナ」

 近江は彩子の腕を振り払い、音を立てて座り直した。テーブルにぶつかったのでマグカップが揺れ、中の珈琲に波が立つ。近江はそっぽを向いてしまった。
 険悪な空気が流れるカウンター席に目を向ける物好きな人間は彩子を除いて他にはいない。その変わり者は近江が落ち付いたのを見計らってから再び煙草に火を点けた。
 煙草を再び咥え、吸い込んだ煙を吐き出す。彩子は仏頂面の近江を見て笑った。

「こいつは近江哲哉。あたし達はテツって呼んでる」

 その時、何処かのテーブルから声が飛んだ。

「『チキン・テツ』って言えば知らねェやつァいねーよ!」

 途端に皆が笑ったので空気がざわめくように揺れた。近江は舌打ちし、振り返って怒鳴るが何の効果も無い。ヒナが声を潜めて意味を問うと、彩子はやはり笑いながら言った。

「逃げ足ばかりが滅法早い小鳥ちゃんなの」
「彩子!」

 身を乗り出して怒鳴る近江を見てヒナは盛大に溜息を吐いた。

「その小鳥ちゃんが何で殺し屋なんかやってるのよ」
「決まってんだろ」

 表情を消し去った近江は席を立ち、背凭れに掛けていた上着を羽織る。そして、ヒナに冷ややかな目を向けながら吐き捨てるように言った。

「世の中、金さ」

 ヒナは背中を何か冷たいものが這うような感覚に襲われて硬直した。何も言わずにカウンターの奥に近江が消え、漸く解放されたようにヒナは息を吐く。喉の奥が縮まったのか窮屈そうな音が鳴った。
 他の客が消えた近江を嘲笑う声が現実離れして聞こえ、異質な温度差にヒナは底知れぬ恐怖を感じて身震いする。
 動きを止めてしまっているヒナを横目に彩子は腕時計を確認した。午前二時半。彩子は数回手を打ち鳴らしながら店中に届くよう声高に言った。

「今日はもう閉店だよ!」

 すると、彼方此方から不満げな声と共に椅子の動く音がした。客達はぞろぞろとカウンターに立ち寄って適当な金を置き、扉の向こうに広がる闇の中に消えて行く。出遅れたヒナも慌てて立ち上がった。彩子は人の良さそうな笑顔を浮かべた。

「今夜は何処に泊まるの?」
「えっと、これから……」
「良かったらうちに泊まって行く? こんな時間じゃあ殆ど空いてないでしょ」

 でも、とヒナが渋ると彩子は言った。

「部屋なら沢山あるし、テツも居候みたいなもんよ。気にしなくていいわ」
「じゃあ、一晩だけお願いします」

 ヒナは頭を下げた。