ヒナは白い靄の中を歩いていた。 何処まで行っても人の気配は無く、視界は依然として悪いまま音の死んだ世界は十二年前のウイルステロを彷彿とさせた。K市を思い出すと本当に血液の鉄臭さが辺りに充満し、彼方此方から崩壊の狂想曲が聞こえて来るような気がする。 だが、白い靄は晴れない。前に伸ばした腕の先は既に白に呑み込まれようとしていた。ヒナはもう片方の腕も同じように伸ばそうとして、その右手が何かを握っている事に気付いた。血の気が失せて生白いが、かっちりとした男の掌があった。男はヒナの小さな手をぐいぐい引いて前に進んで行く。ヒナは強い引力と共に息苦しさを感じ、口に手を当てようとして何か固い物に触れた。仮面のようなガスマスクが装着されている。 これは、あの日の再現なのだ。ヒナが気付いた時、男は足を止めた。正面にガスマスクを装着した学ランの少年が靄の中で浮き上がるように立っている。少年は傍に駆け寄ってヒナと目を合わせるように片膝を着いて言った。 「とんでもない事に巻き込まれちまったな」 憐れみを含んだ口調だった。 それまで手を引いていた男の湿った掌がゆっくりと解かれる。解放された右手は外気に触れて冷たくなった。ヒナは自分の手が赤く染まっている事に気付いた。滲んでいるのは汗ではなく、夥しい量の血液だったのだ。 少年は血塗れのヒナの右手を握る。大人に成り掛けている掌はまだ幼さを残し、指一本一本が少女のように細かった。ヒナは少し離れて見ている男に目を移す。男は少年に目を向け、くぐもった声で言った。 「そんな顔をするな。ハヤブサは最速のヒットマンなんだぜ?」 「解ってる」 男は震える声で言う少年の頭を撫でた。 「じゃあな、頑張れよ」 男は背中を向けた。黒い背広は汚れ、コンクリートには足跡代わりに血液がぽつぽつと残っている。少年は小さくなる背中を見詰めながら、消え入りそうな声で呟いた。 「……親父……」 声は届かず、男は振り返らない。黒い背中が靄の中に溶けるまで見届けると少年はヒナの手を引いて歩き出した。 少年の手は震えていたが、その時のヒナは自分の事さえ解らなかった。だから、マスクの下に響く声で訊く。 「お母さん、どうしたのかなぁ」 ヒナの脳裏には母親の最後が思い出されている。幼稚園の帰り道、霧の出始めた市中で小走りに手を引く母親は突然喉を押さえ、口から赤黒い血液を吐き出した。ヒナがうつ伏せに倒れた母親の死体の傍で泣いていると、突然後ろから顔に大きなマスクを当てられたのだ。それから、あの男は泣きじゃくるヒナの手を引きながら力強く励まし続けた。そして、駅前の大通りに差し掛かった瞬間頭上から何か弾ける音が響いた。男は咄嗟にヒナを腕の中に入れ、眉を寄せた。ヒナを庇った右腕からは血が滴り落ちている。男はヒナを抱え上げると走り出したが、あの音は何処までも追って来た。入り組んだ路地裏を駆け回って追跡者を撒くとヒナを下ろし、再び手を引いて歩き出したのだ。 少年は足を止めてしゃがみ込み、真っ直ぐにヒナを見詰めた。ガスマスクの丸い二つの窓の奥は暗く見えない。少年は言った。 「君は生き残ったんだ。お母さんの分まで、生きるんだよ」 「お兄ちゃん、だぁれ?」 「俺は――……」 少年は項垂れて暫しの間黙った。遠く聞こえる崩壊とあの弾ける音。ヒナの体は無意識に強張り、足からは力が抜けて座り込んでしまった。少年はそんなヒナを抱えて言う。 「俺は、ハヤブサ」 少年は走り出した。だんだんと薄れて行く意識と景色の中で少年の声はやはり震えているようだった。 「君は俺が守る。何処に居ても必ず、守るから」 その時、弾ける音が断末魔のように遠く尾を引いて聞こえた。頭上から微かに漏れる嗚咽を聞きながら、ヒナはゆっくりと瞼を下ろした。 |
2、生存者
紺色が広がった中、星が鏤められた硝子片のように煌いている。 深夜の喫茶店の屋上には夏といえども夜には冷たい風が吹き付け、一人欄干に手を掛けて空を見上げているヒナの髪を揺らす。ひっそりと静まり返った市中に人影は無く、時折吹き付ける夜風が木々をざわめかせた。ヒナは風に泳ぐ髪を押さえながら視線を下ろし、街頭一つ無い闇に沈んだ町中に目を遣る。遠く聞こえる野良犬の遠吠えに耳を澄まし、殆ど音の死んだ世界の声を拾おうと努めた。 カチャリ。 背中を向けた扉の金具の微かな音が聞こえたが、ヒナは振り返らなかった。近江は少しだけ驚いたように左目を瞬かせるが、反応も見せないヒナを見て怪訝そうに首を傾げつつ反対側の欄干に凭れ掛かりながらずるずると腰を下ろす。そして、徐に懐のポケットから煙草を取り出し、火が点き易いように掌で風を遮って光を灯した。 「こんな時間に何してんだ。子供はとっくに寝る時間だぜ」 返って来ない答えも気にせず、近江は上に吐き出した煙が崩れて行く様を見ながら思い出したように訊く。 「お前はどうしてあの時屋上に来たんだ?」 「……あんたの姿が見えたから」 「嘘だな」 鼻を鳴らし、近江は言う。 「俺がそんなヘマする訳無いだろ。あの場所はさ、全てに置いて死角になってるんだ。……まぁ、だからGODLESSのやつ等も取引に使ったんだろうけど」 自嘲の笑いを漏らしながら近江は煙を吐く。浮ぶ紫煙は風に乗って遠く闇の中に消えて行く。何気無く銃弾が掠めた頬の傷を撫でると、既に瘡蓋になろうとしていた。長い沈黙が流れるが不快には感じられない。穏やかな夜だった。 近江は煙草を指に挟んで更に質問を重ねる。 「お前の目的は何だ? 誰を殺して欲しかったんだ」 ヒナは質問には答えず、ゆっくりと口を開いた。 「ハヤブサと呼ばれる殺し屋を知ってる?」 近江は吐き出しかけた煙を一瞬口内に留め、間を置いてから吐き出した。口の中に広がる苦味に眉を寄せ、短くなった煙草を床に押し付ける。 「ハヤブサっていうと、最速のヒットマンの事だな。ただの都市伝説じゃねェか」 「都市伝説なんかじゃない」 「へぇ?」 「あたしは、ハヤブサに会ったもの」 「そりゃー、良かったな」 小馬鹿にするように鼻で笑いながら二本目の煙草に手を伸ばす。だが、ヒナの次の言葉によって二本目に火が灯る事は無かった。 「あたしは十二年前のウイルステロで唯一感染しなかった生存者よ」 煙草が箱ごと落下する微かな音がした。煙草は風に転がり、追い掛ける手から逃れるように闇の中に消える。言葉を失った近江を見てヒナは髪を掻き揚げ、可笑しそうに言った。 「驚いた? あのウイルステロで家族も友達も皆無くしたあたしを助けたのがハヤブサよ。……たった一人生き残ったあたしがどんな人生送ったか、あんたに想像出来る?」 近江は何も言わずに手元に落ちた煙草の箱を拾い上げて懐に戻した。吹き付ける風はヒナの声を乗せて聴覚を支配する。 「自分を生かしたハヤブサに復讐したかったのか?」 「違う!」 間髪入れずに否定し、ヒナは言った。 「GODLESSを、殺して欲しいの」 「復讐か……」 顔を上げて睨み付けて来るヒナと真っ直ぐ向き合う。澄んでいた筈の黒い双眸は憎悪に歪み、腐った沼のように淀んで見えた。近江は言う。 「復讐は虚しい憎悪の輪廻だ。何時まで経っても、何処まで行っても終わらない。誰かが堪えなきゃならねェ」 「あんたにあたしの何が解るのよ! 臆病者だなんて言われて何も言い返せないあんたに!」 「恐くて何が悪い。勇敢と無謀は違う。それに、そんな依頼を呑むやつはもうこの世にいねェよ」 「……どういう事?」 胸に嫌な痛みを覚えながらヒナは動きを止める。近江は隻眼を細め、ヒナを越えた遥か遠くをぼんやりと見ながら退屈ように答えた。 「ハヤブサは死んだよ。お前が体験した十二年前のウイルステロの中で、な」 ヒナは目を瞬かせた。理解が追い付かず呆然と遠くを眺めながら膝を着く。 近江は鼻を鳴らして立ち上がると扉に向かって歩き出した。ドアノブに手を掛ける寸前に横目にヒナを見ると、視線を虚空に漂わせながら座り込んでいるところだった。そのまま屋上から消えようとした――その時、電流のような何かが全身を駆け抜け心臓が跳ね上がる。 体は頭が理解するよりも先に動き出す。革靴の底がカツンと鳴った。振り向いた先には呆然と座り込むヒナが死んだように固まっている。近江は手を伸ばした。 「逃げろォ――!」 足元が揺らぐ感覚の後、地を揺するような轟音が天高く轟いた。神の怒りを彷彿をさせる衝撃は近江をも襲い、眩し過ぎる光と生暖かい爆風で呑み込んで行く。鼻を突く爆薬の臭い。黄土色に染まった視界に映る無数の瓦礫から身を守りながら崩れ行く屋上の上を走り、見失ってしまったヒナの姿を必死に探した。 (何で、気付かなかったんだ……!) 自責の念に駆られながらも目は彼方此方に動き回る。冷や汗は頬を伝い、頭から降り注ぐ砂塵は肺に忍び込んで咽返らせた。 一瞬の内に喫茶店は跡形も無く崩れ、後には世界の終わりを思わせる瓦礫の山が残った。黒いスーツは煤けて白っぽくなっている。五体満足でいる事は殆ど奇跡に近かったというのに、近江の頭は見失ってしまったヒナを探す事で一杯だった。 この爆音は遠くまで響いた筈だから、数十分としない内に消防車やパトカー、野次馬が駆け付けるだろう。背を焼くような焦りが近江の視界を悪くさせる。だが、その銃声が聞こえるよりも早く近江は翻すようにして身を伏せた。足場の悪さに体勢を崩すが、殺された銃声は数瞬遅れで耳に届く。 パシュッ。 それまで自分が立っていた場所を突き抜ける黒い銃弾。濛々と立ち昇る黄土色の不気味な砂塵の中で銃を構える姿が目に映った。忘れたくても忘れられない、出来る事なら二度と会いたくなかった男だった。 近江は懐から銃を引っ掴むように取り出し、正面に立つ影と同じような姿勢を取る。晴れて行く視界の中でお互いの姿が鮮明になる。微かな月光の下でも、死神の頬にある大きな傷はより明瞭に見えた。 「運が良いな」 目黒は口角を吊り上げる。近江の頬を嫌な汗が伝った。目に映る姿は一つではない。銃を向ける近江の右手にはぐったりしたヒナが抱えられている。目黒は言った。 「俺は完璧主義者でな、証拠は一切残さねェんだ」 「時間を考えろ、馬鹿野郎。ご近所さんに迷惑だろ。人間関係ギクシャクしちまうじゃねェ……」 目黒の銃が火を吹き、放たれた銃弾が頬を掠めたので言葉は途中で遮られた。瘡蓋になりかけていた傷の僅か下から血が滲み、近江は沈黙せざるを得ない。だが、そこに表情は無く聊か鋭すぎる隻眼が目黒を見つめている。目黒は怪訝そうに自分の銃を眺めて眉を寄せた。 「とことん、運だけは良いようだな」 「……その子をどうするんだ」 「殺す。だが、その前に訊きたい事が幾つかあるんでな」 その時、上空から月光を遮る大きな影が落ちた。強風が髪や衣服をはためかせる。プロペラは高速回転し、その風に揺られながら縄梯子が下ろされた。近江は舌打ちする。 「ヒナ……」 爆風の衝撃のせいかヒナは目を覚ます気配も無く、垂らした長い髪を風に揺らせている。近江は黙って風に舞い起こる誇りを避けるように目を細めながら縄梯子を掴む目黒を睨み付けている。縄梯子に足を掛けると目黒は合図を送り、ヘリコプターは上昇を始めた。 近江は聞こえるか聞こえないかのギリギリの声量で一言、訊く。 「お前、その頬の傷はどうしたんだ?」 向けられた目黒の銃から乾いた音が響いた。だが、銃弾は近江の足元に爆ぜる。 瓦礫の中で近江は唇を噛み締め、小さくなるヘリコプターを睨んだ。目黒は言った。 「お前は生かしてやるよ。これからも臆病者らしく、惨めにそうやって生きればいい」 そして、近江の視界からヘリコプターは消えた。 背後で崩壊を続ける喫茶店の瓦礫の崩れ落ちる音がした。振り返ると埃塗れの彩子が顔を出し、近江は苦い顔をしてヘリコプターの消えた紺色の空を見上げる。彩子は壊れた喫茶店の有様を見渡しながら溜息を吐いた。 「嗅ぎ付けられてたみたいね」 「GODLESSが俺なんかに構うとは思わなかったからな」 「構われたのはヒナちゃんでしょ。どうするの」 「どうするも何も……」 近江はゆっくりと屈伸を始める。慣れたように全身の柔軟をしてから盛大に溜息を吐く。脳裏には十二年前のウイルステロに巻き込まれた濃霧の立ち込める町中が思い出されていた。 「ヒナは十二年前のウイルステロの生存者だそうだ」 彩子は息を呑んだ。そして、数秒の重い沈黙の後にゆっくりと口を開く。 「あれからもう十二年か。時が経つのは早いわね。……ハヤブサが死んだのも、その時だった」 「ああ」 短く答えて近江は埃塗れのスーツを叩く。砂埃が舞い、咄嗟に彩子は眉を寄せて手で仰ぐ。近江は革靴のつま先を地面にぶつけて靴底に詰まった瓦礫を落とし、彩子の方に向き直った。 「情報を売ってくれ。GODLESSの研究施設で最も規模の大きい場所は何処だ」 「三日以内に二百万、現金で宜しく」 彩子はポケットからメモ帳を取り出して手早く書き込んでから近江に渡した。ボールペンの走り書きの文字が踊るように書かれている。近江はそれに火を放つとすぐに歩き出す。その背中に向かって彩子は言った。 「死なないでね」 近江は可笑しそうに口角を吊り上げ、一声笑った。 「俺の情報を売ったのも、お前だろ」 「間接的にはね。それが仕事だもの」 悪びれもせずに言う彩子を見て力無く笑った。責めるつもりなど毛頭無かったが、近江は背中を向けて軽く手を振ると闇の中に消えて行った。 |