ヒナが行った事を確認し、近江は銃弾を込め直してから懐に戻す。罅の無い壁に寄り掛かり、追って来る気配に向かって神経を研ぎ澄ませた。崩壊は今も進み、足元にも振動は感じられる。爆弾を仕掛けたのは近江自身だが、やはり使い慣れていないからか聊か量が多過ぎたらしい。
 煙草に火を灯しながら少し反省していると、正面から足音が聞こえた。近江は壁から離れ、ヒナが行った正面の道の前に立つ。来た道は砂埃のせいで見難いが、黄土色の中に薄く影が浮んだ。近江がその姿を確認した瞬間、影は突然発砲した。お互いに視界が悪い分銃弾は近江の足元に突き刺さる。
 姿を現した目黒はすぐさま引金を引いた。近江は銃を取り出す事も無く左の道に向かって走り出す。目黒はギリギリで撃てないような速さで走る近江を追った。
 先を行く近江は咥えていた煙草を離して煙を吐き出す。近江は辿り着いた先を見回した。天井が高く、面積はこれまで通ったどの場所よりも遥かに広い。巨大なビーカーのようなものに始まり、ベルトコンベヤーや大量に積まれたダンボール。何気無く中身を見ると白濁色の液体が中を満たしている。

「これは……」
「Hadesだよ」

 背後から目黒の声がした。振り返ると予想通り死神は鎌ならぬ銃を構えて薄く笑いながら此方を見ている。

「囮になりやがったな。チキン・テツの癖にやるじゃねェか」
「誉められても嬉しかねェよ」

 近江は苦笑した。だが、それと同時に煙草を咥えて地面を蹴る。目黒の銃が火を吹きダンボールを蹴散らす。硝子の割れる音がして液体が零れ出した。
 ダンボールの中身は細菌の筈だが、目黒は気にも留めずに次々発砲するので地面を転がりながら物陰に隠れる。近江は叫んだ。

「おい! 十二年前のウイルステロでも繰り返す気か!?」
「そのダンボールの中身はHadesの死菌だ」

 近江は銃を取り出しながら「そりゃそうか」と一人ごちた。その隙にも目黒は容赦無く発砲するので声を上げて身を伏せる。
 どうやら、ここはHadesの開発工場らしい。ぐるりと周囲を見回し、近江は口を結んで立ち上がった。行く先は目の前にある巨大な硝子のボール。中には白濁色の液体が満たされているので、恐らく中身は病原菌だろう。目黒は近江が向かっている先に気付き、舌打ちした。
 ボールの前に立ち、近江は息を吐く。

「こいつがHades、病原菌だろ?」

 ボールに背中を向けながら近江は引き攣った笑いを漏らす。近江とて、十二年前のウイルステロを忘れた訳ではない。中学生の頃に体験した事なのだから記憶も古くは無いし、父親もその中で失っている。だから、目黒に対してもそのウイルスは恐怖だと思った。
 だが、目黒は薄く笑ってゆっくりと銃を向けるので近江は目を丸くした。目黒は言う。

「それが、どうした?」
「どうしたって……。お前、恐くないのか? Hadesだぞ?」

 喉を鳴らして笑いながら目黒は引金を引いた。乾いた音が響き、肩を跳ねさせた衝撃で咥えていた煙草が落ちた。銃弾は当たらなかったが、近江はボールに隠れながら目黒の出方を窺う。
 目黒は笑っていた。

「恐くも何ともねェよ! 俺は既に感染してるからなァ!」

 近江は動きを止める。驚いた振りをしながらも、心の中では「やっぱり」と思っていた。目黒の頬に付いている傷は自分の父が遣ったのだろうと思っていたからだ。そのせいで目黒がHadesに感染する事までは考えていなかったのだろうが。
 目黒は中々出て来ない近江に銃を向ける。目の前にある硝子のボール等恐くも何とも無い。

「さっさと出て来いよ、臆病者! そんなところに隠れたって、不利になるのはお前の方だぜ?」

 その大声を聞きながら近江は煙草に火を灯し、叫ぶように答えた。

「出るかァ! 俺だってまだ死にたくねェっての!」
「このチキン野郎が……。てめェは殺し屋の恥曝しか」
「恥曝しって……酷いな」

 苦笑しつつ煙を吐き出した。

「お前、自分を美化し過ぎじゃない? どんな偉業を成そうが俺達は薄汚い殺人者、英雄にはなれねェよ」
「臆病者と罵られても言い返せないお前に美しさを語られたくないな」

 近江は肩を竦めて笑った。

「確かに、美しいものなんか知らねェよ。ガキの頃から裏の世界で生きて来たし、学校も転校ばっかりで碌に友達出来なかったし、女で発散してたら危ない橋渡りそうになったし、金欠続きで借金は膨らむし」

 自分で言っていて落ち込んで来た近江は額を押さえた。

「こっちは体調崩してまで一生懸命仕事してるんだけどなァ」
「はは、下らない糞みてェな人生だな。俺がここで終わらせてやるよ」
「いいや、結構。悪いけどさ、終わるのも恐いんだ」

 近江は笑った。

「俺は何も持ってなかったからさ、昔から無くす事が恐くてね、ついジタバタしちまう。これは性分だからもう治らねェ。そうやって守る為に走り回ってたらさ、何時の間にかチキンなんて呼ばれるようになってた」

 今度は目黒が笑った。

「そんなてめェに何が守れる!」

 近江は煙草を咥えたまま銃を取り出した。黒く重厚な光沢を放つそれは父の形見でもある。その銃を片手にぶら下げたまま目黒の前にゆっくりと立ち、無表情に煙草を足元に落とした。火が消えぬまま、煙草は紫煙をくゆらせている。
 目黒は銃を構えているが、近江は撃鉄も起こさず佇む。そして、その左手を一気に振り上げた。
 パァンッ!
 背中を向けていた硝子のボールが音を立てて割れ、中の液体が津波のように一気に溢れ出す。目黒は目を疑った。液体が空気に触れて次々に気化する中、近江はずぶ濡れになってただ立ち尽くしている。
 Hadesは気道粘膜から感染する。通常ならば既に感染し、早ければもう融解した内臓を吐き出している筈だった。

「俺に何が守れるって?」

 近江は漸く、ゆるりと銃を持ち上げた。

「手に据えたる鷹を逸らすってところかな。嘗めるなよ、お前の目の前にいるのはハヤブサだぜ?」
「てめェ……狂ってんのか!」

 気化した液体が空間を満たして行く。十二年前を彷彿とさせる濃霧が立ち込め、互いの姿がだんだんと薄くなった。目黒は舌打ち混じりに発砲するが、まるで当たらない。

「あんなガキの為に全部捨てる気か!?」

 近江はゆっくりと移動を始めている。

「狂っちゃいねェよ」

 背後から声が聞こえ、目黒は振り返った。だが、濃霧が渦を巻くだけで姿は無い。足音は反響し、まるで大勢の人間が歩き回っているようだった。

「ガキだろうがアホだろうが関係無いもんね。俺は大切なもんは全部守る」
「今まさに死のうとしてる男に何が守れるんだ!」
「誰が死ぬんだよ」

 近江は細く煙を吹く。線のように伸びる朧げな白は近江の周りを囲むように漂い、霧を少しずつ遠ざけた。ふうっと近江が煙を吐くと目黒とを結ぶ一筋の道が霧の中に浮び上がる。霧は近江の周りに漂う煙を避けているようだった。
 目黒はその様を見て目を丸くする。

「お前、何なんだ……?」
「俺が十二年間何もしなかったと思うか?」
「ま、まさか……」

 ふらりふらりと目黒が歩き出す。近江は笑って煙草の先を向けた。

「Hadesはもう不治の病じゃない。これがワクチンさ」

 煙草は細い煙を棚引かせながら短くなって行く。近江は短くなった煙草を足元に落とすと踏み躙る。目黒が悲鳴のような声を上げた。
 近江は表情を消して言う。

「殺し屋は薄汚いただの殺人者だよ。でもな、だからって快楽殺人者に成り下がっちゃならない」
「何が言いたい……」

 目黒は自分を苦しめ続ける不治の病を治す唯一のワクチンを前に酷く苛立っていた。近江はそれを知ってか知らずかゆっくりと口を開く。

「薄汚い殺人者にもルールはあるって事だ」
「ほぉ、初耳だな。訊かせて貰おうか、そのルールとやらを!」

 言い終わるか終わらないかの瞬間、目黒は引金を引いた。乾いた音が響き、近江は軽く身を引いて避ける。

「『誇りを汚すな』」

 近江は言った。目黒は動きを止める。正面に佇む近江哲哉、その後ろに十二年前に殺した筈の近江邦孝を見た気がした。近江邦孝は息子の背後でそっくりな鋭い金色の双眸で真っ直ぐに見詰めている。
 呆然と立ち尽くす目黒を前に近江は言う。

「鷹は飢えても穂を摘まず。犯罪組織の犬に成り下がったお前は殺し屋でもなけりゃ人でもない。お前は俺がここで引導を渡してやるよ」

 互いの銃が互いの眉間を捉えている。だが、そこに動揺があるのは目黒だけだった。近江は視線を逸らさず、煙草を咥えたまま真っ直ぐ正面を見ている。
 目黒の脳裏には臆病者だと呼ばれた近江が過るが、正面で銃を構える男はまるで違う。最速だと称され、臆病だと罵られたハヤブサ。
 近江の左手に微かな力が篭る――その寸前、痙攣のように目黒の銃が火を吹いた。放たれた銃弾は轟音の中、白く染まった空気を裂くように突き進み、近江の頬を掠めて通り抜けて行った。近江が発砲したのはその数瞬後、狙った先は当然一撃で仕留められる眉間。だが、そこで予想外は起こる。
 天井に罅が入った。何処かに仕掛けた爆弾が爆発して釣られたのか、天井の分厚い瓦礫が落下した。白い視界の中でその動きを捉えた近江は当然狙いを外さなければならない。
 パシュッ。
 ジャイロ回転した銃弾は一秒にも満たない一瞬の世界を駆け抜けて目黒の腹を食い破った。目黒は穴の開いた腹を押さえて膝を着き、近江は更に落下する瓦礫を避ける為に横に跳ぶ。低い音が響き、床全体に振動が広がった。
 部屋全体が崩壊を始め、間一髪のところで助かった近江は安堵の息を零す。様子を窺いながら目黒の傍に歩み寄った。目黒の銃は運悪く瓦礫の下になったらしく、血の止まらない腹を押さえながら呻き声を上げる。状況を理解した近江はわざと足音を立てて目黒の前に立った。
 目黒は諦めたように薄く笑う。

「臆病っていうのは、周りを欺く為の罠か?」
「言ってんだろ、俺は本当に恐いんだよ」

 近江は無表情に銃を向ける。

「失うのが恐くてね。……脳ある鷹は爪を隠す。触れる者を皆傷付けちまうような爪は隠しただけだ。本当に大切なものを守れるように、失わずに済むように」

 ガチリと撃鉄を起こす音が木霊した。落下し続ける瓦礫は二人を避けるように周りに降り積もって行く。近江は力無く笑った。

「昔から勝つ事が勝利じゃないって教わって来たからさ。十二年前、俺達を逃がす為の囮になってお前に殺された親父にね」

 それだけ言い、最後に引金を引いた。言葉が届いたのか、それよりも先に死んでいたのかは解らない、近江は目黒の動かない体を数秒眺めた後でゆっくりと銃を仕舞う。最後の断末魔が反響していた。
 そして、顔を上げると絶望的な状況が目に飛び込む。やはり、爆薬を仕掛け過ぎたようだ。近江は懐から未開封の煙草を取り出して火を放つ。箱からは大量の白い煙が昇り、空間を一気に満たして行った。これでHadesは死滅する筈だろう。
 近江は未だ燃え続ける箱を消えないように瓦礫の隙間に置いてから辺りを見回す。まるでゲームの世界のようだった。脱出口は遠い上に移動も危険。普通ならばここで圧死だろうが、ここで死ぬ訳にはいかない。ハヤブサだからこそ、逃げ切る。
 ゆっくりと屈伸を始め、軽く柔軟すると近江は走り出した。






4、最速の翼






 ヒナは携帯を握り締め、一階の非常階段の出口にしゃがみ込んで電話を掛け続けていた。依然として近江が追い付く気配は無く電話も繋がる様子は無い。だが、数十回のコールの後でプツリと音がした。

「はーい、キョージでーす。今、お前に言われた通りワクチン撒いてまーす」

 場違いな程に明るい声がした。

「凄い煙たいんだけど。埃やばいし、スーツ弁償してくれよな」
「あ、あの」
「あれ、テツ? 声可愛くなったね」
「あたしは……」
「冗談だよ、ヒナちゃんでしょ? まあ、待ってて」

 電話は自分勝手に切れてしまった。
 ヒナは静かな音を鳴らす携帯電話を呆然と見詰める。一応、殺し屋である筈の近江が言う仲間だからそれなりに重々しいものかと思っていたのだが、聞いてみれば何処にでもいそうな軽い若い男の声だった。落胆の色は消し切れない。だけど、この『神藤京治』だけが近江へ繋がる唯一の方法なのだ。
 微かに床に振動が伝わり始めた。非常階段にあった微かな闇は濃くなり、周囲を少しずつ侵食して行く。静かに階段の下を覗いて見るが、近江が来る気配は無い。
 無力な自分に対する怒り、期待外れの神藤への絶望。一人きりになってしまったヒナは不安に包まれ脳をグラグラと揺らしている。
 背後で砂利を踏むような音がしたのはその時だった。咄嗟に反応出来ず、体を強張らせる。振り返れずにいると、背後の男は声を掛けた。

「君がヒナちゃんだね?」

 漸く、ヒナは振り返った。
 黒いスーツにワインカラーのシャツを着た金髪の、一見歌舞伎町辺りのホストにも見える若い男がポケットに手を突っ込んだまま立っている。聞き覚えのある軽い声。

「初めまして、俺が神藤京治。テツとは昔からの仕事仲間なんだ」

 ホストのように恭しく礼をして神藤は微笑む。そして、しゃがみ込んだまま動けないヒナに手を差し伸べて立たせると携帯電話を取り出して言った。

「ヒナちゃんがテツの携帯を持ってるって事は、連絡手段は無しか……。脱出しちゃった方がいいかなぁ」
「そんな! だって、テツはあたしを助けてくれたのに! こんな危ないところに置いて行くなんて……」
「いやいや」

 神藤は笑った。

「大丈夫、あいつはハヤブサだよ。隼を知ってる?」
「最速のヒットマンでしょ?」
「まあ、そうなんだけど。鳥の隼は?」

 ヒナは首を振る。

「隼は鷹科の鳥でね、時には時速三百キロも越える最速の鳥なんだ」
「でも、テツは人間よ! 人には翼なんて無い!」
「うん、その通りだ。だから、人は翼の代わりに足があるんだよ。地べたを走り回る為にね」

 神藤が何を言いたいのか解らず、ヒナは苛立ちを抑えながら眉を寄せる。
 酷い崩壊の轟音の中で神藤だけが違う時空の中にいるかのように冷静だった。黙り込んだヒナの隣りで穏やかに問いを重ねる。

「ハヤブサがどうして臆病者って呼ばれてまで爪を隠したか解る?」
「……敵を、油断させる為?」
「鷹はそうだね。でも、ハヤブサ……テツはそうじゃない」
「どうして?」
「あいつは恐かったんだ」

 神藤は言った。

「自分の爪が大切なものまで傷付けるんじゃないかって思ったのさ。あいつは本当に面白いやつだよ、殺し屋の癖に失う事が恐くて必死に守ろうとしてるんだ。馬鹿だよなぁ」
「チキン・テツなんて呼ばれてるんでしょ?」
「ああ。それはまあ、あだ名みたいなもんさ。愛だよ、愛。殺し屋なのにね」

 そう言いながらも、神藤が何処か誇らしげに見えるのは気のせいではないだろう。
 ヒナはそんな言葉を聞きながら近江の到着を待った。やはり、追い付く気配は無い。先刻まで鳴り響いていた銃声は何時の間にか止んでしまったので探すのは至難の技。選択肢は死を覚悟して待ち続けるか、見捨てて置いて行くか。ヒナに迷いは無く、じっと足を止めて近江が来るであろう方向を見詰めている。
 神藤は唇が白くなる程噛み締めているヒナの頭を撫でた。

「大丈夫だって。ハヤブサは最速のヒットマンって知ってる癖に」
「この中で最速のヒットマンって言っても……」

 神藤は目を丸くして首を傾げた。

「ハヤブサが何故最速なのか知らないんだ?」

 まるで信じられないとでも言う様子だった。その時だ。
 カツン……カツン……カツン……。
 硬い音が響く。二人は揃って顔を向け、酷い砂埃の中に浮ぶ影を見詰めた。
 カツン……カツ、ン……カツン……。
 奇妙な足音だった。二人はそこに現れる姿に全神経を向ける。黄土色の中から姿を現したのは、黒い髪とスーツを灰色に染めてしまっている近江哲哉だった。
 ヒナは大きく安堵の息を吐いて座り込んでしまう。近江は首を傾げた。

「何だ、まだいたのか」
「置いて行こうと思ったけどさ、ヒナちゃんが待っててくれたんだよ」
「神藤、お前先に来たなら連れて行けよな」

 近江は笑った。目黒の銃弾が掠めた頬からは血が滲んでいる。既に満身創痍にも見えるのに、どれも掠り傷程度のもので怪我という怪我は無い。
 「行こうぜ」と近江が言い掛けた時、低い音がした。見れば巨大な瓦礫が出口を塞いでしまっている。三人は顔を見合わせ、近江は走り出した。

「こっちだ」

 ヒナと神藤もその後を追う。先を行く近江はすいすい道を進み、所々で二人の到着を待つ。一種の化物染みた脚力に追い付ける訳も無い。
 崩壊を続ける建物は既に原型を失おうとしている。出口が解っているらしい近江はぐんぐん先を行く。ヒナはその無責任な背中に向かって叫んだ。

「出口が解ってるの!?」

 近江は振り返り、笑う。

「当ったり前だろ!」

 ヒナの隣りで神藤が無表情に言った。

「こいつは逃げのプロだぜ?」
「ハヤブサは最速のヒットマン。何が最速って……」

 角を曲がった瞬間、言葉を切って近江は足を止めた。追い付いたヒナは溢れる橙色の光の眩しさに目を細める。慣れたところで目を開けると、続いている筈の廊下が無く先は夕空に向かって伸びているようだった。
 ヒナは途切れた廊下の先を眺め、近江の背中を小突く。

「行き止まりじゃない。どうするのよ」
「よく見ろ、お前の出口だ」
「え……?」

 肩越しに覗き込むと、橙に染まる路上に警察やパトカーが所狭しと並んでいる。近江はヒナの肩に手を乗せて引っ込む。ヒナは振り返ったが、近江と神藤は真っ直ぐと見詰めて来た。
 近江は言う。

「ここでお別れだよ。お疲れ、裏の世界はここでお終いだ」
「そんな」
「お前の世界は表だろ?」

 ヒナは息を呑む。外野にも等しい警察が何か喧しく喋っているが、全て耳を通り抜けてしまう。近江は笑って見せた。

「何迷ってんだ」
「テツ、あたし……」
「おい、そろそろ行こうぜ」

 神藤が急かすので近江は軽く返事をする。そして、ヒナの腕を掴み、反対を神藤が持つ。ヒナは訳が解らず二人の顔を交互に見遣った。
 近江はタイミングを計るようにゆっくりと息をする。後ろから崩壊の音が聞こえるが、神藤も忘れたようにゆっくりと呼吸を合わせていた。

「行くか!」

 二人は声を合わせ、一斉に走り出した。ヒナは間で宙ぶらりんになったままだが、二人は行き止まりの筈の廊下の先から一気に空へ向かって飛び出した。
 酷い浮遊感、警察のざわめきが聞こえる。だが、その中でヒナは近江の声を聞いた気がした。

「ハヤブサは最速のヒットマン。早撃ちも苦手じゃないけどさ」

 ヒナは、警察の群がる路上に落下した。足から落ちたが、そのまま尻餅を着いてしまう。正面で動揺する警察が駆け寄り、ヒナは顔を上げて辺りを見回した。二人の姿は何処にも無かった――。

――ハヤブサは最速のヒットマン。何が速いって……

 ヒナは二人の消えた夕陽を眺める。警察も動揺し、二人の後を追うように四方八方闇雲に分かれて走って行く。まるで統率されない動きを見る限り、二人が捕まる事は無いだろう。ヒナは少し離れた先のマンホールの蓋を何となく見詰め、思った。ハヤブサは最速の――。

「まさか、逃げ足……?」

 何処か遠くで近江が笑っているような気がした。





Epilogue



 あの事件から二週間が過ぎた。
 ヒナの拉致されていた場所は十二年前のウイルステロでも献身的に働いていた大手某製薬会社の工場で、社長等幹部が警察の取り調べを受ける事となり、GODLESSとの癒着を認めた。
 程無くして検査入院させられた大病院のヒナの病室に一つの小包が届く。中身は十二年前のウイルステロに関する資料、そして、即効性のワクチンだった。更に、中には犯罪組織GODLESSのアジトが一つ一つ細かく記されていた。だが、警察がそれを受けて駆け付けた時には三分のニ以上が制圧された後だったと言う。
 世間に衝撃が走ったのは当然の事で、各地でこれまで溜め込まれて来た鬱屈とした気持ちは一気に吹き出す事態をにもなった。それもまた、警察が機能し始めたのだから間も無く治まるだろう。
 一方でヒナの巻き込まれた事件において目撃された謎の二人組の男についての噂は彼方此方を駆け巡る内に尾ひれが付き、今ではヒーローだとさえ囁かれている。何処かの宣伝ではないかとの憶測も飛び交ったが、事実は依然として謎のままである。
 GODLESSのボスが死んだのは、一昨日の事だ。何故かボコボコのタコ殴り状態で首都圏の某警察署前に縄でぐるぐる巻きにされ発見された。すぐに裁判が行われたが、満場一致で異を唱える者も無く死刑が執行された。処刑の寸前にGODLESSの黒幕が「ハヤブサ」と叫んだと言われているが、多くの人間から見れば気が狂ったとしか思えないだろう。
 また、目黒の事は完全に闇に葬られた。報道機関は警察の死者無しの情報を信じて報道しているが、特に問題は無いだろう。
 昨日、ヒナは僅かな希望を抱いて彩子の喫茶店に向かった。だが、その場所は何事も無かったかのように新しい駐車場が建てられていて、オーナーに聞いても以前の喫茶店については殆ど詳細は解らないのだと言う。
 そして、ヒナは今表の世界で何事も無かったかのように生きている。あの数日間が嘘のように平和になった世界はGODLESSが消えた事による僅かな平和を噛み締めているようだった。
 目を閉じれば未だに十二年前の悪夢は思い出される。家族や友達、ハヤブサこと近江邦孝の死。その上にヒナは今も生き続けている。時々、今生きている自分の奇妙な運命に悩み、落ち込んでしまう事もある。立ち止まって振り返り、座り込んでしまう事もある。だけど、そんな時には近江の声が何処かから聞こえる気がするのだ。

――過去に囚われりゃ動けなくなって今を見失う。憎しみなんぞにくれてやる程今は安くもなければ軽くもないぜ。どんなに願おうが縋ろうが、元より過去は及ばず未来は知れず。俺達に出来るのは目の前にある今この一瞬だけだ。余所見してりゃ、その今すら届かなくなるぞ

 近江哲哉、いや、ハヤブサは今もこの世界に同じく生きている。
 ヒナは顔を上げた。青空に金色の日輪が浮び、名前も知らない鳥が狭い空を横切って行く。正面に目を向けると、渋谷のスクランブル交差点の信号が瞬いていた。慌てて小走りに対岸に向かう。
 同じく擦れ違う人も小走りで、ヒナは白と黒に決められた横断歩道を駆け抜けた。その時、声が聞こえた気がした。
 振り返ると対岸に向かって行く黒いスーツの後姿が、二つ。信号は既に赤に変わり、沢山の車が道を掻き消して行く。対岸に渡り切った二人が此方を見て少しだけ、笑った。白くて大きな右目の眼帯。
 感謝も謝罪も言い忘れてしまったけど、もう伝わってるのかな。

「歩き出してるか?」

 まぁね、歩き出してるよ。あたりなりに、一歩ずつね。


 歩道を越えた向こうで近江は喉を鳴らして笑った。隣りを歩く神藤が怪訝そうに眉を寄せている。

「何笑ってんだよ、気色悪いな」
「放っとけ!」

 神藤は首を傾げつつ、これからの予定を早口に告げる。
 近江はこれから、神藤が以前から探っていた歌舞伎町ホストクラブに潜入。ある有名な女性記者のよく現れる店らしく、慣れ親しんでいる為か警戒すらしないというのでチャンス。仕事が殺し屋である以上、当然殺す。
 近江は沢山の日の光を浴びながら大きく背伸びした。

「さて、今日も一丁やるか!」

 空を見上げる。狭い青空の中、金色に輝く日輪が照らしていた。

End.