あいつが事故に遭った事を知ったのは、その日の夕暮れだった。


 温厚篤実・不撓不屈で、眉目秀麗。大よその良い言葉は全て当てはまるような完璧な人だった。その性格故に友達も多かったし、彼が主将を務める野球部は弱小だったにも関わらず一気に甲子園まで駆け上った。
 非の打ち所の無い彼は何でも出来た。誰にでも公平で、誰とでも友達になれて、誰にも好かれた。よく笑う、笑顔の似合うヤツだった。感情的になる事もなかった。
 その日は午後からの部活だった。彼はいつも通り自転車に乗って家を出て行った。

 そして、あいつはとうとう部活に来なかった。






遠く揺れる陽炎、空気に溶ける蜃気楼。
届かない、届かない。

もう、目にも映らない。

Play the hero.

1、逃げ水






「雄飛……ッ」

 俺が病室に駆け込んだ時、雄飛はベッドで胸を規則正しく上下させていた。雄飛のお母さんが苦笑する姿を見て漸く安心した。もしも、暗い部屋で顔に白い布でも掛けられていたらどうしようと嫌な予感がしていたからだ。

「おばさん、雄飛は……?」

 ベッドの傍の椅子に座っていた雄飛のお母さんはまた苦笑を浮べる。病院には不釣合いなサンダルを履いている様子を見ると、彼女もまた事故の知らせを聞いて慌てて飛び出して来たのだろう。

「脚にヒビが入っただけですって。まったく、この子はどうしようもないんだから……」

 疲れ切っている雄飛のお母さんの話では、彼は子供を庇って道路に飛び出したのだそうだ。相手はダンプカーだったが、運良く左足を掠める程度で済んだらしい。子供も無傷だったと言うのだから奇跡的だろう。
 あまりに彼らしくて、思わず笑ってしまった。そして、彼が生きていた事を居もしない神様に感謝した。

「暫く検査入院するらしいから、部活には出られないって伝えておいてくれるかしら」

 軽く会釈すると、雄飛のお母さんは病室を出て行った。病室には雄飛と俺だけが残された。
 傍にある機械が規則正しくピッピッと鳴っている。黒い画面に緑の線で波を打つ。さっきまで雄飛の母が座っていた椅子に座り、その顔を見た。
 本当にただ眠っている。事故の直後とは思えなかった。違うのは足に巻かれた包帯と、顔に出来た幾つかの擦り傷。

「ホント、お前らしいなぁ……。でも、良かったな。お前の助けた子は無事だってよ。両親が泣いて感謝してたらしいぞ」

 当然ながら返事は無く、ただ機械の音だけが響いていた。
 病室の窓には煤けたベージュのカーテンが掛けられていて、窓の向こうはもう夜だ。星が少しだけ輝き、月が淡い銀色の光を放ってぼんやりと浮かんでいた。

「……けいす、け……」

 呼ばれたような気がしてベッドを見るが、相変わらず雄飛は胸を上下させて眠っている。聞き違いか、うわ言かも知れないと思い苦笑した。
 丁度、雄飛のお母さんが外から呼んだので、軽く雄飛に別れを告げて病室を後にした。





 雄飛と出会ったのは中学校に入学したばかりの頃で、その頃の俺は、世間一般で言う不良少年だった。
 馬鹿ばっかりの世界。毎日は無駄。そう思って生きていた俺は人と関わるのを嫌っていた。その態度から周りの人間も近付くのを恐れた。
 愛だの、恋だの、友情だの。そんなもんは薄っぺらで、馬鹿だけに感じられる空虚なもの。世界は色の無い絵みたいなものだった。
 俺は次第に学校に行く事も少なくなっていった。学校にも行かず、日の出ている内は眠って夜になれば動き出す。昼夜逆転の生活を送っていたが、両親は俺に無関心だった。
 そんな中で現れたのが、あいつだった。

「鮫島、だよな。俺と野球しないか?」

 久しぶりに行った学校。名前も知らないあいつは、俺の顔を見るなり突然言った。
 見覚えはあった。いつも皆に囲まれた秀才で、ウィンドブレーカーを着て汗だくになって近所を走る姿を何度か見た事があった。
 そんな男が俺をどうして誘うのか。好感度でも上げたいのか。
 気持ち悪い。近寄るな。

「わっ」

 俺は思いきり雄飛を突き飛ばした。雄飛はよろめいたが、転ばなかったのは流石と言うところだろう。クラス中がざわめいて、俺に対する批判と雄飛への労わりの言葉が溢れた。
 全てがうざったくて俺はポケットに手を突っ込んだまま教室を出ようとしたが、背中には雄飛の声が向かって来る。

「おい、待てよ鮫島!」

 だけど、雄飛の声も無視して俺は教室を後にした。面倒はご免だったからだ。
 でも、追い駆けて来る足音が聞こえた。気付くと俺は走って学校を飛び出していた。

 息も上がった頃には既に日が沈もうとしていた。夕焼けの中で辿り着いたのは初めて来る寂れた公園。錆びたブランコが風の中で悲鳴のような音で揺れ、傍にある大きなポプラの木が目に入った。
 だが、背後で砂利を踏む音が聞こえた。

「鮫島ッ」

 振り返ると、そこには雄飛がいた。笑っていた。

「お前足速いなぁ。俺が追い付けないなんて初めてだ」

 俺は雄飛が野球部期待のエースである事に気付いて、少し息を切らせて汗を拭う姿を改めてまじまじと見る。殆ど完璧と言える人間である雄飛が何故、わざわざ俺のみたいな溢れ者に声を掛けるのか甚だ謎だった。

「何で、ついて来るんだよ」

 ぶっきらぼうな口調に、雄飛は白い歯を見せてまた笑った。
 そして、ポケットから白い軟球を取り出して言った。

「野球しないか? 俺のキャッチャーになってほしいんだ」

 野球。俺が初めてそれに触れたのは確か七歳の頃のリトルリーグだった。でも、何もかも無駄な気がして中学に入学する少し前に辞めてしまった。
 俺の最初で最後のポジションはキャッチャーだった。何の変哲も無い凡庸なピッチャーと組んで、ただの遊びの野球をしていた。はっきり言えば俺で無くても壁で十分だっただろう。
 雄飛は困ったように眉をハの字にして頬を掻きながら言った。

「お前が今までキャッチャーやってたの聞いてさ。……俺、キャッチャーいないんだ」

 雄飛は自分の孤独を隠す事無く苦笑して語った。
 同輩は皆リトルからのバッテリーを既に組んでいて、自分だけが専属のキャッチャーがいないと。そして、仕方無く組んだキャッチャーは雄飛の球を捕る事が出来なかったのだと。
 それを聞いた俺は胸の底から沸き上がる奇妙な感覚に魅せられた。これだけの人気者が抱える孤独の滑稽さが可笑しくて堪らなかったのだ。

「……いいぜ、捕ってやるよ。けどな、お前が俺の予想通りかそれ以下ならご免だ」

 その瞬間、雄飛の表情がぱっと明るくなった。そして、雄飛は構えた。





 後日、雄飛のお母さんから電話があった。雄飛が目を覚ました、と。
 事故の事もあって、野球部は甲子園目前にも関わらず休みだった。俺はその連絡を受けるとベッドを飛び起きて病院に向かった。勿論、市バスで。

 病院はいつも通りで、青い患者服を着たお年寄りが入り口付近を右往左往したり、松葉杖をついた少年が苦しそうに窓口まで歩み寄ったり、小さな少女が母親に引っ付いて歩いていたり。
 いつもと変わらない病院の景色を通り過ぎて俺は雄飛の病室へ向かった。

 扉を開けるとベッドには上半身を起こして気が抜けたようにぼーっとする雄飛の姿があった。青い患者服で自慢の足には包帯が痛々しく何重にも巻かれていたけれど、そこにいるのは他ならぬ雄飛だった。俺は嬉しくなって駆け寄った。何やら深刻な表情をした雄飛の母や医師もお構い無しで。

「雄飛ッ」

 肩を掴んで呼ぶと、雄飛は振り向いた。そして、言った。

「……どなたですか?」

 俺は、動けなかった。
 器質性健忘症、と。医師は背後で確かにそう述べた。
 事故の際に脳に大きな衝撃があったらしく、一部の記憶がスッポリと抜け落ちてしまったらしい。そして、それはどうやらここ十数年間の野球を中心とした記憶。

「要するに、記憶喪失だろ……?」

 強がって言ったが、指先が微かに震えていた。
 漫画やアニメのように現実とは切り離された世界では度々耳にする都合の良い言葉が現実に起こるのは極稀だと聞いた事がある。なのに、どうしてそれがこんな時にこいつに起こるんだ。
 雄飛は黒々とした双眸を瞬かせて小首を傾げ、子供のような口調で訊いた。

「……君は、僕の友達なの?」

 俺は、悪夢を見ているのだと思った。
 穏やかな表情はいつもと同じなのに、外見は何一つ変わらないと言うのに中には全く知らない人間が入っている。
 今のこいつは、俺を知らない。誰か、知らない。

 こいつは、野球を知らない。
 頭に血液が逆流するような気がして、肩を掴んでいた掌に力を込めた。

「……ッ! 何も、覚えていないのかよ! 俺も、仲間も、野球も……ッ」

 雄飛は言い難そうに眼を背けた。何度、問うても雄飛は何一つ言わなかった。俺の名前さえも。
 思わず、傍に立つ医師の胸元を掴む。
 そして、叫んだ。

 「 先生、お願いです! どうか、こいつを治してやって下さい! 来週には甲子園があるんです! 俺達、その為に今まで一生懸命練習して来たんです! どうか、お願いです! 先生!! 」

 医師は何も言わなかった。
 それでも俺は必死にその胸元を掴んで叫び続けた。

 すると、横から伸びて来た細い腕が俺の腕を掴んだ。
 それは雄飛だった。

「止めなよ。この人が何をしたって言うんですか」

 まるで、状況が何一つ読めていないようだった。
 ここ十数年の記憶が無いとは言え、精神が幼児化した訳ではないらしい。それに、母親の事は覚えていたのだ。それでも、俺の事は何一つ知らない。
 ここに二人きりだったなら、泣いてしまっていたかも知れない。

「お前、俺が、解るか? 俺が誰だか……? 」

 雄飛は困ったように眉を下げて、首を振った。
 思わず、ポケットに押し込んでいた白球を取り出して雄飛の目の前に突き付ける。

「これが、なんだか解るか……?」

 一部に擦り切れた跡の残る薄汚れた白球。それは、甲子園予選の決勝のラストイニングに雄飛が最後の打者を三振で打ち取った球だった。
 一度は彼に渡したものだが、持っていてくれと突き返された夢の舞台への切符だった。
 だが、雄飛はばつが悪そうに目を伏せて呟くような声量で答える。

「……ただのボールにしか見えない」

 血の気が一気に引いた。眩暈どころか吐き気さえした。
 雄飛は、本当に野球を忘れてしまった。

 今までの試合も、仲間も、俺も。野球に関する全てを失ってしまった。





 雄飛の球を初めて受けた時の衝撃を、俺は一生忘れないだろう。
 白い閃光のような重く鋭い球は俺の掌に真っ直ぐ突き刺さった。目で捕らえる事など出来なかったが、球はしっかりと掌の中に飛び込んでいる。だが、掌から伝わる筋肉の痺れで動けずに落としてしまった。
 俺の手にぶち当たっても尚回転し続ける球は小さく強暴な生物のようだった。そのとんでもない威力を持った球は恐らく本気で投げた訳でもないただの直球でしかない。
 雄飛は正面で挑戦的な笑みを浮かべている。

「……どうだった?」

 答えなど訊く必要が無い事は雄飛が一番解っていただろう。
 実際のグラウンドよりも距離は離れているし、ブランクがあるとは言え俺は捕るどころか見る事も出来なかったのだ。

「もう一度訊くよ。……俺のキャッチャーになってくれないか?」

 その真っ直ぐな瞳の中には『Yes』以外の答えなど存在しなかった。
 俺は言った。何時の間にか口元が綻んでいた。

「―― ああ、なってやるよ」

 俺はその球に夢を見た。
 全国の中学生の頂点に立ち、甲子園を制覇し、プロ野球でも活躍し、メジャーでさえ恐れられるだろうと。

 雄飛は嬉しそうに笑って、駆け寄って来た。
 初秋の出来事だった。





 あいつに出会って、色の無かった世界に色が着いた。ただ一人の男に出会っただけだ。映画みたいに男と女が恋に落ちた訳でもない。ただ、あいつの驚異的な球に夢を見たんだ。

 この世界には馬鹿しかいなくて、親も教師もクラスメイトも誰もかもが無駄にしか見えなくて、何時の間にか孤独の中をさ迷っていた俺を救ってくれたのはあいつだった。

「何、しけた面してんだ。野球しようぜ。お前が退屈しないような球を見せてやる」

 暗くて冷たくて、白く歪んだ俺に沢山の色を与えて世界を変えてくれたのはあいつだった。色の無い世界に沢山の景色を写してくれたのはあいつだった。

「啓輔、絶対甲子園行こうな! そうしたら、優勝して二人でプロになろうぜ! それからメジャーまで行って大暴れしてやろう」

「無駄なものなんか何もねぇよ。俺もお前も。見ろよ、皆待ってる」


 クラスメイトも教師もまるで異質なものを見るような目付きだった。親も俺は一切関心も持たず干渉せず、ただ産んだだけの家族だった。
 たった一人きりの世界にあいつが現れたんだ。そして、何処からか聞いた根も葉もない話で俺を野球に引っ張り込んで道を作ってくれた。

 俺は縋り付くように医師の双肩を揺さ振った。

「先生ッ! どうか、こいつを今までのこいつに戻してやって下さい! お願いです! もうすぐ始まる甲子園は、こいつが長い間夢見た舞台なんです! 泥だらけで馬鹿にされても諦めなかった大切な舞台なんです! その為にこいつは今まで苦しんできたんです! どうか、どうかお願いします!」

 看護婦や雄飛のお母さん。雄飛自身も俺を必死に押え付けた。
 でも、雄飛の驚いたような、何処か軽蔑したようなあの目が脳に焼き付いた。

 あいつは、そんな眼をするような男じゃなかった。
 そんな器用な男じゃなかった。

 だからこそ、あいつは今まで傷付いて来たんだ。
 だからこそ、俺はあいつに惹かれたんだ。
 だけど、『立花雄飛』は過去の人間になってしまった。

 俺は医師から手を離し、自分のつま先を見詰めながら確認のように呟いた。

「雄飛……。お前はもう、いないんだな……」

 それは、全てを諦める為の確認。そう思い込む事が出来れば、いいのに。

「……解らない……」

 雄飛の答えは、その通りで。
 何も知らない、何も解らない。彼は、もう昔の彼ではない。

「……そうか……」

 そのまま、勝手に足が動き出した。
 その場を一刻も早く離れたかった俺にとっては好都合だったが。


 夢の中にいるような現実感の無い廊下を一人で歩いた。周りの景色や人はグニャグニャに歪んでいて判別出来ず、自分の足なのに何処に向かっているのかも解らない。
 そうして気が付いた時、そこは屋上だった。白い洗濯されたシーツがバサバサと風に揺れている。
 俺は壁に背を預けて、ずるずると座り込み頭を抱えた。

 雄飛は追い駆けて来ない。
 そう、俺はまだ希望を抱いている。もしかしたら、突然あいつは帰って来るんじゃないだろうか。

「何やってんだ、啓輔。馬鹿な事してないで、俺の球捕ってくれよ。甲子園は目の前なんだぜ」

 ……そう。甲子園は目の前だ。

 その幻想は、僅かな風と共に消え失せた。
 今のあいつは、野球も知らないんだ。

 やっと掴んだ、夢だったじゃねぇか……。

 今まであいつは泥だらけになって練習して来たのに、こんな形で夢が終わるのか。
 そんなの、辛過ぎる。

 なぁ、神様。
 どうして、どうして、俺からあいつを奪ってしまうんだ。

 なぁ、神様。
 あんたに、俺達が今までどれほど一生懸命に練習して来たか、それが一欠片でも解るのかよ。

 何も知らないあんたに、奪う権利なんて無い。
 例え、あんたが世界を創り出した張本人だとしても。





 啓輔が病室を出て行った後、暫しの間沈黙が流れた。
 だが、看護婦や医師は何事も無かったかのようにテキパキと動き始めた。
 無言で白い掛け布団を握り締めていた雄飛は微かに口を開く。

「お母さん……」

 掠れた声が静寂を破り、ふと医師が手を止める。

「僕は、誰なの? あの人、泣いてた……」

 頭の中で真っ白な画用紙がクルクルと舞っている。
 思い出そうとしても、もうその部位の記憶自体が存在しない。それでも、雄飛は懸命だった。

「僕は、忘れてはならない大切な何かを忘れてしまったの……?」

 巻き起こる不安。
 病室を出る寸前の啓輔の顔が何度も雄飛の前にちらつき、ベッドに座っている雄飛は額を押えて消えそうな声で再度自分の正体を問う。

「僕は、誰……? 僕は、何?」

 母は言葉が見つからず、伸ばしかけた手を引っ込める。

「……あなたは、ただの『立花雄飛』と言う子供……。そして、私のたった一人の息子」

 野球。その存在を忘れたまま生きていくのが雄飛にとっては最も楽な道だろう。
 普通に生きて、普通に死ぬ。それは、以前の雄飛が望んだ未来でなくても。

「お母さん……、彼にとって僕はただの子供じゃなかったみたいだった。……僕は、どうすればいい!?」

 消えた記憶は蘇らない。それを消したまま生きる事も出来ない。
 雄飛の悲痛な叫びに、母は涙を溢した。

 その時、雄飛はベッドを飛び降りて病室から駆け出した。裸足の足を引き摺る背中には医師や母の声がぶつかっていたが、雄飛は止まらなかった。

 啓輔しかいない静かな屋上には風が寂しげにヒュウヒュウと鳴きながら流れて行く。
 今だけは、たった一人の大切な親友を無くした悲しみを唄っているようだった。
 だが、誰も来ないはずの階段から小さな音が聞こえた。
 タンッ……タンッ……。
 まるで足を引き摺るように、一段ずつ近付く足音。

 そして、背中付近にある錆びた扉が悲鳴を上げて開き、俺はそこにある姿に幻想を重ね見た。

「……雄飛……」

 そこに、雄飛は立っていた。
 驚きを隠せず、肩で苦しそうに呼吸を繰り返す雄飛の傍に駆け寄る。

「お前どうして――「僕は!」

 俺の声を遮り、感情的な声が響いた。その一人称を聞いて奇跡など起こっていないと言う事実を知る。
 雄飛は半ば睨むように真っ直ぐ目を向けた。

「……僕は、覚えていないんだ……。自分の事も、君の事も、その、ボールの事も……」

 雄飛は俺の掌にある白球に目を落としたが、すぐに目を上げる。

「だから教えて欲しいんだ。僕は何だったのか。そのボールが何を意味するのか。……君が何者なのか」

 はっきりとした口調。怪我をしている筈なのに凛と背筋を伸ばして佇むその姿に再度あの頃の雄飛を重ね見た。
 ユニホームを着てマウンドに佇むあのエースナンバー。

「―――…… 雄飛」

 あの、雄飛はもう帰って来ないと。
 諦めたふりをしてた。希望を捨てたふりをしてた。

 でも、もしかしたら、雄飛は帰って来るんじゃないだろうか。
 残された小さな希望が何処かで光っていた。