その日、俺達は部活を休んで雄飛の野球を辿っていく事にした。 雄飛は頭がいい。そして、記憶力がいい。俺でさえ覚えていないリトルの事も、もしかしたら覚えていたのかも知れない。それどころか、初めての試合の結果、自分の打率・守備率、各ポジション。相手チームの力。全てを覚えていたかも知れない。そう言う男だった。 そして、まず来た場所は小学校。それは、立花雄飛が生まれて初めて野球に触れた場所だった。 ペンキを塗り直したばかりらしい白い鉄筋コンクリートの校舎が凛然と佇んでいる。それを見て、雄飛はポツリと呟いた。 「……ここ、知ってる」 生い茂った青い草木が一陣の風に揺れた。 「本当か!?」 「うん。そうだ、ここだ……。はは、懐かしいな……」 雄飛は嬉しそうに校舎に向かって歩き始めた。そして、彼は話し始めた。一つ一つの思い出を事細かに、昨日の事のように。 俺は、それが全て本当の事だろうと、嘘偽りではないだろうと思った。意味も無く。ただ、思った。 「そうそう、二年生の頃だったかな。放送委員で給食の時間に大音量で好きな曲を勝手に流したんだよ。あの時は先生から大目玉食らったなぁ」 「とんでもねぇな……」 それから、雄飛は多くの思い出を時には場所を案内しながら事細かに話してくれた。だが、楽しそうに語るその口からは終に『野球』という言葉は出て来なかった。 それから、俺達は中学校に来た。坂の上に建つ古びたクリーム色の校舎に抱かれるようなグラウンドでは紺色の帽子を被った少年達が野球をしている。奥では陸上部らしき少年少女が懸命にトラックを走っていた。高く響く金属バットの音を遠くに聞きながら、雄飛は校門の傍で呆然としている。 「ここは?」 「中学校だよ。お前の、通っていた」 雄飛は俯き、少しの間考え込んだ。 「覚えてない……か?」 「……解らない。でも」 雄飛は顔を上げ、目の前に広がる風景を暫く見つめた。そして、答えた。 「でも、懐かしい気がするんだ」 以前の雄飛を彷彿とさせる光を微かに宿すその目を見て、俺は一つの考えを抱く。 彼の中学生活は、野球を中心に廻っていた。その野球が抜けてしまったので、主軸になるものが見つからなくて小さなシーンが頭の中をグルグル廻っているんじゃないだろうかと。 そして、俺は思った。どうして彼は野球だけを忘れてしまったのだろうか。 「ここは、俺とお前が出会った場所なんだよ」 俺は覚えている限りの思い出を雄飛に話した。だが、本人は誰かの昔話を聞くように、それでも楽しそうに相槌を打っていた。 * それは、中学の頃の或る試合だ。 ゴツンという鈍い音と共に視界は突然真っ暗になった。俺はバッターボックスで悲鳴や驚声を遠くに聞きながらゆっくりと意識を手放したのだ。 そして、ふと目を覚ますとそこはベンチだった。日陰で冷たい風が心地良かったが、目を覚まして初めて見たものが険しい監督の横顔だったから嫌な予感がした。視線はグラウンド。歪み霞む視界で目を凝らして得点を見ると、二点差で負けていた。 俺は驚いた。負けているのだ。気絶する前、相手は無得点だったのに。 (雄飛が打たれたのか? そんな馬鹿な!) マウンドを見ると、そこに雄飛はいなかった。立っていたのは誰も知らないような控えの二番ピッチャー。二番と言えど、雄飛に比べれば実力は天と地ほど違っていて。 その雄飛はライトにいた。拳を握り締めて打たれっぱなしの、まるでバッティング練習のようなピッチャーを見詰めて。 きっと、誰も彼の球を捕る事は出来なかったのだろう。才能故の孤独。雄飛はその孤独とずっと戦い続けて来た。仲間の大切さも、悲しい程知っている。 「チェンジ!」 漸くチェンジした時にはもう九回表だった。 しかし、打者はクルクルと面白いように空打った。あっという間にツーアウトに追い詰められ、廻って来た三番雄飛。応援が大きくなる。俺一人がいないだけで、この状況だ。仲間がどれだけ依存しているのかよく解る。俺にじゃない。雄飛にだ。 守備も、打撃も、雄飛に背負い込ませている。たった一人に。 俺は、雄飛に一つサインを送った。それは、二人で考えたサインだった。 雄飛はふっと笑い、頷いた。 そして、彼は打った。内野ゴロだ。捕球したセカンドが投げようとした時、雄飛は風のように走り抜け一塁に滑り込んでいた。審判の「セーフ」という声を聞きながら俺はバッターボックスに立つ。 一塁でユニホームについた土を軽く払いながら、雄飛は俺に一つのサインを送った。それもまた、独自のサイン。誰も知らない。 キ……ンッ 俺の打球は大きな弧を描きながらフェンスに向こうに消えて行った。沸く仲間のベンチ。ドラマのようなシーンに飛び上がるナイン。笑みを浮かべてダイヤモンドを走る雄飛を遠くに見ながら、俺はやがてホームインした。試合は延長戦を迎え、雄飛は敵の進塁を一切許さず、結局、俺達は逆転勝利した。 勝利を喜ぶ仲間に揉まれながら俺はさっきと同じように『心配するな、俺がいる』というサインを示して笑った。それに対して雄飛もまた『当然、頼りにしてる』と返して来た。 余りにも馬鹿らしくて、下らない。けど、笑ってしまった理由がそれだけじゃない事は解っていた。 * 小学校、中学校。他にもよく行った近所のお好み焼き屋、練習した川原、一緒に怒られた頑固ジジイの古臭い家。沢山廻った。その頃にはもう日は大分傾いて夕暮れだった。 足の怪我もあるし、今日はこのくらいにして高校は明日廻ることにした。 帰り道の公園から見える大きな夕陽は町の中に沈んで行こうとしている。雄飛はそれを見ながら言った。 「綺麗な夕焼けだなぁ」 俺はふと思い出した。彼の名前の由来はこの夕陽から来ているのだと。それを聞いたのは、去年の春。後一歩だったのに甲子園まで辿り着けなくて、悔し涙を流しながら家路を辿る途中だった。 きっと、彼はそれを知らない。俺に言ったという事も、その由来も。 「……僕は日の出よりも夕陽の方が好きだな」 雄飛が呟くように言うので、俺はすかさず訊いた。 「どうして?」 「太陽の最後の足掻きみたいで見苦しいって笑う人もいるけど、僕はそれが好きなんだ。一生懸命でさ。絶対に適うはずのない夜に、最後まで足掻いて真っ赤に光って。なんだか、勇気が出るんだ。ああ、僕も頑張らなきゃって」 いつか、その話を聞いたような気がした。だけど、俺にもそれは思い出せなかった。 雄飛は真っ赤な光に背中を向けて此方に向き直った。 「君は野球部なんだろ?」 「……お前も、な」 「僕はまだ、解らない……。だけど、本当に僕が野球をしていたのならきっと思い出すよ。だから、お願いがあるんだ」 夕陽が、沈む。 「負けないで欲しい」 「?」 「必ず、戻って来るから。だから、どうかそのステージで待っていて」 夕陽を見て勇気が出たと雄飛は付け加えた。 彼の言っている事は簡単だ。自分が戻るまで甲子園を勝ち続けて欲しいと。留守の間を、任せたと。そう言う事だ。難しい事だとは彼もきっと知っているだろう。知っているからこそ、今まで言う事が出来なかったのだから。 朧げだが昔の断片を瞬く光のように見せる様に小さな希望を抱いた。必ず帰って来ると、信じたかった。 「ああ、必ず。俺達は負けずにお前の帰りを待つから。必ず、帰って来いよ」 それは、一つの誓いだった。 |
夢とは、叶わないから夢なのだろうか。
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2、落果
翌日は部活に行った。だが、俺はそこで絶望的な言葉を聞いた。 「雄飛が、引退…!?」 常に厳しく、笑顔など見せないその強面の中年の監督は言った。皆の前で聞き違いの無いようはっきりと言ったが、俺には信じられなかった。。 ザワザワと揺れる部員。疑いと驚きの波が押し寄せる。 「どうしてですか!」 堪らず問い掛ける俺に監督は言った。 「立花はもう無理だ。健忘症と言うのはな、そういうものだ。下手すれば一生戻らない。それがたった数日で戻る筈も無いだろう。それに、足を骨折している」 目の前には、絶望という名の闇が落ちて来た。 雄飛は、戻る場所を無くしてしまった。自ら掴んだ舞台への切符を、使う事が出来ないまま終わってしまう。俺は、約束も果たせずに何一つ返せないままで。 呆然と立ち尽くす俺に一瞥投げると監督はすぐに部員達の方に目を戻した。 「そして、代わりにピッチャーは芦屋」 えっ、と小さな声。芦屋は驚きを隠せないようだった。 「立花に比べれば劣るかも知れない。だが、芦屋も十分戦力になる。……キャッチャーは、お前だ」 監督は俺を指差した。見上げた目の端に嬉しそうな芦屋の顔が映り、爆発させられなかった怒りが沸騰する。気付くと芦屋に掴み掛かっていた。 「芦屋ァ! お前……! どうして笑ってられんだ! 俺達の行く甲子園はなぁ、雄飛が必死に掴み取った舞台なんだぞ!」 こんな、控えのピッチャーが、今まで何の役にも立って来なかったヘボピッチャーが、どうしてあいつの舞台を奪うんだ。どうして、俺がこいつと。 芦屋は俺を腕を力一杯振り払うと叫んだ。 「俺だって一生懸命練習して来たんだよ! あんな天才よりもずっと! 始めから何でも出来たあいつとは違って!」 それは嫉妬だろう。苛立つ。お前に何が解る。 言い返そうと口を開き掛けた瞬間、後ろから声が飛んだ。 「鮫島ッ! 好い加減にしろよ!」 視界が引っ繰り返り、思い切り尻餅着いてから引き倒された事に気付いた。 息苦しくて呼吸が荒い。見上げたそこに立っていたのは、桜澤だった。実力派の頼りになるショートレギュラーでもある。 俺はグラウンドに手を突いて勢いよく起き上がり、今度は桜澤に掴み掛った。 「桜澤…ッ」 「お前一人が辛いみたいな顔してんじゃねぇよ! 皆、辛いんだ! 突然キャプテンを失ったんだぞ! 頼るべき柱無くしちまったんだ! 辛くない訳がねぇだろうがッ!! 」 桜澤は良いやつだ。だから、それはきっと本心だろう。 だけど、その頼る思いがどれほど雄飛の背中に圧し掛かっていたのかと思うと悔しくなる。それでも笑っていたあいつを思い出すと尚の事。 どよめく部員、妙な沈黙が続く。そうして、監督は誰とも目を合わせないまま静かに言った。 「お前ら好い加減にしろ。さっさと練習に入るぞ……」 いつもの元気な返事は、無かった。 * 病院に行っても、雄飛に会わせる顔が無かった。病室の扉の前で暫く立ち尽くしたが、本当の事を言う勇気は一向に沸いては来ない。逃げ出したいと思いながらも手は取っ手に伸びていた。 扉を引き開けると、雄飛は此方を見た。 「や」 白いベッドに座りながら微笑む様は以前と少しも変わりない。俺は、少しの間言葉を失った。ようやく出した言葉は、気の抜けたような返事だけだった。 不審に感じた筈の雄飛は素知らぬ振りで訊いて来る。 「部活どうだった? 大会前なんだろ?」 「あ、ああ……」 言うべき事はあるのに、言い出せない。口から出て来たのは見苦しい嘘だった。 「だ…大丈夫だ! この分なら甲子園も余裕だぜ! お前も、早く戻って来いよ!」 だが、雄飛は少し冷めたような悲しい瞳で。 「何か、あったんだね」 と、言った。 その鋭いところは、前と何一つ変わらないのに。どうして、こいつは野球だけを失ってしまったんだろうか。 俺は今日のことを簡単に話した。苦しくて何度嘘を吐こうかと悩んだけれど、雄飛は黙って頷いて、最後に苦笑した。 「……そっか。余り気にしないで。無理を言ってごめんね、啓輔君」 俺は、無力だ。 たった一人の、今まで支えて来てくれたこいつに何一つ返してやる事が出来ない。たった一つの舞台で待っていてやる事さえも出来ないんだ。 だが、無力だと言ったのは雄飛だった。 「どうして僕は無力なんだろう。僕はいつも誰かに悲しい思いをさせている……」 何一つ変わらない。何一つ変わらないのに、雄飛はいない。 どうして、どうして、神様はこいつから野球を奪ったんだ。 「お前は悪くない……。俺が悪かった」 沈黙が流れた。だけど、俺はすぐにその沈黙を破った。 「でも! 俺はまだ、諦めないからな。お前が帰ってくるのを。待っているから。お前も諦めるなよ」 その時、雄飛は苦痛に顔を歪め額を押えた。 鋭い痛みに浮び上がる掠れた白黒のシーン。頭痛と共に色が着く。鼓動と共に音が出る。 「諦める訳にはいかねぇだろ。まだ、試合は終わっていないんだからな」 「えっ……?」 怪訝そうな表情で俺が覗き込むと、雄飛ははっとして何でも無いと言った。だが、その顔色は優れない。 「うん。必ず、戻って来るよ……」 雄飛の脳に突然浮び上がったもの。グラウンドで笑っていた映像だ。銀色のバットを片手に、土の色をしたユニホームで笑っていたのは他でも無い、雄飛自身だった。 |