何時の間にか、俺は雄飛を過去の人間にしてしまっていた。
約束も都合のいいように塗り変えて、俺は雄飛を待つと約束したのに甲子園で優勝するから見ていろと。
 どうしてそんな事が簡単に言えたんだろう。
 新しいピッチャーを見つけて、俺は雄飛を忘れようとしている。

 俺のした事は、あの時罵った仲間と同じだった。
 この場所まで導いたのは誰だっただろうか。甲子園なんて舞台を夢見る事さえ許されなかった俺達の前に立って、道を作ってくれたのは。

「鮫島……?」
「ああ……」

 待つ事だけが辛いと、どうして思えただろう。
 慌てて電話を掛けようと伸ばした手を止める。受話器を取って、番号を……。
 番号を、覚えていなかった。幾ら考えても、思い出せなかった。例え繋がったとしても、俺はあいつに何と言えばいい。

 言うべき言葉が見つからない。
 言うべき言葉が見つからないまま、俺達は準決勝へと出向いた。






迷いながら踏み出した足は、今も足跡を残しているだろうか。
進む先に道はあるのだろうか。

声は、届くだろうか。

Play the hero.

4、振り返った先






 準決勝。俺達がここまで勝ち残ったのははっきり言って奇跡だ。殆どが危ない試合であり、その内容は見るに堪えない酷いものだった。
 勝ちは勝ちだと、笑っているのは一部の低俗なやつ等だけで、解っているヤツは解っている。次は負けるかもしれない。いや、勝てる訳が無い。そう言う不安に駆られながら試合をして来た。俺もその一人だ。
 雄飛のいない今、チームの唯一のヒッターとして、代役の主将としてここまで来た。その中で、何度もその重圧に潰されそうになる。『俺が頑張らなきゃ。俺以外に誰が』その強迫観念は想像以上に重いものだった。
 きっと、雄飛はずっとその重圧を背負って来たんだろう。そして、たった一人で皆を甲子園まで引っ張ってくれた。誰に罵られても、認めてもらえなくても、独りぼっちでも。……副主将として、俺はそんな雄飛に何かしてやれただろうか。少しでも、助けてやれていたんだろうか。
いや、俺の考えうる限り何一つ出来なかった。ピッチャーと言う唯一バッターに立ち向かうポジションに立つ雄飛に俺は何一つしてやれなかった。言葉を掛けてやる事さえ。

「鮫島ッ!」
「………え?」

 心配そうな桜澤の表情。……そうだ、まだ、試合中だったんだ。
 試合はあっという間に進んで最終回。零対ニだが試合はもう俺達の負けに決まったようなものだった。絶望の色が浮かぶ仲間。その理由が、解らなかった。
 勝ちたくないのか。もう、どうでもいいのか。
思考が纏まらない。もう、何も考えたくない。出来る事なら、もう、負けてしまいたい。
 もう何もかも疲れてしまった。こうして無様に甲子園にしがみ付いて何になる? もしかしたら、負けてしまう方が雄飛にも、俺にも、皆にも一番いいのかも知れない。
 監督は低い声で呟くように言った。

「もうすぐ、お前の打順だ。素振りしとけ。」
「打順? 来るんですか?」

 ワンアウトランナー無し。バッターは九番。絶望的な状況とは言えない。でも、チャンスとは思えない。
 桜澤は力強く肩を掴んだ。

「当たり前だろ! 皆、必死にお前に繋げようとしてんだ! お前がそんなんでどうすんだよ!」
「俺に繋げてどうするんだ。俺が、打てると思ってんのかよ。……そんな事考える前に、ホームランの一本や二本打てよ」
「……鮫島……。お前、どうしたんだよ。勝ちたくねぇのかよ! ここまで来て……」
「……どうでも良くなっちまったよ。負けてもいいじゃねぇか。もう、楽になろうぜ。」

 諦めじゃない。ただ、もういいんだ。頑張りたくなんて無い。俺に向けられるには大き過ぎる期待は重過ぎるんだ。
 俺は、皆の期待を一心に集められるような立派なヤツじゃねぇんだよ。ちっぽけな人間なんだよ。

「誰ももう、勝ちたいなんて思ってねぇよ。観客だって、俺達の勝利なんて望んでねぇ」
「そんな訳ねぇだろ!」

 あるさ。
 顔に書いてあるんだよ。そりゃあ、桜澤は違うかも知れない。でも、他のやつはどうだよ。『もう、自分は頑張った。ここまでやったんだから十分だよ。よくやった』
 そう、書いてあるんだ。観客だってこんな酷い試合見るくらいなら、子供の草野球の方がマシって思ってるよ。なら、もういいじゃねぇかよ……。

その時、頬に衝撃が走った。弾き飛ばされるようにベンチの奥に飛ばされ壁に衝突し、視界がグラリと揺れた。息苦しさに咽返って顔を上げると眉を寄せて睨み付ける桜澤と目が合う。

「馬鹿野郎! ……勝ちたいと思ってない? 勝って欲しくない? 何ふざけてんだ!」

 握り締められた桜澤の拳が震えている。

「勝ちたいに決まってるだろ! 負けたくてバット振ってるやつが……ボール握ってるやつが何処にいるんだ!」

 ベンチの仲間の目が集まっている。
 ひんやりと冷たいタイルの地面に尻餅を付いたまま、手の甲で切れた口の端の血を拭った。桜澤の目は依然として険しいまま、厳しい口調で怒鳴りつけている。

「例えこの球場にいる観客全員が俺達の負けを望んでいてもな、俺達の勝利を願ってるやつはいるだろうが! 立花は、こんな俺達に何て言ったんだ!」

 脳裏に蘇って来た何処か寂しげな電話越しの声。

「頑張って」

 たった一言だけど、あいつは確かにそう言った。
 どんな気持ちで言ったのかは知らない。皮肉なのかも知れない。でも、そう言ったんだ。
 何も出来ないし、馬鹿だし、自分勝手だし、どうしようもない俺達に、あいつは頑張れと言ってくれた。呪いの言葉だって投げられても仕方が無い俺達に、あいつは何気無く、当たり前のように言った。

 あいつは今、この試合を見ている。

「……桜澤」

 名を呼んだ瞬間、球場のアナウンスが響き渡った。

「バッター四番、鮫島君」

 ツーアウトランナー一塁、二塁。
 しっかりととメットを被り、確かにグラウンドを踏みしめて歩み出る。太陽の日差しが真上から照り付けているけれど。

「ありがとう」

俺は、絶対に打つ。たった一言の応援の為に。
たった一つの約束の為に。





「啓輔君……」

 静かな病室にテレビの音声だけが響く。
 雄飛はそれに釘付けになりながら、シーツをしわくちゃに握り締める。そして、最終回零対ニの二死走者一・二塁。逆転のチャンスで、敗北の瀬戸際。雄飛はブラウン管の向こうを呆然と見詰めている。

(啓輔君、僕は君に謝らなきゃならないんだ)

 あの電話の勝利報告を聞いて、君達が負けてしまえばいいと思った。
 本当は、悔しくて悔しくて、仕方無かったんだよ。何も出来ないくせに、其処に立ちたいと願う事は余りに愚かで、友達の敗北を願う僕は最低だ。

 どうして、神様は僕にこんな試練を与えたのか。
 いっそ、記憶じゃなく命を奪ってくれたならよかったのに。

 そうしている間にも時間は流れる。あっという間にツーストライクスリーボール。
 携帯が、鳴った。

「……はい」
立花か?」

 聞き覚えの無い声。いや、あるかも知れない。低く、何処と無く不機嫌な乱暴な口調。
 後ろの騒音が喧しくて聞き取り辛い。

「あなたは……?」
「芦屋ってんだ」

 芦屋は酷く乱暴な口調で続ける。

「試合、見てるか?」
「あ、うん。甲子園だよね。見てるよ」
「……それを見て、何も思わねぇのかよ」
「え?」
「何も思わねぇのかって訊いてんだよ!!」

突然の怒鳴り声に思わず受話器を遠ざけた。だが、それでも耳を塞ぎたくなるような声量で声は続く。

「鮫島が何であんなに頑張ってるか解るかよ! 全部お前の為だよ! ……何時帰ってくるかも解んねぇお前の為に、泥だらけになってんだよ!!」

 テレビの画面の向こうでは追い込まれたバッター、鮫島への運命を決める球が今正に放たれた瞬間だった。
 一か八か、覚悟を決めたような力強いスイング。金属特有の高音が青空に轟いた。
 打球はぐんぐん伸びて行く。大きい。アナウンスが大声で力説していた
 フェンスを越えるか……越えないか。誰もが注目する。
 打球はフェンスに当たり落下した。鮫島が疾走する。二塁ランナーの生還、一塁ランナーが三塁へ。
捕球したライトが振り被る。鮫島が二塁を蹴った。

「駄目だ! 戻れ!!」
「鮫島!」

 一塁ランナーが生還。セカンドが中継に入って、鮫島を刺そうと振り被る。
 だが、鮫島は三塁を蹴った。

――鮫島が何であんなに頑張ってるか解るかよ!

「……僕の、約束の為に……?」

 負けてしまえばいいと願ってしまったのに。
 何も出来ないくせに。解らないくせに。馬鹿で自分勝手な僕の為に?

 鮫島が、地面を強く蹴った。スライディング。セカンドの球はもう放たれている。
 雄飛は拳を握っていた。

「――行けッ!!」

 病室に雄飛の叫び声が響いた。
 鮫島が本塁に滑り込む。砂埃が舞っていた。

 数秒間の沈黙に、時が止まった。皆が審判のコールを待つ。
 そして、審判は砂塵の舞う中でゆっくりと両手を左右に開いた。

「セーフッ!」

 それが解った瞬間、雄飛は答えがある筈も無いと解っているが訊き返してしまった。

「……セーフ?」

 テレビの向こうから沈黙が流れた。
 だが、一瞬にして歓声に掻き消される。まさかの大逆転。こんな奇跡的な試合展開等、滅多に無い。

「……なぁ、立花」

 電話の奥で芦屋が言う。さっきに比べると声は大分穏やかだったが、今も怒りに満ちている。

「お前はそんなところで何やってんだ?」

 テレビ画面の中で、鮫島が皆に抱き付かれている。本人は驚いているのか呆然としていた。

「記憶喪失? 骨折? それがどうしたんだよ! ……俺達の知ってる立花雄飛は、そんな事で野球から離れたりしない!!」

芦屋の声が大きくなる。

「……俺達の主将の立花は……こんな時にただ見てるだけの腑抜けじゃない」

 ゆっくりと、電話が切れた。
 雄飛は、枕元に置かれた白球をそっと握り締める。一部擦り切れた場所の在る白球。甲子園への、チケット。

 耳元で鼓動が聞こえた。大きく脈打つ心臓の辺りを握り締める。
 酷い頭痛に視界が霞んだ。息苦しくて堪え切れずに嗚咽が漏れる。頭痛の中から浮び上がるモノクロの映像は――。

 丸い空、扇形の球場、ダイヤモンド、マウンド、バッターボックス、キャッチャー。
 白球、投球、ミット、アウト。

――お前は、何やってんだ?

 雄飛は暫くの間目を閉ざして、耳を澄ます。耳鳴りのような高音の向こうで聞こえる心臓の音がやけに大きい。

 自転車でふらつく少年。段差に引っ掛かって、車道側に投げ出される。咄嗟に、ダンプカーの目の前に飛び出して……。
 足と頭に鈍い痛み。それから……、上から真っ暗な闇が下りて来た。
 一寸先も見えない真の暗闇は出口の無い洞窟のように寂しくて底冷えする。伸ばした手は何も掴めずに虚空を切った。だけど、呼んでいる。

「帰って来いよ」

 聞き覚えのある声。……覚えが無い筈が、無い。
 だってこれは、『俺自身』の声なんだから。

 ゆるりと伸ばした手を掴む乾いた掌、相変わらず肉刺だらけで硬くて醜い掌だなぁなんて。

 ……
解ったよ、もう、歩き出せる。

 もう、光は目の前にあるんだから。