芦屋は受話器を置き、緑の公衆電話を暫く見詰めてから溜息を吐いた。耳の奥には雄飛の声が残っている。
 以前とは違って何処か遠慮した口調を聞き、記憶喪失は真実なのだと実感した。だけど、それ以上に自分の言った言葉が信じられない。
 『俺の知ってる立花雄飛』
 どの面下げてそんな事が言えただろう。何も出来ないのはどっちだ。雄飛を責める権利なんか誰にも無いと言うのに。
 硬質な光を反射する公衆電話からはもう声は届かない。切断された回線、芦屋は呆然と見詰めている。だが、当然その肩は叩かれた。

「芦屋!」

 振り返ると頬を紅潮させた鮫島がいた。

「勝ったんだ! 俺等!」
「ああ、見てたよ。」

 珍しく大騒ぎしていると思ったが、雄飛がいた頃はいつもこうだった。騒ぐ鮫島を、雄飛が苦笑しながら見ている。桜澤が止めようとしながら、何時の間にか騒ぎに加わって。俺は、それを面白く無さそうに見てる。
 俺は目の前の公衆電話に目を遣った。

「立花に報告しないのか?」
「ああ。なんか、する必要が無い気がしてな。もう伝わってる気がするんだ」

 鮫島は自信気に言う。

「スライディングした時にあいつの声が聞こえたんだ」
「……そうか」

 バッテリーだからか、親友だからか。二人はなんだかんだ言いながらも通じ合っているんだな。
 俺は苦笑した。






掴めないもの程、欲しくなる。
叶わない願い程、見たくなる。

届かない背中程、追い駆けたくなる。
光は其処にあるから。

Play the hero.

5、光の足音






 夏の日差しが強く、じりじりと焦がすように肌を焼く。グラウンドからは陽炎が立ち昇り、視界を歪ませた。乾いたグラウンドを強く踏み付けて立ち、生暖かい空気を肺一杯に吸い込んだ。

「締まって行こう!」

 彼方此方からの大きな返事。
 全国高校野球決勝戦ともなれば、溢れる観客とテレビカメラに学校の凄まじい応援が夏の灼熱の太陽の下で犇めき合っている。
 俺は同級生の応援団の一人に訊かれた。

「なぁ、鮫島。何で、立花いねぇの?」
「……ああ、秘密兵器だから。体力温存って言うか」

 『立花雄飛は何処にいる』
 俺は度々その質問を受けるが、その答えを知っているのは野球部と僅かな学校側の人間だけで皆に緘口令が敷かれている。それでも、人の口に戸は立てられない。何時の間にか、噂として広がっていた。

『立花雄飛は、記憶喪失で試合には出られない』

 こういった噂ほどよく広がるもので、気が付けば対戦校にも知れ渡り半信半疑ながらも事実として受け取り試合に挑んでいた。
 応援団員から離れ、ベンチへと続く薄暗い廊下に下りた。途中で擦れ違った対戦校の選手が呼び止める。

「なぁ、あんた等のキャプテン記憶喪失なんだろ?」
「……さぁ」

 薄笑いを浮かべているそいつを軽く流して行こうとするが、食い下がる。

「だって、皆言ってるぜ? 立花雄飛だっけ? 予選勝ってから出てないだろ」
「……秘密兵器だからな」
「本当は、もう出られないんだろ? ……でも、別にいてもいなくても同じだもんな、関係無いか」

 思わずそいつの胸倉を掴んで、勢い良く壁に叩き付けて凄んでしまった。

「……雄飛は戻って来る、必ず。この試合中に」

 ぱっと手を離して振り返り歩き出した。
 この試合中に、雄飛が帰って来る可能性はどれほど低いんだろう。雄飛が記憶を取り戻して、折れた足を引き摺ってこの場所に現れる確率は。
 これが全て夢だったなら、どんなに良かっただろう。だが、これは現実。

 この試合、例え勝利したとしても俺には「嬉しい」と言う感情が浮かぶ事は無いだろう。
 そんな事を考えながら、グラウンドへの光の入り口を目指す。

 プレイボール。互いに礼。
 顔を合わせて改めて見ると、さっきのヤツは投手だったらしい。機嫌悪そうにこちらを睨んでいるが、それも無視しベンチへと戻る。先攻の為作戦会議だ。

 もしも、この試合に雄飛が現れなかったなら、今までの試合は一体何の為だったのだろう。

 そんな事を考えている。
 ぼーっとしていると桜澤が心配して声を掛けて来た。そうこうしている間に一番バッターがバッターボックスに向かう。

「大丈夫か?」
「ああ……」
「雄飛、か?」
「……俺は、何の為にここにいるんだろうなって思って」
「哲学者みてぇだな」
「だってさ、俺は元々雄飛のお陰で野球を始めて、甲子園へのチケットをもらった。なのに、ここにあいつはいない。……一体、何の為に俺はここにいるんだろうな」
「……鮫島」

桜澤は一瞬、笑う。

「少し、落ち着けよ。雄飛は必ず帰って来る。お前は何もかも背負い過ぎだ。もう少し、楽になれよ。それに、雄飛ばっかり見てくれるなよ。お前はキャッチャーである以前に一人のプレイヤーなんだ。仲間を、敵をもっと見ろよ」

 桜澤の力強い言葉に、小さく力が抜けたように笑った。
 でも、その言葉、雄飛に聞かせてやりたかった。

「……ありがとう、桜澤。其処にいてくれて」

 俺は弱い。そして、頼りない。そんな俺がここまで、雄飛も無く来れたのは支えてくれる人がいたからだ。そんな風に俺も生きられたなら、どんなによかっただろうか。
 俺も、雄飛の支えになってやれたならどんなに良かっただろうか。
 ……解ってるんだ。大切なものは。

「何、言ってんだよ。」

 大切なものは、無くしてから気付く。
 桜澤は照れ臭そうに向こうに顔を向けた。その傍に立ってバッターボックスに目を遣る。仲間の一番打者。
 放られた第一球は、聞いた事も無いような凄まじい音を立ててミットに飛び込んで行った。

「……え?」

 咄嗟に反応する事が出来ず、その一直線に走る球に見入ってしまった。速い。長身から繰り出されるこれが全国一の剛速球。
 桜澤は呆然と呟いた。

「速ぇ……」

 こんな球を、見た事があっただろうか。

「……なぁ、これって、雄飛の球より……」
「いや」

 そんな筈は無い。絶対に。
 でも、否定できない。この球は、雄飛の球よりも、遥かに速い。
 そんな馬鹿な事があるか。あいつは甲子園を制覇し、プロでも活躍して、メジャーでさえ恐れられるだろう最高のピッチャーだ。
 だが。

「ストライクッ! バッターアウト!」

 あっという間にスリーアウト。チェンジだ。
 驚きとショックで指先が震えている。だが、そんな場合じゃない。守らなければ、切り替えなければ。脳はそう理解しているが、目まぐるしい現実に反応が追い付けない。

 キンッ

 ボールが、高く高く飛び上がり、観客席へと消えた。ホームラン。
 まだ一回裏だというのに、何時の間にか点数は零対三に引き離されていた。

「…こんなところで…、負けられるかよ!!」

 芦屋は球を大きく振り被って投げた。だが、それはいとも簡単に打たれる。どんな球種でも、コースでも。
 足りないのは圧倒的な球威、制球力。芦屋が下手とは言わないだけど。

 (ここで、終わっちまうのか…?)

 脳に絶望が浮んだ。





 その頃の病院はいつもの平和な時間がゆったりと流れていた。白く明るい廊下を一人の看護婦が歩く。そして、一つの部屋の前で止まり、ノックした。

「……立花君、検査の時間です」

 扉を開ける。そして、看護婦は持っていた検査の器具やカルテを床に勢い良く落下させた。

「立花君!?」

そこには、もぬけの殻になったベッドが寂しく残されていた。





 試合はそれからどうにか点数は離されなかったが、漸くチェンジした時には皆が疲れ切っていた。
 俺はバッターボックスに立ち真っ直ぐにピッチャーを見る。胸糞悪いやつだが実力は確からしい。そして、試合中の目は本気で一点の迷いも穢れも無い。
 間違い無く、こいつはホンモノだ。

(くそっ……!)

 ここまで来て負けるのかよ。それもこんな惨めな負け方で。
 結局、雄飛も来ないままで。

 ボールは一瞬でミットに納まる。バットなんて追い付かないし、掠りもしない。
 あっという間に、空振り三振。スリーアウト。

 点差は離されていく一方で、後半戦を迎える頃には五点まで差は開いていた。その気持ちを切り換えなければならない場面で致命的な事件は起こる。

「芦屋ァ!!」

 悲鳴のような声を上げて蹲る芦屋に駆け寄るナイン。
 足を捻って派手に転んだ芦屋の足は、すぐに病院に担ぎ込まれてもおかしくはない程青紫色に腫れていた。

 それでも、グラウンドに立とうとする芦屋。皆の浮かぶのは、絶望そのものだった。この回で一点を取らなければ絶望的だ。試合は終わってしまう。

 ここで、負けるのか。

「……芦屋君負傷につき、代打……」

 ベンチの空気は暗く重い。誰も明るくしようなどとしない。もう、解っているんだ。この試合の結果を。敵も味方も観客さえも。
 観客のどよめきの中、桜澤はぼんやりと顔を上げてアナウンスに耳を傾けていたが聞き取れずに首を傾げた。

「代打……誰だ?」

 ツーアウトランナー無し。代打など、レギュラーから溢れた凡庸な選手に決まっている。もう、無理だ。こんな時に、雄飛がいたなら。
 その時だった。

 キンッ――。

 久しく聞かないバットの金属音が、鳴り響いた。
 大きな弧を描く打球は青空に浮び上がり、レフトスタンドにゆっくりと落下して行った。バッターは右手を大きく天に向かって突き上げ、観客はそこに悲鳴にも似た歓声を乗せる。
 俺達は誰も動けずに瞬き一つしないでバッターを食い入るように見ていた。バッターはメットを深く被ってバットを置いて走り出す背中。誰も動けない。歓声一つ上げられない。
 やがて、本塁に帰還したバッターにゆっくりと近付いた。
 深く被ったメットのせいであの強い光を宿した瞳は見えないが、閉ざされた口は微かに弧を描いていた。その口がゆっくりと開かれ、言葉を綴る。

「しけた顔しやがって」


 メットを脱ぎ、見慣れた短髪が揺れた。
 姿を現した黒い双眸には、以前と同じ、いや、それ以上の光が宿っている。雄飛は、その目を微かに歪めて笑ってみせた。

「諦める気かよ。俺の仲間はもっと骨があると思ってたけどな」
「……お前に言われたくねェんだよ……」

 雄飛の肩を叩き、瞼を下ろす。あれだけの球を投げるピッチャーにしては細身で薄い肩。目頭がジンと熱くなる。掌を乗せた肩が微かに震えた。笑っているらしい。

「泣いてんのか、啓輔」
「誰が。……ったく、遅ェんだよ」
「悪かった。でも、帰って来た」

 凛と背筋を伸ばして雄飛は言った。
 咄嗟に誰も反応出来ず、動けない。呼吸さえも忘れたように、光を背にして笑ったその男を穴が空く程に見詰めていた。
 俺は手を差し伸ばす。

「お帰り」

 雄飛は、手を取って笑った。