ヒーローの遅れた登場は場所を問わず味方全てを奮い立たせた。甲子園球場に響き渡るアナウンスは再び観客をどよめかせる。

『芦屋君負傷につき、代わりましてピッチャー、立花君。背番号一番』

 マウンドに登ったヒーローを歓迎するようにアルプスに波が立った。
 声援、どよめき。多くの感情が入り混じった渦の中、雄飛は右手を天上に向かって突き上げる。堪え切れずに歓声が溢れ出した。
 味方側には涙さえ滲む。担架で運ばれて行く芦屋は半身を起こし、漸く舞台に上った雄飛へ喉が張り裂けるような叫びをぶつけた。

「立花ァ! 絶対、勝てよ!」

 雄飛は凄まじい音の中でその叫びを拾い上げ、ベンチの奥へと消えて行く芦屋に向かって微笑んだ。嘗ての穏やかな笑顔は、味方の不安を拭い去るに十分だった。






英雄にはなれなくても、夢を見せる事は出来る。

Play the hero.

6、英雄の虚像






 耳を塞ぎたくなるような音の世界は不協和音のようだった。
 俺は定位置に着き、ミットを向ける。漸く戻ったヒーローがマウンドを均しながらロージンバッグを右手の上で遊ばせている。そして、白い粉を舞わせながら足元に落として此方に目を遣る。
 光そのもののような双眸。マウンドの上だけにこの湿気た空気が排除され、朝の湖の淵のような静けさが漂っている。
 雄飛は掌の中のボールを確かめるように転がした後、ゆっくりとワインドアップした。ざわりと空気が揺れる。
 レッグアップから流れるように緩やかなステップを踏み、振り上げた右手を振り切った。弾き出されたボールは一筋の白い閃光となって一直線にミットまで駆け抜ける。
 飛び込んで来たボールはミットの中でもまだ暴れるように回転を続けていた。強烈なバックスピン。片目を閉じて衝撃を受け止めると、その数秒後に打者が「えっ」と声を上げた。
 背中に審判の声が突き刺さるように響く。

「――トライッ!」

 わっ、と声が上がる。
 俺は口角を吊り上げながら返球したが、マウンドに立つ雄飛は無表情のまま両目を煌煌と輝かせて受け取った。
 数週間のブランクと骨折した足を持つ男の投げる球ではない。湿った空気を切り裂いて行く一筋の閃光が澄んだ空気と希望を連れて来る。
 その一投が与える安心感は、長い間空虚だった俺の胸の中にストンと転がり込んで来た。澄んだ空気は肺を満たし、視界を鮮明にさせて際立たせる。
 バットを振る事も忘れたように動けない打者は見逃した姿勢のまま停止していた。目は真ん丸に開かれ、たった今見たものを疑っている。
 俺は笑いを殺し切れなかった。たった一球で仲間の不安を拭い去り、敵に恐怖を与える。
 雄飛は既に次の為に構えていた。

 高校最速の百五十キロメートル越えのストレートは手元で急に伸びるようで、初見で打てる打者は中々いないだろう。それから、雄飛は同じフォームから百四十キロメートルを越えるスライダーを投げる。当然コントロールも抜群だ。この天才が今の今まで燻っていたのは、一言で言うなら俺達のせいだろう。
 然るべき場所にいたなら雄飛は今頃あらゆる報道機関のトップを飾る有名人になっていただろう。ここにいる事は彼にとっては不幸でしかないかも知れないけど、俺達にはこれ以上に無い幸運に違い無かった。

(本当、お前は凄い男だよ)

 皮肉染みた事を考えながら俺はミットを向けて小さく笑った。
 サインを出すと正面の雄飛は無表情に頷き、当然のように最高の球を投げる――。

 だが、雄飛は目を歪めて笑った。打者に青筋が浮ぶが気付かないらしい。
 怒りのせいか、体に力が入り過ぎた打者はバットを思い切り振り抜いた。だが、放たれたボールは全てを嘲笑うように、乾いた音を響かせてミットに飛び込んで行く。

「――トラーイクッ!」

 ツーストライク。
 俺は動けなくなった。この球は、最強だ。
 脳裏に相手投手の球が思い出されたが、どうして雄飛よりも速い球だと思ったんだろう。
 どうにか返球したところで雄飛は受け取り、あのサインを出して来た。

『頼りにしてる』

 ……馬鹿だな、お前はよォ。
 そんな事を思いながらも嬉しかった。お前はいつも昔のまま変わらないでそこに帰って来てくれるんだな。

 三球目を握った雄飛は大きく振り被った――。

「ストラーイクッ! バッターアウト!」

 審判の声が高々と響いた瞬間に鳥肌が立った。
 あれだけ苦戦を強いられた打者をたったの三球。それも全て直球。
 あっという間も無く三者凡退に抑えた雄飛は凄まじい歓声の中でベンチへと向かい走り出している。俺は邪魔臭いプロテクターを抱えて後を追った。
 雄飛のホームランで一点返したが、現在七回表にして点数は一対五。向かい風でしかなかった状況は動き出したが、四点差は大きい。例えこれから相手の得点を完全に抑え込んでも、情けない事に俺達は簡単に点は取れない。
 打順は一番に戻り、トップバッターが思い詰めた暗い表情でバッターボックスに向かう。雄飛はその肩を掴んで呼び止めて言った。

「任せたぞ、一番」

 そうして、いつもの子供っぽい笑みを浮かべる。マウンドでは無表情で容赦の無い強烈な球を投げた姿を見ているので、本当は二重人格なんじゃないかと思う。
 一番打者は数秒の沈黙を挟み、俯いて噴出すように笑った。

「任せとけ!」

 今まで聞かなかったような元気一杯の声で返事をすると、勇み足でバッターボックスに向かって歩き出す。
 それに励まされたのか、ベンチの奥で俯いていた筈の仲間は身を乗り出して声を振り絞って応援を始めた。
 俺は、その太陽のような力に驚きを隠せなかった。キャプテンでエース、その存在はこんなにも大きかったのか。
 雄飛は俺の隣りに座った。

「啓輔」
「何だ?」
「楽しいな」

 雄飛はそう言って笑った。

「今すっげぇ楽しい。やっぱり、野球大好きなんだ。俺、お前等と同じチームで本当に良かったよ」

 その寒い台詞が妙に似合うから不思議だ。似合い過ぎて涙が零れそうだった。
 お前は知らないんだ。お前がそうやって誇れる仲間が影でどれ程好い気になってたのか。重荷でしかない存在の癖にこういう時だけ頼るやつ等が何を言っていたのか知らないし、きっと、興味も無いんだろうな。
 雄飛の言葉に誰もが目を伏せた。
 解るかよ、俺達はこんな男を、努力して皆を支え続けてくれたキャプテンを有無を言わさずに消し去ろうとしたんだ。
 桜澤はその肩をそっと掴んで呟くように言った。

「雄飛……、ありがとう」

 本人は首を傾げていた。その時、グラウンドから鋭い金属音が響き渡った。
 一番打者が一塁に滑り込んだ瞬間だった。酷い砂埃の中で中々起き上がらないが、審判は両手を開いて「セーフ」を言った。
 ベンチが沸き立つ。観客席が揺れる。この試合初めてのランナーが出たのだ。当然、応援の声も大きくなる。

「続けー!」
「チャンスだぞ!」

 やっと風向きが変わったのだと解った。このチャンスを逃す訳にはいかない。
 皆がそう解っているだろう。だから、誰もが思い描いたチャンスは続いた。連続したヒットによって無死満塁と言う最高のチャンスが終に訪れた。
 その最高の場面のバッターは、運命か偶然か、四番。俺はベンチを出た。だが、その向けた背中に雄飛の声が飛んで来る。

「啓輔、ここはお前の仕事だぜ。頼んだ!」

 雄飛は親指を立てて笑った。俺は馬鹿らしいと思いながらも同じように親指を立てて笑い返し、バッターボックスに向かう。
 バッターボックスにはさっきまでとは全然違う空気が流れているように感じられた。湿気が引いて、酷く澄んでいる。
 この中で打てば、そりゃあ、打てない訳は無いな。
 そんな事を考えながらゆっくりと構えた。頭の中にはあいつの声が蘇っている。解ってんだよ、馬鹿。俺を誰だと思っていやがる。ランナーを返すのは、クリンナップ、俺の仕事。頼まれなくたってやってやるっつうの。
 初球ボールを見送る。ピッチャーが嫌そうな目をした。それから、俺は二球目のシュートを思いっ切り叩いた。
 高い音が尾を引いて青空に伸びた。白い点が雲に紛れて姿を消し、落下した時にはセンターを越える。惜しくもホームランにはならなかったが、セカンドランナーまでが帰還して点数は三対五まで食らい付き、状況は無死走者二塁・三塁となった。

 足が痛むのか、ベンチに座ったまま声援を飛ばしている雄飛に桜澤は話し掛ける。

「なあ、雄飛」

 雄飛は顔を上げた。

「俺はお前に謝らないといけない」
「何で?」
「お前がいなくってもいいやって、思っちまった……」

 搾り出すような桜澤の声は掠れていた。
 夢だった甲子園に出場してどうにか勝ち進む内に、雄飛はいなくても俺達だけで十分だと思った。そりゃあ、感謝はしてた。でも、それだけだった。このまま雄飛が帰って来ても来なくても関係無い。いらない。
 桜澤は俯いていた。

「ごめん……、ごめんな……」
「馬鹿だなぁ」

 雄飛はなるべく明るく言った。

「お前は間違っちゃいねェよ。俺なんていなくっても十分強いんだから、胸を張れって」
「何言ってんだよ! 今までの試合見てなかったのか!? あんな、ギリギリの勝ちなんて……」
「勝ちは勝ちだ。お前がいてくれたから勝てたんだぜ? ありがとうな。今度は、お前に代わって俺が支えてやるからさ」

 桜澤は目を丸くした。
 どうして、こいつはこんなに真っ直ぐなんだ。こんなに酷い目に遭って、誰も理解してくれない中で苦しんで来て。ひねくれたって誰も可笑しいと思わない。もっと歪んでいても当然なのに、呆れてしまう程真っ直ぐで。
 桜澤は目を閉じて力無く笑った。

「……それは、こっちの台詞だ」

 目を開くと雄飛の顔がある。きょとんとしていた。

「俺がお前を全国一のキャプテンにしてやるよ」

 雄飛は目を真ん丸にして驚いていた。そこから数秒の沈黙が流れ、今度はくしゃりと笑った。

「馬鹿言うな。……俺が、お前等を全国一のチームにしてやる」

 言った後で少し照れ臭そうに頬を掻く。
 照れるくらいなら言わなきゃいいのにと思ったが、つられて笑ってしまった。

「その言葉、信じてるぜ」

 桜澤はベンチを出て行った。
 その後、桜澤のライト前ヒットで三塁ランナーは帰還したものの後が続かずチェンジになった。
 雄飛は再びマウンドに立つ。
 点数は四対五まで一気に追い付いた。こんな試合展開を一体誰が予想できただろう。観客は勿論、この試合を見ている人は皆瞬きする事さえ億劫になる程に真剣だった。
 雄飛の快投によって七回を三者三振に抑えると、コールド負けさえ頭の中にあったこの試合も今では勝利の文字が見える。あと、たったの一点なのだ。
 雄飛がいれば失点はありえない。チームもこの状態ならば一点は重くない。
 そんな事を考えて、笑った。
 しかし、試合は思うようには進まない。
 ブランクがあるせいだろうか、雄飛の投げる球はバラつきがあった。今では全国一と名高い最高のストレートを見せたかと思えば、甘いコースの甘い球を投げたり。相手もそれを見逃さずに打って来る。
 さらに、攻撃では思うように点は入らない。相手投手が全国で胸を張れる相当な実力を持っている事は改めて解った。
 試合は一進一退の攻防を見せ、点は変わらぬままついに八回の守りもツーアウト、打者のカウントはツー・ナッシングになった。
 そう、最後の一投のはずだったんだ。