二死で走者を背負わない最後の打者をツー・ナッシングに追い込んだまでは良かった。ここで一球遊んでも良いが、今の良いペースを崩したくない。
 インコースにあの強烈なストレートを射抜いてくれ。そのサインに雄飛は確かに頷いた。そして、ゆっくりとワインドアップする。
 雄飛は大きく振り被った。観客の声がその白球を追う、その数瞬前に足が踏み出される。踏み出された足は膝から折れるように曲がり、雄飛は苦痛に表情を歪め投げた後で崩れるように倒れ込んだ。
 俺は目を疑った。倒れた雄飛、そして、甘過ぎる緩やかなストレート。打者の目に光が宿る。
 振り抜かれたバットの切った風が頬を凪いで行った。鋭い高音、地面擦れ擦れの打球は兎のように素早く跳ねて行く。そして、ショートを守っていた桜澤が拾い上げて一塁に投げた。矢のような送球はファーストミットに飛び込み、一塁審は手を前に出してアウトを宣告した。
 俺はキャッチャーマスクを上げてマウンドに走り、審判はタイムを取った。雄飛は膝を抱えたまま蹲り、顔は今まで見た事が無い程苦しそうに歪んでいる。傍に膝を着き、起き上がらない雄飛を呼んだ。

「雄飛! 大丈夫か!」

 雄飛の目は痛みを堪えるように強く閉ざされ、何の反応も見せない。
 まさか、折れてしまったのだろうか。嫌な予感が心臓を早鐘のように打つ。背後に群がって様子を窺う仲間も不安げな声を漏らしていた。
 それから暫く不安の時間は流れ、悲鳴を上げたい衝動を抑え込みながらも遠くから駆けて来る救急員の足音を聞いていた。だが、雄飛は何度も深呼吸を繰り返しながらゆっくりと上半身を起こす。驚愕か安堵か空気が森の木々のようにざわりと揺れた。だが、雄飛は立ち上がれない。膝がぶるぶると震えている。
 限界だったのかも知れない。ここまで投げていたのは奇跡だろう。もしかしたら、雄飛はこれまでの投球でも痛みを押し殺していたんじゃないだろうか。
 もう楽にしてやった方がいい。これ以上背負わせちゃいけない。良くやった、褒められて当然。なのに、出来無かった。喉の奥から出て来る声は正反対の言葉を叫ぶ。

「立てよ!」

 はっとしたように雄飛は顔を上げた。

「ここで終わる気か? まだ、試合は終わってねェんだよ!」

 誰もが妙なものを見る目だった。信じられないと無言の抗議が聞こえる。
 でも、こいつはここで終わったらいけない。立ち止まってる暇なんかない。だって、今までずっと見えないゴールに向かって走り続けてたんだ。なら、最後まで行かなきゃいけない。お前のゴールはここじゃない。
 この言葉は決して自分に向かってなんか言えない重いものだ。でも、雄飛になら言える。

「立て!」

 雄飛は、力無く笑った。
 そして、血の気の失せた唇を噛み締めて震える足のままゆっくりと立ち上がる。膝の震えは無理矢理押し込んでいるように見えた。顔は蒼白で額には汗の雫が張り付いている。こんな状態のピッチャーに向かって『立て』なんて言うキャッチャーは間違っていると思うけど、構わなかった。
 それでも、雄飛は誰の手も借りずに一人きりで立ち上がったんだ。そして、額の汗を拭って言った。

「そう、だよな。ここで終わったら……駄目だよな」

 直立した瞬間、彼方此方から声が上がった。微かに聞こえる拍手に応えるように足元に落下した帽子を拾い上げ、ゆっくりと被る。そして、笑って見せた。誰の目にも強がりである事くらいは解るのに、周りに集まった仲間を押し退けて自分の足でベンチへと歩き出した。
 その後姿が酷く儚く見えた。誰も動けない中で審判は遅れながら「チェンジ」を叫び、俺は漸く雄飛の背中を追い掛けて走り出す。
 悔しかった。
 拳を握り締めて奥歯を食い縛る。漏れそうになった嗚咽は呑み込んだ。
 俺は何をしているんだ。限界を迎えているピッチャーを無理に立たせて、手も肩も貸せずに歩かせて。俺は、何の為にいるんだ。
 駆け足でベンチへ向かうが、後ろから来た仲間がどんどん先に抜いて行く。途中、桜澤が肩を叩いた。

「あいつはお前を責めたりしない」

 そうして、暗いベンチの奥で手当てを受けている雄飛を見た。歩いていたところを見る限り折れてはいないのだろうが、大怪我には代わり無い。桜澤は目を伏せて言葉を続けた。

「誰かが、言わなきゃならなかったんだ」
「……言わなきゃならなかった?」

 復唱した後で桜澤を睨み付ける。

「どうしてだよ! あいつは……」

 その先を言葉にする事は出来無かった。
 神を恨んだ。頭の中で何度も殴って殺した。原型が無くなるくらい、襤褸布のようになるくらい痛め付けた。それでも、腹の虫は治まらない。
 どうして、あいつばっかりがこんな目に遭うんだろう。何一つ悪い事はしていないのに。頑張ってただけじゃねェか。誰に認められなくても、馬鹿にされても何を言われても只管努力して来たじゃねェか。諦めなかったじゃねェか。
 何で、認められないんだよ!
 神なんか死ねばいい。そう思いながらベンチに戻ると、手当てを受けていた雄飛はガチガチにテーピングされた足を引き摺って来た。

「啓輔、ありがとうな。もう心配掛けないから」

 それは、予想外の理解出来無い言葉だった。
 でも、悔しくて。心配くらい掛けさせろ、仲間だろうが。強がってんじゃねェ、解るんだよ。
 言えない言葉は頭の中でループする。思い浮かぶまま吐き出せたらどんなにすっきりするだろうかと思うけれど、出来無い。それは俺のやっていい事じゃない。
 雄飛は子供っぽい笑顔でピースを向ける。

「あと二点だからな」

 そう、逆転には最低でも後二点。一点差で負けている状況と雄飛の不調は大きなプレッシャーになるだろう。だが、それを悟っているのかさっきの姿はもう何処にも残っていなかった。

「ここで二点取ってくれよ。そうしたら、裏は俺が抑えるから」

 俺達はベンチの前で円陣を組んだ。次からの攻撃は一番に戻る最後のチャンスになるかも知れない。雄飛は肩で息をしながら言い、その言葉に支えられ、皆は大きな声で返事した。
 






欲しかったものは、手を伸ばせば届くものだった。

Play the hero.

7、孤独のエース






 球場に響くアナウンスに促されてトップバッターはバッターボックスに向かい、皆は張り裂けるくらいの大声で応援を始めた。
 人気の無くなったベンチの奥で、張り詰めていた糸が切れたように雄飛は椅子に倒れるように座り込んだ。それに気付いた桜澤はそっと傍に寄って訊く。

「大丈夫か?」

 片膝を着いて顔を覗き込みながら見るが、暗い上に帽子を深く被っている雄飛の顔は見えない。だが、その口は弧を描いて平然と言い返して来た。

「馬鹿野郎、誰に言ってやがんだ」
「蒼い顔してるお前だよ」

 桜澤の目は真剣で、雄飛は思わず息を呑んで言葉を失った。

「辛いなら辛いと言え。小学生じゃねェんだから」
「辛くねェ。俺は平気だ」
「お前が平気でも、皆は平気じゃねェよ」

 雄飛は動きを止め、その言葉の意味を拾おうとする。桜澤は続けた。

「お前が強がる程に皆が苦しくなる事を忘れるな。皆、お前が倒れる事が恐いんだ。恐いもの知らずのお前とは違ってな」

 雄飛は帽子の影に隠れた目を閉ざし、眉を寄せて唇を噛み締めた。数秒の沈黙が流れ、外からの騒音が遠退く。だが、雄飛は目を閉ざしたまま口を開いた。

「恐いものくらいある」

 開いた目は影の中で灼熱の太陽のようにギラギラと輝いていた。

「俺は、負けるのが恐い。敗北は今まで積み重ねて来た全てを一瞬で崩しやがる」

 スポーツマンが好きな言葉に『努力の分だけ花が咲く』というものがある。だけど、それは引っ繰り返せば結果の無い努力は認められないという事だ。
 咲かない花は花ではない。存在さえ否定される無言の脅迫。勝利に対する強迫観念。負ける事は、諦める事は、立ち止まる事は許されない。

「勝たなきゃ俺がいる意味なんて無い。負けたら、俺は……」

 雄飛の瞳が揺れた。桜澤は呆然とその姿を見ている。
 『天才・立花雄飛』なんて、始めから何処にもいなかったじゃないか。
 こいつだって始めから何でも出来た訳じゃないんだ。全ては誰にも見られない日陰で続けた想像も出来ないような量の努力によって得る事の出来た実力と自信。それでも、心の底では自分の居場所は無いのだと凍えている。
 今までこいつの弱い姿なんて見た事無かった。泣き言なんて聞いた事無かった。だから、誰もその当たり前の弱さに気付けなかった。
 それなのに、こいつはここまで傷だらけの足を引き摺りながらここまで歩いて来たじゃないか。たった一人きりで……。
 そうして、桜澤が俯いているとフォローするように雄飛は付け加えた。

「俺は負けないから。どんな相手にも負けたりしねェし、何処にも逃げたりしねェ。お前等に頼られるようなキャプテンで在り続ける為にもさ」

 桜澤は雄飛の言葉に違和感を覚えた。そこにある歪んだ強迫観念が薄っすらと姿を現したのだ。
 負けたくないから勝つ訳じゃない。勝ちたいを願っているから、ここに立っている筈だ。気付いてみれば、自分達とは大きく掛け離れた場所で戦っていたように思う。今まで、誰と戦って来たんだろうか。
 完璧が服を着て歩いているような男だと思っていたけど、違った。こいつは完璧なんかじゃない。心の中で孤独を抱えながら強がって歪もうとしている、一人の仲間なんだ。
 だから、俺達はこいつについて来た。
 俺は、やっとこいつに手を差し伸べられる。

「完璧な人間なんて誰も望んでない。苦しいのに無理するそれは強さじゃない。お前の弱さは認められない訳じゃない。頑張ってる事くらい、知ってんだよ」

 桜澤は雄飛の帽子のツバを下げた。

「お前の居場所は皆の先頭でも無ければマウンドでも無い。皆の輪の中心がお前のいるべき場所なんだよ」

 ツバを下げたのは、照れ臭かったからだ。臭い言葉を平然と言えるような薄ら寒い度胸なんて自分には無いと思っている。でも、言わなければ永遠に解らないんだと気付いたから言わなきゃならない。

「仲間を利潤で計るやつはこのチームにゃいない。お前も自分の事を物差で計ってんじゃねェ。馬鹿でもアホでも雑魚でも、俺達にとっちゃ全部一人の立花雄飛って馬鹿な男なんだ。弱さ隠して笑うくらいなら、顔上げて大声で泣きやがれ」

 雄飛はツバを上げた。見開かれた目がきょとんと此方を見ている。桜澤は舌打ち交じりに言った。

「試合中、苦しくなったなら振り向いて見ろ。前には鮫島だっているだろ」

 桜澤が言ったと同時にグラウンドから高音が鳴り響いた。粘り続けていた一番が漸く内野を抜く鋭い一打を見せたのだ。
 その打球を見た瞬間に雄飛は立ち上がり、足の怪我も忘れてベンチから身を乗り出して叫ぶ。一塁に滑り込んだ時に審判の「セーフ」という声が聞こえた。雄飛はガッツポーズをした。

「続けェー!」

 あっという間に応援に混ざり溶け込んでしまった雄飛の背中を見ながら桜澤は苦笑した。
 外側から見詰めて来た桜澤には、このバッテリーが漸く理解出来た気がした。