立花雄飛も鮫島啓輔も、多くの人間から見れば大した天才プレイヤーだ。お互い正反対に見えて何処か似通っている。だからこそ、こうしてバッテリーを組んで名を馳せている筈だ。
 似ているのは才能じゃなくて歪みだ。
 誰かの為に英雄を演じ続け、吐き出せない孤独と弱さを隠し続けるエース。
 才能に恵まれたエースを見詰めながら自分の限界に怯えるキャッチャー。
 彼等を追い込んだのは、力を持たない弱い人々の大きな意思。もう引き返せない道は何処まで続いているんだろうか。その先には何が待っているんだろうか。
 桜澤は雄飛の背中とバッターボックスの鮫島の横顔を見ながら思った。何時まで背負わなければならないんだろう。遠過ぎる苦しさは永遠に共感する事なんて出来無い。
 そして、雄飛が多くの記憶の中で『野球』だけを忘れてしまった理由はそこにあるんじゃないかと思った。

 なあ、お前、本当は野球辞めたかったのか?






俺は逃げない。
全ては背負うべくして背負ったものだから。

Play the hero.

8、Lonely?






 八回表の攻撃はワンナウト・ランナー一・三塁。バッターボックスには四番、鮫島啓輔。応援席には波が立ち、溢れた声援がグラウンドを駆け抜け選手各々に響いた。
 俺はゆっくりと呼吸をしながらバットを前に掲げた。太陽は徐々に傾き、衰えて行く。やがて死に絶える光の腹を食い破って闇が顔を出すだろう。
 同点まで後一点、逆転まで二点。
 ゆるゆるとバットをいつも通り構えると、焦った顔のピッチャーが正面で汗を拭ったのが見えた。お前の期待した立花雄飛が登場したんだから少しくらい喜んでみろよ。まあ、俺なら絶対喜べないけどね。
 一球目、ボール。
 見送ると背後でキャッチャーが舌打ちしたような気がした。そりゃ、そうだな。
 二球目、ボールに流れて行くカーブ。
 これも見送る。解るって。今はお前がどんな球投げるのか、手に取るように解るんだ。ボールなんか体力の無駄だぜ。潔く打たれて、終わっちまえ!
 三球目で漸くインコースに抉り込むような変化球が投げられた。確かに俺は変化球は苦手だよ。でも、今ならどんな球でも望むところだぜ。メジャー級の球だって打てる気がする。
 振り被ってバットに衝撃が伝わった瞬間、雄飛の声が聞こえた。

「行っけェ!」

 ……何が『行け』だよ。本当は馬鹿の癖に難しい病気に掛かりやがって。覚えてろよ、試合終わったら頭蓋骨が陥没するくらい殴ってやるからさ。
 お前の馬鹿さにはほとほと呆れるぜ。全部一人で背負い込みやがって。隠す事ばっかり上手くなって、誰にも気付かせないで最後はどうする気だったんだ? 吐き出せない感情と一緒に心中でもしたのかよ。
 お前がいなくなってから代役としてキャプテンやって漸く解った。すっげェ重いじゃねェか、辛くて苦しいじゃねェかよ。でも、何処にも吐き出せないんだよな。背中に圧し掛かる期待を裏切ってしまったらと思うと恐くて仕方無かった。
 もう解ってんだ。俺はお前に素直になれとかそんな寒い事は言えねェよ。俺はお前に何も言わねェ。

 大空に、ブラウン管の向こうで何度も繰り返されて来たドラマの幕開けの音が響いた。轟く高音はアルプスに反響して頭の上に振って来る。
 打球は大きな放物線を描いてライトスタンドへと向かっている。
 行っけェ!

 打球はフェンス手前から急に減速を始め、スタンドの向こうに届かないまま落下した。ライトがグラブを構え――落ちた。ツーアウト。
 一塁、三塁共にランナーはスタート。
 おいおい、マジかよ。
 雄飛の声が聞こえた。うるせェ!

 三塁ランナーが砂埃を立てながら滑り込んだ。殆ど同時に三塁へ鬼のような送球。遠目に見る限り、三塁は駄目だったかも知れない。だけど、本塁とどっちが早いのか。
 主審は目を細め、土色を移している白いホームベースに伸びたランナーの手を見詰めた。そして。

「セーフ! ホームイン!」

 歓声が飛び上がった。
 俺は帰って来た一番打者に手を貸す。同点には、追い着いた。
 八回表の俺達の攻撃に一点が追加された。
 ベンチに戻ると雄飛がプロテクターを投げ付けて来た。

「犠牲フライかよ!」
「うるせェ!」

 雄飛は口を尖らせたまま帽子を被り直す。熱を帯びた紺色の帽子のツバを上げて点数を確認し、これ見よがしに溜息を吐いた。

「同点か」
「お前、自分が言った事忘れんなよ。裏はお前が抑えんだろ」
「男に二言はねェよ。大体、誰に言ってやがる」

 背中を向けた雄飛は言った。

「俺が本気で投げてんのに失点したなら、お前のリードが悪ィんだよ」

 此方を見て小馬鹿にするように鼻で笑うとマウンドに向かって走り出してしまった。ついさっきまでの姿が嘘のようだけど、こっちが本当のあいつだ。
 舌打ちしながらプロテクターを着けていると、隣りに桜澤が立った。丁度太陽を遮る位置に立ったので俺には長い影が落ちる。桜澤の表情は思い詰めたようだったので嫌な予感がした。

「どうした?」
「いや……」

 桜澤は言い難そうに口篭もったが、少しだけ目を伏せて言った。

「雄飛はどうして、野球の記憶だけを失ったんだろうなって思って」

 それは確かに俺も思った事だけど、答えなんか見つからないだろうが。
 そう言ってやろうとした言葉は桜澤によって遮られた。

「もしかしてさ、あいつ本当は野球辞めたかったんじゃないかな……」
「雄飛が?」
「あいつが背負ってたもんがどんだけ重いのかやっと気付いたんだ。俺なら、堪えられない。きっと、お前だって堪えられない。そんなもん一人で誰にも理解されないままでいたあいつが思うなら無理無い話だろ……」

 思わず、笑った。

「馬ッ鹿じゃねェの?!」

 すると、桜澤はきょとんとした顔をしたかと思えば眉を寄せた。だけど、撤回するつもりなんて微塵も無い。

「考え過ぎ。あいつはお前が思う程弱くも無ければ賢くも無い。馬鹿だからな」

 確かにあいつは温厚篤実・頭脳明晰・容姿端麗・スポーツ万能っていう完璧みたいな男だけどさ、本当はもっと馬鹿なんだ。要領が悪いって言った方がいいのか。

「勝手にやらせときゃいいんだよ。立てなくなるまで放っておけばいいんだ」
「……それじゃ」
「その代わり、倒れたら俺が何とかしてやる」
「は?」

 口を半開きのまま時間を止めた桜澤の背中をスパイクで蹴る。そのまま走り出す背中には文句が幾つか聞こえたけど無視した。
 雄飛はそんなに脆くない。しなくても済む苦労を人の為なら進んでしちまうだけだ。馬鹿げてるし度を越えたお人好しだけど、そういう人間が一人くらいいたっていいさ。
 俺はお前の走りを止めたりしねェよ。俺にはお前の荷物は重過ぎて背負えねェしさ。
 お前のメチャクチャな走りは止められないし、止めたくない。どんなに傷だらけになっても、腕がもげようが足が千切れようが構わねェし、ぶっ倒れてもいい。
 だけど、その時に俺はお前にタオルでも差し出してやるよ。泥だらけ血塗れになったお前の前に胡座掻いて「頑張れ」の一言でも言ってやる。
 お前が泣こうが喚こうが知ったこっちゃねェ。でも、お前がそうしたように俺もお前を置いては行かねェよ。

 マウンドでは、光を背負ったエースが凛然と佇んでいた。あの無表情でグラブを嵌めて、深く被った帽子のせいで目は暗くなって見えない。
 普通なら調子を訊いた方がいいんだろうけど、こいつに限っちゃ逆に怒るからなァ。

 突然、雄飛は背中を向けた。大きく息を吸い込み、叫ぶ。

「……後二回だ! 締まって行こうっ!!」

 腹の底から出た声は何万もの歓声の中で驚く程に響き渡った。仲間は目を丸くた一瞬の沈黙の後でそれぞれ笑みを浮かべ、同じくらい大きな返事をした。それに合わせるようにアルプスが揺れる。
 雄飛は振り返った。帽子のせいで相変わらず目が見えないし敵から見れば相当恐ろしい図だ。目線が入ったような男の口は弧を描いている。
 あの球が投げたいんだろうなと思った。
 サインを出すと笑みを消さないまま頷いた。ここまで投げさせなかった雄飛の決め球は同じフォームで投げやがるから見慣れた俺でもかなり危ない代物だ。
 マウンドを均し、ゆっくりと構える。
 そして、振り被った――。





 病院に運ばれた芦屋は手当てを受け、漸く落ち着いたところで試合中継を見る事が出来た。古臭い四角形のテレビ、自分がついさっきまでのこのブラウン管の向こうにいたのかと思うと歯痒く思う。
 今は代わって、本物のヒーローが登板してしまったけれど。
 俺の事なんか誰も覚えていないだろうな。そんな事を考えて自嘲した。

 同点八回裏の守備。マウンドで雄飛が振り被っている。
 そして、放たれた――。

 腕とは反対の側に滑るボール。映像でさえ異常に速く見えた。
 ミットに飛び込む乾いた音。激しい応援団の大合唱の中で歓声が上がるけれど、その球に気付けたのは一体何人いたんだろうか。

 高速スライダー。
 生唾を飲み下す。実況のアナウンサーが興奮しているのか叫ぶように話すのも当然だ。俺には無い、最強の武器。この球を打てるやつなんかそうそういないさ。

 ストライク、審判の声がした。
 そのスライダーは一度きりで、次からはストレートで押して行く。さっきの様子を考えるとスライダーばかりで攻めるのは恐いんだろう。だけど、その存在を頭に植え付けられたなら十分な筈だ。こんな場面まで温存しやがって。
 あっという間の三振。高速スライダーがダイジェストとして流れるけれど、改めて恐ろしいと思った。
 本当に、雄飛はすげェよ。俺とは天と地程違う。俺の失点をあいつはカバーするけれど、俺は何も出来無い。こんなところで応援も出来無いしな。
 俺なんか、本当は始めからいらなかったじゃねェか。
 続く打者にはもうスライダーは投げない。見せ球だったんだろう。三者三振に球場が沸騰しそうな程に沸き上がった。

 ――その時、雄飛はテレビカメラに向かってピースをした。
 アルプスから甲高い悲鳴のような声が上がっているけれど、雄飛は口を大きく開けて何かを言っているようだった。
 その口を読んで、呆然とした。

「芦屋、見てるか」

 目頭に熱があった。
 堪え切れなかった余熱は雫として頬を伝う。

 出来過ぎなんだよ、この野郎……。
 ブラウン管の向こうでは、最後の攻撃を迎えようとしていた。