同点のまま迎えた九回表、最後の攻撃は打者は五番の桜澤から始まる。応援もいよいよラストスパート。掠れた声が飛び交っていた。 芦屋の代わりに入った雄飛の打順は八番。もしかしたら廻るかも知れない。 恐らく出番が無い上に犠牲フライで終わった俺は精一杯応援する。桜澤がニ遊間を抜く鋭い一打を見せ、球場全てが沸き立った。身を乗り出して叫ぶ雄飛、思えば確かに何故こいつは『野球』だけを忘れてしまっていたんだろう。 「なあ、雄飛。お前は何で野球だけを忘れた?」 大歓声の中、微かな声で訊くと雄飛は首を傾げる。俺は、桜澤の言葉を繰り返した。 「お前、本当は野球辞めたかったのか?」 「――――はっ?」 長い沈黙の後で妙な声を上げた雄飛は眉を寄せる。 「何で俺が野球辞めたくならなきゃいけないんだよ」 「じゃあ、何で」 雄飛は唸りながら難しそうな顔をした。腕を組んで考え込む向こう、グラウンドからはバッターアウトの声が飛ぶ。そこで雄飛は「あっ」と声を上げた。 「多分、事故の時に野球の事考えてたからかな」 笑いながらそう言い、七番打者がバッターボックスに向かったのを見てバットを持ってベンチを後にする。背中を向けて軽く手を振って行く姿が妙に似合っていた。 やっぱり、あいつは人が思う以上に単純だ。 何でも出来るけれど、その分要領が悪くて、度を越えたお人好し。それはいつかあいつ自身を滅ぼすんだろうと思うけど、放っておこう。 倒れた時は何度でも手を差し伸べてやるからよ。 それが、親友だろ。 |
決着を着けるのは俺しかいない。
Play the hero.
9、本物のヒーロー
ツーアウト・ランナー三塁。雄飛はバッターボックスに立ち、バットを掲げた。 決着を着けるのは、やっぱり俺みたいだな。神様も中々粋な事をしてくれるぜ。バッティングはピッチング程に自信は無いけど、ここで打たなきゃ嘘だな。 俺は、俺を待っていてくれた仲間を絶対に裏切ったりしない。 そりゃあ、足は痛いさ。罅入ってるもん。体力もそろそろ限界だし、延長戦なんかになったら間違い無く俺が崩れるな。だから、早く終わらせよう。甲子園で感動している時間は俺には無い。この後は皆に一発ずつ殴られなきゃならないしな。 目の前でピッチャーが唇を結んだ。この投手はここまで来るだけあってかなりいい投手だ。スピードもコントロールもあるし体力もある。もっと余裕がある時に勝負したかったけど……ね。 プロで会おうぜ。 メットのツバを軽く下げて桜澤にサインを送る。頷いた桜澤は思い詰めた顔をしているけれど、大丈夫だろう。問題は俺だしな。 失敗したら、もう一イニング付き合ってくれよ。 一球目の外されたボール球、桜澤が三塁を蹴ったのが遠くに見える。ベンチからは悲鳴に似た声が上がるけど気にしない。外されるのなんか想定済みなんだ。 知ってるか? 俺はもうバット振るのも辛いんだぜ。平気なふりは得意だからさ、誰も気付かなかっただろ。 短く構えたバットにピッチャーが目を真ん丸にするのが見える。ストライクゾーンから外れたボールの勢いを殺し、三塁線ぎりぎりに転がした。定位置にいたショートが慌てて駆けて来るのを横目に俺は走り出した。 流れる景色、風を切る音が周囲の声を掻き消してくれる。痛みは忽然と消えていた。 頼んだぜ、桜澤。 乾いたグラウンドを蹴って滑り込む。送球は無かった。その代わりにホームからざわめきが聞こえるが、酷く遠い位置にあるようだ。地面に突っ伏したまま耳を澄ます。 「セーフッ!」 雄飛は、地面に突っ伏したままでガッツポーズをした。一塁コーチャーとしてそれらを見ていた鮫島は呆然としていたが、ベンチで声を上げた仲間に一足遅れて叫んだ。 声は形にならず、雄叫びのように響く。球場そのものが大きく揺れ動いた。真夏の空気が沸騰する。 何気無く一塁に目を遣ると、地面に突っ伏したまま起き上がらない雄飛の姿が見えた。俺は狂喜をしまい込んでそこに向かう。 一塁の傍に立つと雄飛が恨めしそうな顔で此方を見た。何してんだ、お前。 「さっさと起きろよ」 「……腰抜けたかも」 「ふざけんな!」 その腰を蹴っ飛ばすと雄飛は悲鳴のような声を上げた。途端に跳ねるように起き上がった姿を見て笑う。 「まだ、試合は終わってねェんだぜ」 「解ってらァ」 茶色く染まった膝を軽く叩きながら雄飛は鼻を鳴らした。 その後の攻撃は惜しくも続かず、一点の勝ち越しのまま最後の守備を迎える。ベンチに戻った時、桜澤は不敵な笑みを浮かべた。雄飛も同じく笑みを浮かべて拳を向ける。二人は拳をぶつけて笑った。 だが、桜澤は少しだけ目を伏せて訊く。 「……大丈夫か?」 桜澤は雄飛が記憶を無くした原因が野球を辞めたかったからだと思っているんだろう。俺はプロテクターを着けつつ弁解してやろうかと思ったが、雄飛は笑みを浮かべたまま言った。 「そんなに心配すんなよ。俺はキャプテンだぜ」 「お前は色んなもん背負ってるからな。そろそろ限界じゃねェのか」 「そろそろねェ……」 雄飛は首を傾げる。 「俺の背負ってるもんは昔から何も変わっちゃいねェ。増えてもいなけりゃ、減ってもいない」 「背負ってるもん?」 俺が訊くと雄飛は笑った。 「俺が背負ってんのは人に認められるような立派なもんじゃねェ。薄汚くって惨めったらしいそいつは、俺の重荷になりながらも、何時だって寸でのところで支えてくれる。そいつさえありゃあ、挫けそうになるギリギリのところで引き返して来れる。……俺の意地は、骨みてェに簡単にゃ折れねェよ」 そう言って雄飛は桜澤を指差す。 「俺ァ人様のもんを重荷だなんて感じた事はねェぜ。期待も信頼も全部勝手について来るもんだ。俺が俺を裏切らねェで真っ直ぐ歩いて行きゃあぶっ潰れても最後に手ェ差し伸べてくれる。……どっかの、馬鹿なキャッチャーみたいによ」 「言ってくれるぜ」 俺は偉そうに語る雄飛の口頭部を叩いた。振り返った表情には消し切れていない笑みが残っている。 俺はこいつの呆れるくらいの要領の悪さと度を越えたお人好しなところを尊敬すらしている。吃驚するぐらい自分勝手な人間がいるんだから、笑っちまうくらいお人好しな人間がいなきゃバランス取れねェだろ。 桜澤も呆れたように笑った。その気持ち解るぜ、俺達のキャプテンはこんなに馬鹿なんだから。 「ラストイニング、頼むぜお前等! 頼むぜ、馬鹿キャッチャー!」 「当たり前だろ、馬鹿キャプテン!」 皆が背中を叩いてベンチを出て行く。残ったのは俺と雄飛だけだったが、先にベンチを出て振り返った。 「任せとけよ、馬鹿エース」 俺はあのサインを出した。 『心配するな、俺がいる』雄飛は照れ臭そうに笑って『当然、頼りにしてる』と返して来る。桜澤だけは意味が解らずに首を傾げていた。 いよいよ九回裏、最後の守備。一点差勝ち越しのプレッシャーは相当重く、お互い疲労がピークに差し掛かる。だが、そういう時にこそ『奇跡』とは起こるものだ。応援もラストスパートだろう、張り裂けそうな声が掠れているようだった。 最初のバッターの目には危機的状況故の奇妙な光が宿っている。一番恐いのはこういう者だ。 俺は雄飛に向けてサインを出す。マウンド上の雄飛は絵画のようにぴたりと当て嵌まり現実離れして見えた。だが、何処と無く疲れた顔で頷き、ワインドアップする。 ラストイニングだ。踏ん張れ。 雄飛は大きく振り被った。放たれた白球は、俺からも閃光のように見える。打者は歯を食い縛ってバットを握っている。バント――。守備が走る。だが。 「――トライッ!」 掠りもしない。打者の目には光の粒が留まっていた。でも、必死なのはお互い様なんだよ。 俺は次のサインを出し、雄飛は頷く。そして、振り被る。 濁った音が空に響いた。殺し切れなかった打球はピッチャー真正面。怪我の事を思い出してヒヤリとしたが、雄飛は軽く捕って一塁に投げる。 「アウト!」 走り切った打者が崩れるように倒れた。ワンナウト。膝を着いて涙を落としている。グラウンドには涙が染み込む。 この土は、一体どれ程の涙を吸って来たんだろうか。 俺は次の打者を横目に見ながらサインを出す。このサインも後少しで終わるのだろうか。――いや。 正面で雄飛が笑った。顔色は良くないし、九回裏が始まったばかりなのに息が上がっている。それでも、笑うのかよ。 終わらない、終わらせない。続くんだよな、お前の道は。雄飛の言葉が脳裏に蘇って来る。だから、お前は馬鹿なんだよ。でも、意地も貫きゃ誇りになるぜ。 乾いた音、腹の底まで響くような衝撃が掌から伝わる。 「――トーライッ!」 器用貧乏で要領は悪くて、呆れる程にお人好しで、何処までも馬鹿で。 そんな男だから俺達はついて来たんだぜ? 「ストライクッ!」 そして、三球目。 「――トライクッ! バッターアウト!」 これでツーアウト。最後の打者はこれも運命か、ピッチャーだった。雄飛はそのピッチャーに挑発でも無ければ同情でも無い穏やかな目を向ける。 最後の打者になり、凄まじい応援の中でマウンドだけが静かな空気を保っている。そこからじわじわと広がる静けさはグラウンドを包んで行く。 時々、雄飛は俺達とは才能とは違う意味で遠く離れた世界の人間なんじゃないかと思う。馬鹿らしいけど、例えば天から来たような。 雄飛は大きく振り被った。 「――トライッ!」 打者は振り切った姿勢のまま動けない。 それだけの球だぜ。多分、今のこいつの球は俺にだって打てねェよ。捕るので精一杯だ。 俺と雄飛じゃ才能なんて全然違う。でもな、こいつは置いて行かねェんだよ。 高校受験の時も強豪校から誘いが来たのに全部断って俺と同じところにしてくれた。こいつは近道もアスファルトの道も全部辞めて俺達と一緒の泥濘だらけの道選んでくれてんだ。それに応えられないような仲間じゃいたくねェ。 俺はあいつの全力投球を受け取る事しか出来無ェけどな。 雄飛は真っ直ぐ、半ば睨むようにミットを見詰めている。そして、あの無表情で振り被る。 「――トーライッ!」 ツーナッシング。ラスト一球。 雄飛は目を細めていた。目の前にいる親友の持つミットがやけに大きく見えるのだ。 小学校に入学する少し前、幼稚園を卒園して少しした頃。一家を支えてくれる筈の親父が列車事故で死んだ。毎朝の通勤ラッシュがその日は特に酷くて、親父は近くにいたOLを庇って線路に落ちてしまった。誰かが飛び降りて引っ張ってくれれば間に合ったかも知れない。でも、皆助けてくれなかったらしい。 親父はバラバラになった。指は終に揃わなかった。歪んだ顔は葬式で公開されなかった。焼かれても骨は欠片ばかりで殆ど拾えなかった。 他人なんか放って置けば良かったんだ。葬式に参列してくれた他の人は口を揃えてそう言うけど、俺は思えなかった。 親父は自分を犠牲にして他人を助けたんだぜ。何で責められるんだ。褒めてあげてよ。親父、バラバラになっちまったけど頑張ったんだぜ。顔もぐちゃぐちゃだけど最後はきっと笑ってるんだ。 なあ、親父。あんたはきっと恨まなかっただろ? だから、俺も誰も恨まないよ。代わりにあんたが頑張ったように俺も頑張る。あんたの分まで生きるよ。誰も恨まない、誰も憎まない、最後まで諦めない。一生懸命やるよ。見つからなかったあんたの指は、きっと最後まで生きようとして外に伸ばしたんだろう。千切れて何処かで腐っちまったんだろうけど、それは最後まで頑張った立派な証だよ。 俺もそんな風に生きるから。親父が守る為に生きたように。 でも、これは義務じゃない。俺の意地なんだ。親父のように俺が生きるから。 あんたは永遠のヒーローだよ。俺も、そんな風になれるだろうか。 親父のようになりたいなんて、誰にも言えなかった。言えば母は泣いただろう。皆は否定しただろう。誰も認めてくれなかっただろう。 でもさ、啓輔は違うんだぜ。俺を最後まで走らせてくれる。もう駄目だって思った時に背中を押してくれる。頑張れって言ってくれる。 労わりなんかいらなかったんだ。感謝も謝罪もいらない。俺が欲しかったのは、たった一言の「頑張れ」だったんだ。 前を見れば、お前は黙ってサインをくれる。何も言わずに背中を押してくれる。それだけで、良かったんだ。 (ありがとう) 雄飛は振り被った。マウンドでは無表情の男に笑みが浮んでいる。放たれたのは何の変哲も無いストレートだ。だが、ミットに吸い込まれる。 「ストライクッ! バッターアウト!」 雄飛はマウンドで大きくガッツポーズをして雄叫びを上げる。俺はキャッチャーマスクもミットもボールも全部投げ捨ててマウンドに駆け寄った。審判の「ゲームセット」の声をが遅れて聞こえる。 降り注ぐ歓声、溢れる涙、殺し切れなかった嗚咽。皆が雄飛に駆け寄って抱き付く。骨に罅が入ったままの投球なんて自殺行為だ。その衝撃で雄飛は倒れ込んでしまったけれど、俺達はそのまま抱き着いていた。 「やったぜ、雄飛!」 「お前は最高のエースだ!」 溢れる声、雄飛の瞳が揺れた。 (俺、頑張った?) 雄飛は仰向けに倒れて空を見上げている。吸い込まれそうに蒼い空、ちらちらと浮ぶ綿雲。日輪は何処にあるか解らないけれど、その果てで幼い頃に見た父親の面影が笑っていた。 涙が沸き上がる。目頭が熱くなり、鼻の奥がツンと痛くなる。涙が零れた。引っ切り無しに零れる涙は拭っても切りが無いのだ。 「やっ……」 叫ぼうとした雄飛は止まった。だが、涙を拭うと俺の方に拳を突き出した。 「俺達、やったな」 俺は、やったのはお前だと言ってやりたかった。でも、掠れて声が出なかった。代わりに拳をぶつけた。雄飛は笑っていた。もう、涙は無かった――。 |