熱気溢れる球場――。

『――さあ、とうとう最終回。六対五で迎えた九回表もツーアウト・ランナー三塁。試合もいよいよ終盤となりました……』

 喧しいアナウンスを聞こえる中、俺は深呼吸をする。観客席から溢れる声援は反響し、東京ドームの天井から音の粒子となって雨のように頭上から降り注ぐ。其処此処から弾丸のように飛んで来るプレッシャーは重く背中に圧し掛かり、前向きな意志とは裏腹に冷や汗が頬を伝って顎から落下した。
 緊張感が胃をキリキリと絞め付ける。だけど、正面の男は全ての状況を楽しむように笑っているのだ。

『チャンスとピンチを兼ね揃えたこの場面でバッターボックスには四番の谷口広郷』

 谷口広郷といえば知らぬ者はいない。今世紀最高の打者と言われているくらいで、昨年の成績は打率七割を越えていた。この場面には相応しい。
 対するピッチャーはマウンドで帽子を深く被り直して表情は窺えない。だけど、俺にはその男がどんな顔をしているのか解る。どうせ、笑ってもいなければ焦ってもいないただの無表情だ。あいつは高校最後の公式戦以来、マウンドでその表情を崩していない。

『バッテリーは嘗て甲子園で一躍ヒーローとなった期待のルーキー。キャッチャーの鮫島啓輔は若干二十三歳ながらも野球をよく理解し、常に相手の裏を掻いて来るトリッキーであり……』

 フルカウント。
 ピッチャーは少しだけツバを上げて目を細める。サインが見難かったのかも知れないが、予想した通りの無表情でいた。
 この状況で眉一つ動かさないなんてどんな神経してんだよ。

『ピッチャーはこれまで幾つものドラマを演じ、数々の記録を打ち立てて来た天才こと、立花雄飛。キャッチャーの鮫島とは中学以来のバッテリーで……』

 帽子を被り直した雄飛がグラブの中でボールを握る。マウンドから、再びあの静けさがじわりと広がって行った。気温が実際に下がってしまったのではないかと錯覚して身震いしてしまう。
 昔から何も変わらない男だな。
 雄飛は口を結び、頷き構えた。

『四年間の大学野球の後の登場ですが、その成績は皆さんの知るところでしょう。さあ、何を投げる。立花雄飛投手……、投げたァー!』





 甲子園で全国制覇を果したあの日から五年の月日が流れた。
 試合中に復帰して俺達を優勝に導いた雄飛は試合後に結局骨折して病院に運ばれたが、深い睡眠の後に目覚めてもいつも通りだったので皆一様に胸を撫で下ろした。
 その後、プロからのスカウトや高校生ドラフトもあったが、俺と雄飛は全ての期待を裏切るように大学へ進学した。それから、四年間の大学野球を通して二十三歳の今年揃ってプロ入り。同じチームでバッテリーを組む事になったのは全くの偶然だが、腐れ縁もここまで来ると笑えて来るから不思議だ。もう何処までもこの馬鹿に付き合ってやろうとさえ思えて来る。
 月日が流れるのは驚く程早い。今この瞬間も思い出になり、何時かは忘れてしまうのかも知れない。
 雄飛の身に起こった器質性健忘症、所謂記憶喪失を通して色々な事が解った。例えば天才と呼ばれる立花雄飛の人間性、それを包む環境、背負い続けたもの、俺が出来た事と出来無かった事。
 振り返れば様々な感情が入り混じってしまっているけれど、その空間にある俺達は確かに輝いていた。俺はあいつみてェに常に前だけ見て生きる事なんて出来やしねェ。だから、ちょくちょく振り返っては笑ったり落ち込んだりして行く。





『――ストライクーッ!』

 俺の耳には審判の声だけが聞こえた。観客席が波立ち、声が押し寄せる。
 雄飛は帽子を被り直してマウンドから小走りに離れた。そして、俺の横に追い付くと帽子を脱いで中を覗き込んでいる。

「何か被り心地悪ィな。これ、本当に俺の帽子?」

 妙に帽子気にしてたのはそのせいかよ。
 俺は帽子を無理矢理頭に押し込んでベンチに入った。
 今シーズンの最後を締め括る優勝を懸けての最終決戦まで勝ち進んだ俺達のチームのベンチは緊張感が溢れている。その中を雄飛は帽子覗いて首を傾げていた。

「何でだろ。名前書いておけば良かったなァ」

 皆の目が集まるが雄飛は何も気にしていない。肝が据わってるのか馬鹿なのか紙一重だ。
 俺がベンチ奥に座ると同じように隣りに座る。帽子は「まぁ、いいや」と言って結局被った。
 最終回、一点差で負けているプレッシャーの爪痕は彼方此方に見られる。どちらのベンチにも気合は漲っているが、マウンドにいる時と同じように雄飛の周りだけは気温の違う静けさが支配している。その理由は未だに解らないが、俺はこの静けさが嫌いじゃない。水に浮ぶような穏やかさで頭が冷静になるからだ。
 俺は雄飛の手を見た。爪の手入れをしているらしいが、その左の薬指には銀色の指輪が光っている。不本意ながら溜息が出てしまう。

「結婚式の予定は?」
「来月かな」
「はぁ!?」

 思わず大きな声を出してしまったが、試合に集中している為に誰一人振り返らなかった。
 実は、雄飛は大学卒業と同時に高校の頃から付き合っていた彼女と婚約した。茶化されるのが嫌で黙っていたらしく、その彼女の顔を知ったのも突然呼び付けられた居酒屋で婚約した事を知らされた夜だった。二人が幸せならいいかと思ったが、知らされたお陰で巻き込まれた俺へのマスコミの追っ手は相当酷かった。
 雄飛は腕を組んで試合をじっと見詰めているが、俺はその横顔に問い詰める。

「突然過ぎるだろ!」

 怒鳴り付けるが雄飛はしれっとして言った。

「まだ決まってないよ。式場にはそうするかもって言っただけだし」
「どういう事?」
「優勝した年に結婚しようって約束なんだ」

 雄飛は目を細めている。最終回の試合は一点差で負けているが、現在ワンナウト・ランナー三塁。俺の打順は目の前だった。
 慌ててネクストバッターズサークルに走るが、雄飛がぽつりと呟いた。

「今年は無理かなァ」

 俺は立ち止まった。周りが早く行けと急かすが、これは譲れない。呆れる程安い挑発だが、乗らない訳にはいかない。

「……式場に電話しとけ」
「ああ、断っとくよ」
「そうだな、来週じゃ間に合わないだろ。招待状もどうせ書き終わってねェ癖に」

 雄飛は鼻で笑った。

「後は日にちを入れるだけさ」
「じゃあ、しっかり予約しておくんだな」

 前の打席の選手のカウントが一杯になる。俺以上に周りが焦って急かすが、悠々とその前を歩いてやった。後で何言われるか知らねェがもういい。
 ベンチから出ると審判の「ストライク」と声が聞こえた。バッターアウト。これでツーアウトじゃねェか。最高最悪の場面だな。
 ここで打てたらヒーローだぜ。
 雄飛の声が聞こえた気がした。ああ、本当にな。なってやるよ。
 顔を上げると球場の光が目を刺すようだった。太陽とは比べものにならないくらい俺は嫌いだ。だけど、俺は打つ。
 バッターボックスに入る寸前に観客席を見回した。実は、俺にも現在彼女はいる。元々は雄飛のファンだったという奇妙な巡り合わせだが、これもあの男に感謝するべきなのかも知れない。悔しいけど。
 その彼女は今この球場の観客席の何処かで見ているらしいが、予め場所を教えて貰ってもこの一万人越えの中からたった一人を見つけるなんて不可能だ。初回にそれを遣って退けた男が傍にいるけど、それは例外。
 俺はバッターボックスに立ち、バットを構えた。集中を始めると周りの激しい声援が一気に遠退いて視界が鮮明になる。俺は、雄飛が彼女を見つけた瞬間を体験した。
 三塁側スタンドの一番前、両手を握って縋るような目を向けている。白いワンピースを着て茶色の長い髪を巻いている。何だよ、見えるじゃん。
 俺は小さく息を吸い込む。相手は高校ドラフトで現れた期待の新人らしいが、名前は知らない。癖や持ち球等のデータと共に確かにいいピッチャーだとは記憶しているけれど。
 そのピッチャーが放つボールは一筋の線となって六十フィート・六インチの距離を走る。だけど、やはり高校生レベルだな。
 俺は、翔け抜ける白い閃光をいつも受けて来たんだ。
 彼女の縋るような目とか、雄飛とその彼女が婚約報告に来た時の幸せそうな顔だとか、大学卒業後に大企業に就職した桜澤とほろ酔い機嫌での会話だとか、スポーツインストラクターになった芦屋の後姿だとか色々なものが脳裏を過った。
 最後に彼女の笑顔が出て来て打ったなら格好も付くんだろうけどな、最後に見えたのは小馬鹿にして来る相方の笑顔だったよ、畜生。

 俺はお前が泣こうが喚こうが知らねェ。ぶっ潰れたって興味も無い。だけどな、生きてる限り俺はその背中を蹴っ飛ばしてやるよ。嫌がったって何度だって起こしてやる。しゃくり上げる背中を笑ってやる。お前が泣き止んでまた走り出すまで何時までも待っててやるさ。
 腐れ縁だろうが悪友だろうが、俺にとっちゃ親友だしな。お前がそうしたように、俺も置いては行かねェ。
 まぁ、彼女が泣いたら俺は慰めるけど。

 俺はグリップに力を込めた。地面を踏み締め、思いっ切り引っ張る。打球は甲高く鳴きながらレフトへと走った。





 雄飛の結婚式が行われたのは、それから二週間後だった。
 仲人を頼まれた俺の原稿が完成しなかった為に先延ばしになったんだ。お陰で向こうは慌てて日にち変更の手紙を夜通し書き殴っていたけど、写真の中の二人は幸せそうに笑っていた。
 俺の子供が生まれたのは翌年の事だ。WBCに出場して見事優勝を勝ち取ってからの所謂、出来ちゃった婚な訳だけど。
 時間が流れるのは本当に早くて、俺達が思い描いた夢は目の前に壁として立ち塞がったりする。そんな時は深呼吸でもして正面を見る事にしてる。何年経っても、そこにはあいつがいやがるんだからさ。
 本当、とんでもねェ腐れ縁だよな。






終わらない、終われない。
終わらせたくないから、終わらせない。

Play the hero.

10、親友






End.