最近、思い出す事がある。それは本当に些細な、聞き間違いかも知れない。その程度のものだけども、ふとした時に思い出す。 雄飛が入院したあの日、俺は、聞いた気がした。 俺を呼ぶ声を。 * 雄飛が引退という形を取らされてから二日経ち、俺達野球部は大会の為に慣れた土地から少しの間離れた。甲子園球場のある兵庫県はに到着してからも厳しい練習は続いている。 俺は今も夢の中にいるような気持ちで練習しているが、試合が始まるのはいよいよ明日だ。心臓が高鳴り、指先が緊張と恐怖で震える。 そんな時に笑って肩を叩いてくれるあいつはいない。 解っていても目はグラウンドを探してしまう。皆の中心で率いて行く筈のキャプテンは、何処にもいないのに。 「鮫島」 声を掛けられて振り返ると、そこには桜澤が立っていた。 「雄飛は、どう?」 「相変わらずだよ」 昨日電話した時も雄飛は相変わらず「僕」「啓輔君」等と言っている。戻って来た暁には、思い切り殴ってやりたいと思い苦笑した。 「でもさ、最近気になる事があるんだ」 「気になる事?」 それも些細な事だろうか。 だけど、俺にそれを判断する権利は無い。もしかしたら、重要なのかもしれないから。 「雄飛さ、最近、ぼーっとしてるんだよな」 「マジで?」 「なんか頭痛があるみたいでさ。その後、暫くぼーっとしてんだよ」 桜澤は首を傾げながら軽く相槌を打つ。 「疲れてんじゃねぇのか? 女房役ならなんとかしてやれよ。――尤も今は浮気中みたいだけど」 「うっせ」 振り上げた平手は避けられ虚空を切る。 「好きでやってる訳じゃねぇよ」 楽しそうに笑う芦屋を横目に見ながら、溜息を吐いた。 「……お前の苦労も解るよ」 「はは……」 笑えない。 同時に恐怖でもある。もしも雄飛が戻って来なかったらどうなる。考えるだけで泣き崩れてしまいそうだ。我ながら女々けど、恐くて仕方が無い。 雄飛に出会う前の俺が、今の俺を見たら鼻で笑うだろうが。 * 雄飛の病室は静かだった。 昼間だというのに廊下は人通りが少なく、時折スリッパの床を擦るような音が反響する。雄飛はテレビを点けたままだったが、それ等の環境全ての音を無視して思考の海を穏やかに泳いでいた。 沸き上がる泡のように疑問が溢れ返って脳が可笑しくなりそうだ。でも、放っておけば余計に何が起こるか解らない。 不意に目を遣ると窓の外に広がる透き通るような青空が見え、少しだけ羨ましく感じた。 僕は、誰だ? 脳裏を過るモノクロのシーン。それは頭痛と共に着色され音が出る。どれもこれも覚えていないのに何故か懐かしい。そして、その中には僕や啓輔君がいる。 僕は、本当に忘れてしまったんだろうか。どうして、だろう。 「キャッチャーがいてこそのピッチャーだからな」 そう笑っているのは、僕だ。 何がそんなに嬉しいのか。誰よりも嬉しそうに、誇らしげに。隣に立つ啓輔君は照れ臭そうに顔を伏せていた。 「敗北を知らなきゃ、勝利は掴めないからさ……」 悔しそうに涙をボロボロ流して言ったのも僕だ。 何がそんなに悲しいの? 一体、何があったって言うの? 沢山の映像が頭の中に溢れている。グラウンドを走り回ったり、ボールを投げるのは、僕ではないみたいだ。 あれが僕ではないならば、あれは誰? あれが僕ならば、ここにいる僕は誰? 僕は、誰なんだ。誰でもない僕は、何の為に存在しているんだろうか。存在する意味も持たない。力も無い。自分もいない。居場所も無い。 僕は何? 薄く、闇が顔を出したような気がした。 |
本当に望んだ結末は、何時だって訪れないから。
本当に欲しかったものは、何時だって手に入らないから。
Play the hero.
3、喪失階段
甲子園での試合、一回戦をどうにか勝つ事の出来た夜だった。風呂上りに宿の電話を借りて、いつものように雄飛に報告しようと思って受話器を持ち上げる。ダイヤルを押そうとした手は、空中で停止した。 廊下を軋ませる数人の足音。笑う、声。 「立花先輩ってもう用無しだよな。って言うか、記憶喪失とか嘘臭ェし」 「引退させて大正解だよ。流石監督」 電話を繋ぐ前で良かったと思った。 受話器を元に位置に戻し、背後を通り過ぎて行く後輩の肩を掴む。振り返った顔は、俺だと気付いて絵に描いたような驚愕を浮べていた。 沸騰しそうな血液が体中に循環して行く。視界に紅い光が瞬き、見ていた後輩の目に振り上げた俺の拳が映った。 鈍い音が低く響き、衝撃を与えた拳には疼くような痛みが残る。後輩は年期の入った廊下の床板の上を滑るように弾き飛ばされ、壁に衝突して漸く停止した。 悲鳴とどよめきの中、駆け付けて来た幾つもの手が俺を抑える。 「鮫島! 落ち着けッ!」 制止の声も無視して、もう片方の後輩の首元を掴んだまま離さない。殴ろうと持ち上げた腕は既に押えられて殴る事は叶わない。でも、このままじゃ済まさない。ここにナイフがあれば刺し殺した。 許さない。 「お前に何が解るんだッ!」 叫びながらも掴んだ手は離さない。双眸に涙が滲み、恐怖で歪んだがどうでもいい。 誰も理解してくれないじゃないか。甲子園出場の名前を手に入れて、一回戦を勝ち進めばもう天狗。こいつが何かした訳じゃない。ただ、大勢の中の一人として観客席にいただけなのに。 笑っちまう。お前がやって来た事は、こんな名前も知らないような雑魚に笑われるくらいちっぽけな事だったかよ。 「お前みたいなクズに、雄飛を馬鹿にする権利はねぇんだよ! 甲子園に来る権利さえな!」 後ろから必死に抑える桜澤の声が今は遠い。だが、同じように腕を押えていた芦屋が搾り出すような声で言った。 「鮫島ッ……! ここで、問題を起こすな!!」 漸く我に返った時には辺りは静まり返っていた。後輩二人は惨めにガタガタ震えている。 俺は掴んでいた手を捨てるようにして離した。 「何なんだよ、お前等……。誰も、雄飛の事を解ってやろうとしないのかよ……」 どうして、そんなに簡単に忘れることが出来るのだろうか。どうして、どうして解らないんだろうか。 俺の恐怖よりも、誰の不安よりも、雄飛自身の抱える恐怖は大きいって事にどうして気付かないんだろう。 自分が誰か解らない。積み重ねて来たものが全て、泡のように消えてしまった。それが、どうして恐怖では無いんだと思うんだ。 「鮫島……」 桜澤の声も無視して俺は部屋を後にした。その後も部屋は静かなままだった。 * その場を離れた俺はロビーのソファに座って天井の節目をぼんやりと眺めていた。 世の中に対する諦観は性分だった筈なのに、何時の間にか多くの希望を見ていた。全部諦めて捨ててしまえば傷付く事も苦しむ事も無い。それでも、捨てずに抱え込んで歩き出そうと考えるようになったのは、何時からだろうか。 「鮫島っ!」 呼ばれた方向には息を切らせたジャージ姿の芦屋平次がいた。絶対に認めたくないと思う大嫌いなピッチャー。 睨み付けると芦屋は少し目を伏せ、ばつが悪そうに言った。 「あのさ、俺……。立花は戻って来ると思うんだ」 「当たり前だ。でも、お前が雄飛を語るんじゃねぇ。お前があいつの何を知ってんだ」 言い捨てて目を背けた。 俺は忘れない。雄飛が引退させられて、代わりにエースになった瞬間に浮べた芦屋の嬉しそうな顔を。絶対に、認めない。 芦屋は目を伏せたまま呟くように話し出した。 「……俺、リトルの時から野球やってんだよ」 いかにも興味無いというように背を向けたが、芦屋は続けた。 「俺は才能も頭脳も無い人並みのレベルしかない凡庸なピッチャーだよ。立花とは天と地程の違う。けど、俺は小学校の時にある天才キャッチャーと出会った。運良くそいつと組む事になったんだけど、迷惑ばっかり掛けてたよ。相手は天才だし、俺をしっかりリードしてくれる。でも、俺はそれに応えられない。必死に練習したよ。追いつきたくて、対等の舞台に立ちたくて。あいつは、俺がどんなに惨めな試合をしても、笑って励ましてくれたもんだ。奢ってた訳でもなかった。今思えば、立花みたいなヤツだったな……。天才で、頭も良くて、優しくて、強くて、かっこよくて」 懐かしむように、噛み締めるように芦屋は言葉を綴って行く。何時の間にか俺は聞き入っていた。 「中学に行っても、高校に行ってもバッテリー組もう。そんで、甲子園で優勝しよう。そう、約束してたんだ。馬鹿みたいだよな。小学校だぜ? でも、あいつがそう言ってくれて、本当に嬉しかった。認めてくれているって事が、当たり前に俺に居場所をくれるって事が」 その気持ちが、解る気がした。 何でも出来て、誰にでも必要とされるヤツがいて。そいつが、当たり前に自分を必要としてくれる事。返す事なんて出来ないのに、与え続けてくれる。 芦屋に、自分を重ね見た。続けようとした芦屋の声は低くなっていた。 「でも、その夢は叶わなくなった」 「……何故だ?」 「そいつが、死んだからだ」 無表情の芦屋の目は真剣だった。そこに嘘なんてものは無い。 「死んだ……?」 「そう。将来も保証されていて、皆からの期待も背負ったあいつは、死んだ。俺の目の前で、交通事故で」 芦屋は苦笑した。 「全てを失った気分だったよ。俺にとって、あいつはたった一人の親友だった。どんな時でも信頼出来る、たった一人のキャッチャーだった」 それは俺にとっては雄飛だ。たった一人の親友で相棒で、信頼出来る唯一の男。俺の野球、そのものだった。 「そのままあっという間に時は流れ、俺は何もないまま中学を卒業した。そして、高校に入学してお前等に会った。本当に驚いたよ。昔の俺達とは違って、本当に見合った実力同士のバッテリーだったからさ。天才ピッチャーと、天才キャッチャー。お前とあいつを重ね見てた。……だから、お前とバッテリーが組めて嬉しかったんだよ。あの頃に戻ったみたいで」 「………」 「同じピッチャーとして立花に嫉妬もしたよ。でも、あいつ……呆れるくらい良いやつなんだもんなぁ……」 芦屋は額を押え、泣き出しそうな顔で無理矢理笑った。微かに声が震え、目頭が光を反射している。 「性格は明るくて優しいし、頭も良ければ運動神経も抜群。少しくらい鼻に掛けたっていいのに、そんな態度微塵も見せないで誰より努力して。俺がどんなに嫌っても立花は俺の事を嫌いになんかならないし、見捨てたりもしない。だから、お前等がいれば全国制覇だって夢じゃないと思ったんだ。なのにさ……」 芦屋の目から大粒の涙が零れた。抑えきれなかった声が嗚咽となって漏れている。 「立花は、帰って来るよ。絶対に。立花は、あいつと違って生きているから……」 伏せた目からは透明な雫が落下し、床に染みを作り出す。 俺は声を掛ける事も出来ずに、無言でソファを立ち上がってそこを後にした。 辛くない筈が無かったんだ。 太陽みたいなあいつを失って、頼るべき柱も無いままさ迷って。目の前にどんな利益があっても先に立って引っ張ってくれる存在がいないのに誰が幸せになれただろうか。 芦屋の気持ちが少しだけ理解出来た気がした。 だから、俺は約束通り勝たなければならない。勝ち続ける事、信じて待つ事。その為に芦屋は必要な男なんだろう。でも、それだけに利用するのはどうだろうか。 あいつはあいつなりに重いものを背負っている。本気でバッテリーを組めば、もしかしたら。 でも、俺も芦屋も、雄飛の居場所を奪ってはいけない。今いるこの場所をくれたのは、雄飛だから。 午後八時を過ぎた頃に俺は再び公衆電話の元に戻った。覚えているいつもの携帯番号をダイヤルすると、四回の呼び出し音の後で雄飛は出た。 何処か遠慮がちな声に向かって今日の試合内容を報告する。すると、雄飛はいつものように喜んでいた。 そして、その夜から数日が経過した。 いつもの試合報告にも慣れた頃だったが、雄飛の状態は何一つ変わらぬままだった。 「……うん、そっか。おめでとう。すごいね、流石だ!」 それは、漸く準決勝まで駒を進めた夜の事だった。 危ない試合ばかりでどちらが勝っても可笑しくない内容だったが俺達は勝利した。学校は強豪校では無かったから甲子園出場自体が初めてだ。地元の新聞も大々的に報道しているだろうと思う。 雄飛の弾むような口調から子供っぽい笑顔が思い出される。 「あと二回勝ったら、優勝だね。すごい」 「ああ。絶対に、勝つよ」 「……うん。頼むね」 雄飛は静かだった。何処か、寂しそうで。だから、付け加えた。 「絶対に、優勝する」 「……うん」 「だから、見ててくれよ」 「……ああ。必ず。頑張って」 電話は珍しく雄飛の方から切れた。最後の何処か寂しげな口調に違和感を覚え受話器を見詰めたが、そこからはツーと虚しい音が聞こえているだけだった。 嫌な予感は胸に残ったが、その理由に気付いたのは準決勝当日の朝の事だった。 |