*不夜城 5 携帯のサブディスプレイに『浦和悠子』と表示されていた。嫌な予感はしていたが、電話を受けると酷い騒音が鼓膜を揺らす。常に冷静に皆を引っ張って行く浦和の声には僅かに焦りが見え隠れしていた。 聞いてみると、久坂が事件の中で負傷したと言うものだった。 黒薙は唯一久坂が嫌いだ。いっそ憎んですらいるその男の負傷を心配する筈も無い。淡白な反応を返していると怒鳴るような金切り声がリビングに響いた。ソファから白神がのそのそと体を起こす。 電話の内容は要するに早く出勤しろと言うものだった。小さい溜息と共に消えた休日の怒りを吐き出して、電話を切った。 「仕事?」 「緊急事態だってさ」 その情報の真偽も定かじゃないし、出勤させる為の方便かも知れない。欠伸をしながら出る仕度をする為に自室へ再び戻ろうとして、一度白神の方に振り返った。 「琉璃を宜しく」 「はいはい。そんなに心配なら早く帰ってやれば……」 白神は、黒薙の顔を見て動きを止めた。 不審に思いつつも時間が無いので黒薙は自室から鞄等を持って来てリビングのソファに投げ、顔を洗う為に洗面台に向かった。白神は今も目を丸くしたまま口を何度も開閉している。 洗面所の電気を点けると、橙の明かりに照らされて白い陶器の洗面台が見えた。蛇口を捻り、勢い良く噴出す水を両手で掬い、顔を洗う。冷水に頭が一気に冷え、ぼんやりしていた意識が鮮明になる。 数回同じ動作を繰り返し、正面の鏡を見た。――そして、動きを止めた。 紙のような真っ白な顔色はいい。いや、良くは無いがまず置いておく。問題は、瞳だ。 「何だ、これ……」 昨日まで見ていた筈の黒い瞳が何処にも無い。昨日までよりは大分薄くなった隈の上に、満月のような金色の目が煌煌としている。 鏡を呆然と見つめて、目を擦る。頬を抓る。思い付く動作は全てやったが、金色の双眸は鏡の向こうから真っ直ぐ見つめていた。血の気が引いて行くのが自分でもよく分かった。 「おい、龍!」 リビングの白神を呼ぶが、目薬を注している。瞬きを数回してから洗面所の黒薙を見て、眉を寄せた。 「お前、その目どうした?」 昨日、寝る前は確かに黒かった瞳だ。それが一晩で突然変色するなんて聞いた事が無い。 黒薙は頭を抱えながらしゃがみ込み、寝起きの頭の中で思考を巡らせる。そうして、行き着いた答えは取り合えず出勤と言うものだった。質問には答えずにソファに投げ出された上着を引っ掴む。 「……仕事、行って来る」 「灯、目ェ見えるのか?」 「残念ながら異常は感じられねェよ」 黒薙は溜息を零した。もしも、ここで失明していたなら出勤せずに済むだろうとぼんやり馬鹿な事を考える。本当に、馬鹿な事だ。 最後に振り返った黒薙の金色の瞳に薄ら寒いものを感じ、白神は身震いした。あの目はまるで、夜行動物のそれと同じではないか。闇に身を潜めて気配を殺し、ゆっくりと着実に獲物に向かう。凶悪な牙は鋭く尖った黒豹。毛並みまでありありと思い浮かぶ自分の想像力に白神は苦笑した。 それにしても、あれは一体何だ。 * 黒薙が本部に到着すると、すぐに美月が駆け寄って来た。仰けから仕事の話しを始める部下にうんざりしながら見せられる書類に目を落とすと、淀み無く説明していた美月の高い声が止まる。面倒臭く感じつつ彼女に目を移すと、やはり今朝の白神と同じ反応を見せた。 美月は黒薙の顔を、詳しくは目を見つめてマネキンのように静止している。 「それ、は」 不気味な片言で黒薙の目を指差す美月の異変に気付いた菊崎が素早く駆け寄って来た。が、彼もまた殆ど同じ結果を示す。 「用が無いなら退いてくれ」 二人を押し退けて自分の机に向かう途中、佐倉が正面に立ちはだかった。黒薙は思わず溜息を吐き、避けて行こうとすると佐倉は思い切り頭を下げる。その勢いの良さに黒薙も思わず足を止めた。 「すいませんでした……!」 黒薙は舌打ちし、すぐに自分の机に向かって歩き出した。その背中に再び佐倉の謝罪が突き刺さるが、黒薙は自分の机に到着して椅子に座ってから漸く声を発した。 「謝罪なんか何の意味もねェ。死者は永遠に蘇らない」 黒薙の椅子がクルリと回り、依然として頭を上げない佐倉の方向を向く。 「そんな事してる暇あるなら、謝罪より念仏唱えてやれ。思い出せ、最後にあの子はどんな顔をした? どんな声で助けを求め、どんな形で死んで行った?」 佐倉は声を出せない。黒薙は尚も続ける。 「忘れるな。あの子はもう、帰って来ない。恨むだろう、憎むだろう、永遠に許さないだろう」 黒薙はホルダーから拳銃を取り出し、佐倉の方に向ける。俄に顔を上げた佐倉にも、周りにいた美月や菊崎にも動揺の色が浮び、止めろと制止の声が飛んだ。 だが、黒薙は無言無表情に撃鉄を起こす。ガチャリと無情な音が響き渡った。 「このままトリガーを引けばお前は死ぬ。今までの二十年間が一秒にも満たない瞬間に終わるんだ。呆気無いだろ」 「おい、遣り過ぎだ」 菊崎が横から身を乗り出して拳銃を奪う。黒薙は椅子の背凭れに体重を預けたままで冷たく見下ろしていた。 「軽いと思うか?」 佐倉が戸惑いながらも首を振り、黒薙は鼻を鳴らす。 「俺は、軽いと思う。酷く呆気無い。だからこそ、掴んだ手は二度と離さない」 「……分かります。でも、アンタは殺す時何も考えていないと言った」 「考えてねェよ。この手は今じゃ敵だと知ると無意識に引金を引く」 黒薙は再び椅子を回転させ、佐倉に背を向けた。金色を湛えた瞳は既に手元の資料を見つめ、手はその上でボールペンを走らせている。続けようとした言葉は喉の奥に消滅した。 「アンタはそんなに冷たい人間じゃない」 「お前が俺の何を知ってんだよ」 振り返りもしない黒薙は只管にボールペンを走らせるが、覚えの無い事件に関する書類だった為に手を止めざるを得なかった。小さく溜息を零し、振り返ると佐倉が真っ直ぐ見つめている。 「知りませんよ! でもね、俺はアンタを信頼してここまで来てんだ! ほんの一面しか知らないけど、それだけで俺はアンタを尊敬した! ずっとついて行こうと思ったんだ!」 「お前は馬鹿か」 「馬鹿でも!」 黒薙は既に呆れた顔をしているが、佐倉は怒鳴るような声で言葉を吐き出し続けている。 「馬鹿でも出来る事はあるんです!」 「連れてけってか?」 真っ直ぐ自分を見つめる目を見て、黒薙は溜息を零す。 「お前、何処までやれる?」 「俺の正義の範囲内です」 「……正義、ね。良い言葉だ」 本当なら微笑みでも浮べる場面なのだと黒薙も分かっている。だが、出来ない。黒薙は無表情のまま再び背中を向けた。 「……資料取って来い」 「え?」 「先週のヤマの資料取って来いっつってんだこのクソガキ!」 「――はい!」 佐倉は菊崎に鍵を借りてすぐに走り出した。その姿を菊崎や美月は微笑ましく見ている。 黒薙は灰皿を引き寄せて引出しの奥から煙草とライターを取り出した。煙草を咥えて火を点けたところで美月は黒薙の眼前に書類の束を突き付ける。 仕方無く黒薙は煙草を灰皿に押し付けた。 「何だ?」 「検査結果です」 書類を受け取り、興味無さそうに目を通して行く。彼方此方に『異常』が記されているので救えないと自分の事ながら思う。煙草と酒と薬漬けの毎日で健康とは程遠い生活だ。仕方が無い、と目を移したところで制止した。金色の目に『血液検査』の結果が映っている。やはり、異常。 「おかしいな。血液は貧血くらいだったのに」 「信じ難い事なんですけど、細胞が変異しているんです。恐らく、以前投与されたGLAYによる副作用かと」 「……人体への影響は?」 「まだ分かりません。でも、見た事の無い状態なんです。その目も副作用の影響でしょう」 黒薙は額を抑え目を閉じる。只でさえ問題は山積みなのに、これ以上高くしてどうすると言うのか。美月は「詳しく調べて見ます」とだけ言い残して去ってしまった。それと入れ違いにドタバタと喧しく足音を立てながら息荒く佐倉が戻って来た。 その切羽詰まった様子などお構い無しに黒薙は片手を出して催促する。が、佐倉が何時まで立っても渡さないので舌打ち交じりにその顔を見た。 「灯さん……」 「資料は?」 「ありませんでした」 黒薙は椅子を立った。米神に青筋が浮び、手は既に佐倉の胸倉を掴んでいる。 「やる気はねェみてェだな……」 「いやいや! 本当に、存在しないんです」 「何だと――」 その時、再び扉が開く音がした。途端にざわめく職員、その中心には松葉杖を突きながら久坂が歩いている。菊崎なんかは率先して駆け寄って労わりの言葉を掛けるが、黒薙はすぐに席を立って本部長室に消えて行った。 本部長室はいつもの同様に静かで黒薙は早々に息を吐く。 「遅い」 浦和が睨み付けるが、黒薙に反省は無い。 「俺のニ連休はどうなってんだ。あれは嘘か。代休は貰えるよな」 「実は今回の事件なんだけど」 浦和が無視して話し出すので黒薙は溜息を吐く。こういう職場だから仕方が無い。帰って寝て起きたら出勤なのだから、実質ニ連休は無くなったと言う事になる。寝不足も疲労も仕方が無いのだ。 浦和は手招きして黒薙を傍に寄らせると、声量を落とした。 「久坂が負傷したのは知っている?」 「其処で見たよ。いい気味だ」 「実はね、それが妙なの」 浦和は久坂の関わった事件の資料を広げる。よくあるGLAY中毒者による立て篭もり事件だ。黒薙達の担当した銀行程大きな事では無いが、浦和が久坂の負傷した状況を細かく説明する程にその異常に気が付いた。 まるで、こちらの裏をかくような動きだった。張り込む予定だった場所に仕掛けられた罠、襲撃。 「筒抜けじゃねェか。どうなってんだ」 「分からない?」 「さあな」 黒薙も、浦和が声を潜めた時点で何を言おうとしているのか分かっている。だが、言わないのは仲間に対する侮辱だと心の何処かで感じているからだ。 しかし、浦和は簡単にその言葉を口にした。 「内通者がいるわ。こちらの情報が漏れている」 黒薙は舌打ちした。同時に、佐倉がついさっき言っていた事を思い出す。 「……嘘だろ?」 その言葉は、自分の立てた仮説に対するものだ。黒薙はすぐに部屋を飛び出し、扉から半身になって佐倉を大声で呼んだ。久坂を労わっていた佐倉は肩を跳ねさせ、慌てて走って来る。 佐倉の胸倉を掴み、声を潜めた。 「無くなった資料は何だった?」 「え、あ……職員の名簿です」 「やっぱりな!」 佐倉を投げ捨てて黒薙は浦和に詰め寄る。訳も分からないまま佐倉は乱れた服を直しているが、黒薙の頭の中からは抹消されていた。 「職員情報が漏れてる。ヤツ等、もしかすると殲滅か特定の誰かを狙ってやがるぜ」 「どういう事ですか」 佐倉の声に漸く黒薙は振り返った。 「それは、俺達の中に裏切り者がいるって事ですか?!」 佐倉の声は、よく響いた。当然、隣りにいた職員達の耳にも入り、空気がざわりと揺れた。 黒薙の顔はやはり何も無かったが、金色の目には『しまった』と言う感情がよく映っている。途端に本部長室に押し掛ける職員を戻しながら黒薙は佐倉を連れて部屋を出た。 「どういう事ですか!」 すっかり囲まれた黒薙は面倒臭そうに眉を寄せつつ、ポツリポツリと説明を始める。そうでなければ解放してくれないだろうから。 その状況を説明して行く程に『裏切り者』の容疑者が絞られて行く事に黒薙は気付いたが、今更止める事も出来ない。胸の内で悪態吐きながら話し続けていると、職員の群れの中の誰かが言った。 「名簿盗むなんて、職員でも普通出来ねェよ」 確かに、その通りなのだ。 書類の保管されている部屋は頑丈な壁に囲まれ、防弾の鉄製の扉には複雑な鍵が付いている。鍵は複製出来ないもので、ピッキングなどを行えばすぐにサイレンが鳴り響く。鍵無しでは、開ける事が出来ない。 そう、鍵が無ければ。 「鍵の管理は、お前じゃなかったか?」 また、誰かが言った。自然と目が集まる先は、菊崎だった。 普段、菊崎はデスクワークを担当しているので保管庫に行く事が多い。一々借りに行くのも面倒なので、その信頼から菊崎が管理しているのだ。 疑いの目は菊崎に向けられた。 「何言ってんだ! 俺がそんな事する訳ねェだろ!」 菊崎は救いを求めるように黒薙に目を向けた。黒薙は何処か無愛想な無表情でただ其処に立っている。 そんな菊崎は取り調べの為に連行されようとしているが、最後まで黒薙に救うように目を向けていた。菊崎が部屋から連れて行かれると、人込みは解散し、美月のすすり泣く声だけが聞こえていた。 「灯さん……」 涙を落とす美月を慰めながら佐倉が黒薙を見る。 「行くか」 黒薙は時計を確認して歩き出した。その背中に佐倉の呼ぶ声がぶつかるので振り返る。 「菊崎さんが裏切り者な訳無いですよ!」 「決め付けるなよ」 「どうして、そんなに冷静なんですか……」 「裏切り者探しは俺の仕事じゃない」 すぐに黒薙は歩き出す。佐倉は美月に声を掛け、既に部屋を出て行った黒薙の後を追った。 裏切り者についての詳細は、その三十分後に携帯から入って来た。 菊崎が、取り調べを担当した職員四名を気絶させて逃走したと言うものだった――。 2007.11.23 |