*不夜城 6

 菊崎逃走の情報は佐倉の携帯電話の向こうから久坂の声で届いた。
 黒薙は額を抑え、脳内に響く奇妙な不協和音に耳を澄ませている。何処か遠くに鳴り響く雷鳴のような、静かな川のせせらぎのような、穏やかな春の小鳥の歌声のような、単品ならばCDにでも録音して売れそうな其れ等が全て纏まった一個体として不気味な旋律を奏でているのだ。黒薙は軽い眩暈を覚えながら佐倉に蒼い顔を向けて言った。

「そんなの知ったこっちゃねェ。俺等の仕事はGLAYの取締だって伝えろ」
「もう切れてます」

 佐倉もまた蒼い顔に引き攣った笑顔を浮かべて言った。
 二人の乗った佐倉の愛車である白いスポーツカーは高速道路に乗ると、夏の日差しの下ながらも氷の上を滑るような滑らかさで周りの景色をすっ飛ばして行く。車の性能がいいと言う事だけでは無いだろうが、黒薙は敢えて何も言わずに流れて行く上っ面だけの平和な景色をぼんやりと視界に入れていた。
 車が向かっているのは、先日GLAYを追って行き付いた彼等のアジトの一つであるF地区。色々な危険物や意味ありげなファイルが出て来たので、空蝉がいた時に中に入った黒薙達が検証に立ち会う事になっている。
 黒薙は、其の行為に殆ど意味は無いものと思っている。これ以上調べたところで出て来る埃はあの空蝉が置いて行ったものなのだから重要である訳が無い。其の意味では、黒薙は空蝉を尊敬すらしている。警察にも其のくらいの用意周到さが欲しいものだ。
 携帯電話を閉じた佐倉はハンドルを握り直し、ゆっくりとアクセルを踏み込む。前から得体の知れない力に圧されているような感覚。加速した車から見える景色は殆ど判別出来なくなっていた。
 何をそんなに焦っているのか。黒薙は溜息混じりに思い詰めた表情で前だけを見る佐倉に目を遣った。真一文字に結ばれた唇はいつもの用に饒舌ではない。スピードメーターは車が規定速度を越えようとしている事を知らせていた。黒薙は再び目を遠くに向けて口を開く。

「何を考えてるか知らねェが、お前は相変わらず駄目なヤツだな」

 黒薙は静かだった車内にラジオを流そうと手を伸ばしたが、これ以上不快な音を増やす事になると気付いて手を戻した。依然として鳴り響く不協和音は最早耳鳴りの域では無く、煙草でも吸って気分を落ち着けたいと思うが佐倉は愛車に臭いが付く事になれば烈火の如く怒るだろう。其の伸ばし掛けて戻した手を持て余していると、前を向いたままの佐倉がぶっきらぼうに答えた。

「駄目で結構です。……菊崎さんは、裏切り者なんかじゃない」

 佐倉の脳裏には常と変わらぬ笑顔の菊崎が思い浮かんでいる。GLAY対策本部に来たばかりで右も左も分からぬ佐倉に何かと世話を焼いてくれたのも菊崎だし、初めて黒薙のような曲者と組まされて不安で一杯だった時に励ましてくれたのも彼だ。現在二人がこうして組んでいられるのも偏に菊崎のお陰と言える。
 黒薙は其の心中を察しながらも横に一瞥投げただけだった。菊崎とは、佐倉よりも長い。
 菊崎と言えば机に向かっている姿が真っ先に思い浮かぶ。戦闘能力の有無を問われれば決して零では無いが、黒薙や佐倉に比べたら精々護身程度でしかない。そんな菊崎が取調べを担当した精鋭の職員四人を気絶させて逃走等、単独では不可能だ。そう、単独では。

「協力者がいるな」

 黒薙が呟いた時、佐倉は信じられないものを見るような目を向けた。
 だが、高速で走る鉄の塊を運転する佐倉はすぐに目を戻す。苦痛の表情を浮かべた横顔は何処か泣き出しそうなまでに張り詰めていた。
 時々、佐倉はこの職場には向いていないのでは無いかと黒薙は思うのだ。自分のような血も涙も無い凍り付いた人間になれとは言わないが、仕事の為に人を疑う事にすら躊躇してしまうこの男は脆いまでに優し過ぎる。其れがやがて彼の身を滅ぼす事を、黒薙は知っている。
 人は機械にはなれないが、仕事柄、感情を殺さなければ堪えられないような惨い事もする。少女一人の死に涙する彼の持つ硝子のような心は砕けてしまうのではないか。
 もしも、裏切り者の仲間が目の前に現れたら彼はどうするだろう。十中八九、彼は見逃してしまう。其の時は黒薙が裏切り者と、新たに生まれる裏切り者の双方を処分しなければならない。まだ仲間を撃った事は無いが、そう遠くない未来の事なのだろう。
 生死を共にする仲間を目の前にして、自分は果して迷わず引き金を引く事は出来るのか。

 黒薙はぼんやりと憂鬱な面持ちで消え失せる景色を眺めていた。


 車はあの小さなビルの前に滑り込むように駐車した。周囲には関係者以外立入禁止を警告する黄色のテープが彼方此方に張られ、明らかに堅気ではない男達が其処此処をうろついている。
 車から二人が下りると見覚えのある中年の警部らしき男が顔を上げ、人の良さそうな笑顔を浮かべた。佐倉にとっては今最も思い出したくない記憶にあるだろう。傍に駆け寄った三沢に佐倉はばつの悪そうな顔で会釈した。

「どうも、ご苦労様です」

 三沢も同じように会釈したが、黒薙が既にビルに向かって歩き出していたので佐倉は頭を下げつつ慌てて後を追った。
 ビルの中は当然の事ながら明るく照らされている。以前は気付かなかったが、どうやら元々は小さな印刷会社だったらしく新聞紙等が山積みにされていた。だが、足元に積もった埃にも無数の足跡が残り最後に見た時の姿とは既に異なっている。
 そんな場所で何をしろと言うのか甚だ疑問だが、黒薙は地下室へと向かっている。地下へと続く薄暗い階段からは眩暈を引き起こすような不快感が沸き上がって来ているような気がした。
 不協和音の響く脳内には空蝉等に液体版GLAYの試作品を打たれた時が蘇っている。不協和音の原因が金に変色してしまった黒目と同じならば、この奇妙な旋律にも何が大きな意味があるような気がした。尤も、日々幻聴に苛まれている黒薙にしてみれば些細な事なのだけども。
 階段を下って行く黒薙の背中を追いながら佐倉は声を掛けた。

「行き先が分かってるんですか?」
「気になるところがある」

 黒薙はそう言って目の前の扉を開け、階段を下り始める。薄暗い階段は夏だというのに不気味に冷え、足音が反響していた。佐倉が後を追い、扉が低い音を立てて閉まった後黒薙は言った。

「俺はここに連れて来られてから試作品の液体状のGLAYを投与された。間違い無く本物だった。副作用か何かは分からねェが、目は変色するし耳鳴りは酷いしもう最悪だ。さっさと治さねェと仕事に支障来すぜ」
「……ここに、何があると思いますか?」
「さぁな。何かあるかも知れねェし、無いかも知れねェ。まあ、期待はすんな」

 辿り着いた踊り場にある扉を開けると、其処もまた警察で溢れ返っている。黒薙は擦れ違う警察も無視してエレベーターの前に行った。地下に向かうにはエレベーターしか無いのだ。以前は仕方無くエレベーターのロープを上ったのだが。
 エレベーターはすぐに到着したが、警察は中からも大量のダンボールを持って下りて来る。この様子だと地下室は既に空になっている筈だ。どうしようかと眉を寄せて考えた時、ポケットの中の携帯が電子音を放った。
 取り出して見るが、サブディスプレイには覚えの無い番号が表示されている。良い予感はしないが、エレベーターに乗り込んでから通話ボタンを押した。

「はい」
『黒薙灯だな』
「――?」

 黒薙は眉を寄せた。何処かで聞いた事があるような気はするが、酷い耳鳴りのせいで殆ど判別が付かないのだ。つい最近、聞いた筈。

『覚えてねェのか、俺だよ。空蝉だ』
「なっ――!」

 思わず発した大声に佐倉が驚いた。だが、黒薙はそのまま携帯を握る手に力を込める。恐らく、以前携帯を奪われた時に電話番号も盗み取られたのだろう。なるべく平静を保って訊く。

「何の用だ……」
『今すぐにこれから言う場所に来い。そうすりゃ、仲間も助かるだろうよ』
「仲間?」

 問い掛けた瞬間、菊崎の顔が脳裏を過った。裏切り者のレッテルを貼られた一番信頼する仲間である彼が、自分を見て何を思ったのか今更理解出来た。
 黒薙は奥歯を噛み締め、続けた。

「何処に行けばいい」
『話が早ェな。G地区南のセンタービル屋上だ。必ずてめェ一人で来い』
「……分かった」

 電話が切れたと同時に黒薙は走り出した。慌てて追って来る佐倉の声が背中に刺さるが、振り返る余裕も無く表に出て近くにいた警官から鍵を奪い取るようにしてパトカーに乗り込んだ。扉を閉めると佐倉が追い付いたので窓だけを開ける。

「ここはお前に任す。今日中に俺から連絡が行かなかったら白神にこの事を伝えてくれ」
「何処に行くんですか!」
「決まってんだろ、仲間を助けるんだよ!」

 鍵を回し、エンジンを掛ける。黒薙はアクセルを踏もうとしたが佐倉が叫んでいた。

「誰をですか!」
「菊崎だよ!」

 佐倉は目を丸くした。

「灯さん……、菊崎さんを疑ってたんじゃ……」
「ふざけんな! 俺があいつを疑った事なんざ一度も無い!」

 アクセルを踏み込むと排気ガスが一気に噴出した。車は一気に加速し、周りの警官やパトカー、野次馬が慌てて道を開けると目の前に無人の帯が現れる。黒薙はその中を無言で走らせた。
 残された佐倉は暫く顔に驚愕を張り付けていたが、すぐに笑ってしまった。黒薙の言葉が蘇る。思えば、彼は一度として菊崎が裏切り者だとは言っていないのだ。





 G地区は開発途中の為、様々な工事が今も行われている。寂れた町と近代的なビルが同居し、所々工事反対を訴える蛍光色の旗が風に踊っていた。
 黒薙の乗った車は駅から南に数キロ離れた場所にあるセンタービルの前に止まった。センタービルは現在移築作業中で立入禁止の札が立てられている。実際、このビルは廃ビルのようなものだ。取り壊しの資金が足りずに放置され、何時崩壊するかも分からない為に住民は皆避難してしまっている。国は当然見て見ぬふりなのだから、これも時代を象徴する一つの姿なのかも知れない。
 ビルの中は冷たく湿った空気が漂っている。不快感を覚えつつ侵入するが、自分の足音が反響するばかりで他の気配はまるで無い。不気味に静まり返ったビル内部に電気は通っていないので暗く、当然エレベーターが動く訳も無い。そうすると、何時崩れるとも知れない階段を屋上までの十五階分上らなければならないのだろう。黒薙は煤けた階段を前に溜息を吐いた。
 佐倉と別れてから二十五分。屋上にいるのが本当に菊崎なのかは分からないし、空蝉が何故自分を呼び出したのかも不明だ。だが、仲間がいると言う情報を疑っても仕方無い。黒薙は階段に足を乗せた。
 階段を上る度に壁や足元が悲鳴を上げ、瓦礫のようなものが落下する。こんな危険な建造物を放置出来る国の図太い神経に呆れながらも黒薙は足を進めた。十階を越えたくらいから足が重くなり息が切れる。元々少ない体力が体調不良のお陰であっという間に消えてしまうのだ。
 やがて、十五階に到着した。その頃にはすっかり息が上がり、既にスーツは脱ぎ捨ててシャツの袖を捲り上げていた。屋上は薄灰色の鉄の扉で塞がれている。取っ手に鍵は付いているが、開いていた。
 開け放った瞬間、強風が容赦無く吹き付けた。重い鉄の扉は風に当てられて音を立てて閉まり、黒薙は運悪く挟まったシャツの袖を引っ張る。
 屋上は広く、ヘリコプターが着陸出来るようになっていた。強風に髪を舞わせながら辺りを見回すが人影は無い。だが、気配はあるのだ。
 黒薙は銃に手を伸ばしながら、何処にいるとも分からない男に呼び掛けた。

「姿を見せたらどうだよ! 俺はここにいるぜ!」

 気配が、動く。
 黒薙は背を向けていた扉の上に銃口を向けた。そこにいる見覚えのある男も同じく銃口を向けて口角を吊り上げて笑っている。今まで見た事も無いような歪んだ笑みに黒薙は舌打ちした。

「何でここにいるとか、そんな事はどうでもいいな」

 ついさっきの空蝉からの電話を思い出す。てっきり、ここには空蝉がいるのかと思ったが全く違った。以前、白神達と話した事が正しかったのだと今更分かったが今となってはどうでもいい事だ。
 黒薙は目の前でその嫌な笑みを浮かべる男が昔から、好きになれなかった。それは警戒だったのだ。

「裏切り者はやっぱりてめェだったか。……久坂ァ!」

 久坂賢治は肯定を示すように笑い、言う。

「分かってたかい?」
「元々胡散臭ェ野郎だったよ、てめェは」

 久坂は乾いた笑いを漏らしながら撃鉄を起こす。硬質な音が黒薙の不協和音に占拠された耳の中に響いた。久坂は黒薙を見下ろしながら言った。

「GLAY対策本部の皆でさえ、外面に騙されて僕を信用し切っていた。だが、君だけは常に僕を見張り、警戒を解かずに信用しなかった。お陰でとても遣り難かったよ」

 黒薙はもう殆ど反応を示さなかった。

「てめェが裏切り者だろうが何だろうが別に構わねェ」

 憎悪も憤怒も何も映さない金色の瞳は久坂を見詰めたまま、持ち上げられた右腕が撃鉄を起こした。強風が耳に吹き付け、不協和音が微かに弱まる。黒薙は目を細めて言った。

「ただ、殺す理由が出来ただけだ」

 その瞬間、黒薙の銃口から弾が発射された。だが、久坂はそれを横に動いて避けたと同時に発砲する。走り出す黒薙の足元を銃弾が削ったが、構わず銃口を久坂に向けた。
 ターンッ。
 強風の中に響く銃声。久坂の頬を掠めたが、口角を吊り上げて次ぎの銃弾が発射される。
 黒薙は貯水槽の影に隠れ、叫ぶように訊いた。

「てめェがやった事は、GLAY組織の下っ端への情報横流しか!? ……ッ」

 貯水槽に銃弾が食い込んだが、中は空っぽらしい。貫通した銃弾が黒薙の横を通り過ぎた。久坂は建物の影に隠れたまま答える。

「そこまで分かっていたのか。ああ、その通りだよ!」
「そんな事して何になる! 金か?」
「当然。だが、僕は同時にGLAY組織の幹部になれる」
「馬鹿言うな、向こうもそんなに薄い組織じゃあるめェ」

 黒薙が呼吸を整えながら言うと、久坂は喉を鳴らして笑っていた。

「僕は君と違って頭も要領も良いのさ」
「何――?」

 その瞬間、銃声が尾を引いて響いた。空の貯水槽をぶち抜いた銃弾は黒薙の左肩を貫通する。黒薙は舌打ち混じりに左肩を押えながら走るが、元々の貧血もあってか視界が霞み足が思うように動かない。
 屋上の縁を走り、久坂との距離を縮めようとした足元に銃弾が跳ねる。黒薙は加速し、久坂に向かって行った。背後に続く血液の量等分からない。放たれた銃弾を避けた弾みに視界が一回転した。激しい眩暈によって上下がまるで分からず、屋上の縁に足が引っ掛かった。体は虚空に傾いていた。

「――ッ!」

 咄嗟に左腕に銃を投げ渡して右腕は屋上の縁を掴む。体は既に其方側に投げ出され、腕一本が命を繋いでいた。
 しまったと思った頃にはもう遅い。乾いた音を響かせて久坂が一歩ずつ近付いていた。左腕は全く動かず、血液が落下して息が切れる。
 久坂は黒薙に銃口を向けた。

「終わりかな?」
「……俺には、お前が頭良いようにゃ見えねェがな」

 黒薙はそう吐き捨てるが、久坂はその命を繋いでいる手を踏み付ける。黒薙の眉間に皺が寄った。
 言いたい事は沢山あるが、黒薙は鼻を鳴らす。

「俺がどうしてここに来たのか、分かるか?」
「……どうして、だ?」
「空蝉からの垂れ込みだよ」
「ば、馬鹿な!」

 笑ってやりたいが、黒薙は続ける。

「てめェの浅知恵なんざ向こうはとっくの昔に看破してんのさ。知ってるか、向こうの組織には俺を殺すなって指令が出てる。なのに、容赦無く撃って来るてめェを見て分かったよ。切り捨てられたのは、お前だよ」

 久坂の目が歪む。その隙に撃ち殺してやりたいが銃を握る手は動かず、絶体絶命は変わらない。だが、黒薙の目に想定外の男が映った。

「あっ」

 声を上げた瞬間、銃声が響いた。久坂の背後に気配も無く立った男の銃が火を吹く。久坂の頭部から血が噴出し、風に煽られ黒薙の頬に付着した。だが、そんな事はどうでもいい。

「空蝉……」

 空蝉は銃をぶら下げたまま黒薙に目を遣った。撃たれた久坂は動かない。

「よォ、黒薙。本当に来るとは思わなかったぜ」
「お前が仲間なんて言わなきゃ来なかったよ。お前が言ったのは、久坂の事か?」
「いや、久坂はここに菊崎を呼び出して始末するつもりだったのさ。始めっから裏切り者の汚名は全部そいつに着せるつもりだったんだろう」
「やっぱり、クソ野郎だな」

 手が痺れて来ているが、隙は見せない。命は今目の前の男が握っていると言っても可笑しく無いのだから。
 黒薙が更に訊こうとすると、空蝉は銃口を向けた。

「お前、その目は何だ?」

 空蝉の目に、黒薙の異質な金色の瞳が映る。

「カラコンじゃあねェよな」
「知るかよ、お前の試作品のせいだ」
「他の実験動物には、そんな症状は現れなかった」

 黒薙は眉を寄せる。
 美月の言葉が思い出される。確か、血液中の細胞が変異していると言っていた。それを今言う気は無いが、自分だけが何故そうなったのか分からない。他と違うものを持っているから、だろうか。
 空蝉の銃から硬質な音が聞こえる。撃鉄を起こしたのだろう。

「てめェ、一体何をした?」
「何かしたのはお前だろ」

 自分だけが異常を起こした理由も、黒薙は悟っている。
 黒薙はコカインベビー、所謂麻薬による異常を生まれながらに持つ者なのだ。現代では珍しく無いし、染色体の異常から変色や身体部分の欠落等色々な症状がある。だが、表情及び涙腺の異常を持つのは、知る限り自分以外は存在しない。コカインベビーの中でも異常なのだろう。
 空蝉は腹立たしそうに眉を寄せて膝を着いた。

「黒薙。お前、俺達の仲間にならねェか?」
「……何度言われても、答えはNOだ。ふざけんじゃねェ」

 黒薙は空蝉を睨み付ける。冷め切った無表情、感情を映さない金の瞳。眉一つ動かさずに人を殺す男だと空蝉は聞いている。だが、黒薙はその全てを否定するかのように言った。

「お前等が、俺の仲間を何人殺した? 絶対に許さねェ……」
「自分の立場が分かってんのか? お前の命を握ってんのは、俺だ。拒否権は無ェ」
「うるせェ! 敵に助けられてまで生きるつもりなんざ俺にはねェよ!」
「下らねェ意地だな」
「余計な世話だ。生き延びたって何時かは死ぬ。その時に、俺ァ死んだ仲間にどんな顔して会えば良いってんだ!」

 思わず、空蝉は黙る。冷徹だと言われ、鬼だ悪魔だと囁かれる黒薙灯の激しさをそこに垣間見た気がした。
 丁度その時、上空からヘリコプターが着陸した。高速回転するプロペラが生み出す風のせいで強風が暴風に変わる。空蝉は少しだけ笑い、立ち上がった。

「黒薙、死ぬんじゃねェぞ」
「言われるまでもねェ……」

 空蝉は鼻で笑うと久坂の死体を引き摺ってヘリコプターに乗り込んで行った。そのまま上空へと上がって行く姿を眺め、黒薙は右手に力を込める。
 ヘリコプターは既に小さくなり、屋上には黒薙が残される。左腕は肩を撃ち抜かれたせいで動かずに自力で登る事は不可能だ。ここに助けが来る可能性は無い。
 風が吹き付ける度に体が揺れ、痺れた手が滑る。焦る程冷や汗が掌に滲み、死期を早めてしまう。だが、時間の問題だ。右手に力を込め、一気に上ろうとした瞬間に強風が吹き付けた。煽られ、右手が外れる。

「――ッ」

 声にならない声を上げ、黒薙の体は落下を始めた。頭が真っ白になった瞬間、その右腕を誰かが掴んだ。
 落下を止めた体、黒薙は自分の足元を見る。目が眩むような景色、行き交う車がミジンコのようだ。落ちれば間違い無く死んだだろう。
 宙ぶらりんのまま、黒薙は自分の腕を掴んだ者を見上げた。

「……誰かと思ったら、裏切り者の菊崎じゃねェか」

 その言葉に菊崎は苦い顔をした。
 途端に左腕に力が戻り、黒薙は差し出された菊崎の手に持ち上げた左手を銃ごと預けて掴む。血のせいで滑って支える事は出来ないが大分楽にはなった。
 菊崎は苦笑しつつ言う。

「……その裏切り者の手を掴んでるのは誰だよ」
「冗談だっての」
「冗談?」
「お前を疑った事なんて、一度もねェよ」

 微かに菊崎の表情が動いた。目が嘘だと否定しているが、黒薙は気にしない。

「一日二日の付き合いじゃねェだろうが。俺が疑う事になるようなやつと二年も肩並べて仕事するかよ、信じられないようなやつに背中を預けたりするかよ」

 腕を掴んでいる手に力が篭った。菊崎は震える声で言う。

「……嘘じゃ、無いだろうな」

 一人で確認するように言い、菊崎はそのまま一気に引き上げた。勢い余って黒薙の体は叩き付けられたが、起き上がって下敷きになった腕を摩る。左肩からの出血が酷くシャツが赤く染まっていた。

「お前も俺を信じてくれりゃ良かったのに」

 俺は、始めから信じてた。疑いなんて入り込む余地も無いくらい。
 黒薙の目はそう言っていた。強風が相変わらず容赦無く吹き付けて髪を舞い起こす。菊崎は俯いていた。

「灯」

 菊崎の目から一筋の涙が零れ、地面に丸い染みを落とす。それを追うように嗚咽が漏れていた。

「ありがとう」

 次々に頬を伝う涙は顎に到達し、落下する。コンクリートには無数の染みが作られていた。黒薙は困ったように頭を掻きながらその跡を見詰める。
 礼など、言うべきではない。
 その時、扉が激しい音を立てて開いた。転がり込むように息を切らせた佐倉が現れ、菊崎は表情を強張らせる。

「菊崎さん」

 佐倉はその存在を見て目を丸くしたが、すぐに安心したように人懐っこく微笑んだ。

「心配させないで下さいよ」
「心配って、お前、俺を疑ってんじゃ……」

 佐倉は怪訝そうに眉を寄せる。

「はぁ? 何で俺が菊崎さんを疑うんですか」

 佐倉は黒薙に目を遣って不適に笑う。黒薙は煙草に火を点けたところだった。

「灯さんが信じてるなら、俺は疑わないっスよ」

 黒薙は煙を吐きながら立ち上がった。
 そういうお前も疑いかけてたけどな、とは思ったが言わなかった。黒薙は煙草を咥えて鼻を鳴らす。

「そういう事だ、馬鹿菊崎。お前が何考えようが、俺達はお前の敵になったりしねェ。お前の無実なら俺達が証明してやっから、黙ってどっしり構えとけ」

 そうして黒薙は佐倉に本部へ連絡をするように言う。
 久坂の裏切りと死、空蝉の登場。そして、菊崎の無実。それと同時に黒薙の携帯が鳴った。仕方無く携帯を取り出すとサブディスプレイに『妹尾美月』の名が表示されている。

「何だ?」
『今すぐ本部に戻って下さい』
「言われなくても今行くよ」

 黒薙は横で佐倉が連絡しているのを確認しながら電話を切ろうとした。だが、美月の焦った様子から電源ボタンに伸ばした指を止める。
 美月は酷く焦っていた。

『大変な事が分かりました』
「……俺の出血も酷いんだが、それ以上かな」
『ええ! 出血しているんですか!?』
「いいから早くしろよ。何が大変なんだ」
『GLAY中毒の特効薬が見つかったんです』
「何だと?」

 黒薙は低い声で訊く。菊崎や電話をしていた佐倉が顔を見合わせている。

「特効薬は何処にあるんだ」

 すると、美月は口篭もりながら言った。

『灯先輩の血液です』

 その声が届いた瞬間、大地が悲鳴を上げるような音が轟いた。電話をしていた黒薙は突然浮遊感に襲われ、眩暈かと思って足元を見ると平坦だった筈のコンクリートの地面が裂けている。

「何だァ!?」

 咄嗟に携帯をポケットに仕舞い込む。落下を続けながら周囲を見回すと同じように落下する菊崎と佐倉が目に入った。そして、轟音は遠くからも鳴り響く。
 何が起こっているのか分からない。分からないけれど。

「菊崎ィ!」

 崩れ行く瓦礫を踏み台にしながら菊崎のスーツの襟を掴み、佐倉のところまで跳んだ。凄まじい浮遊感は胃の中にある僅かなものを逆流させようとするが、そんな余裕は無いのだ。
 血の滴る左手で佐倉の腕を掴むが、力が殆ど入らない。

「てめェたまには役に立てよ!」

 恐怖で強張っていた佐倉の目に光が戻った。

「だだだだだって!」
「地面が近くなったら跳べ! 二、三階くらいの高さなら骨は折れても巧くすりゃ死なねェから、瓦礫に潰されないように遠くへ跳ぶんだ!」
「そんなの遣った事無いですよ!」
「俺だってねェよ! でもなァ、このままじゃ皆死ぬんだよ!」

 黒薙は持っていた菊崎を佐倉の方に投げ付ける。遠くでも崩壊する建物が見え、大地震が起こっているようだった。

(何が起こってんだ?!)

 呆然としたまま黒薙は落下している。その時、佐倉の叫ぶような甲高い声がした。

「灯さん――ッ!」

 黒薙の頭上から影が落ちる。見上げると巨大な瓦礫が空を塞いでいた。



2007.12.29