*灰谷逢 1

 灰谷逢は、黒薙灯にとって初めて出来た大切な人だった。
 逢は黒薙と同じく年々増加するコカインベビーであり、生まれながらに髪や肌は透き通るように白く、目はサファイアを嵌め込んだようで、周りの黒髪黒目の黄色人種の群れの中では一際目立っていた。
 両親があの事故で死亡し、施設に送られて右も左も分からなかった黒薙の世話を焼いてくれたのも逢だ。だけど、初対面で彼女に哀しい顔をさせてしまった事への罪悪感から、その度に目を伏せて遣り過ごした。
 握手を知らなかったから、彼女の差し出した手を取る事が出来なかった。微笑みに返せたのは鋭い視線だけだった。比べるものが無いから『欠陥品』である自分の何が異常なのか解らなかった。
 家では短所にしかならなかった器用さが施設では役立った。表情を変えないのは人見知りするせいだと皆が思っていたし、無気味だと言って避ける子供もいたけど、人の温もりに飢えた子供ばかりだったから阻害される事は無かった。友達も出来たし、多くの事を学んだ。誰かと一緒にいるのは楽しかったし嬉しかった。だからと言って表情なんてものが生まれる訳では無かったけど。
 そして、その施設で逢は一際特別な存在なのだと気付いた。俺は罪悪感から距離を置いていたけども、彼女は皆から距離を置かれているようだった。青い目をしたニつ下の妹と二人だけで広場の隅っこでいつも遊んでいた。彼女の風貌はとても恐ろしいものに見えたのだろう。
 小学校に入学してからもそれは続いていた。教室では遠巻きにされ、イジメにも遭っていた。俺がそれを知ったのは六月の酷く暑い日で、放課後サッカーボールを取りに教室へ入った時に彼女が見えた。
 机の上には引っ繰り返されたゴミ箱が乗っていた。中の紙くずや埃が散乱していて、始めは彼女が一人でやっておかしくなったのだと勘違いした。でも、逢が泣きながら箒と塵取を持ち出して片付けているのを見て、それがイジメなのだと漸く気付いた。
 教室に入っても逢は気付かず、傍に寄ったところで顔を上げた。そのまま強引に箒と塵取を奪うと、彼女は怯えた目を向けた。

「何でいつも、独りぼっちなの」

 それが不思議に感じたのは、彼女が進んで孤独になろうとしているのだと勘違いしていたからだ。孤独だからイジメられ、また、エスカレートする。子供は残酷だ。

「じゃあ、灯君は何でいつも独りじゃないの」

 青い瞳に涙が溜まり、揺れているように見えた。質問の意味が呑み込めず、二回連続で瞬きをして逢を見つめる。真っ白い髪に夕陽が反射されて酷く綺麗なものに思えた。だけど、その時に彼女がいじめられる理由に気が付いた。
 異質だったからだ。一人だけ違うから嫌われる。
 それは彼女が望んでそうなった訳じゃない。どうしようも無いのに、叱咤される。自分は悪く無いのだ。でも、それは一体誰に言えばいい?

「俺は逢の髪好きだよ、月みたいだ。目も好きだよ、宝石みたいだ」

 散らかるゴミを塵取の中に押し込みながら言った。下を向いていたので逢の顔は覗えないが、何の返答も返って来ない。

「逢は悪くないんだ」

 そう、誰も悪く無い。誰も悪く無いのにどうして傷付いて泣かなければならないんだろう。どうして人は苦しむんだろう。誰が人に順位を付けるんだろう。人と違う事の何が許されないんだろう。

「逢はどうしていつも隅っこにいるの?」
「……皆、いなくなっちゃうから。あたしは汚いんだって。あたしに触ると黴菌が付くの」

 漸く、俺は自分の罪に気付いた。
 初めて会った人に彼女は拒絶されたと思ったのだ。自分は汚いから触るのを拒んだのだ、と。

「逢は汚くない」

 ゴミ箱を机から下ろし、窓に掛けてあった雑巾で拭う。机の上には落書きが沢山あった。
 『気持ち悪い』とか『いなくなれ』とか。『死ね』とか。
 子供ながら、その残酷さに腹が立った。どうして人に生き死に決められなければならないんだろう。殺人や傷害は裁かれるのに、どうして皆、心の傷にはこんなにも鈍感なんだろう。

「逢は汚くなんかないんだよ」

 そう言って、今度は俺から手を伸ばした。泣く事も笑う事も許してくれない顔で、精一杯優しくて穏やかな顔をした。睨んでいると思われても、視線は真っ直ぐ外さない。逢は戸惑いながらも、手を掴んでくれた。

「帰ろう」

 逢は、微笑んだ。
 それが酷く愛しいものに思えた。生まれたばかりの動物の赤ちゃんを抱いて守りたいと願う気持ちに近くて、俺は手を強く握って教室から歩き出した。
 廊下はとても静かで、逢の悪口を言う女子も、揶揄する男子も、ゴミ箱を引っ繰り返したり机に落書きするクラスメイトもいない綺麗な世界に思えた。だけど、それだけだ。
 誰もいない世界は綺麗だ。人影の無い湖や山頂がテレビに映った時は感動を覚えたし、渋滞する道路や混雑する駅のホームは吐き気がする。
 階段を下って職員室や保健室のある一階廊下を通過して昇降口に降り、サッカーで泥だらけになった運動靴を引っ張り出し、代わりに踵の潰れた上履きをしまった。逢は持っていた袋の中から運動靴を取り出して、その中に再び上履きをしまう。それに苛立ち、上履きを奪って下駄箱に突っ込んだ。下駄箱の置くにはゴミが沢山入っていた。
 一先ず上履きを置いて大きなゴミ箱を引き摺って来て、ゴミを根こそぎ落とすように全部捨てる。漸く綺麗になった下駄箱にまた、上履きをしまった。
 また手を繋ぐ。冷たい手だった。
 その手を引っ張りながらグラウンドを突っ切ると、友達が目を丸くして見詰める。門の傍にいた友達の一人のヨウスケが複雑な表情で近寄り、逢を横目に見ながら声を潜めた。

「コイツ無視されてるヤツじゃん。関わらない方がいいよ、病気持ってるんだって」

 ヨウスケの声は逢にも聞こえていた筈だ。目を伏せて涙を一杯に溜めている。
 気付けば咄嗟にヨウスケの襟を掴んで持ち上げていた。苦しそうな声が助けを求め、手足をばたつかせる。

「病気なんか無い。誰が言ってた?」
「関口が……」

 関口の顔をぼんやりと思い出す。よく赤いミニスカートを履いている太った女子だ。最近しつこく話し掛けて来るからうざったいと思っていた。

「分かった」

 手を離すと地面に崩れ落ちた。目には涙が溜まっていて今にも泣き喚きそうだ。俺はそのまま行こうとして、足を止めて膝を着く。ヨウスケの泣きそうな目と合った。

「ごめん、悪かった」

 最後に言って、立ち去った。ヨウスケは泣かずに、頷いてくれた。
 人のいない世界はとても綺麗だ。渋滞も通勤ラッシュも環境破壊も無い。でも、独りぼっちは淋しい。哀しくて冷たい。人は独りでは生きられないじゃないか。なのに、何で虐げるんだろう。

「灯君はどうして、いつも怒っているの?」

 帰り道、秘密の近道である駐車場のブロック塀の隙間を抜けて出た原っぱで逢は訊いた。思い付いたような口調だったが、多分ずっと思っていた事だろう。一瞬、言おうか悩んだ。避けて通れる道は幾らでもある。近道なんかしなくたって家には帰れるんだ。
 でも、いつかは分かる。欠陥品なんだ。

「俺は欠陥品なんだ」
「ケッカンヒン?」
「不完全な粗悪品。駄目って事」

 逢は一度「ソアクヒン?」と首を傾げた後で「何で?」と目を丸くした。

「俺、表情無いの。笑いたくても笑えないし、泣きたくても涙は出ない。欠陥品」

 呪文のようだと、思った。唱える度に自分の中で壁が出来る。高く高く。
 逢は意味が分からなかったのかも知れない。それ以上は何も言わなかった。
 施設に帰ると、出迎えた職員が驚いた顔をした。俺は人見知り兼無愛想で通っていたし、逢は皆から避けられている。この組み合わせが不思議だったんだろう。
 その夜、俺は逢がここに来た経緯を聞いた。逢と妹の琉璃は、その体質を理解してくれない親に捨てられたのだそうだ。気味が悪いと、何で生まれたの、と化物のように扱われて。
 俺は可哀相とか人並みの感情を持ち合わせていなくて、職員のように同情してあげる事も出来ないし、理解する事も出来なくて、ただ悔しかった。

「生きるのに許可は必要ですか?」

 職員は答えてくれなかった。その代わりに優しく強く抱き締めてくれた。その肩が微かに震えていて、噛み殺した泣き声が嗚咽となって耳に届く。
 俺は多分、幸せなのだろう。親はいなくても傍には友達がいるし、抱き締めてくれる人もいる。笑ったり泣いたり出来なくても、誰かの笑顔を作ったり、泣きたい時に傍にいてやれるならそれは幸せだ。





 翌日、俺は誰よりも早く施設を出て、誰よりも早く学校に向かった。開いていない校門を乗り越えて昇降口が開くと同時に中に滑り込んだ。開けてくれた用務員のおじさんは「元気がいいね」と言っただけで咎めず、俺はその姿が消えると同時に掃除ロッカーの隅に隠れた。
 竹箒やリヤカーなんかの隙間から丁度、逢の下駄箱が見える。イジメをしているのは関口と言う女子が中心らしいが、目で見るまでは信じたくなかった。それがどんな結果を生んでも確かめなければならない。
 まず、最初に男子が二人登校して来た。サッカー仲間の友達だったので思わず声を掛けそうになるが、寸でのところで堪える。二人は逢の下駄箱が綺麗になっている事について何か話していたが、そのまま行ってしまった。
 どんどん人が増える。逢の下駄箱について何か話している風はあるが、皆通り過ぎて行く。そろそろ逢の登校時間だ。このまま何も起こらなければいい。そう願ったところで、噂の少女は来た。
 関口は今日もお気に入りなのか、真っ赤なミニスカートを履いている。取り巻きが二人。逢の下駄箱に気付いて何か言い合い、ふっとトイレに消えた。思い過ごしなのだ、とその瞬間までは信じた。でも、トイレからゴミ挟みを持ち出して嫌な笑みを浮かべて出て来た。そのゴミ挟みで逢の上履きを汚いもののように掴んで笑い合い、ゴミ箱に投げた。また、笑い声が響く。

(止めろ、笑うな)

 何でそんな事で笑えるんだろう。どうして平気でそんな事が出来るんだろう。自分がされて嫌な事が、相手にとっても嫌な事だと分からないんだろうか。人は傷付かないと、本気で思っているのか?
 俺は立ち上がった。リヤカーが音を立てて崩れ、その反動で竹箒が跳ね上がって肩に衝突した。鈍い痛みがじわりと残るが、気にならない。関口達の驚いた顔が目に焼き付いた。
 お互いに罪を擦り付け合って何とか逃れようとする様が惨めで無様だった。最も忌むべき汚れた人間だとさえ考える。

「何で」

 声が上手く出ない。掠れていた。

「何で、そんな事出来んの? 逢は何かしたか? お前の事を傷付けたのか?」
「庇うの?」

 関口の目が真っ直ぐ向かって来る。

「あの子気持ち悪いでしょ。病気だってママが言ってた。バイキン持って学校来るなんておかしいよ、死んじゃえばいいのに」

 言葉一つ一つをしっかりと聞き取った。机に書かれていたのと同じ悪意だ。
 やはり、何を聞いても怒りも同情も沸かない。欠陥品、両親の声が響く。でも俺は、悔しいんだよ。分かり合えるじゃないか、本当は。何で傷付けなきゃならないんだ。

「気持ち悪く無い。病気じゃない。黴菌なんか無い」

 もしも、俺が欠陥品じゃなかったら涙は流れただろうか。
 悔しさだけが込み上げて、口から零れ落ちる。

「俺は、お前等よりも逢の方がずっと綺麗だと思う。人と違う事の何が悪いんだ。俺とお前だって違う。同じ人間なんか一人としていないじゃないか」
「でも、あんな髪してるし、目も変だよ」
「変?」

 この子は何を言っているんだろう、と思った。まるで、それぞれの名前が違う事に文句を言っているような滑稽さを覚えた。

「お前、何を言ってんの?」

 言っているのか分からない。この子と俺は見ているものが違うのか。この子は本当に俺と同じ人間なのか。いや、俺と同じ欠陥品なのかも知れない。俺には表情が欠落しているけど、この子は感情が欠落しているんじゃないだろうか。

「変って誰が決めた?」

 俺はゴミ箱の中を覗き込んだ。中は空だったらしく、逢の上履きがポツンの落ちていた。底が深いが、手を伸ばして拾い上げる。そのまま関口達を押し退けて元の場所に戻す。それをぼんやりと見つめていると、逢の顔が過った。
 お前は汚くなんか無いんだよ。心の中で何度でも言う。届かなくても、繰り返す。
 周囲のざわめきが少しだけ静かになっていた。サッカー仲間や野球仲間、クラスと友達や皆が見ている。其処に嫌悪や軽蔑の気持ちは無く、純粋な心配の眼差しなのだと気付く。俺は本当に、恵まれていたんだ。

「生きるのにお前の許可がいるのかよ。そういうお前は何なんだよ」

 睨みつけると、簡単に後退さった。目には涙が浮んでいるけども、言葉は止まらないし止める気もない。だって、お前等は逢が泣いていても止めようとしなかっただろ。
 傷付けた分だけ傷付けばいい。そう思った時、また、両親の声が聞こえた。「欠陥品」そんなの分かってるよ。やり返すなんて虚しいやり方だって事くらい。でも、止まらないんだよ。

「お前等なんか嫌いだ。二度と逢に近付くな」

 そのまま背を向けると、扉の前に逢が立ち尽くしていた。何時から見ていたんだろう。動揺した青い瞳と目が合ったが、何も言わなかった。
 自分の上履きを履き替えて教室に行こうとすると、友達が一斉に集まって来た。あっという間に人だかりが出来て皆の顔が並ぶ。笑顔、笑顔。

「カッコ良かったぜ、灯!」
「良く言った!」
「尊敬するよ」

 並ぶ皆の笑顔。笑えるってのは、いいね。
 口角をクッと上げると、皆が目を丸くした。笑うってのは、こういう事なのか? 疑問に感じながらまた、下ろす。筋肉の疲れが残った。

「灯の笑顔初めて見た!」

 人だかりがどっと前に押し寄せて来て、その勢いで下駄箱に後頭部をぶつけた。鈍い痛みがじんわりと広がり、ズルリと倒れ込む。其処に皆が崩れるように圧し掛かって来た。重い、苦しい。必死に抵抗して脱出を試みるが中々抜けられない。絶対、誰かが抑えている。
 苦しいとかよりも、むず痒いような感覚が胸にあった。不快ではない温かさが心を満たして行く。
 俺って幸せなんだよな。
 何とか其処から抜け出して、怯えながら下駄箱から上履きを取る逢を見つけた。履き替えて自分の運動靴をしまったのを確認して走った。一瞬、関口との涙目と合う。それも無視して逢の手を奪って走り出した。皆の驚く目を通り過ぎ、皆の声を背中に受けて階段を駆け登る。後ろに飛んで行く景色、この学校もボロいなぁ、なんて。
 逢がついて来るのを確認しながら二段飛ばしで上へ駆ける。最上階、屋上への入口をぶっ飛ばすように開けた。広がる一面のパノラマ。絶景とは言えないけど、街が一望出来る。乾いた風が頬を打ち、髪を揺らす。

「灯!」

 怒鳴るような大声が鼓膜を揺らす。一瞬誰かと思ったけども、逢だ。初めて聞いた大声だけど、少し裏返っている。何だか可笑しくて頭をぐしゃぐしゃに撫でた。

「ありがとうっ!」

 逢の目から雫が零れた。ああ、泣かしちゃった。

「ありがとう、灯!」

 頬に涙が付いたまま、逢は叫ぶように言う。その雫が宝石のように輝いていた。思わず手を伸ばして触れるけどもただの水分だ。指先が濡れるだけ。

「俺はいつでもお前の傍にいてやるよ」

 青い瞳から透明の水分が零れ落ちる。逢はそのままで微笑んだ。
 その時、扉を越えて、またあいつ等がやって来た。入口は我先にと詰まって中々出られないようだったけど、真っ先に駆け寄って来たヨウスケが肩を組む。

「初めまして、逢ちゃん。俺は平生ヨウスケ」

 笑顔で手を差し伸ばす。俺はヨウスケのこの人懐っこさが嫌いじゃない。泣いたり笑ったりする一生懸命さも好きだ。こいつはいいヤツだと知ってる。
 逢が中々手を取らないので心配そうに俺の方を向いた。昨日、逢が自分の事を汚いと言っていたのを思い出す。

「……、……ヨウスケ、お前手ェ洗った?」
「あっ!」

 慌ててヨウスケは自分の手を見た。咄嗟に言った言葉だったけども、ヨウスケの手は実際に汚い。サッカーした後だろう、泥だらけだ。でも、逢はそっと手を伸ばした。ヨウスケは一瞬、躊躇したがすぐにその手を取った。

「よろしく、逢ちゃんっ!」

 ヨウスケは笑顔で言った途端、扉から脱出した皆が取り囲む。下駄箱の出来事が思い出されたけども脱出は不可能でそのまま倒れ込んだ。よく見れば男だけじゃ無くて女もいる。クラス全員じゃないのかと思ったけど、それだけじゃなかった。逢のクラスメイトもいる。
 逢に謝って、握手して、笑い合って、泣き合って。
 俺は皆に潰されながら頭をぐしゃぐしゃにされつつ精一杯抵抗する。楽しそうで、それでも不快じゃない笑い声が溢れる。その時、関口が俺の事を好きだった事をヨウスケに耳打ちされた。ああ、悪い事したな。でも、謝る気にはなれないや。
 小さく息を吐くと空が見えた。真っ青で雲一つ無い晴天だ。名前も知らない白い鳥が群れを成して太陽を横切って行く。見渡す限り建物の風景が酷く愛しいものに思えた。


2007.12.29