*灰谷逢 2 長い年月が流れ、昨日のように思い出せる出来事ももう二度と帰っては来ない。その残酷な時の流れは時として傷を癒すけれど、それでも俺は帰って来て欲しいと願い続けていた。 小学校、中学校と時は流れて黒薙と逢は高校に入学した。思い出される最初の出来事の入学式、白神龍と会ったのもその時だった。 都内の公立高校普通科の数十回と繰り返される入学式、正門は保護者や真新しい制服に着られている新入生で溢れ返っている。黒薙は逢と一緒に他の人よりも遅れて校門を潜った。逢はその容姿を見られたくなくて髪を染めてカラコンして行こうかと悩んでいた。黒薙は逢がどれだけコンプレックスを抱えているか知っていたけど、ここで隠せば永遠に隠し続けなければならないと解っていたから止めさせて遅れてでも手を引いてでもそのままの姿で引っ張って行った。 逢は正門まで来てもまだ渋っていたが、黒薙は無言でその手を引き続けた。 「早くしろ、入学式始まっちまうんだよ」 「ねぇ、やっぱりあたし染めて来るよ。浮いちゃうもん」 「俺がお前を一人にしない。一緒に何処までも浮いてやるよ、な?」 黒薙は無表情のまま言った。だが、その黒々とした双眸の奥には笑顔があるような気がして逢は溜息を吐く。表情を持たない代わりに黒薙はこんなにも正直に自分を感情を伝えて来る。それが、好きだった。 逢は「分かった」と呟くように返事をして手を引かれながら歩き出す。ぐいぐいと先に行く掌は決して大きくはないけれど、それでもかっちりとした男の子の手だった。 入学式の行われている体育館に入るとざわめきが波紋のように広がって行く。居た堪れなくなって逢は目を伏せてしまうけれど、黒薙は全て無視して手を引いて行った。 その時、白神は離れたところから冷めた目で二人を見ていた。逢の容姿は目を引いたが、それ以上に繋いだ手が憎かったのかも知れない。まだ、あの事件から一年も経っていなかった。 以来、生活は荒んでいた。世間に顔向け出来ないような連中とばっかりつるんでいたし、恐喝や暴力、麻薬にも手を出している。仲間以外の連中は近寄らせなかったし、近寄らなかった。何となく高校進学したけれど、そこにも興味は殆ど無かったのだ。だが、入学式で皆の目を引く黒薙と逢に興味を奪われた。 逢を守るように人込みの中を進んで行く黒薙の仏頂面を見て、その時は何となく取り巻きの一人に訊いた。 「あれ、誰?」 名前も知らない取り巻きの一人は「ああ」と言って二人を見る。 「灰谷逢と黒薙灯です。女のあの姿は麻薬障害らしいんですけどね、普通嫌われるでしょ? だけど、あの黒薙ってやつがいつも目ェ光らせてるんスよ」 「守られてんだ」 「まあ、そうなんスけど。その黒薙ってのが結構な人気者なんで、二人とも味方は多かったみたいですよ」 今は知りませんけど。取り巻きはそう言った。 白神は興味も無さげに適当な相槌を打ち、何となくその二人の姿を目に焼き付けた。逢の手を引く黒薙の姿が余りにも、嘗て妹の手を引いて歩いた自分と似ているのだ。だから、壊してやりたくなった。 強暴な感情が心の中でのた打ち回る。白神は口角を吊り上げていた。 入学式が終わった後、早々と屋上でたむろっていた白神はあの二人の声を聞いた。皆とは時間を置いたのか随分と遅く体育館から出て来たが、黒薙は平然と逢の横を歩く。 何故か、酷く腹が立った。自分は既に失ったものを、今も守り続ける黒薙が憎かった。安心したように隣りを歩く逢が羨ましかった。白神は黙って傍に転がっていたバケツを引っ掴んで水を汲み、屋上の欄干から身を乗り出して二人の姿を確認する。周りの連中も白神が何をするか分かったらしく、ケラケラと笑い合っていた。 白神はバケツを引っ繰り返した。冷水が落下し、バシャリと鳴った。下から悲鳴のような声が上がり、白神は仲間と一緒に覗き込む。だが、そこには思い描いたものは存在しなかった。 「冷てェ」 「灯!」 逢を庇った黒薙が頭から被って水浸しになっている。僅か一瞬で水が落ちて来る事に気付いて庇う事が出来るのだろうか。黒薙は髪から水を滴らせながら睨み付けるように見上げた。 仲間は皆「ガン付けてやがる」と喚いていたが、白神だけはそのやけに鋭過ぎる眼光に鳥肌が立った。冷た過ぎる氷の目。 黒薙はふいと目を背けてさっさと歩き出す。逢がその後を追い、白神は負け惜しみのように持っていたバケツを投げ付けた。五階建ての屋上から力一杯投げ付けたアルミ性のバケツがぶつかれば無事では済まないと分かっている。だが、黒薙は振り返ってそのバケツを蹴り上げた。 カァン。 金属音が響き、歪んだバケツが遠くへ転がる。そして、今度こそ二人は去って行った。 余りにも出来過ぎた筋書きに誰もが息を呑む。白神とてその例外では無かった。 それから、白神は取り憑かれたように二人の動きを監視した。何処かに隙があれば遣ってやろうと思ったのに、それに気付いているのか黒薙は常に目を光らせていた。そして、気付いた事がある。 逢は見た目こそ変わっているが中身は何処にでもいるような女の子なのだ。ただ、人より少し優しくてしっかりしている。問題は黒薙だった。外見は女子が騒ぐのも無理は無いのだが、問題はその中身だ。誰ともつるんでいないのに常に周りには誰かがいて、それでも表情一つ変えない。 そうした二人を見ている内に白神は一層壊して遣りたいと思うようになった。 最初に崩すべきだったのは、逢だった。白神は古典的だが逢の上履きを捨てたり机に落書きをした。逢は何も言わずに少し引き攣りながらも笑ったが、黒薙は無表情のまま黙って犯人を探し始めた。そうして、白神に行き着くまで時間はかからなかった。 その頃合を見計らって白神は黒薙を呼び出した。路地裏の寂れた工場跡に仲間を引き連れた白神に対して、その状況を悟っていた筈の黒薙は指定もされていないのに一人で来た。 「逢にちょっかい出してんの、お前だろ」 黒薙は淡々と断言するように言った。 「そうだよ。俺さァ、逢ちゃんにちょっと気ィあるんだよね」 「気ィあるやつは上履きを切り刻んだりしない」 黒薙は制服の首元を緩めながら溜息混じりに訊く。 「何が目的? どうせ、狙いは逢じゃねェ癖に」 「察しがいいね、アカリちゃん」 白神は薄ら笑いを浮かべながら黒薙の横に立ち、青白くさえ見える首筋にナイフを向ける。だが、黒薙は眉一つ動かさなかった。 「俺が狙いなら、こんな回りくどい手ェ使わなくたってここに来てやったのに」 「それじゃ、意味無いんだよ」 意味深に鼻で笑い、白神はポケットから逢の写真を取り出す。随分前に盗んだ証明写真の一枚だったが、黒薙は目を細めた。 白神は人の良さそうな笑顔を張り付けたまま、その写真を壁にナイフで留める。黒薙は黙ってその様子を見ていた。白神は別のナイフを取り出して黒薙の横に戻り、囁くように言う。 「この子がそんなに大事?」 黒薙は答えなかった。 「君はこの子を守りたいんだよね。そこでさ、俺達、アカリちゃんにお願いがあるんだけど」 白神は写真の貼られた壁にナイフを向け、言う。 「サンドバッグになってくれない? 拒否権は、無いけど」 口角を吊り上げ、指二本で持っていたナイフを投げ放った。発射されたナイフは煤けた空気を裂きながら真っ直ぐに壁に突き刺さった。硬質な音が響き、逢の顔の真ん中には穴が空いている。その様を見て仲間がまたゲラゲラと笑い出した。 黒薙はその写真をみて黙りこくっていたが、小さく鼻を鳴らす。 「分かったよ。要するに黙って殴られろって事だろ?」 白神は耳を疑った。少しくらい怯えたり怒ったりしてもいい筈なのに、表情は存在しない。黒薙は溜息を吐きながら目を細めて白神を見た。あの鋭過ぎる眼光だ。 「俺が黙って殴られてりゃ、逢には手ェ出さねェんだな」 「――いや」 それは負け惜しみのようなものだったが、白神は粟立つ肌も無視して出来るだけ平常を保ったままで言い放つ。 「これから毎日、だ」 黒薙は眉を寄せるが、鼻を鳴らした。 「……それが、どうした」 強がりだとは思った。だけど、表情が無い。瞳の中には轟々と音を立てて炎が燃えているのに、顔には憤怒も恐怖も存在しないのだ。 白神は底知れぬ恐怖を感じたが、口からは「上等だよ」と負け惜しみが零れた。目を閉ざした黒薙に右手は既に振り上げられていた。 それから三時間以上が過ぎた。 黒薙は約束通り一切手を出さず、黙って殴られ続けた。顔は腫れていたし、叩き付けられた腕は鈍く嫌な音がした。血塗れで床まで赤は侵食していたけれど、黒薙がその無表情を崩す事は無かった。音を上げたのは白神達だった。 動かなくなった黒薙をそのままに帰ろうとした時、白神を最後に引き留めた男がいる。それは、動かなかった筈の黒薙だった。 「……約束は守れよ」 黒薙は血を拭いながら立ち上がっているところだった。恐らく腕は折れているだろう。顔も腫れているし、彼方此方切れている。それでも、膝を震わせながら立ち上がるのだ。 「それから、俺の名前はアカリじゃねェ。アカシだ」 立ち上がった黒薙は制服を整え、足を引き摺りながら歩き出していた。 それから、白神は毎日黒薙を呼び出してはリンチ紛いの事を行い続けた。完治しない傷を包帯の上からも痛め付け、見る見る内に黒薙は削がれるように細く、顔色も死者のように蒼くなって行く。逢もその異変には当然気付いた。黒薙が毎日酷い怪我を負うようになってから嫌がらせはピタリと止んだのだから。 だが、黒薙は何も言わなかった。問い詰められる事を予測してか、登校しても殆ど人前に姿を晒さなくなっていた。 同時に、白神もまた黒薙が不気味に思っていた。どんなに痛め付けても表情は崩れず、鋭過ぎる眼光は決して揺るがない。その何度目かのリンチの後、白神は血塗れでぐったりした黒薙の襟首を掴んで思わず覗き込んだが、やはり凍り付くような眼光が突き刺さるばかりばかりだった。 黒薙は目を細めて言う。 「……楽しいかよ」 「は?」 「人の大事なもん盾にして傷付けて、楽しいのかよ」 「楽しいよ」 白神は口角を吊り上げた。 「お前のその仏頂面崩したくて仕方ねェよ。お前が大事にしてるもんぶっ壊してやりてェしな」 「……てめェにゃ無理だ。一人が恐くて震えてるような臆病者なんかに、俺が屈する訳ねェだろ」 やはり、黒薙は変わらなかった。それどころか白神の手を振り払うと自力で歩いて帰ってしまったのだ。仲間の笑いや揶揄する声を遠くに聞きながら白神は小さくなるその背中を呆然と見詰めている。 翌日、黒薙は学校に来なかった。傷が膿んでしまい、想像以上の怪我になったのだと取り巻きの一人が言っていた。だから、恒例になった放課後のリンチも無く白神は暇を持て余しながら町を歩いていた。夕暮れに染まる町中、人込みに紛れ泳ぐように行き先も分からないまま道を行く。胸の中で靄になった苛立ちは消える事は無い。 暫くして、人込みがうざったく感じて人気の無い路地裏にでも曲がろうかと考えていた。その矢先、ビルの隙間から声がした。 「白神龍」 覚えのある声に覗き込むと、薄暗い中で月光のような銀色が目に映った。透き通るような青い瞳が煌煌と光を放っている。『灰谷逢』の名前を思い出すよりも早く足は動き出していた。 逢は白神を睨み付けたまま微動だにしない。 「灯が入院した。覚えがあるでしょ?」 「入院したんだ。……勿論、あるよ」 白神が間近に寄って鼻を鳴らすと、逢は睨み付けたまま言う。 「あたしに嫌がらせしてたのもあんたでしょ」 「良く分かったね」 「灯はあたし人質に取られてたから殴られたんだ」 「その通り。……で?」 目の前にいる逢を馬鹿にするように口角を吊り上げて笑った。逢は、自分よりも大きく力も強い筈の男を少しも恐れていない。白神は逢が何を考えているのかなんて分からないまま言葉を続けた。 「君に何が出来る? 何も出来ないなら、黙って守られてろよ」 逢は少しの間沈黙を守り、しれっと言い返す。 「じゃあ、あんたには何が出来るの。人を傷付ける事しか出来ない癖に、守ろうとしてる灯を笑うんじゃないわよ。それに、あんたと一緒にしないで」 それだけ言い放つとさっさと踵を返していなくなってしまった。 逢の細い背中が人込みに消えた後も白神は暫く立ち尽くし、胸の中でささくれ立つ苛立ちをぶつけるように傍の青いポリバケツを蹴飛ばした。バケツは壁の間を数回跳ね、最後に蓋を独楽のようにクルリと回して倒れた。 翌日、黒薙はやはり学校には来なかった。逢の言っていた通り本当に入院したのだろうと思ったが、白神はそれに対して何かするつもりはこれっぽっちも無かった。 放課後の日課が無くなり、白神達はいつものように廃工場に溜まってタバコを吹かしていた。日が傾いて薄暗くなった頃まで馬鹿な話で盛り上がる仲間から離れたところで白神は一人、埃の溜まった床で死のうとしている雀を見ている。 乱れた翼は奇妙な形に歪み、小さな黒い目は薄く閉じられようとしている。死んだかと思えば微かに鳴く声を聞きながら白神は何もせずに煙草を吹かし、死が訪れる瞬間を待っていた。 雀の死に際を見ながらも、白神の目は一年前自分に降り掛かって来た悲劇を見ている。 一年前、中学三年の夏に家族が殺された。真夏の太陽が照り付ける蝉時雨の中、学校から帰宅すると玄関でいつもは揃っている筈の靴が乱れて転がっている。妹の雪子がやったのだろうと思い、白神は何も知らずに薄暗い家の中に足を踏み入れた。カーテンで外の光を遮られたリビングは家具が闇の中に沈み、何かの生物が息を潜めるように黒い影になっている。おかしいと感じたのは、鉄のような臭いが鼻を突いた時だった。電気を点けると辺り一面が赤に侵食された血の海になっていた。眩暈を覚えて一歩後退さると何か柔らかいものを踏み、恐る恐る目を下に遣ると雪子の真っ赤に染まった腕があった。日に焼けていた健康的は褐色の肌も赤く染まり、大きな目は固く閉ざされている。見渡せば運悪く帰宅していた父がテーブルの上に仰向けで横たわり、何かを呪うように天井を睨んでいた。母は窓の傍でうつ伏せに倒れ、背中には針鼠のように刃物が無数に刺さっている。無論、誰も動かない。 眩暈、だけでは済まなかった。頭痛、吐気。世界がとんでもない勢いで回転しているように視界が歪んで立っていられない。そこから先は思い出せず、気付くと病院の白いベッドの上にいた。 異変に気付いた近所の人が通報したのだと言う。そして、警察から家族は皆死んだ事を淡々と告げられた。 犯人はすぐに捕まった。血塗れの包丁とナイフを両手にぶら下げ、駅前で無差別に人を斬り付けているところを捕獲されたのだそうだ。GLAYの中毒者だった。判決を出す為の裁判には長い時間が掛かるだろう。 白神の人生は大きく変わってしまった。今まで歩いていた正常な道から大きく外れ、煙草や酒、薬物に手を出して自ら破滅へと歩き出している。一家惨殺事件が変えたのは白神の人生だけではなく、幼馴染の和泉嵐の人生も大きく変えた。 まるで自分の事のように事件に対して強い憤りを抱えた和泉は中学卒業後、消息不明となった。和泉は小学校の頃に両親を交通事故で亡くし、犯人にろくな判決も出してくれなかった国に対する怒りは破裂寸前だった。それが、ついに爆発したのかも知れない。だが、白神はそれについてどうしようという気も起きなかった。 そして、今に至る。 気付くと目の前で浅い呼吸を繰り返していた雀はぴくりとも動かなくなっていた。白神は興味を失って立ち上がり、仲間の元へと歩き出す。その時、無数の人影が遠くに見えた。 白神がそれ等の人影を見ている事に気付いた仲間は其方に目を遣って怯えたような声を上げる。見覚えの無い顔だったが、どう見ても堅気の連中ではないのだ。所謂サクザのような風体の男達が出口を塞ぐように並び、奥には黒いスーツに身を包んだ背の高い男が一人統率者のように立っていた。 何が起こっているのか分からない。だが、穏やかでない事は確かだった。隣りで後退さろうとする仲間を捕まえると、怯えたような声で言う。 「く、薬を……」 「薬?」 「やばい! 殺される!」 それだけで、白神は漠然と分かった。 違法ドラッグを横流ししたか、金を横領したか。どちらにせよ無事では済むまい。関係無いと弁解したって助けてくれる訳が無いのだから、覚悟を決めて突っ込むしかない。 白神の覚悟は早かった。だが、仲間はそうではなかった。諦めつつ「行くぜ」と声を掛けると仲間はヤケクソのように大声で返事を返したが、白神が走り出す数秒後、顔を見合わせて走り出した。 目の前にいた男のパンチを避け、眉間に鋭い蹴りを入れた白神の目の端に同じように突っ込んで行く仲間が見えた。人生を諦観している白神は死んでもいい覚悟だったから相手を恐れずにどんどん攻めた。だが、敵が白神の方に集まったのを見計らって仲間は殴られながらも隙間を擦りぬけるようにして逃げ出して行く。白神は、目を疑った。 そもそも、この事態を引き起こしたのは白神ではない。無関係とは言わないけれど、こんな捨石のようにされるなんておかしい。気付いた時にはもう誰もいなかった。 流石に多勢に無勢。白神も相当暴れたが最後は襤褸雑巾のようになって血塗れで地に伏した。 何処か遠くで、血塗れになりながらも自分の足で帰って行く黒薙の背中を思い出す。そして、逢の声が蘇る。あの二人を見る度に心がささくれ立つような苛立ちの正体が分からない。 ――人を傷付ける事しか出来ない癖に、守ろうとしてる灯を笑うんじゃないわよ 何なんだよ、お前等は。 白神は囲まれながら遠い目で目の前の男を睨んでいた。仲間は皆置いて逃げてしまったのに一人で全部の責任を取るなんて馬鹿げてる。全てを呪うような、諦めるような虚ろな目で白神は遠くを眺めていた。 ――人の大事なもん盾にして傷付けて、楽しいのかよ 遠くで、その声が聞こえた気がした。 途端に取り囲む男達がざわめき出す。白神を投げ捨て、男達は一点に向かって走った。白く霞む視界では何が起こっているのか分からないが、屈強な男達が悲鳴を上げて次々に倒されて行く。ゴリラでも暴れているのかと思ったが、そこにいたのは一人の細身な男だった。 片腕を吊るした黒薙がたった一人で暴れているのだ。 白神は信じられないものを見るような目を向ける。訳が分からない。黒薙がここにいる理由も、助ける意味も、何も分からない。 だって、あんなに殴った。あんなに傷付けた。俺なら見捨てる。死体に向かって唾を吐き捨てて笑ってやる。なのに、何で。 「何で、だよ……」 避け切れずに吹っ飛ばされる黒薙が目の端に映った。片腕が使えないのだから当然だ。倒れたところで捕まり、馬乗りになって殴られ、抵抗するようにばたつかせる足が見える。だが、黒薙は声一つ上げずに男の股間を蹴り飛ばすと止めのように顎に見事な一撃を放った。 黒薙は血塗れだった。それでも、表情一つ変えずに敵に向かって行く。あの鋭過ぎる眼光も変わらない。黒薙は僅かに一瞬、白神の方を見た。声を掛けた訳でも何でも無いけれど、声が脳裏を掠める。 ――一人が恐くて震えてるような臆病者なんかに、俺が屈する訳ねェだろ 白神は拳を握った。ついさっきまでは指一本動かせなかったというのに、指先が白くなる程強く握って血で汚れた床に手を突いた。血塗れの床にはトラウマがあるけれど、その時だけは分からなかった。ただ、目の前で関係無い喧嘩に勝手に飛び込んで来た馬鹿な男に借りを作るのは癪だと、思った。 黒薙は白神が立ち上がったのを横目に見ながら屈んでナイフを避ける。白神は駆け出した。 そこから二人で暴れ回り、互いに背中を向けて距離を取る。敵は既に半数程になっていた。白神は目に入りそうな血を拭いながら訊いた。 「何で、来た……」 「来いって言ったのは、お前だろ」 わざわざ殴られに来たというのか。白神は眉を寄せる。 「お前、マゾなのか?」 「殺すぞ」 「何で、助ける」 「俺の勝手だろ」 黒薙はそのまま走り出していた。白神も理解出来ないまま跳び蹴りをかます。 体は鉛のように重かった。でも、体が勝手に動く。沸騰する血液が循環するのが分かる。埃っぽい筈の空気が山奥の湖畔のように澄み渡っているような気がした。 暴れ回る二人を遠くから眺めている影が一つ。これまでの乱闘に一切関わらなかった黒いスーツの男だ。ヤクザとは違った静かな空気を漂わすその男は、二人が暴れ終えて辺りが静まってから漸く行動を起こし始めた。その男の存在をすっかり忘れていた二人は肩で息をしながら、白神は膝に手を突き、黒薙は座り込もうとしていた。だが、最後に残った男の方に目を向けて動きを止める。 スーツの男は口を結んだまま懐から取り出した黒い鉄の塊を二人の方にゆるりと持ち上げて見せた。二人は動きを止め、息を呑む。 白神は力無く笑った。 「……嘘だろ……」 銃だ。 頭が理解するより先に冷や汗が頬を伝った。黒薙は口を結んで男を睨み付けて言う。 「ガキ相手に銃なんか使うのかよ」 男は答えない。黒薙は白神の方に目を遣った。 「おい、お前本当に何やったんだよ。銃なんて滅多に拝めるもんじゃねェぞ」 「俺は関係ねェ!」 「悪いやつは皆そう言うんだ」 そう言いながら、黒薙は一人で逃げる素振りも見せない。白神は苛立ちが何時の間にか消え失せている事に気付いた。 だが、絶体絶命は変わらない。黒薙は表情こそ変わらないが内心は多少なりとも焦っていた。そんな二人の前に救世主は、現れた。無表情に銃を構える男の背後に小さな影――逢がいる。手に持っているのは銀色に光るポールだろうか。二人は一斉に声を上げた。 「あっ」 次の瞬間、逢の持っていたポールが振り下ろされた。思わず眉間に皺を寄せたくなるような一撃に二人は首を竦める。男の頭がくらりと捻られたかと思うと、そのまま後ろに崩れるように倒れてしまった。 二人は顔を見合わせ、逢は引き攣った笑顔を見せる。黒薙は気だるそうに足を引き摺りながら逢の傍に行くと頭を軽く叩いた。 「何で来やがった! 怪我じゃ済まなかったかも知れねェんだぞ!」 「そんなの灯も一緒じゃない!」 「俺はいいんだよ!」 「何がいいの! 灯っていっつもそう! 一人で全部背負い込んで満足しないでよ! あたしだって」 言い争う二人を遠くに見ながら、緊張の糸が切れた白神は崩れるように座り込んだ。気付いた二人が目を向けるので白神は訊く。 「お前等、何でここにいるんだよ。俺なんて、放って置けばいいだろ」 「放って置かれたくなかった癖に」 逢は言った。 「あんたが寂しがってる事くらい最初から分かってたわよ」 「俺が、寂しがってるだって……?」 黒薙は相当疲れたのか背を向けて座り込む。眉を寄せている白神に向かって逢は答えた。 「一人が恐かったんでしょ?」 「ふ……ふざけんな……!」 こいつ等はどうして揃いも揃って同じ事を言うんだ。恐いなんて一言だって言ってないのに。俺は、一人でも大丈夫だ。仲間だって……。 仲間は、俺を置いて逃げてしまったじゃないか。俺は一人きりだ。 黒薙は大きな溜息を一つ吐いて言う。 「虚勢張ってんなよ、面倒臭ェ。そんなに一人が恐きゃ俺が友達になってやるよ」 何の気無しに黒薙は遠くを見ながら続けた。 「お前が馬鹿だろうが餓鬼だろうが一向に構わねェよ。俺のダチなんか元々そんなやつ等ばっかりだしな」 白神は、黒薙の周りにどうして人が集まるのか分かった気がした。だが、その意味が分からない。 「何で」 「お前、そればっかりだな」 黒薙はもう一つ溜息を吐く。 「俺は救えるもんなら馬鹿だろうがクズだろうが、雑魚だろうが敵だろうが全部救ってやりたいんだよ。他に理由なんて要るのかよ」 捻くれた物言いに逢は笑っていた。白神は、馬鹿だと笑ってやりたかった。 捨ててしまえばいいのだ。体が動いてしまうなら目を背ければいい。自分の大事なものを傷付けようとする敵までどうして救いたいと願うのだ。どうして、自分の身も省みずに助けに来る。どうして。 「お前、早死にするタイプだな」 「余計なお世話だ」 鼻を鳴らすと黒薙は再び背中を向けた。逢はその背中を見て笑う。 黒薙の腕を吊るす白い布は既に血や埃に汚れ、もう片方の晒された手は傷だらけだった。だが、その空いた手で徐に携帯電話を取り出すと慣れた手付きで電話を掛け始める。相手は恐らく、警察と病院だろう。 落ち着いた口調で事のあらましを巧く伝えるとすぐに電話を切って立ち上がる。背中を向けて歩きながら黒薙は言った。 「すぐに警察と救急車が来る。俺は関係ねェし、お前の事なんざ知らねェから勝手にしな」 既に白神の先の行動を予測しているような口調だった。無論、白神だって殆ど無罪だろう。このまま残れば間違い無く学校は退学させられるのだから逃げるに決まっている。 重い腰を上げると逢が少しだけ振り返って微笑んだ。銀色の髪が外灯の橙を帯びた光を反射している。寂れた景色に沈むその奇妙な色彩が薄れて行くように見えた。白神は胸に鈍い痛みを感じながら、既に二人の消えた景色を見詰めている。 2008.1.17 |