*灰谷逢 3

 白神は、女子からも男子からも絶大な人気を誇る黒薙灯が遅刻して校門を潜るところを屋上から見下ろしていた。あの騒ぎからは殆ど日が経っていない為にお互い重傷だから拳で語り合う事は出来ないし、柄じゃない。でも、借りを作ったままでいるのは癪だと思った。
 腕を吊った黒薙は同級生と擦れ違う度に声を掛けられ無表情に返して行く。
 少しくらい、笑えよ。
 人事ながら、そんな事を考えている。
 仲間だったやつ等は学校には来なかった。クラスで行方不明だと聞いたような気もしたが今となってはどうでもいい事だ。このまま死んでも生きても勝手にすればいい。黒薙と逢の何処か浮世離れした生き方を見ると正体不明の苛立ちは自然と鎮まってしまったから、遣り返す気力も殆ど起きなかった。だから、白神はこうして毎日を一人屋上で無駄に塗り潰している。
 仲間なんていらない。人は独りでも生きられる。それを今まで実戦して来た。
 頬に春の生暖かい風を感じながら横たわると太陽の光に目が眩んだ。穏やかな気候の下、昼寝でも始めようかとしようかと瞼をゆっくりと下ろす。瞼の薄い皮膚が透けて橙色が視界一杯に広がったが、すぐに暗い闇が下りて来た。睡魔ではない。白神は目を開けた。目の前に銀色の髪と灰色のスカートを靡かせる逢の背中があった。
 白神が体を起こした事に気付くと逢は振り返り、微笑みを口に残しながら言う。

「怪我はどう?」
「……御陰様で」
「良かったね。言い忘れたけど、灯の入院は嘘だから」

 今更だなと思いながら適当に相槌を打つ。

「別に、どうでもいいけどな」
「昔から医者嫌いって言うより、心配されるのが嫌なのよね」
「お前等、付き合ってんの?」
「まさか」

 逢は笑った。

「あたしも灯も施設で育ったの。こんな姿のせいでイジメられてたあたしをいつも灯は助けてくれた……」

 今度は白神がにやりと笑う番だった。
 逢の中にある感情は家族や友達に向けるそれではない。気付かない振りで誤魔化しているけれど、いつか伝える時が来るのだろう。
 だが、白神はその事については深く追求する気にはなれず何も言わなかった。ただ、微風のように時が静かに流れて行くのを青空を見上げながらぼんやりと感じている。先日の騒ぎなど忘れたかのような穏やかな日々に身を任せていた。
 その平和な日々が少しずつ壊れ始めたのはそれから僅か数日後だった。
 白神は嘗ての仲間を奇妙な形で無くしてからは独り屋上で時間を潰している。逢は何の気紛れかしょっちゅう屋上に顔を出しては他愛の無い話をした。白神も始めは煙たそうにしていたが、心の何処かで救われていた事に気付かない振りをしていた。
 逢と話をするようになってからはクラスメイトにも少しずつ心を開くようになった。元々上辺の愛想の良さには自信があったし、適度に合わせたりする要領の良さも身に付けている。白神がクラスに溶け込むようになると色々な噂も耳にするようになった。逢の噂はよく耳にしたが、皆始めは不気味がっていたようだがその人柄を知ると受け入れるようになって今はすっかりクラスの一員になっているらしい。平和だと思ったのはその時までだった。
 黒薙は表情を一切変えず、なまじ顔が整っているだけに皆に恐いという印象を与える。だが、根を知れば周りが放って置かないような人気者だった。特定の誰かとつるむ事はしなかったが自然と人を惹き付ける、そんな人間。老若男女隔て無く好まれるようだったが、女子からは格別にもてているらしい。その話も白神は良く耳にしたが、あの騒ぎ以降黒薙とは会話すらしていなかった。だから、噂を聞いた時は訳が分からなかった。
 クラスメイトが何の気無しに言っていた事は、黒薙灯は女子から酷く嫌われていると言うものだった。
 可笑しいと思った。数日前に聞いた限りでは持てていた筈なのに、真逆じゃないか。そう思って訊いてみると、とても下らない事だった。
 学年でも目立つリーダー格のある女子が黒薙に告白し、振られた。それだけなら良いだろうが、振った相手に黒薙は『お前の事、好きじゃないから』と言ったらしい。
 聞いた瞬間、白神は溜息を吐いた。どうしてそんなに要領が悪いのだろうか。適当に好きな人がいるとでも言っておけば全て丸く収まった筈。
 白神は双方に同情しつつも別に関わろうとは思わなかった。確かに、黒薙には借りがある。でも、向こうもそんなつもりで行動した訳ではないだろうし、人の噂も七十九日。すぐに治まるだろうと思っていた。
 だが、事はそれだけでは済まなかった。相手が悪かったのだ。
 その女子は学年全体、近隣の学校全てに黒薙の陰口を流した。噂には尾ひれが付き、再び白神が耳にした時には既に黒薙はとんでもない悪者になっていたのだ。しかも、黒薙は否定も肯定もせずに無視している。事は大袈裟になり続け、少しずつ黒薙は孤立していった。
 白神が久々に黒薙を見たのは、いつもの屋上だった。
 夏を迎えようとする夕暮れに染まる町並みには近くの小学校が五時を告げる鐘が鳴り響いている。白神が屋上への扉を開けると倉庫のような小さな建物を睨み付ける黒薙の橙色に染まった横顔が見えた。
 通り過ぎて行く風が黒髪を舞い起こし、朱色の世界にぽつりと浮び上がっている筈の色彩は何故かそのまま溶けて消えそうな気がした。白神はポケットに手を突っ込んだまま歩み寄り声を掛ける。

「よう、久しぶりだな」

 黒薙は少し首を回して白神を見ただけで何も言わなかった。白神はその仏頂面の横に立ち、何を見ているのかと壁の方に目をやって息を呑む。壁一面に黒いスプレーで黒薙の事がでかでかと書かれていた。
 確かに、餓鬼の悪戯だ。だけど。

『黒薙灯死ね』
『冷血』
『最低男は逝って良し!』
『無表情で気持ち悪い』

 だけど、白神は何も言えなかった。黒薙は無表情のまま呆れたように小さく溜息を吐いて水道の元に歩いて行く。其処からバケツとデッキブラシを持って来ると一人で壁を擦り始めた。
 白神はブラシが壁を走る音を聞きながら静かに訊く。

「何で、何も言わない」

 黒薙は手を止めずに言った。

「何て言えばいい?」
「否定しろ、弁解しろよ! 何でこんなに言われて黙ってんだ!」
「お前は信じたかよ」

 白神は答えに詰まった。
 確かに放って置いた。でも、それは黒薙の事をそんな風に思ったからじゃない。そう言おうと思ったが、止めた。何もしないのは加害者と同じ事なのだ。
 黒薙は暫く黙って壁を擦り続けていたが、落書きは一向に落ちる気配を見せない。明日皆が登校した時にはこの落書きも皆の前に晒されて黒薙は更に孤独になるのだろう。そう考えると堪らなくなって白神は掃除用具入れの中からクレンザーとデッキブラシを持って行った。白神が壁を擦り始めると黒薙は一瞥もくれずに言う。

「同情は、いらないから」
「同情じゃねェ。好きでやってんだ」
「変わり者だな」
「お前に言われたかねェよ」

 屋上にはシャワシャワと壁を擦る音だけが響いた。クレンザーを使ったお陰が黒はだんだんと色を失って行く。
 白神は、ずっと気になっていた事を訊いた。

「お前、何で笑わない?」
「笑えないだけだ」
「そんなんだからお高く止まってるとか、冷血とか言われるんだぜ」
「……それは、仕方ねェんだよ。俺は、欠陥品だから」
「は?」

 黒薙が何を言っているのか分からなかった。だが、その横顔は壁を睨み付けたまま何処か泣き出しそうに見えた。
 今度は黒薙が訊く番だった。

「じゃあ、お前は何で上っ面でしか笑わないんだよ」

 白神は手を止めて目を丸くした。
 気付かれていないと思った。これまで誰一人気付かなかったのだ。逢も黒薙もどうして、見せまいとして隠し続けたものを簡単に見抜いてしまうのだろう。
 黒薙はそのまま黙って手を動かし続けていたが、白神はデッキブラシを置いて欄干に背中を預けて答えた。

「笑い方、思い出せないんだ」

 声は震えていた。

「俺、中三の時に薬中のいかれた野郎に家族全員殺されてんだ……。それから、人とどうやって距離を取ったらいいのか分からなくなっちまった。上っ面で笑ってりゃ上手く行くけど、そうしている間に本当の笑いが分からなくなった」

 黒薙はデッキブラシを下ろし、肩を鳴らしつつ振り返った。出歩いてばかりいる割には生白く、何処か蒼い顔色だった。

「誰も無理して笑えなんて言ってねェんじゃねーの? 辛いなら泣きゃいいだろ。今お前の周りにいるのは前みたいに腐ったやつ等じゃねェ。ちょっとくらい、信頼してやれよ」
「別に俺は、同情して欲しい訳じゃない」
「でも、寄り掛かる事は罪じゃねェよ」
「じゃあ、お前は何でいつも独りで全部背負う」

 白神は数日前の逢との会話を思い出している。
 逢もまた、黒薙の噂を知って酷く気に病んでいた。黒薙は心配する逢に相談もしなければ弁解もしなかった。彼が彼女を守る為なら何でもする事は知っているが、白神は全部背負い込もうとするところまでは殆ど理解出来なかった。
 黒薙は再びデッキブラシを手に取って壁に向き合う。汗ばんで少し透けるシャツの背中を見せながら黒薙は言った。

「それしか、方法が無かったから」
「……どういう意味だ?」
「きっと、正解は『好きな人がいる』とか適当に言う事だったんだよな。俺だって分かってたけどさ、そうすると矛先が逢に向いただろ」

 だから、出来なかった。
 黒薙はそれだけ言って再び壁を擦り始めた。
 確かに、あの時そう言えば黒薙はこんな目には遭わなかっただろう。その分、いつも一緒にいた逢が悪く言われた筈だ。だから、進んで自分が悪者になったのだろうか。
 馬鹿だと笑ってやりたかった。そんな生き方も守られ方も彼女は望んでいない。望んでいないのに、黒薙は守るのだろうか。余りにも真っ直ぐ過ぎる歪みだと思った。
 黒薙は呟くように言う。

「俺なんかのせいで誰かが傷付くのだけは嫌なんだ」
「何で、だよ。何で、お前だけがそうやって全部背負い込むんだ。お前こそ人を頼ってみろよ。……寄り掛かって来いよ!」
「出来ねェ」

 黒薙は手を止めて言った。

「俺が守りたいものにどうして寄り掛かれるんだよ」
「……お前は欠陥品なんかじゃねーよ。不器用なだけだ。ちょっと無愛想なだけだろ」
「欠陥品なんだよ」

 落書きは粗方消え、目を凝らせば薄っすらと浮ぶ程度だった。
 どのくらい時間が経ったのか日は既に沈んで屋上にも闇が落ちている。黒薙は壁にこびり付いた泡をバケツの水で適当に洗い流すとさっさと背中を向けて歩き出して行く。白神は後を追う事はせず、黒薙の姿を消し去る扉が閉まる音を遠くに聞いていた。
 翌日、例の女子の思惑は外れ平和に一日は始まった。白神は暫くの間真面目に受けていた授業をさぼって屋上に行き、そこで再び逢の姿を見つける。逢は白神に気付くと穏やかに微笑んだ。

「サボりかよ」
「龍こそ」

 逢は悪戯っぽく笑った。
 白神はその傍の欄干に背中を預けて座り込み、体育の授業が行われているグラウンドに目をやった。黒薙のクラスのようだが、その姿は何処にも無い。代わりにあの女が屋上を指差して何か不満げに話している姿が見えた。
 作戦を潰してやった満足感に浸っていると逢が隣りに座る。

「灯、今日は病院に行ってるの」
「病院?」

 逢は頷いた。

「あんまり体丈夫じゃないからね」
「そういや、普段から顔色悪いよな」
「施設にいる子は皆そうだったよ」
「……お前は、何で施設にいんの? 親は?」

 少しだけ寂しそうに逢は苦笑する。

「こんな姿だからさ、あたしは妹と捨てられちゃった。昔から気持ち悪がられてね、ずっと友達もいなかった」

 言葉を見つけられず、黙ってしまうと逢は慌てて続けた。

「でも、もう大丈夫なんだよ! あたしは一人じゃないから!」

 人は誰もが傷を抱えている。白神は自分だけが不幸だと思っていた事を恥じた。辛さを隠してこんなにも明るく笑える少女だって、いるのだ。
 逢はすっかり黙ってしまっている為にどうしようかと考えているが、白神は思い出したように言った。

「そういや、あいつは?」
「灯の事?」

 逢は少し口篭もる。躊躇っているようだったが、白神が「誰にも言わない」と言うと小さな声で言った。

「灯は小さい頃に両親が事故で死んじゃったから……」
「そう、か」

 白神は力無く答えた。『独りきり』だったのは、自分だけじゃない。皆孤独で傷を抱えながらも精一杯生きている。
 逢はそれ以上何も言わなかった。その時、丁度チャイムの音が鳴り響いた。グラウンドの生徒もぞろぞろと校舎に戻って来るが、二人は屋上から離れずにいる。
 その後も暫く二人は屋上で何をする訳でも無くゆっくりと変わって行く町並みを眺めていた。白い光が赤みを帯びていく。帰宅する生徒、部活の精の出る声。風は少しだけ冷えていた。
 四時を回った頃、屋上への扉が開いた。二人は大した反応も見せずに欄干の向こうを眺めている。扉からは丁度死角になっている為、屋上への侵入者は二人に気付かずに大声で話し始めた。

「昨日、ここに落書きしたのになぁ」

 例の女の声だったが、白神も逢も知らん顔している。取り巻きがいるようだが、誰も二人には気付いていない。
 誰もいないと思っているのか大声で根も葉もない退屈な陰口を延々と話しながら馬鹿笑いしている。白神は溜息を吐いた。ここで出て庇うような熱血も義理も持ち合わせてはいない。逢も動かないのは、その行為の無意味さを知っているからだ。
 嘗て、黒薙は逢がイジメに遭っていた時に皆の前である事も忘れて庇った事がある。お陰でイジメは終わり、逢には沢山の友達が出来た。だが、それは小学校の話だ。高校生に通じるものではない。
 なら、どうする。このまま放って置くのだろうか。
 扉が再び開いたのは、その時だった。
 タイミング悪く色褪せ錆びた茶褐色の扉から現れた黒薙は点滴を受けて来た後なのか腕に白い四角のガーゼを張り付けている。白神は呆れたように額を押さえ、妙な空気に取り込まれかけている黒薙に手を振った。

「おい、こっち」
「お前もいたのか」

 黒薙はあの女も無視して通り過ぎる。彼女等は眉間に皺を寄せて不快感を露にしているが、黒薙は白神と逢の傍まで悠々と歩いて行った。
 逢はその神経の太さに半ば呆れながら訊く。

「病院は?」
「参ったぜ、精密検査三時間、点滴二時間。もう病院なんて行かねェ」
「何でそんなに」
「俺が訊きたいね」
「もう」

 逢は笑った。
 黒薙はやはり無表情のまま溜息を吐くと踵を返し歩き出す。扉の傍にいる女等は視界に映っていないようだったが、黒薙は扉の前で漸く思い出したように振り返った。

「満足?」
「はっ?」
「俺はお前の玩具じゃない。思い通りになんかならねェ」

 表情の死んだ面は睨んでもいなければ笑ってもいない。黒い双眸から覗く強い意志が氷のように冷たい光を放っていた。少しでも動揺や怒りや哀しみが見えたなら、きっと彼女達も少しは満足した筈だ。白神はそれが黒薙の精一杯の強がりなのだろうと自己簡潔する。
 そして、黒薙の襟首を掴んで引き寄せると肩を組んだ。目を白黒させる黒薙も無視し、目の前の女等に向かって言う。

「そういう訳なんで。これ以上俺のダチにちょっかい出すの止めてね」

 黒薙がジロリとするが、白神は笑った。

「友達になってくれたんだろ? アカリちゃん」
「アカシだ」
「大して変わらねェだろうが。……睨むなよ、分かったって。お前って頭堅いんだな」
「余計なお世話だ。逢、帰ろうぜ」

 逢が小走りに来るのを見ながら黒薙は白神にされるまま歩き出す。置いてけ堀を食らった女達は暫く立ち尽くしていたようだったが、三人は後の事を知らない。
 白神と逢は状況が変わらないんじゃないかと心配していたが、黒薙はそれからも普段と変わらない日々を送り始めた。始めの頃に白神が思った通り、人の噂も七十五日。彼女達が止めれば噂はピタリと止み、今まで通り黒薙は自然とクラスの中心に戻っていた。
 以来、三人は自然と屋上に集まるようになり、お互い傷を抱えながら自然を心を開くようになった。


 

2008.1.20