*灰谷逢 4 『GLAYって知ってる?』 『知ってるよ、違法ドラッグの事じゃん。路地裏の外人に話し掛ければ安く買えるってー』 『違う違う! 巷に溢れてるのは全部GLAYの偽物なの!』 『偽物? じゃあ、本物って……?』 『本物のGLAYはね、死んだ人に会えるんだって』 『えー、嘘だぁ! それって死ぬって事でしょ?』 『さぁ……。でも、会った人はいるんだって。その人は、どうなったんだろうね……?』 * 薄暗い部屋の中はまるで強盗でも押し入ったかのような状態だった。衣服は彼方此方に散乱し、溜まったゴミ箱からは異臭が漂っている。窓の端には埃が溜まり、硝子は曇ってカーテンは汚れてしまっていた。 ゴミだか必要なものなのか殆ど判別の付かない室内で唯一清潔感のある黒い皮張りのソファが白い壁際に置かれている。白神はその上に寝転び、腕で顔を覆うようにして激しく肩を上下させている。気管支が喘息のような音を立て、顔は紙のように真っ白だった。側から見れば重病患者のようである。 ソファの脚の傍には灰色の錠剤が数粒転がっている。白神は酷い眩暈と嘔吐感に襲われながらゆっくりと腕を退けて目を開けた。視界には煤けた天井が広がっている。 フローリングの床に置かれたシルバーボディの携帯が陳腐な電子音と共に白い光を放っていた。白神は夢か現か分からないまま携帯を拾い上げ、小さなサブディスプレイを確認する。メール着信、灰谷逢。 『>今日、お休み?』 メールを確認した白神は脱げ掛けた皺だらけの黒いスウェットを引き摺りながら風呂場へ向かって歩き出している。現在、午前十時半。平日の今日は当然学校が通常通りある訳だが、完全な遅刻だ。 『>今から行くよ(*^-^*)ノシ』 白神は返事を送ると携帯を閉じ風呂場へと消えた。 * 高校二年、秋。 無事嵐のようだった高校一年を終えると白神・逢・黒薙は揃って進級し、更に同じクラスになった。受験に備えて動き出した授業の進みは驚く程早く、比例して時間もあっという間に通り過ぎて行く。白神は二年の夏休みを境に連日遅刻していた。 白神が学校の校門を潜った時は既に昼休みだった。生徒のざわめきが増す中、窓から身を乗り出したクラスメイトが茶化しながら手を振る。それに軽く答えながら、あの二人がいるだろう屋上を目指した。 一年の頃は色々な事があったが、どの事件も既に解決済み。白神は黒薙・逢には心を開いているし、逢も二人を信頼している。黒薙は相変わらずの無表情ながらも何故かクラスの中心に祭り上げられる。平和な時間は続いていた。 夏の力を残す太陽が照らす屋上の扉を押し開けると、すぐに逢の声が飛んで来た。 「遅いよー」 弁当を広げている二人を確認して白神は少し笑った。 三角形を作るように座り、鞄の中からコンビニで買った弁当を取り出す。二人は半分以上食べ終えているが、多分、自分の到着を待っていたのだろう。そう思うと少し可笑しかった。 一人で笑っている白神を見て黒薙は眉間に皺を寄せる。 「何笑ってんだよ、気持ち悪ィな」 黒薙はそう呟いて乱切りされた人参の煮物を口に運ぶ。逢の弁当と中身が同じだった。 逢はコンビニ弁当を食べ始めた白神の顔をじっと見詰めている。 「龍、顔色悪いよ? ここのところずっと遅刻じゃん。単位落としちゃったら留年だよ?」 「ちょっと風邪気味なんだよ」 わざとらしく咳をすると黒薙が鼻を鳴らした。 「馬鹿は風邪引かないんだけどな」 「天才だから風邪引いてんの。大体、馬鹿はテメーだろ。数学と生物赤点だって?」 「何で知ってんだよ」 「俺を嘗めんな」 中指を立てて見せると二人は揃って呆れたように溜息を吐く。 三人は確かに仲良くなったしお互いに心を開いてはいる。でも、皆未だに心の底に抱えた傷は隠し通していた。そして、白神は自分が逢に惹かれ始めている事に気付いている。だが、逢が黒薙に対して友人以上の感情を抱えている事も知っていた。黒薙は相変わらず誰にも腹の底を読ませぬまま、何事も無いように生活している。 白神も思いを届けたいなんて事は欠片も考えてはいない。このままが一番良い状態なのだと、恐らくは白神も逢も気付いていた。 一番に弁当を食べ終えた黒薙は自分の鞄を引き寄せ、几帳面に整頓された鞄の中から一枚の白い紙を取り出す。その紙もまた角をきっちりと揃えられている辺り、黒薙は少し神経質なのかも知れない。横から覗き込むと『進路調査票』を書かれていた。 「それ、今日配られたの?」 「ああ」 「龍の分は机の中に入れといたよ」 「サンキュー」 春巻きを口に運びながら記入欄が空っぽの用紙を見詰める。 「お前進学するの?」 訊くと、黒薙は眉を寄せた。 「働いた方が良いとは思うんだけどな」 「って事は進学するんだ。何処狙ってんの?」 「R大」 「ああ、外語ね」 黒薙は頷く。 理数系はからっきしだが、その分文系で稼ぐのが黒薙の基本スタンスだ。逢は努力家だからバランス良く何でも出来る。白神は黒薙と丁度真逆に位置していた。 「逢は?」 「あたしもR大。って言っても美術だけどね」 「R大かー……」 ぼんやりとR大を思い出して見る。嘗てマーチと呼ばれた上位の学校には入らないが、それに次ぐ学力レベルを持った大学だ。黒薙は理数は駄目だが文系なら十分入学出来るだろう。色々考えているんだな、なんて思いながら無計画な自分の生活を振り返っていた。 黒薙は欠伸を噛み殺しながら思い出したように言った。 「俺、今日もバイトだから先に帰ってて」 高校一年で嵐のようだった時期が過ぎると生活は大分安定し、黒薙は頃合を見計らうようにバイトを始めた。今では三つ掛け持ちして朝から晩まで、毎日のように働いている。白神とてそれよりも早くバイトはしていたが中々続けられず点々としていた。 バイトを始めてからか二年に進級してからか、黒薙は目に見えて削がれるように細くなった。元々体が丈夫ではないと知っていたが、無理をしてでも稼がなければならない時もあるのだろう。恐らくは容姿が理由でバイトの出来ない逢の分まで働こうとしているのだろうが、そろそろがたが来ているのかも知れない。 逢は少し心配そうに返事をする。 「分かった……けど、あんまり無理しないでよ?」 「誰に向かって言ってんだよ」 鳴り始めたチャイムと共に黒薙は立ち上がった。慌てて弁当を詰め込む白神を横目に見ながら逢は苦笑しつつ立つ。待ってと言わなくても、二人は絶対に扉の前で待っているのだ。 食べ終えて二人に追い着くと黒薙は無表情のまま扉を開けた。先を歩く黒薙の細い背中を見ながら逢に耳打ちする。 「あいつ、やばくねェ? 死人みてェな顔色だぞ」 「龍もね」 首を竦めて見せると逢は笑った。階段の踊り場で二人を待っている黒薙が怪訝そうな目を向けて首を傾げているので二人は顔を見合わせ、また笑う。 それから数日は何事も無く平和な日々を過ごした。白神も二人が交互にモーニングコールを掛けて来るお陰で遅刻せずに済んでいたのだが、その日、黒薙は学校を休んだ。進路調査票の提出期限が目の前に迫った十一月の事だった。 学校に行ってみると逢はクラスで他の女子と談笑していて、男子の中にも黒薙はいなかった。訊いてみても理由は分からず、連絡も取れないまま二日間学校もバイトも休んでいた。 そして、二日後。三時間目の授業が終わった頃に黒薙は顔面蒼白で教室の後ろの扉を開けた。普段見慣れている筈の白神や逢も息を呑む程に顔色が悪い。死人のようだ、と言うよりは死人だった。 覚束ない足取りで黙って自分の席に着くと周りの挨拶も無視してそのまま突っ伏してしまった。尋常ではない状態に白神は胸騒ぎを感じつつ机に寄る。肩を叩くと薄い皮膚に守られた肩の骨の感触がリアルに伝わって来た。顔を上げてもくっきりした二重瞼の下に刻印のような隈が存在している。逢は声を震わせて訊いた。 「ど、どうしたの……?」 「何でも、無い」 無い訳無いだろう! 白神はそう言ってやりたかったが、黒薙は掌で口を覆うと教室を飛び出してトイレに駆け込んで行った。反射的に後を追った白神は扉の開け放された個室で便器を抱えている黒薙の背中を見た。何度も咽返っては恐らくは胃液を吐いている。 「おい、灯。大丈夫か?」 黒薙は返事等出来る状況では無かった。白神は背中を摩りながら傍にしゃがみ込む。未だ嘗て、こんなに弱った黒薙を見た事があっただろうか。 その後も暫く吐き続けた黒薙は漸く青褪めた顔を上げ、焦点の合わない目で白神を見て言った。 「GLAYだ……」 思わず、ギクリとした。だが、黒薙は目を伏せて続ける。 「俺の昔からのダチが、GLAYで……」 黒薙は呆然としていた。無表情とは言え動揺が手に取るように分かる。 「GLAYに手ェ出すようなやつじゃなかった。多分、そこ等辺のやつ等に拉致られ、て」 額を押さえながら荒い呼吸を繰り返す。白神はその背中を無言で摩り続けた。内心は冷や汗をかいていたが何も無い振りをして震える黒薙に声を掛け続ける。 漸く立ち直った黒薙を支えながらトイレから出ると蒼い顔で壁に寄り掛かっていた逢が慌てて駆け寄って来た。黒薙は少し躊躇いながらも言った。 「ヨウスケ覚えてるか? 小学校の時の、平生ヨウスケ」 「うん、覚えてる」 「そのヨウスケが、GLAYに侵されて、もう」 途切れ途切れの言葉。白神はその『平生ヨウスケ』の事を知らないが、聞く限り親しい友達だったのだろう。逢は両手で口を覆って息を呑む。 聞くところによると、黒薙は連絡を受けてヨウスケの運ばれた病院に駆け付けた。其処で見たものは廃人になった友達。この二日間は詳しい話を聞きながらもヨウスケの傍に付きっきりだったらしい。食事も何も無く一睡もしていないのだからこの状態で当然だ。だが、今何か食べろと言ってもすぐに全て戻しただろう。 黒薙が心底悔しそうに奥歯を噛み締める音が白神の耳にも届いた。握り締めた拳がぶるぶる震えている。だが、黒薙はそのままゆっくりと階段を下りて行ってしまった。 それからの黒薙は人が変わってしまったかのように勉強に励むようになった。休み時間も殆ど机に向かい合い、毎日勉強してるかバイトしているかで睡眠時間は各段に減り、会話も無くなった。 逢と白神も心配していたが、どうする事も出来なかった。そして、黒薙が学年トップになったのはそれから僅か数ヶ月後の冬の日だった。 学年末のテストが終わり、逢は机に突っ伏している黒薙の傍に寄ると肩を叩く。 「灯、大丈夫? どうしちゃったの?」 「やりたい事があるんだ」 「やりたい事?」 「……進路、変える」 そう言って席を立ち、帰りのホームルームの始まりのチャイムと共に教室を出ようとする黒薙を白神は扉の前に立って阻んだ。じろりと睨み上げる黒薙の目には鬼気迫るものを感じるが、明らかに寝不足だろう。隈が酷過ぎる。 「R大止めるのか?」 「いや、R大は止めない。学部を変えるだけだ」 いいから退けよ。黒薙はそう言うように白神を押し退ける。廊下に出ようとする背中に向かって白神は訊いた。 「何処にするんだ?」 「薬学部」 「ハッ! 科学者にでもなる気かよ」 冗談のつもりだったが、黒薙は振り返って言った。 「そうだよ。先生にも止められたけどな」 白神は言葉に詰まった。 「笑ってくれていいよ。俺はGLAYの特効薬を作りたいんだ」 「特効薬って……。GLAYは麻薬だぞ?」 「GLAYはもう麻薬の域を越えている。中毒者を見た事無いだろうが……あれは、最早病気だ」 どうやら以前の友人の事件が彼を変えてしまったらしい。黒薙の目には苛立ちのようなものが垣間見え、その度に白神も同じ苛立ちを抱えた。 「お前に出来るかよ」 「やってみなきゃ分からないだろ。なあ、逢?」 黒薙は無表情のまま言う。逢は困ったように首を傾けただけだった。 白神はその黒薙の襟首を掴んだ。反動で椅子や机が音を立て、教室に響いた。奇妙な静寂の中で表情一つ動かさない黒薙を睨み付ける。 「分かるよ。お前には何も出来ない。だって、お前は人間じゃない」 「――何だと?」 「だって、お前は笑わない。人間にはある温かみが欠片も感じられねーんだよ」 「龍!」 次の瞬間、視界の左端に肌色の何かが映った。それが何か理解出来ても白神は咄嗟に動く事が出来ず、頬を打つ音と共に右へ吹っ飛んだ。 周りの机を巻き込んで白神は煤けた教室のタイルの上に転げた。クラスメイトのざわめきの中で何が起こっているのか分からずに目を瞬かせ、見上げた正面には逢の紅潮した顔があった。 逢は肩で荒い呼吸を整えながら真っ直ぐ睨み付けている。 「龍は、灯の事何も分からないじゃない……!」 こんなに感情的な逢は初めて見るな、と何処か遠いところで考えていた。逢の青い目には薄っすらと涙が溜まっている。無表情に黙っている黒薙は驚いたように目を丸くしていた。 逢は、言った。 「何も分からない癖に、勝手な事言わないでよ!!」 ぽつり。 白い滑らかな肌を、透明な液体が伝った。動揺したのは黒薙で、慌てて席を立ち上がると逢の傍に駆け寄る。立ち尽くしたまま動けない白神は完全に置いてけ掘を食らっていた。 「何で逢が泣くんだよ。悪いのは、俺だろ?」 「うるさい! 悪いとか悪くないとか……」 「なあ、頼むから泣くな」 黒薙もどうすればいいのか分からないようだった。その時、何となく気付いた。 逢はやはり、黒薙の事が好きなのだ。でも、黒薙は逢に対しては家族愛のようなものしか持っていない。多分、『好き』と言う感情が理解出来ないのだ。そして、俺は。 白神は黙っている。心の何処かが麻痺していくようだった。 「俺なんかのせいで、泣くな……」 違和感。奇妙だ、異常だ。黒薙は普通じゃない。 白神の中で何かがそう告げる。だが、口に出す事は出来なかった。 俺『なんか』って何だよ、『せい』って何だよ。お前、自分を何処まで下に見てるんだよ。 視界の端で白い光が瞬く。視界が歪む。込み上げて来る吐気、震える指先。麻薬の、中毒症状だった。 「龍……?」 異変に最初に気付いたのは黒薙だった。逢は泣いているのだから仕方ないと分かっても、悔しかった。 可笑しな状況に取り残されたのは黒薙で、どうすればいいのか分からず無表情のまま交互に二人を見る。白神はゆっくりと立ち上がって走り出した。背中に黒薙の呼び声が突き刺さる。 それでも、白神は走り続けた。このまま立ち止まって知られてしまえば、きっとあいつ等は離れてしまう。今だって。 絶望のような暗い気持ちが胸の中を水のようにひたひたと濡らして行く。白神は必死に走った。 どれ程走ったのか、気付くと人気の無い校舎最奥の男子トイレの個室で便器に向かい合っていた。腹の底から込み上げて来る絶望を何度も咽返りながら吐き続ける。逢の涙が何度も目の前を通り過ぎた。 ポケットから真空パックの小袋を取り出し、中に入っている灰色の錠剤を掌に転がす。吐気の隙間を縫って口の中に放り込み、背にした扉に寄り掛かった。暫くの空白の後、足元が浮び上がるような錯覚と共に人工的な高揚感が訪れる。 GLAYの中毒者が病気だと言う事は、俺が病気と言う事だ。 白神は無意識の内に喉を鳴らして乾いた笑いを漏らしていた。すると、誰もいない筈の扉の向こうから黒薙の声がした。 「龍、いるのか?」 淡々とした抑揚の無い声だった。白神は口角を吊り上げる。 「何しに来たんだぁ〜?」 「……?」 白神の異変に気付いて黒薙は扉を挟んで眉間に皺を寄せたまま首を傾げる。だが、それに対しては何も言わずに先ほどのやり取りの事を話し始めた。 「さっきは、逢が悪かったな。……悪いのは、俺だからさ」 「あーそうだよな! 悪いのは全部お前だよな!」 どうしてか、可笑しくて溜まらない。込み上げて来る笑いを抑えられない。 白神が笑う声を遠くに聞きながら黒薙は無表情に黙っていた。 「いっつも悪いのはお前だ! 無表情でクール気取って、良い人ぶってさ! 自分の事は見せない癖に、人の中は土足でズカズカ踏み込んで来る! この、偽善者!」 「うん」 「お前なんか死んじまえ! 消えろ! 目障りなんだよ! この、欠陥品!」 すぐに、扉の前から気配が消えた。 白神はその後も暫く笑い続けていたが、異常な高揚感が大分収まった後に膝を抱えて嘔吐感を呑み込もうと丸まった。浮遊感が頭を芯から揺らす。様々な記憶が一気にフラッシュバックし、白神は呻き声を漏らしながら頭を両手で掻き毟った。 GLAYの副作用が落ち着いた後、ゆっくりと溜息を吐いて重い体を壁に預ける。運動後のような気だるさが抜けず、暫くの間は朦朧とする意識の中で汚れた天井を眺めていた。だが、すぐに自分の言葉を思い出した。 ――この、欠陥品! 嫌な予感が胸を貫いた。白神は気だるさも忘れ、木造の扉を破るように飛び出して走った。嫌な予感は黒薙の足跡を辿るように屋上から流れ出ているようだった。 息を切らせて階段を上り、屋上の扉を蹴破る。吹き付ける冷たい風の向こうで、夕暮れを背景に欄干に肘を突いて町並みを眺める黒薙の横顔が見えた。 「灯!」 振り向くか振り向かないかの瞬間に白神は走って黒薙にタックルした。驚いた声を上げて黒薙は吹っ飛び固い地面に吹っ飛ぶ。 「止めろよ、あんなの嘘だよ! 頼むから、死なないでくれよ……!」 「な、何? 何が!?」 動揺する黒薙と目があった。黒い、漆黒の瞳。表情の無い能面のような顔の中で瞳だけが感情豊かに佇んでいる。 「何で俺が、死ななきゃならないんだ」 途切れ途切れの言葉にも動揺が浮ぶ。白神に圧し掛かられて抑え付けられたまま黒薙は抜け出そうと必死に抵抗していた。 「だって、お前今死のうとしたただろ……?」 「俺がそんな簡単に死ぬか!」 無表情のままどうにか脱出すると、乱れた服を整えながら地面い突っ伏す白神を見つつ溜息を吐く。黒薙は不機嫌そうに口を尖らせた。 「何なんだよ、お前。死ねって言ったり、死ぬなって言ったり……。俺が嫌いなら放って置けばいいじゃねーか」 「あんなのは言葉の文だろ! お前に死なれちゃ困るんだよ!」 「何で」 「逢が、泣くから……」 惨めだ。 白神はそう思ったが続けた。 「お前が死んだら、逢が泣く。俺じゃ駄目なんだよ」 「お前が死んでも逢は泣くぜ。俺はまぁ、泣かないけど」 「建前でも泣くって言えよ」 何だか可笑しくて少し笑い、白神は立ち上がった。そのまま先刻の黒薙と同じように夕暮れに沈む町並みを眺める。いつもと変わらない景色だった。 景色に背を向けて欄干に体を預ける。 「じゃあ、代わりにさ」 白神は言った。 「俺が死んだ時は、笑ってくれや」 「……死んだ時の話なんかしたくねーや。先の事なんか分かんねェし、考えたくもねェ」 「お前らしいけどさ、減るもんじゃないしちょっとくらい笑ってもいいだろうが。大体、お前も気取らず少しくらい表情崩せば避けられる事態は今まで幾つもあったぜ」 黒薙は目を伏せて暫く黙り込んだ後、ゆっくりと答える。 「俺もコカインベビーなんだ」 「――は?」 コカインベビーと言えば、逢のように違法ドラッグによる先天的な異常を抱えて産まれた子供の事だ。逢は銀髪と青い目を持っているからすぐに分かるが、黒薙は一見すれば普通の男子高生。怪訝そうに眉を寄せると、黒薙は隣りに立って欄干の向こうを眺めて言った。 「大半の感情の凍結。それから、表情の欠落。お前は俺の事を人間じゃないって言ったけど、その通りだな。普通は持ってる筈の温かみなんて、持ってない。本当に俺は欠陥品なんだよ」 真剣な口調だった。それは、本音なのだろう。 白神は、知らない。生い立ちなんて逢でさえも少ししか知らない。黒薙が話さないからだ。言わず相手に理解してもらおうなんて都合の良い事は考えていない。 黒薙はそれ以上何も言わなかった。白神は言葉を失い、嘗て彼の言っていた言葉を思い出していた。笑えない事を周りはそれを責めたけれど、今まで一度だって弁解しなかった。もしかすると、『ムカツク』とか『悔しい』とか『恐い』という感情が理解出来ないのかも知れない。でも、その癖に人の事は分かるのだ。 可哀相だと同情したって、その『可哀相』も理解出来ないのかも知れない。黒薙にしてやれる事なんてきっと、これっぽっちも無いんだ。 だが、それを否定するように黒薙は言った。 「俺だって感情が全く無い訳じゃないよ。そりゃ、陰口叩かれりゃ腹立つし、人が泣いたら哀しくなる。皆が笑ってりゃ嬉しいと思う。けど、それだけだ。未だに『温もり』なんて分からない」 表情の抜け落ちた横顔は酷く寂しそうだった。冷たい風ががらんどうの心の中に吹き付けて温かいものを根こそぎ奪って行く。凍り付いた感情、奪われた表情。自分を表現するものが無いから、誰にも理解されない。それで、何処まで行けるんだろうか。何時まで。 「灯が思う以上に灯は優しい人だよ」 突然聞こえた声に二人は揃ってその方向を見た。何時の間に来たのか、逢がそこで微笑んでいる。 逢は二人の間に立って言った。 「誰かが傍にいると安心するでしょ? 優しい言葉を掛けてもらったり、気持ちを共感してくれたりするとここが温かくならない?」 逢は黒薙の手を掴んでその左胸に当てる。黒薙は困ったように眉を寄せるが、少しだけ頷いた。 「それが、温もりなの。欠陥品だなんて言って自分を遠ざけないで。灯は独りじゃない」 そう言って逢は今度白神を見て微笑んだ。 「龍も、独りじゃないよ」 逢は白神の手を掴む。 「自分を遠ざけないで。辛いならそう言って。何でも出来る訳じゃないけど、何も出来ない訳じゃない。独りで抱え込まないでよ」 小さなその手は温かかった。 何でも無い筈の言葉が胸の中に染み入る。唇を噛み締め、零れそうになる涙を呑み込んだ。黒薙は相変わらずの無表情で小首を傾げたままだったが、その黒い双眸にはあの氷のような冷たい輝きは存在していない。笑わずとも、感情を表現する方法はあるのだ。 逢は二人を様子を満足そうに眺めて、言う。 「約束だよ。必ず、この先も三人でいようね」 白神は頷き、低く答えた。 「そう、だね」 胸の中を満たして行く光が氷を溶かして行くようだった。 黒薙の仏頂面を遠く眺め、白神は逢に微笑む。本当の、笑顔だった。 2008.1.20 |