*灰谷逢 5 それから月日はあっという間に流れ、俺達三人は揃って無事にR大に進学する事が出来た。逢は美学部、黒薙は薬学部、俺は文学部とそれぞれ学部は違えども高校の頃と何等変わらぬ仲で毎日を送っている。 逢はコンクールで中々の成績を収め、将来有望で閉め切りに追われる忙しい日々。黒薙もまた優秀な成績から警察機関であるGLAY本部から直々に声が掛けられ度々呼ばれている。俺は大した変化も無く毎日を塗り潰し、そして、大学生になって初めての夏が来た。 放課後、いつものように地元のファミレスで待ち合わせ、偶々俺はレポート提出を忘れて居残りさせられた為に遅刻していた。店内に入ると一瞬で汗を乾かす冷房の風と店員の元気な口先だけの歓迎が響く。俺は軽く頭を下げて逢と黒薙が夕食後のコーヒーを啜って談笑している(笑ってるのは当然、逢だけだけど)ところに駆け付けた。到着するよりも早く気付いた逢が軽く手を挙げ、俺は勢いを殺さぬままテーブルに思い切り両手を突いた。低い音が閑古鳥の鳴く店内に響き、テーブル上の受け皿が少しだけ跳ね上がる。二人は目を瞬かせた。 二人は顔を見合わせ、俯く俺の顔を恐る恐る覗き込む。俺は言った。 「夏だ」 「は?」 二人は口を半開きにして妙な声を上げたが、俺は笑みを殺し切れずにやりと笑った。 「夏って言ったら、海だよな?」 「そう、なのか?」 黒薙は逢の方を見て首を捻る。逢も同じように頭を傾けたので少しがっかりした。少なくとも、俺が同じ学部内でつるんでいる仲間はそう言えば馬鹿みたいに大騒ぎする愛すべき馬鹿野郎だった。少しくらい乗って来いよ。 「決まってんだろ! 海行こうぜ、海!」 「海って……泳ぐのか?」 「当たり前だろ!」 そう言うと黒薙は急に真剣な顔になって考え始め、少しの沈黙の後に静かに言った。 「悪ィ、俺はパス」 「何で!」 再びテーブルを叩くと店員が此方を睨んだので、俺は愛想笑いをしつつ逢の隣に座る。黒薙は放逐するように手を振って目を外に向けていた。 俺は直感した。 「灯、お前、泳げないのか?」 黒薙は何も言わずに鋭い目を向ける。俺は笑ってしまった。大笑いどころか、大爆笑だ。 だって、こいつは運動もスポーツも何でも出来て、無愛想だけど何故か友達も多くて女の子にも持てて、苦手な事なんか何も無いみたいな涼しい顔で一般的に困難と言われる事も難無くこなしちまうやつだったんだ。まあ、高校の頃は理数系がてんで駄目だったけどなんだかんだ乗り越えたし。 そんなやつが金槌だったなんて! やばい、明日絶対言い触らしてやる。 俺の心を読んだのか黒薙は無言で拳を振り上げ、目にも止まらぬ早さで振り下ろした。鈍い痛みが後頭部に走る。でも、笑いは殺せない。 「なんだよ、お前泳げなかったんだー!」 そういえば、高校時代はプールが工事中で水泳の授業は無かったな。それも承知で学校選んだのかも。 意外な弱点に笑っていると、黒薙は静かに言った。 「……っていうか、泳いだ事が無いんだよ」 「そういえば、そうね」 逢は思い出したように手を打つ。 「施設でもプールあったのに、灯はいつも日陰で寝てたもんね」 そんなの知った事じゃない。とにかく、こいつは泳げない。俺が笑い続けていると、不機嫌そうに黒薙は腕を捲くって目の前に突き付けた。 「これのせいだって言ったら、どうする?」 思わず、息を呑んだ。 すっかり部分焼けした浅黒い手とは違って生白い腕は生傷だらけだった。しかも、どれもこれも覚えがあるから救えない。これは高校の時に俺がこいつをリンチした時の傷だ。 黒薙は「冗談だよ」と言って袖を下ろし、そっぽを向く。二年以上昔の傷だけど、痕は残ってしまったようだ。 黙り込んでしまう俺達を見て、黒薙は「そういえば」と言う。 「……海の見える旅館の割引券を貰ったんだ」 鞄の中から三枚のチケットを取り出し、目の前でヒラヒラと見せ付ける。俺は可笑しくなって少しだけ笑い、一枚引っ手繰るように奪った。 「流石、アカリちゃんだね」 「アカシだ」 そんな俺達の遣り取りを見て、逢が横で笑っていた。 ファミレスで遅くまで他愛の無い事で笑い合い、午後七時を過ぎた頃に漸く店を出た。外はまだ明るいが、昼間とは打って変わって冷たい風が吹き付け、生地の薄い半袖シャツを見事に通り抜けて行く。ワンピースを着ていた逢も少し寒そうだったが、黒薙は全てを読み切ったかのように黒いハイネックの長袖を着て震える俺達を横目に見ていた。 そのまま帰路に着こうという時、逢が思い出したように声を上げた。 「携帯忘れた!」 叫びのような声を出して慌てて店内に戻って行く後姿を見て笑う。残された俺達は特に何の会話もしなかった。 俺はポケットに突っ込んだチケットを取り出し、小さな文字の書き込まれた細部までよく読みながら、何の気無しに言ってみる。 「夜とかさァ、肝試ししようぜ」 「駄目だ」 即答する黒薙を少し笑う。 「なんだ、お前お化けも駄目なの?」 「俺じゃねー。逢だよ」 「そうかァ? あいつは寧ろ喜ぶだろ」 「お化けなら、な」 意味深に黒薙は言って目を背けた。疎外感を感じ、不機嫌な低い声で「何で」と訊く。黒薙は一瞥投げ、静かに言った。 「暗所恐怖症って知ってるか?」 「高所恐怖症の暗いところが駄目っていうやつだろ? それが?」 「逢は暗所恐怖症なんだよ。だから、いつも暗くなる前に帰るんだ」 俺はふっと空を見た。僅かに暗くなり始めた空は橙色が少しずつ追い遣られている。思えば、今までそれを臭わせる事は多々あった。映画館もそうだし、遊園地のお化け屋敷もそうだ。花火大会も来なかった。 黒薙は低い声で言う。 「聞いた話、あいつが親に捨てられたのは街頭一つ無い真っ暗な山奥だったそうだよ」 聞き取り難かったが、俺は愕然とした。 確かに、俺達の環境はかなり特殊だ。揃って親は無く、心に傷を抱えている。何でも無いみたいに笑い合っているのはお互いの傷を嘗め合っているだけに過ぎないのか。黒薙の腕の傷痕のように、永遠に治らないのだろうか。 それでも、救ってやりたいと思うのは俺の傲慢か。 「……そういうのから、お前は何時までも遠ざけるのかよ」 「?」 「遠ざけて守って、あいつはそれを本当に望んでるのかよ」 「お前、文学部行っても相変わらず要領を得ねェな」 黒薙は眉を寄せる。 「何が言いたいんだよ」 「お前ってさ、いつも自分が傷付いても逢が守れれば良いみたいな考え方だよな。でも、逢はそんなの望んじゃいない」 「何で、そんな話になるんだよ」 「遠ざけたら、あいつは何時まで経っても乗り越えられない」 訳が解らず、黒薙は首を捻る。俺は笑った。 「俺に考えがあるんだよ」 丁度その時、携帯を取りに戻った逢が戻った。照れ臭そうに「お待たせ」と笑い、俺はやはり笑顔で「お帰り」と言う。黒薙は不思議そうな顔をしているだけだった。 俺はこっそり耳打ちする。 「後で連絡する」 黒薙は何も言わなかった。 * 旅行当日は海水浴日和の雲一つ無い晴天に恵まれた。早朝待ち合わせ、俺達は新幹線で関東の端にある海に面した町に向かう。車内で定番のトランプやUNOをして、弁当を食べて、沢山話して沢山笑った。こんなに笑ったのは家族がまだ生きていた頃以来だろう。 窓側で黒薙は眠ってしまったので、俺は逢とずっと話して笑っていた。 旅行は二泊三日。今日の予定は取り合えずチェックインして、旅館の売りになっている真っ青な海に向かう。だけど、俺達にとって一番重要なのは夜だった。逢には秘密にしているけれど、準備万端で事前にリハーサルもした。だから、夕方には準備に取りかからなくちゃならない。逢は勘が良いから注意が必要だ。 新幹線が止まる。見れば到着まで後一駅となっていた。 逢がせっかくの旅行なのに熟睡している黒薙を揺り起こす。黒薙は低い声で少し渋っていたが、すぐに目を覚ました。低血圧だから朝は本当に弱いのだ。 それから新幹線が到着し、俺達はそれぞれの荷物を持って駅に下り立った。微かに潮の匂いがする。海はそう遠くないだろう。半分眠っている黒薙の二人で引っ張りながら、俺達は早速旅館に向かった。 旅館は老舗らしく、敷居を潜れば美人の仲居が迎えてくれる。俺達はとりあえず部屋に荷物を置く事にして逢と別れた。一応、逢は女なので二部屋予約して俺と黒薙は同室にした。 俺は部屋を見渡し、窓から見える海の青さに見惚れた。青い空、青い海、白い砂浜。眺めは最高だったが、そういったものに一切感動を覚えない黒薙はさっさと貴重品を金庫にしまって「行くぞ」と言う。俺は少し興醒めした。同室が逢だったら百倍楽しかっただろうけど、チケットを貰って来たのが黒薙である以上文句は言えない。 準備を終え、扉にしっかり鍵を掛けて廊下に出るが逢はまだ来ていなかった。黒薙は自分の僅かな荷物を片手に壁に凭れ掛かるとそのまま座り込んでしまう。俺は少し笑った。 「あれだけ寝てた癖に、まだ眠いのかよ」 すると、黒薙は言う。 「寝てねェよ」 「は?」 「寝たふりしてたんだよ」 「何で……」 黒薙は横目で俺を見て、鼻を鳴らした。 「お前の為にね」 からかうような軽い口調だったが、俺は溜息と共に額を押さえる。嘘や愛想笑いには自信あるのに。こいつ、自分に向けられる好意には全然気付かない癖に、他人に事は分かるのかよ。今まで隠して来た俺が馬鹿みてぇじゃん。 悔しくなって上から頭を押さえると、非難の声が上がる。 「感謝しろよ、腑抜け」 「お前って、本当に……」 良いやつだな。 その言葉を続ける事は出来なかった。丁度逢が現れ、俺達の様子に首を傾げる。俺は何でも無いと言って先を歩き出した。顔から火が出そうだった。 海は旅館が売りにするだけあって、本当に綺麗だった。透き通るような海水は冷たかったけど、上から降り注ぐ灼熱の太陽のお陰で最高の海水浴日和だ。黒薙は本当に泳がないつもりだったらしく、海パンも持たずにタオルだけ片手に場違いな長袖シャツで日陰になっているビーチパラソルの下に座っている。 それもあいつの気配りだと勝手に決め、俺は逢とはしゃいだ。ただ、やはり逢は黒薙が気になるらしく度々視線を送る。見れば、黒薙は水着美女の集団にナンパされていた。誘われても付いて行く事なんて無いと分かっているけれど、逢は悔しいのかも知れない。俺は、そんな逢の横顔を見る度に胸に痛みを覚えた。 逢は黒薙が好きなのだ。それは友情や家族愛とは違い、一人の男として好きなんだろう。俺はそれをずっと知っていたし、未来永劫黒薙がそれに気付かない事も分かっていた。だから、いつか俺の方に振り向いてくれたら良いな、なんて思ったり。 浜辺をじっと見詰める横顔に水を掛けると、逢が驚いたように肩を跳ねさせ、悪童のような笑いを浮べる。美女集団は名残惜しそうに黒薙の傍から離れて行った。 泳ぎ疲れた頃にビーチに上がり、パラソルの下の黒薙の横に倒れるように座る。団扇片手に胡座を掻いている黒薙を見れば何処ぞのオッサンという風で、時々何でこんなやつが持てるのか甚だ疑問に思ってしまう。 逢は海の家に食料を買いに行ったので、運悪くむさい男二人が残された。 暑い中、長袖のシャツを着ている黒薙を見るとこっちまで暑くなる。確かに腕の生傷を見せたくない気持ちは分かるけれど、長袖を着込んだ変人と海に来てる俺達の気持ちも少しは分かって欲しい。傷だって、遠目に見ればそんなに目立たないのだ。 「なあ、灯」 「何」 「服脱げば」 「嫌だ」 そう言いつつも既に暑さに遣られ掛けているのか言葉が少ない。俺は思い付き、にやりと笑った。 へばっている黒薙の後ろに回り込み、一瞬にして腕を押さえる。そのまま前のめりに倒すとすぐに「止せ」と声が上がった。 「お前見てるとこっちまで暑ィんだよ! 気ィ使え、馬鹿!」 「見なきゃいいだろ、このアホ! 殺すぞ!」 抵抗する黒薙を押さえ、シャツの裾を掴んで一気に捲り上げた。黒薙は大声で止せと叫んだ。 見えたのは生白い不健康な細い背中だ。薄っすら浮き出た背骨は、今まで何食べてんだと言って遣りたくなる。でも、背中に広がる無数の傷痕を見て息を呑んだ。未だ無理な姿勢で抵抗する黒薙の声も通り抜け、目は無数の傷に釘付けになる。 切り傷、擦り傷、裂傷、火傷。夥しい傷痕は相当古いものだろう。少なくとも、俺には覚えの無いものばかりだ。初めは、こいつ昔いじめられっ子だったのかと思った。 動けない俺の頬を黒薙の後ろ蹴りが掠める。転がるように離れた黒薙は今にも噛み付きそうな目で睨んでいた。 嫌な沈黙が流れた。再び背中はシャツの下に隠れ、丁度、逢が焼き蕎麦と飲み物を持って帰って来る。逢はまた、その様に目を瞬かせた。 「……どうしたの?」 黒薙は不機嫌そうな顔のまま「何でも無い」と言って逢の持っている飲み物を代わりに取り上げる。動けない俺を見て逢は首を傾げるけれど、黒薙は何も言わなかった。 俺は口を結び、少しの沈黙を挟んで言った。 「それ、何?」 声は想像以上に震えていた。黒薙はパラソルから離れた場所に胡座を掻き、ジーンズが砂だらけになるのも構わず無言で焼き傍を頬張る。逢は「何が?」と眉を寄せた。 「そいつの、背中」 黒薙は目を細める。 「お前には関係無い」 だが、逢は理解したように少し目を伏せた。 「灯はね」 「逢!」 黒薙は叫び、普段見せないようなきつい眼差しを向ける。 「そういうの、お節介って言うんだぜ」 「でも」 「余計なお世話なんだよ。お前等には何も関係無いんだから人の事に首突っ込むな、腹立つから!」 そのまま、黒薙はいなくなってしまった。残された俺達は呆然とする。あんなに怒るとは思わなかったし、流石に罪悪感も感じた。でも、昔の傷見られただけであんなに怒る必要ないだろ。そう思うと黒薙に対する怒りが沸沸と沸き上がった。せっかくの旅行が台無しだ! 逢はぽつりと言った。 「灯はさ、昔、虐待受けてたみたいなの」 俺は、黙った。 「施設の人に聞いたんだけどね、五歳まで部屋から一歩の出してもらえなくて、ご飯も殆どなくて、いつも死なない程度に殴られたり、切られたり、熱湯浴びせられたりしてたみたい。保護された時は柱に括り付けられてて、体重は十キロも無かったって」 何時の間にか周りの賑やかさが遠退き、太陽が輝いている筈なのに酷い寒気を覚えた。 生まれた時から何も分からないまま殴られて、泣く事も出来ずにただ理不尽な世界で呼吸を続けていたんだろう。俺が家族と笑い合って、大切にされている間、あいつは一人柱に縛られ、熱湯を浴びせられていたんだろうか。 「あたしはこんな姿で生まれたから親にすぐ捨てられて施設に保護されたけど、灯はずっとそんなところで生かされたじゃない? 時々思うんだけどね、灯は笑えないんじゃなくて、笑い方が分からないんじゃないかなぁ。感情が凍ってるんじゃなくて、まだ余り理解出来てないんじゃないかなぁ」 逢は力無く笑った。 「酷いよね。あたし達だって、生まれたくて生まれた訳じゃない。こんな姿で生んだのは親なのに、どうしてこんな目に遭わないといけなかったのかなぁ」 青い瞳から、ぽつりと透き通った涙が落ちた。 「皆の当たり前なんか、あたし達は生まれた時から持ってなかった。誰も理解してくれなかった」 逢は、今まで自分に向けられて来た理不尽な言葉を思い出している。『気持ち悪い』『病気』『死ね』と言われて来た。誰も、自分の事を同じ人間だとは見てくれなかった。触れば病気になるみたいに遠ざけて、避けて、虐げて。 「あたし達は、いらない存在なの?」 俺は、目の前の逢を抱き締めた。 今まで自分が不幸だと思ってたし、過去に起こった悲劇はそれを決定付ける。でも、同じように苦しみを背負っている人はいて、それでも人に手を差し伸べられる人間もいる。 いらないものなんて、何も無いんだよ。 言ってあげたかった言葉は出せず、俺は夢中で抱き締めた。小さく震える細い肩、微かに漏れる嗚咽。 気の利いた言葉なんか知らなくて、文学部なんて全然役に立てなかった……。 * 結局、俺達はそのまま旅館に戻る事にした。逢は部屋に戻ったが、俺は部屋には戻らなかった……と言うより、戻れなかった。気まずさもあるが、鍵は黒薙が持っているので入れないのだ。ノックしても扉は開かず、もしかするとまだ戻っていないのかも知れない。逢の部屋に行くのも何だか気が引けたので仕方なく旅館の広場で時間を潰す事にした。 予定が大分狂ってしまった。準備もしてないし、こんな状況じゃやっても興醒めだ。大きく溜息を付き、大きなソファーの背凭れに体を預けて天井を眺める。ぼんやりする節目を見詰め、真っ直ぐ伸びる天井の梁に目を移した。 今日の事を思い出すと疲れが圧し掛かって来る。人の心の中なんて生半可な覚悟で覗き見るもんじゃない。本人の傷なんか本人にしかその痛みは分からないし、支えてやる事はその事実を知った上で無ければ出来ないのだ。自分の無力さも全部ひっくるめて手を差し伸ばせるあいつは側から見るよりもずっと凄い事を遣って来たんだろう。 ぼんやりしていると、上から覗き込む何者かの影が落ちた。コンタクトは部屋なので黒い影にしか見えない。誰だ。 「おい」 不機嫌そうな声を聞いて目を見開いた。慌てて姿勢を戻し、そこで腕を組んでいるらしい黒薙の方に向き直る。 黒薙は不思議そうに言った。 「風呂入らねェの? 海入った後ってベタベタするだろ」 何事も無かったかのように話すので、俺は曖昧に頷く事しか出来なかった。 「夜に予定してたアレはさ、今日は止めようぜ。まあ、俺のせいなんだろうけどそんな気分じゃないだろうしさ」 「そう、だな……。つか、お前何でそんなに普通なんだよ」 すると、黒薙は少し口篭もり、面倒臭そうに頭を掻いた。 「……悪かったよ……」 「はっ?」 別に謝れと言った訳じゃない。だが、黒薙は隣りに座って言う。 「本当は誰にも知られたくなかったんだ。俺はもう過去の事だからとっくに切り捨ててるのに変な気ィ使われるの嫌だしさ。人に心配されるの、嫌なんだ。惨めになるし、申し訳無くなる」 「……いや、そんなつもりで言ったんじゃねェ。謝るのは俺の方だし……」 黒薙は何も言わなかった。 その時だった。視界がぐらりと歪み、指先が突然痙攣を始めた。激しい眩暈にソファーから落ちて膝を突き、込み上げて来る吐気を押さえようと喉に触れる。隣りで黒薙が「どうした」を声を荒げるが、耳まで麻痺を始めて何を言っているか分からない。 周りの景色が物凄い勢いで回転を始めた。ここ暫く収まっていた筈の発作、麻薬の中毒症状だ。 肩を支えようと手を伸ばす黒薙を思いっきり突き倒し、鍵を奪い取って走り出す。これを収まらせる方法は一つしか無い。高校以来の激しさに通り過ぎる人も全部ふっ飛ばして走った。後ろを追って来る気配があったけれど、構っていられない。 気持ち悪い。 気持ち悪い。 気持ち悪い。 腕の皮膚を食い破って奇妙な形の無視が這いずり回る。視界の端にちらつく白装束。通り過ぎる人が皆化物に見える。 部屋の鍵を開けようともがくが、中々刺さらない。苛立ち扉を蹴っ飛ばす。何処か遠くから歪んだ声がした。 「龍!」 誰の声か分からない。全部無視して扉を開き、中に入って鍵を閉めた。自分の荷物を引っ繰り返し、透明な真空パックに入っている灰色の錠剤を掌に転がす。眩暈は依然として収まらず、激しい吐き気に畳を掻き毟った。 扉を叩く音は暫く聞こえていたが何時の間にか止み、俺は漸く訪れた奇妙な浮遊感に寄っている。その時、窓の方から物音がした。部屋は二階にあるので誰もいない筈だったが、俺はそっちを見る気力すら無かった。 「龍……」 声の主は黒薙だった。部屋の有様を見て立ち尽くしている。どうやら、隣りの逢の部屋から窓を渡って来たらしい。 畳を踏み、ゆっくりと近付く。足元にある真空パックを取り上げ、呆然としていた。 「お前……」 度々GLAY本部に呼ばれている黒薙はそれが何か一目見ただけで分かった筈だ。同じように窓を越えて来た逢も先程の黒薙と同じように立ち尽くしている。 知られた。でも、どうだっていい。 黒薙は奥歯を噛み締め、持っていた麻薬をぶつけた。 「ふざけんな!」 そのまま逢の手を引いて部屋を出ようとした。だが、それを逢が止める。 「待ってよ! こんなのって……」 「あいつは麻薬に手ェ出した犯罪者だ!」 「だからって切り捨てるの!?」 黒薙は投げ捨てるように逢の手を離す。 「俺は犯罪者になるつもりは無いし、お前をその仲間にしたくない」 「犯罪者って、でも、友達でしょ!」 「友達なら犯罪も許すってか?」 「そんな事言ってない! でも」 「でも? でも何? 俺は馬鹿でもガキでもダチはダチだって言ったけどなァ、犯罪者のダチはいらねェんだよ!」 反射的に逢は右手を振り上げた。だが、黒薙は読んでいたのか振り下ろされた逢の手を押さえる。 逢は右手を振り払って言った。 「灯ってさ、時々、人が変わったように冷たくなるよね……」 怒りのせいか声が震えている。 「何でそんなに簡単に切り捨てられるのよ! 何でそんなに冷たいの!」 「欠陥品だからじゃない?」 黒薙は皮肉そうに口角を吊り上げた。表情だけの笑いは、決して笑顔なんてものじゃない。ただの仮面だ。 逢は愕然と、まるで裏切られたような気分になった。黒薙はそのまま背中を向けて部屋を出て行ってしまう。思えば、今日はいなくなる黒薙の背中ばかり見ている。 残された逢は死体のように壁に凭れ掛かった白神の傍に座った。 「ねぇ、龍。どうしてよ……」 逢の声は聞こえていたが、俺は何も答えられない。 「辛いなら言ってと言ったじゃない……!」 細い手が服を掴む。 「何でよぉ!」 俺は何だか可笑しくなって少し笑った。 黒薙みたいにさっさと切り捨てて行くのが正解なんだぜ? あいつは本当に優先するべきものが分かってるから、余計な者は簡単に捨てられる。それが一番賢くて、楽な生き方だよ。 「どっか行けよ」 「ヤダ」 「灯みてェにさ、置いて行けよ。同情して善人ぶるのか? 内心じゃ俺の事惨めだって笑って、自分はまだマシだって慰めてんの知ってるぜ」 「違う」 「お前も結局は偽善者だろ。消えちまえ」 だが、突然、逢は俺の胸倉を掴んだ。細い指に見合わない力強さに目を瞬かせる。 「好きに罵っていいけどね、あんたの事見捨ててなんかやらないし、消えてなんかやらない。その歪んだ根性が真っ直ぐになるまで何時までだって傍にいてやるから……ねぇ、灯?」 黒薙は、扉の向こうで壁に寄り掛かりながら溜息を吐いた。 自分の甘さは十分知っている。黒薙は部屋に戻ると逢に変わって胸倉を掴んで立ち上がらせると拳を強く握った。そのまま振り翳し、一気に振り下ろす。拳が骨にぶつかる鈍い音と共に白神の体は壁に衝突した。 「感謝しろとは言わねェよ、これは俺達が勝手にやってる事だ」 そう言って足元の麻薬を拾い上げ、灰皿の上に置くと部屋に据え置かれたマッチで火を放つ。橙の炎が化学反応か緑色の変色していた。 黒薙は言う。 「何を考えてるか知らねェけどな、こいつにゃ二度と手を出すな。見たところ本物のGLAYじゃなさそうだがな、強過ぎる執着はいずれ本物を引き寄せる。……てめェがこいつから離れるまで、俺が見張ってやる」 逢は笑った。 「友達だもんね?」 だが、黒薙は「冗談だろ」と言って鼻を鳴らして窓辺の椅子に倒れるように座り込んだ。殴られたまま動けない俺は何も言えないまま目を閉ざし、ただ二人の声を遠くに聞いている。 黒薙は言った。 「俺達は友達なんかじゃない。ただの、薄汚い共犯者だ」 突き放すような冷たい声に凍えないのは、どうしてだろうか。 俺はその疑問の答えも分からないまま、静かに眠りに着いた。 2008.2.4 |