*灰谷逢 6

 翌朝、目を覚ますと布団の中にいた。昨日の事なんてまるで嘘のような穏やかさに、拍子抜けしつつ頬に触れると腫れている。黒薙に本気で殴られたのだから当然だ。
 部屋には俺の布団が一つ敷かれているだけで、荷物は片付けられている。逢は勿論だが、黒薙の姿まで無いのはどういう事だろうか。気だるさを抱きながら窓辺に向かおうとして、笑ってしまった。ローテーブルを挟んだ二つの椅子で猫のように丸くなって眠る二人の姿があった。
 当たり前のように傍にいてくれる逢も、共犯者だとか犯罪者だとか罵りながらもこうして傍を離れようとしない黒薙も、人が良過ぎるんだろう。もっと楽な生き方はある。二人もそれに気付いているだろうけど、見捨ててしまえば自分の事のように苦しくなってしまうのだ。
 昨日まで、逢が少しでも自分の方に振り向いてくれたらと思っていたけれど、今はどうでもいい。こいつ等とずっと一緒にいたい。それだけでいい。富も名誉もいらないから、こいつ等とずっと一緒に生きて行きたい。たまに喧嘩して、すぐに仲直りして、他愛も無い話で笑ったりして。それだけで十分だ。
 ローテーブルには麻薬の燃え滓が僅かに残っている。俺は灰皿ごと持って窓の外へ捨てた。灰色の粉は潮風に乗って運ばれて行く。もう、俺には関係無い代物だ。
 俺は二人を起こさないように布団を掛けると風呂へ入る為に静かに部屋を後にした。
 部屋に戻っても二人はまだ眠っていた。黒薙はともかく、逢もぐっすり眠っているのだから実は相当疲れたのだろう。だが、物音に気付いたのか逢が目を擦りながらゆっくりと体を起こす。

「龍……?」
「おはよう」

 出来るだけ何も無かったような顔で笑った。俺も、何時までも過去に拘ってちゃいけないからさ。
 それを悟った逢は同じように笑顔で「おはよう」と言った。俺はまだ寝ている黒薙を揺り起こすが、眉根を寄せるばかりで一向に目を覚まさないので溜息を吐く。低血圧に貧血のこいつを起こすのは本当に面倒だ。
 逢は笑って言った。

「いいよ、寝かしとこう。朝ご飯食べに行こうよ」
「……そうだな」

 俺も笑った。どうせ、寝起きのこいつは機嫌悪いし大して食べられないし。
 豪華絢爛な朝食を食べ終えた俺達が部屋に戻っても黒薙はまだ眠っていた。流石に頭に来たので椅子を蹴飛ばす。椅子から投げ出され、壁に頭をぶつけて漸く目を開けた。目付きが普段以上により悪く、前科百犯の犯罪者みたいに見える。

「普通に起こせよ……」

 低い声で言うと背伸びをする黒薙もやはり、昨日の事は一言も口にしなかった。
 それは多分俺に対する信頼なんだろう。だから、俺はそれを裏切っちゃいけない。俺は無条件で信じてくれたこいつ等を同じように信じたい。
 暫く椅子に座ったまま壁をぼんやり見詰めていた黒薙だったが、ローテーブルの上に置いていた携帯が古臭い電子音を奏で始めたので肩を跳ねさせる。そのままサブディスプレイを確認して溜息を零した。

「ちょっと出て来る」

 部屋を出て行く黒薙の姿を見送り、俺は首を傾げた。電話だったらしいが、どうも態度が怪しい。目を向ければ逢は苦笑した。これは、もしかすると。

「女かな」
「まあ、そうね」

 思わず笑ってしまったが、逢はやはり苦笑するばかりだ。

「一応、女なんだけど」
「何だよ、一応って」
「あたしの妹よ」
「へ?」

 逢に妹がいた事は話には聞いていたが、それがどうして姉ではなく黒薙に電話をするのだ。

「あたしの妹の名前は琉璃って言うんだけど、灯の事が好きなのよ」
「……何歳?」
「中学一年生」
「ぶっ」

 噴出してしまったが、逢は笑わなかった。だから、「ロリコンかよ」と言うツッコミは喉の奥で消化されてしまった。

「姉のあたしが言うのもどうかと思うけど、琉璃は良い子よ。優しくてしっかりして、正直で可愛くて、髪は皆と同じように黒いし。ちょっと脆いところがあるけどね、灯って元々面倒見良いから無理しないで甘えられるのね、きっと」

 あたしとは全然違う。
 そう言って笑う逢は少し寂しげだった。廊下から聞こえる微かな黒薙の声は普段の不機嫌そうな低い声でも何処か穏やかで、その声を聞く度に心臓に針が刺さるような痛みを覚える。だって、逢はずっと黒薙の事が好きだった筈だ。それも、妹の琉璃なんかよりも昔から。それなのに、黒薙は逢の気持ちには微塵も気付かずに行くのか。

「でも、逢は灯の事が好きだろう」

 逢は青い目を瞬かせ、また、苦笑した。

「……知ってたんだ」
「そりゃ、ね」

 俺はずっと逢を見てたからさ。言えない言葉は胸に突き刺さる。逢はぽつりと言った。

「灯は今まで誰かの事を好きになった事無いみたい。家族愛以上の感情はきっとまだ理解出来ないんだろうなぁ。あたしはずっと一緒にいたけど、灯を変えてあげる事は出来なかった」
「それで、いいのかよ」

 逢は何も言わなかった。
 やがて電話を終えた黒薙が帰って来た。部屋の中の奇妙な雰囲気にはすぐに気付いたようだったが、何も言わなかった。
 思えば、黒薙は俺が逢の事が好きだと知って色々気を回してくれてた。そこには純粋な優しさしかないんだろうけど、俺は黒薙の鈍感さに少し腹が立つ。全くではないけれど、こいつに非が無い以上感情的に責める事も出来ない。俺は何も言わずに一つだけ溜息を零した。
 結局、俺達はその後何事も無かったかのように観光に出掛け、何事も無かったかのように楽しんだ。
 再び旅館に戻ったのは日が暮れかかった夕方の事だった。畳に橙色が染み込んだ時刻、俺は黒薙の分の荷物を抱えて部屋に転がり込む。理由は昨日実行出来なかったある計画の準備の為だ。黒薙には悪いが美味しいところは俺が頂かせて貰う。鈍感さの罰だと思ったら少しだけ笑えた。
 暫く部屋でのんびりし、黒薙からの「準備完了」の知らせを受けて俺は立ち上がった。携帯と財布だけを持って逢を迎えに行く。部屋の扉を叩くと風呂の準備をしていたらしい逢が小走りに駆け寄った。

「ちょっと遊びに行こうぜ」

 逢は窓の向こうを見た。夏は日が長いけれど、夜は必ず訪れる。日暮れまで後一時間と言ったところだろうか。

「大丈夫、大丈夫! 俺を信じろって!」
「龍が言うと信じられないなぁ」

 そう悪戯っぽく笑って。じゃあ、灯なら信じるのかよ。それも恐いけど。なんて。
 そのまま逢の手を引いて旅館を出た。夕暮れに染まる海沿いの道をガキみたいにはしゃいで手を引く俺を逢は笑いながら見てる。
 なあ、俺にしろよ。灯なんて止めてさ。絶対幸せにするよ?
 言いたい言葉はやっぱり言えなかった。でも、今日の計画が成功したなら言ってやってもいいかな。ロマンチックに決まるかも知れないし、厄介者払いも出来てるし。俺がそんな事考えてるなんて逢は欠片も分かっちゃいないんだろうな。鈍感なのは、お互い様なんだぜ?
 俺は逢の手を引いて近所にある小さな小学校の前に立った。夏休みの小学校は当然誰もいない。開放されているグラウンドも五時を過ぎたら使用禁止なもんだから無人。風は少し冷たく、寂しげな微風。

「そういえば、灯は?」
「あいつは大道具係」

 鼻で笑って校門を押し開けた。クソ真面目なあいつに行かせたお陰で小学校をただで借りられたんだから、その辺りは一応感謝しておこうかな。
 グラウンドの真ん中を突っ切って昇降口の扉を開ける。古臭いけれど、懐かしい匂いだ。逢の手を引いていると思い出してしまうけれど、俺も小学校の頃はこうやって妹の手を引いて登校してたな。
 家族はもう返って来ないけれど、俺はまたこうして大切な人の手を引いて歩いて行けるよ。また、笑えるようになったんだぜ。それって、凄い事だと思うだろ。
 過去を思い返していると、ふっと脳裏を幼馴染の顔が過った。あの事件と同時期に幼馴染の和泉嵐を襲った悲劇。あれ以来姿を消した幼馴染は、今も元気でいるだろうか。警察には何も言ってない。どうせ警察は調べてはくれないし、要領の良いあいつの事だから今頃暢気に彼女でも作って仲良くやってるんじゃないかな。それで、急に帰って来て昔と変わらない風に笑うんだろう。
 そんな事を考えていると逢が隣りで首を傾げた。俺は「何でも無い」と笑って手を離す。
 校舎の中はしっかりと蛍光灯が全て灯されていた。黒薙が準備したのだから当然だろうが、やはり流石だ。窓の外を見れば日が沈んでいるので、時間も計算したのだとしたらもう溜息を零さずにはいられない。
 俺は意味深に笑い、ゆっくりと歩き出した。
 カツンカツンとリノリウムで覆われた廊下に足音を響かせ、鉄の滑り止めの付いた階段を上る。確かに逢の為に真昼のように明るくしたのだろうが、夜の闇には勝てず僅かに薄暗かった。窓の外には銀色の三日月が輝くけども、流石に太陽には適わない。
 夜の学校に足を踏み入れたのは初めてだった。目的地である屋上を目指しながらも俺は一言も話をしなかった。昼間は騒がしいだろう校舎は嘘のように静寂を保ち続け、そこに逢の凛とした声が響く。

「これから何処に行くの?」

 半歩程先を歩いていた俺は振り返り、息を吐くように微笑んだ。

「夜に咲く花を見せてやるよ」

 屋上とを隔てる重厚な扉が前に立ち塞がる。でも、黒薙の事だから扉の鍵はちゃんと開けてあるだろう。
 失敗は許されない。唾を呑み下す音が聞こえ、俺はゆっくりとノブに手を掛けた。扉は僅かな重みを与えながら軋むような音で小さく鳴く。そして、扉を開けた瞬間俺達はその眩しさに目を細めた。
 これでもかと言うくらいにライトアップされ、屋上はまるで何かのパーティ会場のようだった。電球やら蝋燭から、あらゆる光源が屋上から闇を追い払う。逢はぽかんと口を開けて目の前に広がる世界に純粋に驚いていた。

「すごい……」

 逢の言葉を聞き、俺は密かにガッツポーズした。よくやった!
 俺達が幾ら抗っても夜の闇には敵わない。ならせめて、地上から照らしてやろう。太陽には届かないまでも、この冷たく暗い夜空に光の花を咲かせよう――。
 その時、聞き覚えのある細い音がした。反射的に俺達は音を追って暗い田舎町の夜空を見上げる。途端に心臓を叩くような豪快な音が周囲の生暖かい空気を振動させ、鼓膜を痺れさせる。
 真っ赤な光の花。そう、花火だ。
 続いて緑、黄、青。色取り取りの花が夜空を照らす。何処かから聞こえる子供の声、賑やかな夜になりそうだ。
 一方、グラウンドで一人裏方に徹して打ち上げる黒薙もそれに見惚れた。職人が上げるような立派なものじゃなく、市販で売られるちっぽけなものだけど十分だろう。
 どれもこれも安っぽい歪な形だけど、今までの人生で見て来たどんな立派な花火よりも美しいと思えた。一瞬の輝きの為に生まれ、散る。こんなに儚くも美しい花が他にあるだろうか。

「すごい」

 すっかり花火に目を奪われていた俺は逢に顔を向けた。屋上を余す事無く照らす明かり、更に夜空の花に照らされながら逢は微笑み、サファイヤを嵌め込んだような青い瞳から透明な雫を一つ零した。

「綺麗ね。あの日以来、夜空なんて見上げた事無かった。花火を見るのも初めて。世界はこんなに綺麗だったのに、ずっと損してたな」

 黒薙の言う事が本当なら、逢は極度の暗所恐怖症だ。両親に捨てられた夜のトラウマのせいで、今まで闇から逃げるように生きていた。
 恐いものは誰にだってある。俺だって孤独は恐いし、あいつだって知られる事を恐れた。だから、向き合えとは言わない。ただせめて、一緒に歩いて行こう。どうしようもなく恐くて逃げ出したいと願うなら、俺達は何度でもこの冷たい夜空に花を咲かせてやるから。

 暫く、無言の時が流れた。花火は上がり続けるけれど、俺達はそれに見惚れて言葉を忘れてしまったように動けない。だけど、花火と花火の感覚が少しずつ空き出したので恐らく出し惜しみしているんだろう。俺はゆっくりと逢の方に向き直った。

「なあ、逢」

 ずっと言いたかった事があった。言えなかったのは俺に勇気が無かったからだ。結果は見えていたし、この心地良い関係を崩すくらいなら言わないで置こうと思ってたんだ。でもさ、苦しいよな。俺も苦しかったし、お前も苦しかったんだよ。

「確かに灯は無愛想だけどイケメンだし性格は良いし、しっかり者だ。この計画立てたのは俺だけど裏方は全部あいつがやってくれた。運動神経良いからスポーツ万能だし、頭堅そうに見えて意外と冗談も通じる。俺も結局はあいつに救われてここにいるんだけどさ」

 花火の音がやけに五月蝿いと思ったら、俺の心臓だった。中坊かよなんてツッコミ入れてみるけど無駄な抵抗か。

「悔しいけど、俺はあいつには敵わねェ。でもさ、俺はあいつ以上の将来有望株だぜ?」

 俺は花火に目を戻す。

「俺にしとけよ」

 答えなんか分かり切ってるけどさ、言えないままじゃ気持ち悪いんだよ。どんな結果が来ても俺達ならきっとまた歩いて行ける。
 逢は少しだけ微笑んだ。

「あたしは――」

 その時だった。
 ブツリと奇妙な音がして、視界が一瞬にして黒に塗り潰された。俺は突然の事に動けず、空に上がり続ける花火に目を取られる。だが、すぐに気付いた。

「あ、ああああ……」

 逢の震える声。今度は頭が真っ白になった。逢は両手で自分を抱き締めながら一歩一歩と後退さって行く。
 花火が終わる。離れた欄干でカツンと音がした。

「逢! 何処だ!」

 突然の明暗の変化に目が付いて行けず、逢の姿が見つけられない。遠くで扉の開く音がした。無数の足音に冷や汗が流れる。黒薙ではない誰かが屋上に侵入してる。誰だ。

「いや、いやだ……」

 逢の目からは引っ切り無しに涙が零れ落ちる。嫌だと首を振り、何も見えない暗闇から少しでも逃げようと無意識に後退さって行った。
 目を凝らし、耳を澄まして逢の居場所を探すけれど神経が集中出来ずに時間ばかりが過ぎる。屋上に侵入する足音は一体誰なんだ、逢は何処だ。焦りが背中を焼くようだった。

「い――」

 カタン。
 声が、途切れた。伸ばした手は生暖かい空気に触れただけだった。

 黒薙は異変に気付いてすぐに校舎に向かって走り出していた。白神の声も聞こえ、何が起こっているのか分からなかったがあんなに明るかった屋上が真っ暗になっている時点で気は動転していた。
 息を弾ませて昇降口に辿り着き、上を見上げた瞬間。

 ドンッ。

 聞き覚えのある鈍い音がした。体中の汗腺から一気に汗が噴出し、これまで止まっていたんじゃないかと思うくらい心臓が激しく脈打つ。すぐ横に何かが落ちた気配――いや、俺は星空を隠した黒い何かを見た筈だ。
 首を回したいけれど、まるで油の切れた機械のように動かない、ほんの僅かな動作が出来ない。何だ、何なんだよこれは!
 全身が震える。真夏なのに体中に鳥肌が立つ。硬直する体が教えてくれる感情、『恐怖』
 ゆっくりと首を回す。ギギギと低い音が聞こえそうだった。
 目の前に映ったものは、見慣れたものだった。月みたいな銀色の髪が乱れて砂利の地面に広がっている。宝石みたいな目は固く閉ざされていて、細い腕は投げ出され、足は有り得ない方向に曲がっていた。地面を染めるこのどす黒い染みは――。

「あ、逢……?」

 自分でも聞いた事が無いくらいに声が震えていた。動かない右足を引き摺るようにして傍に寄って膝を着いて頬に触れる。微かな温もりが失われ、血の気がどんどん失せて行く。脈は既に無い。触れた掌が真っ赤だ。
 これは、死体だ。

「う、あ」

 声が出ない。頭が動かない。嘘だろう、夢だろう。誰か。
 息が出来ない。何度も大きく息を吸い込むけれど、全然酸素が取り込めない。視界が揺れる。頭が真っ白になる。でも、気配が、ある。
 頬を何か高速の物体が通り過ぎた。突き刺さった地面に丸く穴が空き、白い煙が昇る。振り返って見ると暗闇の中に無数の人影が見えた。田舎町に不釣合いな黒いスーツ、夜なのにサングラス。いかにも怪しい風体の男達が揃って銃を構えている。

「何だよ、お前等……」

 恐くは無い。声が震えているのは恐怖じゃない。

「何なんだよ、お前等は!!」

 叫んでも返事は無くて、変わりに馬鹿にするように笑った。

「それを渡して貰おう」

 何の事かと振り返るけれど、そこには動かなくなった逢しかいない。

「我々は薬物異常者を回収している。命が欲しかったら、その死体を渡して貰おうか」
「異常者って……」

 そんなのって、無いだろ。俺等は好きで異常になったんじゃない。何で勝手に生み出されて苦しい思いさせられて、勝手な理由で殺されなきゃならないんだ。
 次の銃声が響き、足元で砂利が跳ねた。同じように肩が跳ねたけれど、譲る事は出来なかった。

「嫌だ……。逢は、渡せない」

 男達が笑う。

「どうして。そんな死体の為に死ぬのか?」
「お前等に分かって堪るか!」

 息が出来ない。声が震える。頭が凍る。
 男達がゆっくりと砂利を踏み付けて近付く。俺に抗う手段なんて無い。武器も無く、銃を構える相手に勝てるとは思えない。でも、譲れないから。
 傍にいるって、言ったのに。守ると誓ったのに。目の前にいたのに。

「寄越せ」
「嫌だ!」

 米神に冷たい感触。パラレルワールドで見る世界に少し笑ってやりたかった。握り締めた逢の冷たい手が沸騰しそうな血液を冷ましてくれる。この世界にヒーローなんて相変わらずいないし、冷たさは常に突き付けられて来た。神様なんか信じて無いし、出会ったら俺は何も言わずにぶん殴ってやる。
 死んでも譲る気は無い。ただ、白神の事が気がかりだった。

 白神は逢の落ちた欄干に向かって手を伸ばし、そこから一歩も動けずに立ち尽くしている。
 頭が真っ白になり、未だ嘗て無いくらいの冷や汗が滝のように流れ落ちた。消えた姿を目は探すけれど、何処にも存在しない。ゆっくりと近付く知らない気配が、横に立った。
 カチリ。
 頭に当てられる硬い感触は何だろうか。これは、銃?

「運が悪かったな」

 誰が誰に言っているのか分からない。ゆっくりとその方向を向くと、黒いサングラスが見えた。夜なのにサングラスかよ、こいつ馬鹿じゃねェ? 笑ってやると、別の方向から銃が向く。

「何笑ってやがるんだ、このガキ」
「頭がおかしくなったんじゃねェのか」

 込み上げて来る目頭の熱は何だ。頬を伝う液体は、胸の中に居座る冷たさは何なんだ。握り締めた拳がギリギリと音を立てる。それを振り上げようとした時、乾いた音が鳴った。
 パンッ。
 テレビで良く聞くような破裂音。俺に銃を向けていた男が紅い液体を流しながらゆっくりと倒れた。

「警察だ! 動くな!」

 扉の方からまた、新たな気配。目を凝らせば銃を構える男達がいた。
 俺を取り囲んでいる奴等は動揺してゆっくりと後退さって行く。刑事ドラマみたいだ。目の前で繰り広げられる捕り物劇を見て遠く、そんな事を考えていた。

 そして、黒薙は眉間に銃を向けられても動こうとしない。握り締めた逢の手が酷く細く、冷たい。掌が湿っているのは血か冷や汗か。
 ガチリ。
 撃鉄を起こす音が聞こえても、もう恐くなかった。目の前にいる男達がただ許せない。殺したい程の憎悪を覚えたのは生まれて初めてだった。白神に逢を人質に取られて毎日リンチ受けても沸き上がらなかった感情が沸沸と溢れ出す。胸の奥で荒れ狂う黒い炎。だが。
 ターンッ。
 銃声が響き、眉間を捉えていた銃が零れ落ちた。波が引くように男達が離れ、銃弾の発射された方向に目を向ける。暗闇の中に立つ女が一人。

「其処を退け」

 低めの落ち着いた声。聞いた事がある。
 それを言った直後に銃声は響き、手前に立っていた男を撃ち抜く。続け様に二発――。
 取り囲んでいた男達はあっという間に、逢と同じように動かなくなった。撃った女が誰なのかなんてどうでも良くて、俺はそのまま振り返って逢を見た。やはり、動かない。即死だろう。
 ゆっくりと背後に立った女は言った。

「灯君」

 俺は、振り返れない。涙も出なくて、哀しそうな顔も出来なくて。目の前にある少女はもう動かなくて。
 もう、笑わない。こっちを見ない。俺を呼ばない。二度と、会えない。

――約束だよ。必ず、この先も三人でいようね

 約束したのに。

「灯君、無事かな?」

 女は逢を挟んで俺の前にしゃがみ込み、有り得ない方向に曲がった逢の足を元に戻した。見覚えがあると思ったら、前に警察の研究施設を見学に行った時見た顔だ。確かGLAY対策本部の刑事だった筈。科学者になりたかった俺とは殆ど関係無かったけど、少しだけ話をした。名前は何だったか、分からない。

「もしかして、私の事覚えて無い?」

 目の前で困ったように笑う女が分からない。何で笑ってる。

「私は松田玲子。君がGLAY研究所に来た時、話したわよね」
「それが、何ですか」
「……GLAYが憎いでしょう?」

 俺は首を振った。だって、憎む感情が分からない。許せないと思う事とはまた違う事だろうから。

「俺は、」

 声が震えた。
 掌から何か色々なものが落ちて行く。闇に染まった視界から何かが消えて行く。心が冷えて行く。

「俺は、俺自身が許せません……。悔しい、です」

 その言葉を聞いていた松田は寒気を感じた。今にも泣き出しそうな声なのに、無表情に目の前に横たわる二度と動かない少女を見詰めている。
 初めて黒薙を見たのはその研究所だったが、その第一印象も大分特殊だった。科学者なんて職業を目指すような顔ではなかったし、目の奥に見える炎もまた違った。興味が沸いて話してみたが、やはり、彼は科学者には勿体無い。

「灯君」

 黒薙は顔を上げた。

「警察に入らない?」

 その呟きのような問いに黒薙は答えなかった。


2008.2.8