*蜃気楼 2

 翌日、大学を辞めた。警察官になる事は誰にも言わなかった。そして、白神は同じく大学を辞め、今も足取りが掴めないままでいる。失踪だと分かったが、それについて対処する事は特別しなかった。薬に溺れて何処かで野垂れ死ぬ事だってあるのに出来なかったのは、やはり少なからず動揺していたからかも知れない。
 そして、通常GLAY対策本部に配属されるには警察学校を優秀な成績で卒業、もしくは職員等からの推薦がなければならないのだが、最近まで大学の薬学部に通っていた黒薙は今頃警察学校に編入する事は出来ない為、松田の下でモグリとして勉強する事になった。
 刑法等の法律に関する勉強は勿論、護身術等も学び生活は大学以上の忙しさになった。施設を出てバイトで食い繋ぎ、贖罪行為とは言え琉璃を引き取る事にした為に睡眠時間は大きく削られる。通常なら警察学校で数年掛かるところを一年程の期間に全て積め込むのだから負荷は相当なものだった。

 黒薙はぼんやりと遠く空を見上げた。九月末の空は薄く広げた青い絵の具のような色をしている。太陽は昇っているが、暖かそうな見た目とは違って弱々しく、吹き付ける風は骨に染みるようだった。
 F地区某所のコンビニエンスストアは名前ばかりの警察官、機動隊に包囲されている。仰々しい雰囲気とは打って変わって黒薙の胸中は春の日溜りのように穏やかだった。コンビニの中からは名前も知らない男の怒号が響き渡り、機動隊の外に群がる野次馬は聞き取れない声で何か囁き合っている。現在、このコンビニでは早朝から単独強盗による立て篭もりが続いていた。店員・客含め人質は七名、内二名死亡。GLAY対策本部から松田に指令は下りているらしいが、モグリとしてまだ二ヶ月程しか学んでいない黒薙は当然聞いていない。
 松田は黒薙を連れてコンビニの裏口に回ると、扉の前でしゃがみ込んだ。そして、懐にしまってあった警察手帳を取り出すと、栞として挟んでいた細く曲がりくねった一本の針金を取り出して鍵穴に突っ込む。手馴れた動作で針金を弄る松田の後ろで黒薙は眉を寄せて言った。

「それって、ピッキング……?」
「うん」

 平然と松田は言い、その直後に鍵の開く音がした。開いて行く扉が暗闇を照らす様を見ながら黒薙は息を呑み、松田はゆっくりと足を踏み入れつつ言う。

「今度教えてあげる」
「……使う事が無いよう祈ります」

 松田は笑った。
 蛍光灯の弱い光が瞬き、狭い通路は薄暗い。マジックミラーになった店内と店の奥を隔てる扉の窓から中の様子を覗き、松田は一人ふうんと納得した。
 コンビニの表はシャッターが下りているので、外からは中の様子は分からなかったが、ここで漸く店内の様子が分かった。
 レジの前に血塗れの人が二人倒れているが、警察の情報が正しければ恐らく死体だろう。犯人は頭がすっぽり隠れるヘルメットを被り、薄緑の拠れたジャケットを着ている。人質はレジの傍に固めて商品らしきガムテープで縛られていた。強盗に入ったからには目的はレジの金だろう。現金が足元に散らばり、レジの上には黒いボストンバックが無造作に置かれている。犯人の手には一丁の銃、見たところ銃弾は全八発のタイプだが既に四発発砲済み。その後補充したかは不明。
 松田は隣りで息を潜めて店内を覗き込む黒薙に問う。

「どうやる?」
「へ?」

 黒薙は訳が分からず目を丸くするが、意味を悟って少し考え込んだ。

「……そうですね」

 犯人の顔が分からない以上、年齢も人物の特定も難しい。唯一分かる性別だけではどうしようもない。人質がいるからには下手に動く事も難しいだろう。

「強引に動けば人質が危険だから、機会を伺って……」
「残念、ハズレ」
「え……」

 即答した松田は鼻で笑うと犯人を指差した。

「あの男は違法薬物所持・使用に加え傷害罪、殺人罪。銃砲刀取締法違反。他に何が必要だと思う?」
「言っている意味が、分かりません……」
「答えはね、死の裁き」

 黒薙の言葉は続けられなかった。
 松田は扉を蹴り開け、犯人に銃を向けた。悲鳴の飛び交う中で犯人は振り返るが、それよりも早く、松田の銃は火を吹いた。黒薙は手を伸ばした。乾いた音が響き、伸ばした手は硝煙を上らせる松田の銃を弾く。黒薙が顔を上げた時、ヘルメットの面部分が割れ、赤い血液を噴出しながら後ろ向きに倒れて行く犯人の姿が俄に見えた。
 悲鳴が鼓膜を貫くように轟いた。
 それを合図に裏口、シャッターを開けて正面から警官隊が突入する。一瞬の内に動き出した事件を黒薙は呆然と見詰めていた。手は震え、弾かれた銃は商品棚の下に滑り込んでいる。
 間に合ったと思ったのだ。
 座り込んだ黒薙を松田は冷めた目で見下ろし、言う。

「どうかした?」
「どうかしたって……!」

 手に残る僅かな痺れを誤魔化すように拳を握り、黒薙は立ち上がった。

「こんな簡単に人を殺すんですか!!」

 警官隊が突入し、解放された人質が助け出されて行く騒然とした店内で二人の周りに壁があるようだった。黒薙は拳を握り締め、いとも簡単に発砲し、犯人を射殺した松田を睨んでいる。
 松田は頷いた。

「何がおかしいの。相手は犯罪者。私がここに呼ばれたのはね、犯人を殺す為よ」
「そんな」
「GLAY対策本部が警察以上に忙しいのは違法薬物が増加したせいだけじゃない。命の危険が常に付き纏い、犯人への発砲が常に許され銃を携帯しているから」
「あんた達は殺し屋ですか。殺す為だけに呼ばれたんですか」
「その通りだけど、私達は警察よ。正義の味方」
「こんなに簡単に人を殺すのに!?」

 松田は商品棚の下に潜り込んだ銃を拾い、ホルダーに戻した。黒薙は俯いて自分の靴のつま先を見詰めている。数秒の沈黙の後、松田は言った。

「人の命を重く見ながら、どうしてこの国には死刑があるの?」
「……重く見ているから、こそです」
「そう。でもね、死刑廃止の国だってあるのよ。死刑廃止を訴える国々の中で日本はそれに反対した。死刑は被害者にとっての救いであり、犯罪への抑止力になる。でも、一つおかしいと思わない?」

 黒薙は何も言わずに眉を寄せる。

「被害者は死んでいるのに、一体誰を救うの?」
「……救われるのは遺族でしょう」
「そう。被害者への手向けなんて言いながら、結局はただの自己満足なのよ。人は自己満足の為に人を殺す」
「何が言いたいんですか」

 松田は笑った。

「死刑は無くならない。いじめと同じようにね」

 人という存在への諦観が松田からは感じられた。黒薙は口を結び、続けるべき言葉を呑み込む。
 綺麗事なら幾らだって言えるけれど、そんなものには何の価値も無いのだ。加害者がいて、被害者がいる。大切な人が目の前で殺された人間に向かって綺麗事を語って我慢しろなんて言えない。でも、復讐は虚しい憎悪の輪廻でしかない。
 結局、この世界はどんな事をしたって矛盾だらけで虚しい。
 俯く黒薙に向かって松田は一言、訊いた。

「絶望した?」

 黒薙は首を振る。

「この世界は冷たいです。でも、どうしても滅んでしまえとは思えないんですよ」

 黒い目は少し、泣き出しそうに見えた。松田は苦笑を浮かべてゆっくりと歩き出す。その背中を黒薙は追った。
 松田は今年で二十六歳を向かえ、GLAY対策本部に就職してから五年の月日が流れた。五年の間には色々な事があった。先輩も同僚も後輩も事件の中で死んで行くし、殺した犯罪者も救えなかった被害者も今ではもう数え切れない。GLAY対策本部に就職したのは両親がGLAY対策本部に属する科学班の職員で、松田が幼い頃にテロに巻き込まれ死亡した事に起因している。その際に松田は幼い妹と二人だけ残された。だから、これは復讐でもあるし、贖罪でもあるし、犯罪に対する憎しみでもある。
 両親が死んでから今日までずっと世界を恨んで来た。何時まで経っても犯罪の無くならない世界に絶望していた。仲間を奪い続ける世界が許せなかった。それなのに、受け止めて歩き出す者もいるのだ。
 松田は逢の死んだ夜を思い出し、心臓に微かな痛みを覚える。
 暫く無言で歩き、表に止めて置いた自分の車に乗り込んだ。助手席にはいつも通り黒薙が乗り、警官の車なので仕方なくシートベルトをする。車はゆっくりと走り出し、暫くの沈黙の後、高速道路に乗ったところで黒薙は漸く口を開いた。

「これから何処に行くんですか?」
「ああ、GLAY対策本部」

 松田は笑ったが、黒薙は動きを止めた。

「聞いてないんですけど」
「言ってないもん」

 黒薙は溜息を零した。

「唐突過ぎます。俺も行っていいんですか?」
「うん。お前を紹介する為に行くんだもん」
「何で……」
「皆、見たがっちゃってさ」

 首を傾げる黒薙を横目に松田は笑った。
 松田が特定の後輩を持つのは三年ぶりだった。過去に受け持った四人の後輩全員が自分より早く死んでしまってからは、何か呪いに近いものがあるのではないかと感じて後輩を持つ事を避けていたのだ。常に単独で行動し、単独で殺し、単独で背負う。そうすれば、誰も傷付かない。そう思っていたけれど、逢が死んだというのに悲しそうな顔すら見せずに一人で全部背負い込もうとした黒薙の背中を見て気が変わった。
 一人で背負うという事を客観的に見て漸くその苦しさを知った。自分もそうなのかと思うと悲しくなった。だから、彼に同じ道を歩ませたく無いと思えたのだ。
 だから、松田が後輩を持っている事を知ったGLAY対策本部の人間は皆興味深々だった。
 車は高速道路を暫く走り、下りてからも曲がりくねった道を進んだ。初秋の日差しの下を抜け、通り過ぎて行く黄色の銀杏を横目に車は巨大なビルの手前で停車する。車を下りた黒薙は目の前に聳える高層ビルを見上げて息を呑んだ。地上全てを蔑むように佇む巨大なビル、それがGLAY対策本部。正式名称は違法薬物対策取締総本部という。
 呆けていると松田は真っ直ぐ横を抜けて入って行き、黒薙はその後を慌てて追った。
 清潔感の漂う入口ホールを突っ切り、エレベータの前に立つと職員らしき人間が興味本意に横目で黒薙を見る。関係者以外の人間が珍しいのだろう。
 エレベータは十三階で止まり、その間二人は何の言葉も交さずにいた。エレベータを下り、一つの大きな扉の前で止まると先を歩いていた松田は漸く振り返って言う。

「下手に良い児ぶらなくていいからね」

 黒薙は鼻を鳴らした。

「そんな柄じゃないよ」
「そうね」

 松田は扉を開いた。急に開けた視界に飛び込んだ白い空間、びっしりと並んだ業務用机。その数の割に職員は少なくて、部屋がやけに広く感じられた。黒薙は入口に立ち尽くしたまま部屋の中を眺めている。
 暫くそうしていると、正面に一人の女が歩み寄った。

「貴方が黒薙灯君ね。初めまして、私はGLAY対策本部・本部長の浦和悠子」

 手を差し伸べる浦和の手を取り、黒薙は軽く会釈する。浦和は笑顔で「宜しく」と言い、今度は松田の方に向き直った。

「科学班の方から睨まれたわよ。将来有望な新人を引き抜くなんて信じられないって」
「いいじゃない。こいつは科学者の器じゃないわよ」

 松田は笑った。

「まあ、将来有望な新人が欲しいのは同じだからね」
「……そんなに、人がいないんですか?」

 黒薙の何気無い問いに浦和は苦笑し、少し声を小さくして答える。

「人気が無いのよ」
「人も沢山死ぬからね」

 松田は素っ気無く言って背中を向けた。そのまま部屋を出ようとする背中を黒薙は浦和に会釈してから追う。
 黙って廊下を進むが、黒薙は何も言わなかった。無言で再びエレベータの前に立ち、松田は振り返りもせず問う。

「恐くなった?」
「別に」

 低い声で黒薙は答え、続けた。

「玲子さんって勝手な人ですね。俺は何も言ってないのに、いつも答えはあんたの中で決まってる」

 松田は振り返った。何が言おうとしていたが、黒薙はそれを遮る。

「勝手に決めないで下さい。俺は世界に絶望なんかしてないし、全てを諦める事だってしない。死ぬのは恐くないけどね、簡単に死ぬ気はないんです。俺をあんたの枠で考えるのは止めて下さい」
「その言葉、信じてるわよ」

 丁度エレベータが到着した。開いた扉の光に表情は見えず、黒薙は再び向けられた松田の背中を見詰める。だが、松田はエレベータから下りて来る人に気付いて立ち止まり、軽く会釈した。
 下りて来たのはきっちりとスーツを着込んだ眼鏡の男だった。人の良さそうな笑顔に松田の顔も綻ぶ。

「お疲れ様です。……久坂さん」
「うん、お疲れ」

 久坂は二つ重ねた大きなダンボールを抱えて行こうとしたが、黒薙に気付いて足を止めた。

「君は……」

 黒薙は眉を寄せ、答えない。松田は慌てて口を挟んだ。

「私の後輩の黒薙灯です」
「ああ、君が……」

 久坂は黒薙を見た後、ダンボールを抱え直して笑う。

「初めまして。僕はGLAY対策本部の副部長を勤める久坂賢治」

 やはり、黒薙は何も言わない。
 顔に貼り付いている表情が薄っぺらく、並ぶ言葉の裏が見える気がした。足元から昇って来る寒気に身震いを呑み込み、無意識に掴んだ自分の右腕に爪を立てる。耳に聞こえる鼓動が耳鳴りに聞こえた。
 松田は黙り込む黒薙の後頭部を掴んで頭を下げさせる。

「すいません、ちゃんと教育しておきます」
「いやいや」

 久坂は笑い、そのまま立ち去って行った。松田は何も言わない黒薙の首根っこを掴んでエレベータに乗り、ボタンを押してから目を細める。

「あんたって女好きだったのね」
「……そりゃ、男ですからね」

 そう言って黒薙は窓の向こうに視線を投げた。それ以上の言葉は続けない。
 久坂の中に感じる気持ち悪さを黒薙は口を覆って誤魔化した。初めて白神を見た時と似たような感覚に込み上げて来る吐気を呑み込む。偽物の笑顔、偽物の言葉、腹の底にしまい込んだ強暴な何か。
 この時の黒薙が後の久坂の道を知る筈も無い。未来、自分自身が裏切り者として久坂と撃ち合う事になろうとは予想も出来なかった。



 それから一年も経たない内に黒薙は再びこのGLAY対策本部を訪れる事になる。およそ半年後、二十歳を迎えた黒薙は初春の日差しを受け、桜並木を通り過ぎて真新しいスーツに身を包んで現れた。入口で待ち構えていた松田は糊の利いたスーツで息苦しそうにしている黒薙を見て笑う。
 難関と言われる就職試験を松田の力添えもあって無事合格したのが冬、今日はいよいよ入社式。しかし、開会午前九時には遅く、時刻は既に十二時に差し掛かろうかとしている。式はもう終わる頃だろう。黒薙はネクタイを緩め、怪訝そうな目で松田に訊いた。

「俺だけ出なくても良いんですか?」
「どうせ、お前はそういう堅苦しいの嫌いでしょ」

 黒薙は舌打ちした。

「苦手なだけです」
「同じ事よ」

 松田は笑い、背中を向けて付いて来るように促す。黒薙は口を尖らせながら足を踏み入れた。
 入口ホールは以前訪れた時と変わらない清潔感が漂っているが、式の為か聊か人は少ないようだった。松田に言われた通りの時刻に来たが、完全に騙された心地でいる。
 エレベータに乗った後、松田は言った。

「あんたは大分特殊よ」

 何の事かと黒薙は眉を寄せるが、松田は続ける。

「このGLAY対策本部に入るには、普通は警察学校で必要な事を時間を掛けて勉強しなければならない。本当ならあなたには試験を受ける資格も無かった」
「……ちゃんと感謝してますよ」
「うん。まず、それが一つ」

 含まれていたんだ、と言う突っ込みは呑み込んでおく。
 松田は言う。

「あんたは確実に浮くわよ」
「はあ」
「他の皆は警察学校で苦楽を共にして来た戦友とも言える仲間。でもね、あんただけが異質。少なくとも最初は誰もあんたの事を信頼しないし、認めてくれないでしょう」
「そうですね。でも、」
「でも?」

 黒薙は溜息を吐いた。笑ってさえやりたい場面だが、やはり無表情のまま言う。

「俺には関係の無い事ですから」

 前を見詰めたままの黒薙の顔を見て松田はやはり笑った。
 丁度エレベータが到着し、松田は何も言わずに先に下り、黒薙も同じく後を追う。
 GLAY対策本部はやはり人が出払っていた。殆ど空に近い室内に押し込まれた黒薙は目を白黒させる。松田は何処か満足げに笑った。

「灯、あんたは相当の変人だ。普通は不安や緊張でカチコチになっても可笑しくないのに、あんたはいつもと変わらず無表情に構えてる」
「……俺は普通じゃないんです」
「うん。一つ、約束して」
「約束」

 松田は頷き、言う。

「私より先に死なない事」

 黒薙は息を呑んだ。

「どういう、意味ですか」
「このGLAY対策本部は日本一忙しい殺人集団よ。同時に、殉職者が多いのもね」

 松田は背中を向ける。

「私は過去に四人の後輩を持ったけどね、皆死んだ。先輩も死んだし、私自身何時死ぬか分からない。だから、あんたは少なくとも私よりも長く生きなさい」
「……言われなくても、俺は簡単には死にませんよ」

 やらなければならない事があるから。倒れる事は出来ないのだ。
 しかし、黒薙はその言葉は言わなかった。そして、松田は微笑む。

「あんたはきっと大丈夫。この世界を愛してるから」
「気持ち悪い事言わないで下さい」
「ふふ」

 松田は笑った。
 その時、扉が軋むような音を立てて開いた。現れたのは久坂と強張った表情の若い男女の群れ。式の後にオリエンテーションのようなものがあり、その後でここに集合させられると聞いていたので恐らくは彼等が新しい職員だろう。黒薙の事を先輩だと思ったのかそれぞれ元気良く会釈する。
 黒薙は何気無く隣りを見たが、松田は頷いて背中を押した。
 一列に並ぶ新人、その端に黒薙は立たされる。微かなどよめきと共に今度は本職員が入って来る。部屋の中はあっという間に人で溢れ、途端に空気が張り詰めた。浦和は前に進み出て言う。

「新人の皆、改めて宜しく。私はGLAY対策本部の本部長、浦和悠子。歓迎するわ」

 新人の列が体育会系さながらの声で挨拶するが、黒薙だけが一人横に目を遣る。気付いた名も知らぬ同じ新人が頭を引っ掴んで頭を下げさせ、それを見て松田は密かに笑った。
 続いて久坂が挨拶し、文句を言おうとする黒薙の頭を掴んで隣りの男が再び頭を下げさせる。怒鳴ってやろうと思ったが何時の間にか新人側の自己紹介が始まってしまったので黒薙は口を噤んで隣りを睨むだけにした。
 隣りのグレーのスーツを着た男が声を潜めて睨む黒薙に「何だよ」と言う。黒薙は舌打ちした。

「お前こそ、何だよ」
「人の好意を無にするなよ。せっかく、」
「余計なお世話」

 言葉を遮って言い切ったところで男は手を上げ、黒薙の後頭部を叩いた。訳が分からずに眉を寄せて叩かれた部位を摩る黒薙を無視して男は声を張り上げる。

「菊崎硝矢、二十歳です。宜しく御願いします!」

 菊崎が頭を下げると拍手が起こる。最後の一人である黒薙に目が集まった。奇妙なものを見るような興味本意の目に吐気がしたが、黒薙は小さく咳き込む。

「黒薙灯です」

 それだけ言って、黙った。続かない言葉に静寂が訪れ、居心地の悪さが背中に圧し掛かる。だからと言って今更付け加える訳にも行かず、目を閉じてそっぽを向いた。
 乾いた音が、した。
 単発の拍手は松田のものだった。続いて隣の菊崎が手を叩き、そこから伝染するように拍手が広がる。松田は笑っていた。
 新人の自己紹介が終わった後で職員それぞれが軽く挨拶する。そして、それぞれ新人を教育の為に振り分けられ新しい机に着かされた。黒薙の先輩は当然松田だったが、何の偶然か隣りの席に菊崎が座っている。
 菊崎は黒薙を見て手を差し出した。

「宜しく」

 黒薙は無視して席を立とうとしたが、菊崎はその手を無理矢理掴んだ。

「人が宜しくって言ってるだろ」
「うるせェなァ」
「ほら、宜しく」

 溜息を吐いて黒薙は手を取る。

「面倒臭いやつだな」
「お前に言われたくないね」

 菊崎は楽しげに笑った。

「それにしても、お前変な名前だな。くろなぎ……あかり」
「あかし、だ」

 こんな遣り取りを何時かしたな、と黒薙は遠くを見つめながら考える。そう、あれは確か白神だ。知らないのかからかってるのか分からないが、いつも『あかりちゃん』なんて呼びながら笑っていた。……性格上、恐らくは後者なのだろうけど。
 そういえば、あいつは何をしているだろうか。
 失踪してから目まぐるしい毎日が続いた事もあって探してもいないけれど、最後に見た時は間違い無く薬に手を出していた。あのまま死んでしまう事だって現実には十分起こり得るのだ。
 せめて捜索届けくらいは出しておこうかと席を離れた時、まるでタイミングを見計らったかのように松田が呼んだ。

「仕事行くわよ」
「……はい」

 菊崎等が他の先輩に付いてデスクワークを教わっている横で黒薙は席を立ち、いつもと変わらぬ素振りで松田の後に付いて部屋を出て行く。皆がそれを不審な目で見ていたが、黒薙は気付かない振りをした。
 『特別扱い』が齎すものは良いものばかりでは無く、多くは周囲の人間からの薄汚れた感情だ。不信感が仕事に与える影響は命に関わるものだ。でも、黒薙は運が良かった。
 菊崎は出て行ってしまった黒薙の事について囁く同僚達の話を遠くに聞きながら、少しだけ笑って自分の仕事を始めた。
 廊下に出ると松田は背中を向けたまま言う。

「お前のその無愛想は元から?」

 黒薙は何も言わない。

「誰にも気を許さずに神経張り詰めて生きるのはしんどくない?」
「友達ごっこでもしろって言うんですか?」

 松田が振り返った時、黒薙はやはり無表情のまま正面を見ていた。視線の先にいる筈の松田は映っておらず、見えているのは肉眼では見えない程の遥か前方。遠い遠い未来と、もう届かない過去。
 黒薙はふっと視線を落とし、それ以降は一切の会話を拒絶した。

2008.2.18