*黒と白 2
『欠陥品』
五歳頃まで、それが俺の名前だった。それから、体中の痛みだけが存在する理由と確証。安いボロアパートが世界の全てで、その中で母と父は全てを支配する神だった。
痛いかと訊かれてもそれに比べる癒しを知らなかったし、辛いかと訊かれても温もりを知らないから頷く事も首を振る事も出来なかった。だから、自分の置かれている状況の異常性にそれまではまったく気付かなくて、この世は冷静な天国なのだと思っていた。
生まれた時から多分、感情と言うものが殆ど凍り付いていたのだと思う。嬉しい時に笑う事は出来なかったし、哀しくても涙は出なかった。なまじ器用だった為に大抵の事は一人で出来たから、両親にとっても可愛くない我が子だった筈。つまり、器用貧乏だった。
殴られても泣かず叫ばず、時々、生きているのかも分からないと両親は言った。俺を見る目は常に冷めていて、それは物を見るのと同じだった。彼等は俺が生きているのかを確認する為に殴り、食事を抜く。そうだったのだと気付いた時にはもう彼等はこの世にはいなかった。どの道、それに気付けたところで俺の顔は笑ってはくれないし目からは涙も出ない。人形になれたらどんなに楽だろうか。いつもそんな事を考えていた。
両親は事故で死んだ。俺を柱に縛り付けて二人で外出し、その帰り道で薬物中毒者の運転する車と衝突。車は大破。そして、その事故に関わったものは皆無事では済まなかった。オイルが燃えて道路は火の海、それが燃え移ってビルが一つ消えた。使者二十五名のこの大事故は今でも語り継がれ、体験者の心の中には傷跡として深く残っている。
それを俺が聞いたのは施設だった。国から派遣された女と男が二人づつ家に来て、俺を其処から出した。その内の一人の女の腕の中に抱かれて、生まれて初めて空を見た。真っ青で、何処までも広がっている。時折鳥が横切っては視界から消える。時間が経てば太陽が赤くなり、空は暗くなって星が瞬く。感動もしないままで、俺は車に乗せられて施設へ送られた。そして、その施設で会ったのが彼女だった。
白い髪と青い瞳。フランス人形のような肌に目を奪われた。同じ日本人とは思えない圧倒的な存在感は、煤けた施設の中では浮び上がるようだった。『逢』と名乗り、純粋そうな綺麗な笑顔を向けて手を差し伸べてくれた。それが逢との出会い。だけど、手を取る事は出来なかったのだ。それがどういう意味なのか分からなかったから。ただ宙に浮ぶ手を睨むように見つめていると、逢は少しだけ淋しそうな目を向けた。何度も、両親の声が頭の中で木霊する。
『欠陥品』
そう、欠陥品なんだ。
「灯さん」
ふと意識を戻した時、佐倉の顔が目の前にあった。
道路に面したオープンカフェで一杯のアイスコーヒーを注文し、それ以来の記憶が飛んでいる。コーヒーは既に氷が溶けて幾つかの層を作っていた。
「大丈夫ですか?」
黒薙は頷き、水滴がびっしりと張り付いたグラスに手を付ける。ストローもガムシロップも出されたまま少しも動いていない。佐倉は自分のアイスティーを飲み終えてグラスには氷だけが残っていた。
現在、午後六時。夏の空は夕暮れでも明るく、時間の判断をし難い。これから向かうクラブ『イエロウ』は午後七時開店と言う事で少し離れたカフェで時間を潰していた訳だが、黒薙は頭の奥を絞め付けられるような頭痛に眉間を抑えた。
空と言うものにいい思い出が無い。だから、長時間眺めていると胸の中にそれが溶け込んで別の人格に支配されるような感覚が襲って来る。そうして、ついさっきまで空に憑依されていたのだ。
「灯さん、顔色悪いですよ」
「元々こんな顔色だよ」
黒薙はストローを咥えて目を伏せた。パイン材のようなテーブルの節目をぼんやりと見つめ、僅かに染み込んでいる水滴に触れると僅かに指先が湿る。何かを調査するような真剣な眼差しに、佐倉も息を呑んで見つめていた。
「青」
肩を跳ねさせて佐倉は顔を上げる。
「今までGLAYを見た事あったか?」
「そんなの、」
「偽物じゃなくて本物の」
言葉を遮って、くっきりとした二重の奥で黒曜石のような双眸が佐倉を射抜いた。思わず口篭もり、無言で首を振る。すると、黒薙は再び目を落として今度はストローでグラスの中を掻き混ぜ始めた。緑色のストローがグラスの緩やかなカーブの中で歪み、氷がぶつかって風鈴のような涼しげな音を立てる。
「浦和さんから預かったのは、本物だよ」
「まさか」
一笑しようとして佐倉は言ったが、上手く笑えなかった。俄かに口角の上がった中途半端な表情を向けていると黒薙が眉を寄せ、不審そうに微かに首を傾げる。
「嘘じゃねぇ。疑うなら、呑ませてやるよ。だけど、二度と引き返せない」
見計らったように、氷がパキンと音を立てた。
「GLAYは神のドラッグだと言われている」
黒薙は変わらず忙しなくグラスの中を掻き混ぜている。薄くなってしまった為飲む気が無くなったのだが、退屈を紛らわす子供の悪戯のようにも見える。
「死者に会える。真偽の程は定かじゃないが、その噂を信じて何万と言う人間がGLAYを探し求め、辿り着いた一握りの人間が屍になる」
佐倉は唾を呑み込み、無意識に拳を作っている。そして、その拳は汗ばんでいた。
「これまで本物を見た事があるんですか?」
「一度だけな。その時、体の芯まで凍り付くような寒気を覚えた」
「それで」
彼にしては珍しい、探るような目が向いた。
「灯さんは欲しいと思いますか?」
「……」
黒薙は、答えずに席を立った。同時に鉄製の四足が地面を引っ掻き悲鳴のような音を立てた。椅子に掛けていた上着を羽織り、内ポケットの中を探る。煙草を探していたのだが、それよりも先に浦和から預かった証拠品が袋越しに指に触れた。
『死者に会える』
言葉が脳裏を掠める。酷く甘美な誘いの言葉に指先が震えているのに気付いた。黒薙はすぐにそれを避けて煙草を取り出し、中を確認する。潰れ掛けた箱に僅か三本残っている。その内の一本を咥えてライターを探すが見つからない。すると、佐倉が目の前に火を灯した。
煙草を近付け、気が利くな、と言い掛けたところで黒薙はライターを見た。
「……俺のライターじゃねぇか」
煙草に火を着けた後で奪い取るように佐倉の手から青の蛍光色の百円ライターを取る。佐倉は子供っぽく笑った。
「いつも違う銘柄ですね。こだわりは無いんですか?」
ハッ、と一笑して白い煙を吐き出す。
「これは、単なる精神安定剤だ」
「灯さんでも、必要になるんですか」
「でも、って何だよ」
不満げに言い捨てて黒薙は歩き出した。
夜へと移り変わる商店街を横目に見ながら黒薙は歩を進める。アーケードにはランプが灯り、主婦のような中年女性は籠とハンドルを白いビニールで一杯にした自転車に半身になりながら器用に地面を蹴って行く。塾帰りの子供達がふざけ合いながら軽快に走った。
隣りで佐倉はついさっきまでラジオのように一人で他愛の無い事を喋り続けていたが、今では暢気に鼻歌を唄っている。聞いた覚えのある曲だな、と思ったが訊く気にはなれなかった。
「灯さん。俺の自慢はこの五月蝿さなんですよ」
何の気無しに佐倉は言った。
「俺、母子家庭だったんですけどね、親父は小さい頃に死んで、ニつ上の兄貴も追うように事故死して。お袋は寂しいの一言も言わずに毎日毎日働いてた。小学生の俺に出来る事なんか限られてるでしょう。家の事をやって、新聞配達とかで気休め程度に金貰って。その程度でしょう?」
黒薙は何も言わない。遠くで自転車のベルが鳴った。さっきの女性だろうか。
「お袋はいつも夜遅く帰って来て、俺の一日の話を聞いてくれた。お前は五月蝿いけど、元気の出る五月蝿さだって。俺は嬉しくて夢中で話しましたよ」
街の顔ぶれがだんだんと変わって行く。時間が遅くなる程に、若くなるのだ。二十にも満たない男女が一様に虚ろな顔で行き交う。信号のような黄色や赤の服がちらつく。止まれと言っているのだろうか。
黒薙が話の先を促すように見つめると、佐倉は恥ずかしそうに苦笑した。
「或る日、俺はお袋が寝た後で寝ようと思って、布団の中でこっそり起きてたんです。でも、中々部屋の明かりは消えない。内職でもしてるのかと思ったら、あの気丈なお袋が仏壇の前に正座して泣いていたんです。合わせた両手は震えてた。俺って、何も分かっちゃいなかったんだなぁって、知りました。子供心ながらにショックでしたよ」
何故、こんな話を始めたのかは佐倉自身分からない。ただ、横に立っているその無愛想な青年には自分の抱えていたものを話してみたくなるような不思議な温かさがあった。
「お袋はね、俺が高校卒業した次の日に死にました。朝飯作って、まだ寝てんのか、起きろよって呼びに行って……布団の中で冷たくなってた」
佐倉の声が微かに震えている。商店街の雑音が遠退いたように感じられた。
「親孝行しようと思ってたんです。温泉でも連れて行ってやろうと思っていたんです。なのに、これからって時に突然いなくなっちまった。結局、俺は何も出来なくて、お袋のエネルギー全部吸い取って、お袋は最後力尽きて死んじまった……」
其処まで言い終わって、佐倉は空を仰いだ。薄暗くなった空からは太陽は消え、小さな月が薄黄色に光っている。星は見えず、灰色の雲がポツリポツリと小島のように浮んでいた。
「ねぇ、灯さん。俺も死者に会えるなんて言われたら、頭で理解しても頷いてしまうかも知れません」
黒薙はそれを聞いて、何故彼がこんな話を持ち出したのか分かった気がした。咄嗟に何も言えず、金魚のように口を数回開いたり閉じたりして、また煙草に火を点ける。すると、「煙草」と佐倉が指差した。
「ニコチン中毒。吸い過ぎですよ」
「……」
煙草を足元に落とし、踏み潰した。佐倉が横で満足そうに笑う。
「薬中になる気はありませんけどね」
「当たり前だ。取り締まる警官が侵されてどうする」
「警察なんて、今じゃカタチだけじゃないですか。外国への建前でお飾りです」
「……じゃあ、何でお前はここにいるんだ」
苛立っているのか、黒薙の口調が少し早口になっている。ずっと変わらない仏頂面にも苛立ちが微かに浮ぶ。元来の短気さは共に行動して来た佐倉自身がよく知っているが、侮っているのか見縊っているのか、其処に恐怖と言うものを感じられない。
「人の役に立ちたかったんです。単純ですからね。立派になって、お袋に胸張って頑張ったって言いたかったんですよ」
変わらぬ笑顔で佐倉は言った。
普通は馬鹿にして笑うのかも知れないが、極端に表情のレパートリーが少ない為に黒薙はきょとんとした。その様子に居心地の悪さを感じて佐倉は頭を掻く。
「灯さんって、笑わないですね」
皮肉ではなく、自分の言葉を笑わずに受け止めてくれたのだと佐倉は介錯した。が、黒薙は眉を寄せる。
「面白くも無いのに、笑えるかよ」
今度は佐倉が一瞬きょとんとして、次の瞬間に大笑いした。腹を抱えて笑うので通行人は通り様に見つめ、笑い声が響く。その光景が、フラッシュバックした。嘗て、逢と白神に同じように言ったのだ。そうすると、やはり二人は大笑いした。何が可笑しいのかまるで分からない。
「灯さんは優しいですね」
「勘違いだろ」
黒薙は歩き出した。
商店街は人気が無くなって行き、少しずつ店もシャッターが閉じられて行く。頬を撫でる風が冷たくて心地良い。光の灯った外灯にネオン。静かになっていく町で気持ちが自然と穏やかになる。
黒薙は騒音と言うものを毛嫌いしているので、普段から極力人通りの多い道は歩かないし、喧しいファミレスにも行かない。騒音とは人から発せられるものだ。
それでも、黒薙は自分でも言う通り五月蝿い佐倉と並んで歩くし、人の多い組織で働く。
(俺は多分、人が嫌いになれないんだろうな)
諦めにも近い気持ちで黒薙は空を仰ぐ。職業柄、それが弱みになる事が分かっているからだ。その性質が自分を滅ぼす。だから、『欠陥品』なのだと思う。
人の消えて行く街並みに目を戻すと、ポツンと薄暗い中で浮び上がるような明るい赤のシャツが見えた。離れたところからその後を追うようにして角を曲がり、暗い路地裏に入る。ゴミ溜めなのか生臭さが鼻を突いた。
行き先を思い出しつつ、頭の中で確認する。路地裏を抜けて行けば裏町に出る。その一角だ。
「煙草を吸い始めたのは何時からですか?」
地下クラブ『イエロウ』の並ぶ裏町に入る直前、佐倉は何気無く訊いた。ふら付く足取りで通り過ぎる若者の後姿を見つめていた黒薙は、突然現実に戻されたような気になって目を白黒させる。
「もう、随分吸っているんじゃないですか。俺が見る灯さんはいつも煙草咥えて眉間に皺を寄せてる」
黒薙は反射的に眉間に指を伸ばしたが、今更触れたところで何も無い。佐倉が予想通りの行動をニコニコと眺めているのに気付き、まるで操られていたような滑稽さを感じた。
「そんなでもねぇよ。ここに就職してからだから、二年くらいだ」
素っ気無く言い捨て、佐倉に目配せする。灰ビルの隣で隠れるような素っ気無さだが、寂れた黄色の看板が見えた。
『イエロウ』
間違い無い。思わず拳を握った。
路地裏に隠れて数分様子を覗うと、今時らしい派手な服装を纏った若者の中で目が虚ろな者が何人か出入りしている。GLAYでは無いにせよ、何かの薬物中毒だろう。
「行くか」
気を引き締めるようにスーツとネクタイを整える。が、窮屈さを感じてネクタイは取って内ポケットにしまった。佐倉は小さく咳き込んだ。
「灯さん、無茶はしないで下さいよ」
「お前に言われたくねーよ」
「……アンタは死に急いでいるようで、見ている方は辛いんですよ」
不意に、浦和の声が過る。
黒薙は小さく溜息を吐いた。
「死ぬのは恐くない」
それを聞いて、今度は佐倉が溜息を吐く。議論の内容がずれているのだ。
「死ぬのを恐がって欲しいんです」
「――」
黒薙は目を閉ざし、息を吸い込む。その先の言葉を待つが、それもまた、佐倉の望んだ答えでは無い。
「俺が恐いのは、違法が違法で無くなりつつある世の中だよ」
頷けばいいのだとは、黒薙も分かってはいる。だけど、それを鵜呑みにすると今までの自分が歩いて来たものを全て否定しているような気がする。結局、佐倉もそれ以上は何も言わなかった。ただ、何故浦和が部屋を出る直前で声を掛けたのか理解出来た。
そんな気も知らず、黒薙は唾を呑み込み裏町への一歩を踏み出す。街路は、地獄へ繋がっている気がした。
*
店を出た。途端に、咽返るような香水の臭いに眩暈がした。店の外には行列が出来、今か今かと入店するのを首を長くして女性達が待っている。皆、唇が赤い。血のようだとぼんやり考えた。
サラリーマン風の男達が煙たそうに通り過ぎ、居酒屋の並びに消えて行く。キャリアウーマンのような紺色のスーツに身を包んだ眼鏡の細身の女性が、関係無いと言いたそうに横断歩道の人込みに溶ける。観光客らしき中年女性達が物珍しそう店を指差し、耳打ちし合う。白神は正面から来るカップルをかわしながら道を急いだ。
空は既に暗いし、黄色の月が上っている。駅まで徒歩十五分弱、約束の時間まで残り二十分。歩道はいつも以上に混雑して思うように進めない。間に合わないな、と心の中で早々に諦めた。
何故、人はこんなに密集した中で生きられるのか。他の動物でもこんな中で生きられる訳が無い。昔から三人寄れば文殊の知恵などと言われてはいるが、人が集まるとろくな事が起こらないのだ。田舎より都会の犯罪の方が多くて悪質なのはそのせいだと思う。
忙しなく動いて行く人。ネオンの輝きも忙しそうに点いたり消えたりしている。枠を飾るランプの一つが切れているのか光らない。何となく、気になった。
信号が変わろうと、ネオンのようにチカチカし出した。白黒の横断歩道を渡る人々は一層歩を進め、やがて、布が裂けるように中央から人が消える。その中で一本の糸のように白神はスーツを風に靡かせて向こう岸に渡った。車のクラクションが喧しい。向こう岸も人で一杯だった。胡散臭い外人の営む露天にはちっぽけなシルバーアクセサリーが黒い板に貼り付けられるように売られている。通り過ぎる女性を狙ってティッシュ配りのバイトのように声を掛けていた。殆どが無視して通過し、頭の悪そうな若い女が二人、立ち止まる。
金髪の前髪を端に退けて進行方向を見つめた。駅に近付くほど人が増え、気が重くなる。約束時間まで残り十五分。「やっぱり遅刻した」と笑う永塚の顔が浮ぶ。「遅刻は俺のアイデンティティーだから」心の中で言い返す。「約束を守れない人間はカスだ」何処からか黒薙の声が聞こえた気がした。「それは、俺に言ってんの? それとも、お前自身?」黒薙は答えない。
ぼんやりと進む度に誰かがぶつかる。外灯やネオンが眩しいのか空には星も無い。鉛色の重々しい雲が月を隠したり、顔を出させたりした。人込みから発せられる声達が重なり合って、何処かの国の言語のようで何も理解出来ない。耳を塞いで走り出したい衝動に駆られた。疲れるからやらないけど。
黒いアスファルトの道路に煙草の吸殻が幾つも落ちている。ガムが黒くなって張り付いている。汚い町だ、と思いつつ拾わない。
――約束だよ。必ず、この先も三人でいようね
逢の声が聞こえて、思わず振り返った。色んな頭。奇抜な帽子、金髪茶髪、黒髪、ポニーテール。何処にも、あの白い髪は無い。老女のよれよれの少ない髪じゃない。光を反射する、湖畔に映る月のような静けさを持つ髪だ。いないいない、何処にもいない。
暫く探して、それが幻聴だと気付いた。「お前、薬始めたのかよ」黒薙が軽蔑したような声で言った。もちろん、頭の中でだが実際ここにいても同じ事を言っただろう。
逢がいる筈無い。もう、何処にもいない。そう、いないんだ。
何度も自分に言い聞かせて、漸く歩き出す。ぶつかって行く女性の香水の臭いが苛立った自分を冷めさせてくれた。
人を見ると頭が冷える。子供が、嫌いなピーマンが乗った皿を目の前に出される時の気分だ。ハンバーグの匂いがしていたのに、目の前には緑色の苦い野菜。落胆と言うよりは諦め。白神が人を見る目はそれに近かった。
元来、人間と言うものが嫌いだった。理由など幾らでも挙げられる。
白神は大きく溜息を吐いた。人の多さにうんざりし、爆弾でふっ飛ばしたいと物騒な事を考える。それだけ人が多いと言う事だ。
「ねぇ、君一人?」
肩を叩かれて振り返ると、自分より頭一つ分程小さい女性が二人嬉しそうに微笑んでいた。心底うんざりしていたが、ついクセで微笑みの仮面を付ける。それに気をよくした二人が顔を見合わせながら嬉しそうにチラチラと見上げた。
「あたし達と遊ばない?」
赤い口紅が弧を描く。茶色の巻かれた髪、エクステだろう。
「ねぇったら」
黒い短髪。大人しそうな顔の割りに露出の多い服。
五月蝿い。
「……人と待ち合わせしてんだ。悪いね」
「えー、彼女いるんだー」
「残念ながら男友達。寒ィだろ?」
肩を竦めてみせると、二人は顔を見合わせて笑った。
面倒臭い。何で、仕事じゃねぇのに女笑わせてやんなきゃなんねぇんだ。もう約束なんざ知らねー。このままどっちか落としてホテルでも行こうか。金ねぇから向こうに持たせるけど。
「約束を守れない人間はカスだ」
「えっ?」
妙に凛とした声がして二人を見ると、顔を上げて困ったようにまた、お互い見合わせる。また、幻聴だったらしい。
(んだよ、灯。イチイチ死人みてぇに出てくんな)
舌打ちすると、二人は自分達にしたものだと思ったのか顔を青くした。だが、白神はそれを無視して歩き出す。
黒薙はここにはいない。だが、彼の言葉は時々自分を叱るように、戒める教訓のように脳裏を過る。それが女の言葉だったなら格好も付くが、黒薙は同い年の男だ。寒過ぎる。
沢山の人の頭を通り過ぎ、避ける事もしないで進むと通行人の方が自ら避けた。そのまま進み続け、漸く駅が見えた。
人のごった返す駅の傍らでポツンと背の高い時計が立ち尽くしている。其処は絶好の待ち合わせ場所である為に人の塊が出来ていた。苛立った様子で赤い携帯を開いたり閉じたりしている女の横で、石段に座ってぼんやりしている青年がいる。Tシャツにジーンズだけのシンプルな服装だが、決して変ではなく景色に同化するように似合っていた。
その人込みに近付きたくなくて白神は携帯を開き、リダイヤルで永塚の携帯へ電話を掛ける。永塚はぼんやりしていたが、携帯に気付いて耳に当てた。すると、すぐに勢い良く「龍さん」と言う声が鼓膜を揺らす。
「いきなりうるせぇな。もう着いたよ」
白神は自分の周りを見渡し、すぐ後ろにあった青いロッカーで目を止めた。
「今、ロッカーの前だ」
「分かりました。行きますよ」
電話は切れて、ツーと虚しい音が聞こえた。携帯を閉じてさっきの石段を見ると、すでに永塚はいない。
「龍さん」
永塚は息を切らせてすぐ横に現れた。走って来たのだろう、肩で息をしながら困ったように眉を下げる。
「やっぱり遅刻した」
言われて改めて携帯の時計を見ると、二十分ほど遅刻していた。それでも電話も何もしなかった永塚には流石としか言いようがない。だが、それ以上に永塚がさっきの頭の中と同じ事を言ったので思わず笑ってしまった。
「何ですか?」
「いや。……遅刻は俺のアイデンティティーだから」
黒薙の言葉は、無い。永塚は首を傾げたが何も言わなかった。
「幸太郎、俺の車持って来ただろうな」
「持って来てる訳が無いですけど、原チャならあります」
「上等だ」
永塚は小さく溜息を付き、奇妙なキーホルダーの付いた鍵を渡した。蛍光色の骸骨が緑色の目を光らせて揺れている。趣味が悪いと言う他無かったが、敢えて何も言わなかった。
シルバーのバイクは道路脇に止められ、ヘルメットがぞんざいにサドルに置かれている。駐禁する警察も今は腰抜けばかりで法律もあったもんじゃない。常に後手に回り続ける政府の機関など……。そう思ったところで白神は動きを止めた。この国にまだ根性のある機関はある。警察は確かに親の七光りだとかろくなもんじゃないが、その中でも一角、薬物を専門に取り締まる集団がいる。彼等は常に先手を打ち犯罪を取り締まっていた。黒薙も其処の一員だが、それが白神を苛立たせた。
(馬鹿だぜ、灯。警察なんざ、無能だ)
自分自身、好悪が激し過ぎる事はしっかりと心得ている。好きなものは数える程しか無く、殆どは嫌いだ。その中でも警察は格別に嫌いだった。
警察など無用の長物だと黒薙に面と向かって言った事がある。つい最近の事だが、彼は怒るどころかはっきりと頷いた。そういう反応にも苛立つ。無愛想なクセに妙に素直な節があった。
「龍さん?」
永塚に呼ばれてはっとした。ヘルメットを片手に持ったまま、バイクの前で制止していたらしい。白神はそれに永塚の頭を押し込めてバイクに跨った。片手に持っていた鍵を差して回す。そして、エンジン。
マフラーから大量に灰色をした煙が吐き出される。白神はエンジンが掛かった事を確認し、アスファルトを蹴った。
途端に、退屈だった景色が後ろへ向かって動き出す。風が頬を凪いで髪がバサバサと揺れた。突然の発進に背中を掴んでいた永塚の手に僅かに力が篭る。それが一瞬でも遅かったら振り落とされていた筈だ。
渋滞する車の群れの隙間を縫うようにバイクは進む。動けずに苛立っていた車の運転手達が羨ましそうに見て来た。少し先に黄色い車両が見える。事故だな、と心の中で納得した。渋滞を何でも無いかのように淀みなく進み続け、バイクは漸く信号で止まる。
「これから何処に行くんですか?」
この機会を逃したら次は無いぞ、と言った調子で永塚は早口に訊いた。白神は振り返りもしないで真っ直ぐ正面を見つめている。
「N地区の地下クラブ『イエロウ』って、知ってるか?」
「はい。でも、あそこは結構物騒ですよ」
「心は永遠の少年だからさ、物騒って聞くとわくわくしちゃうんだよね」
信号が青に変わるのを確認し、白神はまた走り出した。永塚も今度は振り落とされないように発車と同時に屈む。バイクは道路を氷の上を滑るような滑らかさで走って行く。N地区はそんなに遠くない。
少し前までは東京だとか、埼玉だとか都道府県があったし、更に新宿とか渋谷とかの区分もあった。だが、今では市長や県庁などが無くなった事もあり、その隔ての意味が無くなった為にそう呼ばれなくなった。不思議なもので、無ければ無いで困らない。必要だと感じる者だけがアルファベットを並べて呼ぶ。N地区は首都東京の一角だ。
後ろに飛んで行く街路樹に車。完全なスピード違反で、ヘルメットも被っていない白神は転べばまず間違い無く即死するだろう。だが、時刻は七時ニ十分。地下クラブ『イエロウ』は確か七時開店だからもう客も入っている筈。せっかちな黒薙は開店と同時に入店したんじゃないだろうか。
風の音が耳を塞ぐ耳栓のような役目をしていて、車のクラクションも聞き辛い。
「幸太郎」
永塚は風の音の中で僅かにそれを聞き取り、顔を上げた。
「お前GLAYって知ってるか?」
「本物は見た事無いですけど、偽物は貰った事があります。呑みませんでしたけど」
いつもより大きな声を張り上げて永塚は身を伏せる。何の前触れも無くバイクがカーブで斜めになった為だ。タイヤがキュキュキュと音を立て、膝が擦れるかと思った。
すぐに直立したが、また猛スピードで駆け抜ける。白神の運転に慣れた永塚だからこそ無事だが、他人ならとっくに振り落とされて御陀仏だろう。彼が後ろに他人を乗せるとは思えないが。
「GLAYは神のドラッグだと言われている」
「神?」
「ああ。呑めば死者に会えるそうだ」
「幻覚でしょ」
「そうだよ。でもな、大切な者を失った人間にはそれほど甘美な誘いは無いと思わないか?」
「さあ」
純粋に永塚は答える。それが可笑しくて、白神は小さく笑った。
「二度と会えないと分かっていても、例え幻でも会いたいと思っちまうんだよ」
白神に家族はいない。昔、GLAY中毒者が家に押し掛けて家族全員殺された。犯罪が凶悪化していた現在では有り触れた事件ではあったし、警察にも止めようが無かったとは思う。だけど、当時十五歳だった白神にはそれがどうしても許せなかった。
もっと早くGLAYの対策をしていれば、誰も死ななかったんじゃないか。犯人が死刑になっても裁かれない警察への怒りが膨張してどうしようも無くなっていた。身の回り全てのものが敵だと思って何も近付けさせなかった。思えば、人を分類するようになったのはあの頃からだ。そして、人間が嫌いになったのも同時期で。
「龍さんは」
永塚の言葉に、急に意識が浮上するように気付いた。猛スピードを出すバイクを運転しながら考え事なんて危な過ぎる。白神はハンドルを握り締めた。
「本物のGLAYが欲しいんですか?」
「探した事はある」
詳しくは、二回ある。
一度目は家族が殺された時。全てを失ってしまって、独り残される孤独に耐えられなかったのだ。だけど、手に入れられるのは偽物ばかりで殆ど薬中に成り下がっていた。
だけど、二回目の時の方が必死だった。財産投げ打ってまで必死になって探した。正気じゃなかったと言えばそうだが、今でも欲しいと心の何処かで思っている辺り、半分は既に正気だった筈だ。
「幸太郎には分かんねぇかな」
永塚は答えなかった。どのみち口を開いたところで否定の言葉しか出て来なかっただろう。
やがて、頭上に青い看板が見えた。N地区への入口だ。バイクは加速した。
地下クラブ『イエロウ』は少し寂れた商店街の路地裏を抜けた先にあるが、その裏町に入る道は一つじゃない。細い通りを幾つも抜けて行けばバイクでも行く事は出来る。
外灯の無い道をライトで照らしながら目的地に向かうが、人がだんだんと減って行くのがよく分かった。代わりにポツリポツリと虚ろな目をした若者が目に付く。生臭い臭いが充満しているが、彼等は気にならないのだろうか。
『イエロウ』から少し離れたところでバイクを止め、下りた。固い道に下りると浮遊感があった。
永塚がヘルメットをバイクの中に仕舞っているのを横目に見ながら、白神は携帯を取り出す。また、リダイヤル。電話が掛かって来る事は多いが、自分から掛ける事は殆ど無く、しかも、僅かな人数だけだ。
黒薙の番号に掛けて耳に当てるが、暫く呼び出し音が続いて留守番電話サービスに繋がった。珍しい。
時刻は七時四十分。予想より時間が掛かった。
「龍さん、本当に行くんですか?」
「んだよ、弱気だな」
白神は鼻で笑ったが、確かに其処からは地獄のような冷気を感じられた。足を踏み入れるのを躊躇したくなるような悪意。本当に地獄に繋がっているんじゃないだろうか。
「行かなきゃ分かんねぇからな」
ポケットの中のケースに掴み、確認する。
この場所にGLAYの手掛かりがあるならば行かなければならないだろうから。
2007.8.29 |