*蜃気楼 3

 松田の言う通りGLAY対策本部の忙しさは正に嵐のようだった。特に黒薙は警察学校ならではである過程を飛ばしている為、就職後に時間を見つけては自力で学ばなければならない。例えば、銃。
 流石に銃は素人では扱えない。松田に連れられてGLAY対策本部の特別射撃場で足を運ぶようになってからは目覚しい成長をみせるが、やはり、他の新人に比べれば劣る。
 そうして拳銃が支給され、就職してから二ヶ月経った初夏のある日、黒薙の元に一本の電話が入った。
 以前、機会があったので警察に白神の捜索届けを提出した。同職の者から提出されたそれを見て相手は怪訝そうに眉を寄せたが、一応受理してくれたようだ。それ以来の連絡は無いので手の打ちようが無かったが、その日、思わぬところから連絡が入った。
 高校時代の友達からだった。元クラスメイトだ。
 相手の声はとても乾いていた。嫌な予感を覚えながら職場を飛び出して連絡のあった場所に急行する。その場所は黒薙や白神の母校の近くにある、忘れ去られたような小さい団地の一部屋だった。団地の駱駝色の壁は煤けて緑の蔦が奇妙な生き物のように侵食している。庭は荒れ放題で雑草がまるで草原のように広がっていた。
 元クラスメイトは目を伏せたまま黙って銀色の鍵を手渡した。黒薙はそれを受け取って息を呑み、そのまま去って行った友人の背中を見送り、ゆっくりと扉に向かい合う。郵便受けには不在届けやチラシが溢れる程に詰め込まれ、入り切らなかったものは足元に落ちて風雨に晒されて原型を殆ど失っていた。もう随分と家は空けられているようだ。それこそ、何年も。
 表札には『白神』と記されていた。どうやらここが白神の家らしい。本来なら一番先に調べるべきところだが、以前、電話した時には留守電に繋がってしまった。居留守だったらしい。黒薙は息を呑み、まずは礼儀としてチャイムを鳴らした。
 家の中に虚しく陳腐な音が反響するが、何の反応も無い。仕方なく渡された鍵を穴に差し込んだ。扉が軋んだような音と共に開いた。
 家の中はまるで強盗でも入ったかのように凄惨な有様だった。家財道具が全てひっくり返したかのように散らかっている。足の踏み場も無い程に散乱した物を避けながら歩を進めていくが、人影は何処にも無い。カーテンは閉ざされ、空気の淀んだ薄暗い室内。人が生活している場所とは思えないのだ。ただ、天井や壁にこびり付く茶色の染みが嫌な予感を加速させる。
 血の跡のようだった。
 この家の中で何が起こったのか、それは以前白神から聞いた。
 白神の家族はGLAY中毒者によって殺されたのだ。唯一生き残った彼は荒んでいったけれど、その足取りは逢との出会いによって止まったのだと思っていた。だが、また歩き出してしまったのだろうか。
 嫌な予感を胸の中に抱えながらある一室の扉を通り過ぎた。扉には『雪子』と書かれたネームプレートが下がっている。妹だろうか。
 足はどんどん先へ進む。閉鎖的な空間で酷く息苦しい。淀んだ空気には湿気が満ちていて壁には蒼い黴が繁殖していた。人の生活出来る場所ではない。
 黒薙は廊下を突っ切り、その扉の前で足を止めた。GLAY対策本部で培った能力がこんなところで役に立つとは思わなかった。思いたくなかった。だが、確かにその扉の向こうから尋常ではない不気味な気配を感じるのだ。黒薙は扉を開いた。
 部屋の中はやはり、物が散乱した汚れたものだった。酸素が薄く、酷く呼吸が苦しい。ベッドは刃物のようなもので切り裂かれ、足元には壊れた時計や写真立てが落ちている。その写真立てを拾って見ると、写っているのは幸せそうな家族の肖像だった。力強く笑う父親と、柔らかく微笑む母親、楽しそうにピースする二人の兄妹。その少年は紛れも無く白神だった。
 家族の思い出なんて黒薙には無い。モノクロに蘇るのは自分を『欠陥品』と叱咤し、拳を振り上げ、熱湯を浴びせる両親の鬼のような形相だ。そんなものしか無いから、ずっと温もりが欲しかった。人並みとは言わないから、一欠片でも温もりが欲しかったのだ。
 その家族の肖像を見て、黒薙は漸く自分自身の感情に気付いた。

(俺は、淋しかったのか)

 この写真の父親のような笑顔を見たかった。この母親のような温かさを感じたかった。独りが当たり前だったのに、逢と出逢って、白神と出逢って、もっと多くを望んでしまっていたらしい。
 部屋にある窓は割れていた。奇妙な山脈を描く硝子に目を遣り、そのまま灰色の業務用机に突っ伏す背中に近付く。非常識だろうが、玄関で靴を脱いで来なかった為に踏み付けた何かの欠片が微かな音を立てる。

「龍」

 皺の寄ったシャツは一体何日洗濯していないんだろう。名前を呼んでも返事をしない、行方不明だった友人の肩に手を伸ばし、そっと触れる。

「ずっと、ここにいたのか?」

 ここは何処なんだろう。白神の生まれ育った家なのか、家族が殺された場所なのか。
 思い出の場所なのか、過去の牢獄なのか。彼は今、何処にいるんだろう。

「どうして、いなくなったりしたんだ」

 声には感情が無い。表情にも感情は無い。
 脳裏に、最後に見た白神の後姿が思い出された。足元に散らばるGLAYの偽物の欠片。彼はどうやら、再び悪魔の手を取ってしまったらしい。
 自分に人が救えると思った事は無い。そんなに傲慢じゃない。だから、その無力さが今は死ぬ程腹立たしい。俺に彼は救えなかった。
 逢が死んだ時、自分は彼の下って行く思考を食い止められなかった。漸く見つけた絆を失った彼が、何を思ったかなんて想像に難くない。それなのに、救えなかった。

「なあ、龍」

 俺では駄目なんだ。それなら、逢の代わりに俺が死ぬべきだった。
 何で、俺が生き残ったんだ。欠陥品の俺が生き残って、逢は死んだ。
 でも、俺は……皆を守りたかった。

「正しさを押し付ける気は、更々ねェよ。でも、こんな薬に頼るな」

 ゆるりと、漸く白神が顔を上げた。血の気の失せた面には眼鏡がぶら下がっているが、その奥の目には生気がまるで感じられない。

「はは、は」

 何が可笑しいと言うんだろう。白神は狂ったように笑い始めた。それが薬による幻覚症状だとしても、酷く苛立つ。お前は、こんなもので全部誤魔化して逃げるのか。
 黒薙は白神の襟首を掴んで無理矢理立たせると正面から睨み付けた。

「逃げるなよ!」

 白神は皮肉そうに口角を吊り上げた。

「お前になんか、何も言われたくない。お前に何が言える。逢が死んだ時、悲しい顔一つしなかった癖に!」

 黒薙は無表情でいる。白神は更に言った。

「涙一つ見せなかったお前に何が言える! 結局、てめぇは他人なんかどうだっていい欠陥品なんだよ!」

 無意識に、体が動いた。空いていた右手は大きく振り上げられ、気付いたときには力一杯振り下ろして白神の頬を打ち付けていた。乾いた音が反響し、白神の体が軽々と壁に衝突する。
 その単純な行為に呼吸が乱れた。黒薙は肩で息をしながら白神を睨む。

「俺が本当に、」

 声が、震えた。

「俺が本当に、悲しくなかったと思うのか……?」

 人に対する諦観は自分でも認めよう。それでも、彼等にだけは信じていて欲しかった。
 守りたかった。誰に否定されて偽善だと言われてもいい、それでも彼等だけには信じていて欲しかった。
 黒薙はふっと足元に目を落とす。白神の家族の肖像の他に、もう一つの写真が無造作に落ちていた。写真の中で笑うのは嘗ての自分達だった。無表情の仏頂面、人の良さそうな笑顔、それから、優しい微笑み。
 俺はそれを何に代えても守りたかった筈だ。
 白神は呆然と目の前の男を見詰めて問い掛ける。頬の鈍痛には頭が回らなかった。

「……お前、は、それでも……」

 ぐ、と息を呑み、続ける。

「泣く事すら、出来なかったのか……?」

 無言で睨み付ける行為こそが肯定を示している。沈黙が流れた。
 感情を表す術を持たない。吐き出せなかった感情は体内でループしては重みを増す。冷え固まった火成岩は何時まで経っても消えない。

「頼むから」

 黒薙は強く瞼を閉じた。そこから発せられる声は、彼らしくもなく震えている。

「頼むから、逃げるなよ」

 そして、目を開いて白神を睨んだ。

「お前が逃げた分は、俺が立ち止っていてやる。お前が戻って来るまで待っていてやる。だから、必ず帰って来い」

 黒薙は言う。

「見失ってんじゃねぇ。お前は、独りじゃないだろう」

 白神はまだ、呆然と目の前の男を見ている。欠陥品と呼ばれ続けた男は相変わらず無表情だが、その目にはありありと感情が溢れている。温かさを欲していた彼こそが温かかったのだ。
 だが、それでも白神の答えは返って来なかった。黒薙は背中を向けてゆっくりと歩き出す。胸の中に沸々と湧き上がる奇妙な使命感。守らなければならない。
 その家を出て行った後も、黒薙の胸には何か異常性を秘めた鎖が絡み付いていた。





 白神が牢獄をから歩き出したのは、黒薙が去ってから一週間経った晴れた日の午後だった。GLAYの使用を止めた後も中毒症状で碌に立ち上がる事も出来なかったせいだ。
 陽炎が立ち昇るアスファルトのように、視界はグラグラと揺らぐ。真っ直ぐ歩いている筈が逸れている。止めると誓った薬への渇望が止められない。それでも、声がするから。正面から見据えて来る目があるから。
 独りじゃないと、訴えるから。
 外界の眩暈がする直射日光を避けるように日陰へと足は進む。周囲に人気は無くなっていった。
 寂れた胡散臭い中華街の其処此処には怪しげな外人が大きなバッグを持って立っている。この国はこんなにも汚れているのに、それでも戦おうとする人間はいる。
 この世界は汚い、吐き気がする、醜い、気持ち悪い。それでも、救う為に傷付き続けるのだろうか。ただ一つの為だけに何度でも傷付くのだろうか。
 不意に目を落とすと、無数のガムが張り付くアスファルトに一台の傷だらけになっている携帯電話が転がっていた。塗装が汚らしく剥げた黒く滑らかなボディ、小さなサブディスプレイは割れている。落し物と言うよりは、捨てられたと表現する方が正解のような気がする。そのまましばらく、立ち止まって携帯電話を見下ろしていた。
 その時、人通りの無くなった生臭い路地裏から、呻き声が聞こえた。
 薄暗くてはっきりとは見えない。しかし、ゴミ捨て場の黒いゴミ袋に埋まるように、一人の人間が倒れているのが何となく見えた。白神はそれを眺めるだけで、近付こうとも、声を掛けようともしない。
 遠くで、電車の通過する轟音が響いている。白神は一歩、近付く。
 汚れたホームレスかと思ったが、そこにいるのは、まだ二十歳にも満たないだろう童顔の少年だった。整っているであろう顔は殴られたらしく、所々に痣が残り、頬は腫れている。高級そうな黒いスーツは煤で汚れ、中に来た淡いストライプのシャツは皺が寄っていた。喧嘩にでも巻き込まれたのだろう。その姿からボロ負けである事はありありと解るのに、満身創痍の中、双眸だけが正面の壁を鋭く睨み付けている。

「よう、負け犬」

 白神はその正面に座り込み、口角を吊り上げて言った。

「助けて欲しいか?」

 少年の双眸に、白神の薄い笑みが映る。
 暫くの沈黙の後、少年は黙って首を振った。

「余計なお世話です」

 いっそ、腹立たしい程に綺麗な笑顔だった。少年はあくまでも笑顔を貼り付け、穏やかに言う。

「俺はもう、生きるつもりなんてありませんから」
「死にたいのか?」
「生きたくないと言う事は、死にたいと言う事とイコールでしょう」
「どうかな?」

 白神は笑った。

「人生には、生きたくなくても生きなきゃならない、そんな時が訪れるんだぜ」
「俺はそんなの御免蒙ります。生きるって、誰かに強制されるものじゃないでしょう」

 その回答に驚き、白神は眼を瞬かせ、そして笑った。

「面白ぇガキだな。俺は白神龍。お前の名前は?」
「――永塚幸太郎」
「いい名前じゃねぇか。親御さんは、お前が幸せであるように祈って付けたんだろうな」
「俺を名前で呼ぶ人間は、もう何処にもいませんけどね」

 永塚は苦笑し、空を仰ぐ。

「親はつい最近、死にました。友達も皆、死んだ」

 それが嘘だとは、思えなかった。
 白神はボロボロになった永塚の様子を改めて眺め、静かに問い掛ける。

「何故、死んだ?」
「殺されたんですよ」

 永塚の口調は明るかったが、鋭く空を睨み付ける目の端には光の粒子があった。

「俺はね、所謂ヤクザの組の幹部の息子だったんです。最近出回り始めたGLAYって麻薬の抗争に巻き込まれちまった。GLAYの異常性、危険性に気付いて、柄にも無い事したせいでね、皆死んじまった」

 馬鹿でしょう、と永塚は笑ったが、白神は眉一つ動かさなかった。

「ヤクザ者が悪戯に正義振り翳して、残ったのは後悔だけ。……俺はそれでも生きなければなりませんか?」
「そんな事は知らねぇ。……が、生きてるヤツには生きる権利がある。それがどんな結果を残すとしても、誰にもお前は否定出来ない」
「つまり、俺がこれから大量虐殺すると解っていても、生きる権利はあるんですか?」
「ああ。ただし、この国の警察は腑抜けばかりじゃねぇけどな」

 永塚は怪訝そうに白神を見た。

「あんた、警察ですか?」
「いいや、俺は通りすがりの無職だよ」

 白神は立ち上がった。
 その時、後方から爆音が聞こえた。はっとして振り返って見ると、窓は硝子が割れて灰色の煙が濛々と流れ出している。耳を貫くような轟音が耳障りだったが、よく耳を澄ませば人の声が聞こえた。
 誰かを探している風な声。白神は溜息を吐いた。

「人気者だな」
「全然嬉しくないんですけどね」

 永塚は少しも焦る様子は無く、そのままの姿勢を保って笑っている。

「死ぬのか?」

 問い掛けても、永塚は返事をしなかった。
 このままここにいれば、間違いなく白神もとばっちりを食うだろう。下手をすれば死ぬかもしれない。しかし、それ以上に、永塚が選ぶ未来を知りたかった。
 友達を、仲間を、家族を、世界を全て失って、彼は最後に何を選ぶのだろう。生きて行く先に希望なんてないかも知れない。それでも、彼は生きようとするだろうか。
 沈黙を守っていた永塚は不意に顔を上げ、問い返した。

「生きる意味はありますか?」

 白神は答えない。そんなもの、解らないのだから。

「俺は独りぼっちです。俺が死のうと誰も悲しまないし、迷惑にならない。それでも、俺に生きる意味はありますか?」

 ああ、と白神は思う。まるで、鏡を見ているようだ。
 悠長にしている時間は無い。けれど、白神は不思議な居心地の良さを感じていた。

「意味なんざ知らねぇよ」

 永塚は目を瞬かせ、白神の言葉の意味を拾おうとする。

「人間は皆独りぼっちなんだよ。孤独で寂しい生き物なんだ。だから、徒党を組んで弱さを誤魔化して、強いふりして生きてんだ」

 白神の脳裏を、黒薙の無愛想な顔が過ぎる。
 黒薙は誰よりも孤独を感じていた筈だった。それなのに、どうして。

――お前は、独りじゃないだろう

 独りじゃないと、彼が言った。逢を失って、誰よりも孤独を感じた筈の彼が言った。悲しくても、涙一つ流す事を許されなかった彼がそう言って、歩き続けた。

「意味だとか、価値だとか、そんな事はどうだっていい。お前の目の前にあるのはそんな複雑な問いじゃねぇんだよ」

 白神は小さく息を吐く。

「生きたいか、それとも、死にたいか」

 永塚は答えられない。白神は既に、彼の中にある答えを見透かしていた。

「……生きるべき世界を失って、独りぼっちになっても、惨めだと後ろ指指されても、人はそれでも生きられるのだと、俺に見せてみろ」

 永塚は息を呑んだ。白神は続ける。

「絶望背負って、この汚れきった冷たい世界を生き抜いて見せろ」

 遠くから聞こえる人の声。白神の言葉を聞いて、永塚は少しだけ笑った。

「生きる事を強制されたくはないんですけどね」

 永塚は膝に手を付いてゆっくりと立ち上がった。

「生き抜く。……それも面白そうだ」

 近付く人だかりから銃声、銃弾が足元で爆ぜる。白神は笑った。

「ああ、死ぬより百万倍楽しいぜ」

 二人は近付く敵の群れを見詰めた。

「……行こうぜ、幸太郎」

 はっとして永塚は白神を見た。しかし、白神は真正面を見据えて目を逸らさない。永塚は笑った。

「――はい」

 二人は走り出した。



2008.8.21