*蜃気楼 4

 銃声が尾を引いて、秋の突き抜けるような青空に高らかに響き渡った。そして、酷い轟音が町中に低く広がって行った。
 黒薙は片手に握った拳銃の先から立ち上る硝煙を、何の感情も映さない虚ろな目で見詰めている。全く身動き出来なかった。自分だけの時間が停止し、周りは早送りに動き出す。
 悲鳴が歓声に聞こえた。事実、そうだったのかも知れない。
 隣で松田はそっと肩を叩いた。

「終わりだよ」

 そして、黒薙の掌から離れない拳銃を剥がして微笑んだ。
 薬物中毒者による、凶悪な無差別殺人事件だった。巨大なトラックで街を走り抜け、何十人という人を跳ね飛ばして行った。その勢いは止まらず、二時間にも及ぶ走行の末、黒薙の放った一発の銃弾により、横転したトラックは爆発炎上し、犯人の姿は瓦礫の中に消え去った。
 サイレンが鳴り響く。パトカーが、救急車が、消防車が走り回る。
 黒薙は静かに自分の掌を見た。じわりと汗が滲んでいる。

「玲子さん、俺、」
「いいんだよ、灯。何も間違っちゃいない。これは、犯罪に対する抑止力なんだから」

 優しく微笑む松田の顔がぼやけて見えた。
 指先の震え、足元が揺らいでいる。初めて、人を殺した瞬間だった。
 GLAY対策本部に就職してすぐに銃が支給されたが、まさかこんなにも早く使う日が来るとは、夢にも思わなかった。以前、目の前で松田がコンビニの立て篭もり犯を目の前で射殺した。その時にも思ったが、酷く、呆気ない。

「俺、人を殺したんですか?」

 松田は何も言わなかった。
 トラックを滅茶苦茶に運転していた男は多分、二十代後半だろう。何処にでもいそうなサラリーマン風のスーツの男だった。眼鏡を掛けていた筈だ。シートベルトなんて勿論付けてはいない。一心不乱にハンドルを握るその顔は笑っていた。狂っていたに違いない。
 現場に到着してすぐに、十三人目の被害者が死亡したと連絡を受けた。黒薙は松田に連れられ、現場が見渡せる建物の屋上へと登った。射殺許可はとっくに下りていたけれど、縦横無尽に走り回るトラックの中の犯人を捉えられずに松田は悪戦苦闘していた。その時、黒薙は、トラックが幼稚園に突っ込もうとしている事に気付いた。
 右手は銃を握っていた。指先は引き金を引いていた。松田は驚いたように目を丸くして、単発の銃声が空に響いた。
 トラックは幼稚園手前の大きな十字路の中央で横転し、爆発した。
 それは、黒薙が予想・判断した最良の結果だった。しかし、それだけでは処理出来ない感情があった。

「俺――」
「大丈夫。良くやったわ、灯」

 余りにも呆気ない。
 帰ろうと促す松田に従って黒薙は歩き出したけれど、感情は其処に置き去りにしたままだった。





 本部に帰還した黒薙を、菊崎は温かく迎えてくれた。同期の仲間は、黒薙の無表情ぶりに、冷血だと距離を置いていた。人を殺しても表情一つ変わらないと。
 しかし、ひっそりと誰にも気付かれないところで、変化はじわじわと広がっていた。
 GLAY対策本部は日本一忙しい職場だ。まず、デスクワークが半端ではない。二日三日の徹夜は当たり前。軽い仮眠の後、すぐに現場出動もざらだ。黒薙も机の上には常に書類の塔が出来上がっているし、それが無くなった事は今まで一度も無い。
 処理しては積まれ、処理しては積まれ。逆・賽の川原だ。
 日々、秋が深まって木々が色付き始めた頃。始め、異常に気付いたのは菊崎だった。
 休憩から机に戻った時、ふと隣を見ると、机に向かい続ける黒薙の姿があった。彼が最後に休憩を取ったのは何時だったか。今日は徹夜何日目だろう。そう思っただけだった。
 しかし、異常は日々繋がって行く。一週間が過ぎ去った頃だった。あの事件以来黒薙が現場へ出る事は無いが、デスクワークに忙殺される日々を送っている。まるで何かに憑り付かれているかのように、机に噛り付いて全く動かない。食事も休憩も睡眠も取らない。トイレに行く以外、椅子を離れない。

「痔になるぞ」

 菊崎がからかって言ったが、黒薙は何の反応も返さなかった。ボールペンの走る音だけが不気味に響いている。
 左手は常にペンを握り、右手は書類を押さえ、コーヒーカップを掴むだけ。菊崎は何だか恐くなって、黒薙の肩を掴んだ。その細さにぞっとした。徹夜十三日目の夜だった。

「おい、好い加減休め。飯食いに行こうぜ。お前、死ぬぞ」

 それでも、黒薙は動かない。
 事の異常に気付いた松田が傍に行く。黒薙の左手は忙しなく動き回っている。

「灯」

 松田が呼んでも、黒薙は反応しない。

「灯!」

 菊崎が肩を掴んで、強引に自分の方へ向かせた。その瞬間、体中を寒気が襲った。
 頬はこけ、顔色は青く、目の下は窪んでしまったような隈がある。別人のようだった。いや、死人のようだった。

「灯、もういいから休め。お前の分はやるから……」
「駄目なんだ」

 震える声で言った。これが黒薙の声だっただろうかと思ってしまうような弱々しさに泣き出したい衝動に駆られた。隣にいて何故、気付けなかったのだ。

「駄目なんだ。俺は、あの人の分までやらなければいけないんだ」
「誰の事?」

 松田は問い掛けたが、菊崎ははっとした。きっと、数日前の事件で黒薙が射殺した犯人の事だ。

「俺が殺した、俺が奪った。だから、俺は」
「もういいんだよ、灯!」

 誰もが驚き、呆然としていた。黒薙は未だに机に向かおうとしている。
 松田はその黒薙の胸倉を掴み、力一杯に頬を引っ叩いた。乾いた音が室内に反響し、黒薙の体はグラリと傾いた。
 ゆっくりと黒薙は倒れた。菊崎はすぐにその体を抱き上げ、余りの軽さに恐怖を覚えた。松田は息を弾ませ、意識を失った黒薙を睨み付けている。

「一体、何なのよ……! 高が犯罪者を一人殺しただけじゃない!」

 菊崎はしゃがみ込んだまま、松田を見上げた。

「灯にとっては、『高が犯罪者の一人』じゃないんですよ」

 辺りは静まり返っていた。菊崎の声が響く。

「まだ短い付き合いだけど、俺はこいつが冷たい人間だとは思えないんですよ。皆はこいつが血も涙も無いやつだって決め付けているけど……」

 浦和も騒ぎを聞き付けてやって来たが、誰一人気付かなかった。
 菊崎は、唇を噛み締めた。
 誰にも理解されないまま、周りの歪んだ評価のまま、たった一人で淡々と仕事をこなし続けた。まるで、一人償うみたいに。
 松田の言う通り、確かにこれは当たり前な仕事の一つなのかも知れない。でも、彼が奪わなければならなかったのは、たった一つの命だったのだ。例え命が代替されるものだとしても、誰かにとってはかけがえの無いたった一つだった筈だ。
 どうして、それが解らない。どうして、彼にそれが解らないと決め付けるのだ。

「皆、勝手過ぎると思います。こいつが現場に出て行く事に甘えて、苦しい仕事から逃げて来たじゃないですか。こいつがいなかったら他の誰かがやらなきゃならなかった筈なのに!」

 自分がその一人である事を承知の上で、菊崎は言った。
 そして、そのまま黙って黒薙を連れて部屋を出て行った。後には重苦しい沈黙が流れ、居た堪れなくなった松田は後を追うように部屋を出た。
 エレベータの前で二人に追い付いた。黒薙は相変わらず眠ったままだった。

「玲子先輩」

 菊崎は乾いた声で言った。

「ずっと思っていた事があります」
「……何?」

 丁度、エレベータが到着し、低い音を立てて扉がゆっくりと開いた。
 菊崎は先に乗り込み、松田が同じくしてから口を開く。

「こいつ、本当に表情が無いんじゃないですか?」
「――――えっ?」

 扉がゆっくりと閉じた。

「表情が無い……?」
「はい。短い付き合いだけど、俺はこいつが本当は感情豊かな人間だって知ってます。目を見て話せばすぐに解る。でも、誰もこいつの本質を見ようとはしなかった」

 松田は何も言わなかった。やがてエレベータは目当ての階に到着し、菊崎は松田をエレベータに取り残したまま黙って医務室へを向かった。

 そのまま黒薙は三日間眠り続けた。複数の点滴を受け、目を覚ました頃には顔色も大分落ち着いていた。
 傍にいたのは菊崎だった。黒薙は目を開け、その顔を見て大きく息を吐く。

「目を開けて、最初にお前の顔を見るとは思わなかったよ」
「文句あるのか?」
「……いや」

 黒薙は少し黙り、言った。

「昔の夢を見ていたよ。高校の頃の夢……」

 穏やかな昼下がり、屋上に寝そべっていると、授業を抜け出して来た白神が隣に寝転ぶ。そうしていると、何時の間にか逢がやって来て、三人で川の字を書いていた。
 あの当たり前だった日常はもう二度と帰って来ない。だって、逢はもうこの世にいないのだから。
 辛い、哀しくて苦しい。
 どう足掻いても現実は変わらない。変えられない。後悔ばかりが募っては胸を締め付ける。

「後悔しない為に選んだ未来なのに、過去が背中に圧し掛かる。結局、後悔の連続か……」

 菊崎は目を伏せた。

「何で警官になった?」
「解らねぇ」

 黒薙は言った。菊崎はふっと笑う。

「……俺は、五人兄弟の長男なんだ。高校の頃に親亡くしてから、どうやって家族を支えたらいいかって考えてた。そう都合の良い仕事なんて、ある筈無いよな。そうしたら、ここからの誘いがあった訳さ」

 菊崎は顔を上げた。

「命懸けの割には安月給かも知れないけど、家族は十分養える」
「その為の犠牲なのか? お前は」
「構わないんだよ、俺は。家族さえ守れるなら、他の事はどうだっていいんだ」

 真っ直ぐな信念だった。黒薙は目を伏せ、気付いた。

(俺も、守りたかったんだ)

 その為に此処に立っている筈だった。どうして、忘れてしまったんだろう。
 過去を変える事なんて出来ないのだから、二度と同じ過ちを繰り返してはならないのだ。そうして、選んだ未来がここだった筈だ。

「菊崎」
「何だ?」
「ありがとう」

 黒薙は深呼吸を二度繰り返し、そして、ゆっくりと立ち上がった。
 その時、菊崎の携帯電話が医務室に鳴り響いた。電話を取って受け答えをする菊崎を尻目に、黒薙は身支度を整える。通話を終えた菊崎は黒薙を見た。

「T地区の百貨店で、テロリストグループによる立て篭もり事件発生。人質多数。手の空いている者はすぐに出動するように」
「解った」

 ジャケットを羽織り、振り返った。

「行けるのか?」
「行く。……俺も、守りたいからな」

 その言葉に菊崎は少しだけ笑って、低く返事をした。

 黒薙がGLAY対策本部に就職して一年の月日が経とうとしている。外は徐々に寒くなり、季節は冬を迎えようとしていた。

2008.11.29