*蜃気楼 5

 冬の訪れと共に、大規模なテロが勃発した為、GLAY対策本部の忙しさは以前にも増していた。
 大量の書類と格闘しながら、黒薙は日々煙草の本数を増やしている。自宅に帰ったのは何日前だろう。今着ているシャツは一体何日連続だろうか。
 長く家を空けて平気でいられる程、黒薙は暢気ではない。この事件だらけの世の中だからこそ、同居人からの連絡が途切れた事は無い。現在、自宅に住んでいるのは自分を除いて二人。
 逢の妹である瑠璃。そして、ある事件で関わり、保護する事になった妹尾美月。
 美月を引き取る事を決めた時、猛反対したのは松田だった。こんな忙しい職場で、自分の事でさえ手に余るのに荷物等抱えている場合かと言われた。
 確かに尤もだが、それでも、その荷物が無ければ自分は立っていられないのだと思った。重荷だとは思っていないけれど、彼女達は責任という鎖となって自分をこの逃げ出したくなる冷たい現実に縛り付けてくれる。
 手元の発砲許可証に記入しながら、黒薙はそんな事を考えていた。
 先日のテロは酷い事件だった。テロリストは殲滅されたが、同様に、警察にも多くの被害が出た。同期の仲間も数人死んだ。黒薙は、恐らく最も多くのテロリストを射殺した。その功績は上司には大きく評価されたが、同期の仲間には白い目で見られた。菊崎だけは普段と変わらない態度で接してくれたけれど、それはまるで腫れ物を触るかのようだった。
 自分が殺人者である事を、黒薙は否定しない。テロリストを殺し、また、救えなかった人々も殺したと同じなのだろう。
 黒薙は目頭を押さえ、眼球の奥を突くような痛みを遣り過ごしている。目を酷使し過ぎたのだろう。ペンを握り続けた右手も痺れたように痛む。そろそろ休んだ方がいいのだろう。黒薙は切りの良い所でペンを置き、黙って身支度を整え始める。隣で菊崎が訊いた。

「帰るのか?」
「ああ。好い加減、風呂に入りてぇ」

 黒薙が帰宅する事を咎める者などいる筈も無い。菊崎は笑顔で見送り、松田は軽く手を上げた。擦れ違う職員は軽く会釈する。黒薙は、部屋を出た。
 外は身を刺すように寒かった。木枯らしは寂しげに吹き付け、まるで、この世の有様を嘆いているかのように思えた。
 世の中はもうクリスマスだった。色取り取りのイルミネーションに、鳴り響くクリスマスソング。賑わう人々の喧騒を避けるようにして裏道を辿り、自宅へ戻った。
 電車を乗り継いでマンションの下に到着すると、予想もしなかった姿を見る事となった。
 吐き気がする程に飾られた豪華な白いベンツ。悪趣味だと心の中で悪態吐いた。その車を通り過ぎようとした瞬間、クラクションが鳴った。

「灯」

 懐かしい声がした。目を向けると、スーツを着た白神がいた。

「龍……?」
「よう」

 白神は車を降りた。
 黒いスーツにワインカラーのカッターシャツ。何処のホストだと言ってやろうと思ったが、黒薙は何も言わなかった。

「久しぶり」

 何事も無かったかのように白神は笑う。数ヶ月前に見たあの薬漬けの白神がまるで嘘のようだった。

「何しに来た……」
「報告があってさ」

 白神は軽く笑って、懐から、雅やかな名刺入れを取り出して、名刺を手渡した。
 その内容を読み、黒薙は目を細めた。

「ホスト……?」
「ああ。その傍らで、探偵もやってる」
「胡散臭いな」
「本当ですよね」

 第三者の声がした。車の助手席から、永塚が降りて笑う。見覚えの無い顔に黒薙は白神に視線を送った。

「始めまして、永塚幸太郎と言います」
「永塚幸太郎……」

 何処かで聞いた事がある気がして少し考え込み、黒薙ははっとした。
 何時だったか、ヤクザの組同士の抗争があった。その時に殺された幹部の名前が確か永塚。そして、彼等に隠れるようにして永塚がスーツを着て歩いているのを見たような気がする。

「お前が生きている事が知れたら、また、抗争が起こるな」

 面倒臭そうに黒薙が吐き捨てると、永塚は目を丸くした。

「俺はGLAY対策本部の黒薙灯」
「……通りで」

 永塚は意味深に笑う。

「報告しますか?」
「いいや。俺には関係無い事だ」

 黒薙はさっさと背中を向けて歩き出す。白神はその背中を追った。

「瑠璃は元気か?」
「俺も顔を見るのは二週間ぶりだ」
「……仕事か?」
「ああ。後、面倒臭ェ同居人が一人増えたよ」
「まさか」

 白神が言葉を繋ぐよりも先に、黒薙の裏拳が走った。

「……ある事件の、被害者だ」

 それだけ言って、黒薙はエレベータに乗り込む。白神と永塚は慌てて後を追う。

「お前、余計なもの背負ってる余裕なんざねぇだろ」
「余計な世話だ。もう、目の前で何も出来ねぇのは嫌なんだよ」

 振り返った黒薙の顔は真剣だった。白神が何も言えないまま、三人は部屋の前に到着した。
 チャイムを鳴らすと、インターホンの向こうで久しぶりの声がした。

『灯……?』

 瑠璃は驚いたように声を発して、慌てて駆けて来る。玄関の扉がけたたましい音と共に開いた。

「灯!」

 開けた瞬間、瑠璃は黒薙に跳び付いた。

「お帰り!」
「ああ、只今」

 その様子を傍で、白神が白い目で見ている。

「随分、仲が良くなったみてぇだな」
「お前が心配するような事は何もねぇよ」

 そのまま部屋に入ると、美月が玄関をそっと覗いていた。瑠璃は白神に気付いて目を丸くする。

「龍!?」
「久しぶり」

 綺麗になったね、とか、有り触れた台詞を投げ捨てて、白神は笑う。
 部屋は既にクリスマスツリーが飾られ、夕食の美味しそうな匂いが漂っていた。
 その後は、少し早いクリスマス会が始まった。白神の持ち込んだシャンパンとケーキ。瑠璃と美月が作った夕食。穏やかな時間の中で、一時の休息。
 賑やかな仲間達を、黒薙は遠く眺めている。
 失ったものは二度と戻って来ない。それでも、目の前にあるのは幸せなのだと知っている。

(俺は、これを今まで、何に代えても守りたかった筈なんだ)

 だからこそ、これは二度と失いたくない。失ってはならない。守ろう。
 穏やかな時間の流れを肌に感じながら、黒薙は一人静かにシャンパンを口に運んだ。





 駅前某公立中学校にて、未成年者の銃乱射による無差別殺人事件が発生。
 束の間の休息の後、職場に戻った黒薙にはそれが告げられた。松田は何時ものように淡々と事件内容を説明し、すぐさま早足に部屋を出て行った。黒薙は慌てて後を追う。
 黙ってエレベータの前まで歩き、ボタンを押してから松田が小さく溜息を吐いた。

「今回は、あなたは撃たなくていいわ」
「……どうして?」
「未成年者の射殺は、世論が色々と煩いから」

 発砲の許可は既に下りていた。黒薙は、松田の言葉を聞いて納得しつつも、自分も銃を所持したままだった。

「玲子さん」

 黒薙は問い掛けた。

「人を殺す時、何を考えますか?」
「……特に何も。ただ、当たり前の作業を行うだけ」
「……俺も何も考えません。考えられないんです」

 自分の掌を眺め、黒薙は言う。

「引き金を引く事に対して、感情を交える事が出来ないんです。そうすると、俺はきっと何も出来なくなる」
「……十分よ。憎しみで人を殺すくらいなら、機械になった方がマシだと思う」

 松田は酷く穏やかに、そして、何処か歪んだ微笑を浮かべた。

「あたしの様になっては駄目よ」

 黒薙は顔を上げた。

「玲子さんは、憎しみで人を殺すんですか?」
「犯罪が憎いから」

 松田は言った。

「私の両親を殺したのはGLAY中毒者だった。だから、私はGLAYが憎い。私を殺人者にさせた犯罪者が憎い。こんな混沌とした世界を作り出した犯罪が許せない」

 ドロドロしたマグマのようだと、思った。黒薙は表面上は穏やかな松田の横顔を見て、酷く哀しくなった。
 この人はきっと、周りの人が思う程に強くはない。掌も小さくて、腕も細い一人の女性なのだ。

「あなたに、守りたいものは無いんですか?」

 黒薙の問いに、松田は少しだけ黙り、答えた。

「あるわ」

 松田は内ポケットの警察手帳の間から一枚の、古びた写真を取り出した。
 写っていたのは、幸せな家族の肖像だった。白衣を着た夫婦と、無邪気に笑う二人の姉妹。場所はGLAY研究施設の前だろうか。

「両親は死んだけど、妹が一人いるの。私は、他の何に変えてもあの子を守るわ」
「……なら」

 黒薙は言った。

「その為に、戦えばいいじゃないですか」

 松田は黙った。そして、今まで見た事が無いような優しい顔で微笑んだ。

「――その通りね」

 エレベータは丁度、到着した。
 外は雪が降っていた。道路には車輪をなぞる後が残っている。黒薙は松田の運転する車の助手席に乗り込み、事件の起こる駅前へと向かった。
 空は灰色に染まり、遠くの弾けるような銃声が、高く聳える高層ビルの壁に反響している。
 現場はまさに地獄絵図だった。校門周辺には機動隊が配置され、救急車のサイレンが絶えず鳴り響いている。白い雪は赤く染まり、悲鳴が轟いていた。

「酷い有様ね」

 松田は言った。
 現場の刑事から詳細を聞き、遠くに見える人影を見ようと目を凝らす。彼方此方には中学生や教員、警察関係者の死体が転がっていた。

「発砲許可は下りています。直ちに射殺します」

 そう言って松田は銃を取り出した。見慣れた黒い鉄の塊だった。
 松田は撃鉄を起こし、黒薙を見た。

「犯罪は憎いよ。だから、私はそれを終わらせる為に戦いたいの」

 犯罪に対する抑止力。黒薙は小さく笑った。
 その時だった。

 ――ターンッ――

 何が起こったのか、解らなかった。遠くで鳴り響いた銃声、ゆっくりと倒れ込んでくる松田の体、抱き止めた両手に加わる重さと、広がる温かな液体。
 周囲のざわめき、犯人らしき少年の狂気に染まった歪んだ笑い声、動かない松田の体。

「……え……?」

 動かない体、視界が真っ赤に染まる。苦しくて何度も呼吸を繰り返すけれど、一向に酸素は肺を満たしてくれない。駆け付ける警察官と救急隊員。松田の動かなくなった体を運んで行く。
 目の前に残った紅い痕跡。蘇って来る記憶。逢が、落ちたあの瞬間。

――俺はまた、守れなかったのか?

「……ぁ……」

 肩を大きく動かして何度も息をするけれど、視界は歪む一方で何が何だか分からない。
 そんな馬鹿な。嘘だ。嘘だ。
 嫌だ、嫌だこんなのは。誰か、嘘だと言ってくれ。頼むよ、連れて行くなら、俺にしてくれ。こんな、こんな。
 掌に透明な液体が落ちた。何かと思えば汗だった。何かした訳でもないのに、夥しい量の汗が頬を伝って涙のように零れて行く。左胸が疼くように痛み、そっと手を伸ばすと何か硬い物に触れた。取り出してみれば、それは当たり前のように支給された拳銃だった。
 頭の中で何度も、松田の声が、微笑が甦った。
 周りでざわめく警官と野次馬の声も遠く、ゆっくりと立ち上がって歩き出す。正面を睨み付けたまま無言で進むと目の前には自然と無人の帯が出来上がった。
 右手には拳銃。犯人からもっとも近い位置にあるパトカーの影に隠れる警官達がふっと振り返る。

「退け」

 警官達は、波が引くように離れて行く。周囲には何も無くなり、そっと右手を持ち上げた。目を向けた先には、何が楽しいのか狂喜する中学生。足元には物言わぬ死体と成り果てた教師や生徒が血塗れのまま倒れている。

 玲子さん。
 あんたは、俺達が犯罪者を殺すのは犯罪に対する抑止力って言ったよな。でもさ、幾ら殺したって犯罪は無くならないじゃん。俺達が胸痛めて最低な殺人鬼を殺したって、幾らでも次は生まれて来るんだぜ。俺達が血も涙も無い人だと罵られている間も、人は死ぬじゃんか。

 分かったよ、玲子さん。
 俺は、全部殺すよ。本当に大切なものを守る為に、奪わせない為に全部殺してやる。幾ら罵られたって構わない。

 犯人の目がゆっくりと此方を向く。歪んだ笑顔、黒い双眸に銃を構える自分の姿が映った。中学生は肩にぶら下げているサブマシンガンの引き金に手を掛け、そして――、俺は引金を引いた。
 ターン――……。
 短い筈の銃声が尾を引いて響いた。銃弾は少年の眉間を貫き、紅い血液を噴出しながらゆっくりとスローモーションのように倒れて行く。一瞬遅れた悲鳴。俺は無言で背中を向け、銃を仕舞って歩き出した。
 目の前に出来る道を歩き、乗って来た車の前に行くと中年男性が此方を呪い殺すような目で睨んでいた。

「この、人でなし!」

 男は叫んだ。

「息子はまだ、中学生なのに……!」

 その男性が犯人の父親なのだと気付いた。だが、一瞥投げただけで扉に手を掛ける。その後も続く罵声、男性を宥める警官、母親らしき女性が泣いていた。

 何を言っているのか、分からない。あの馬鹿息子を育てた親なんて殺してもいい。だけど、それはきっと許してくれないだろうから、始末書を書かされてしまうから止めておく。車に乗り込んでも尚、罵声は続いた。
 うっとおしい。せっかくだから、窓を開けて答えてやる。

「犯罪者に人権があると思うな」

 皆が、息を呑んだ。空気が凍り付いた。
 俺はそのまま車を走らせた。今も夥しい量の汗が頬を伝っては流れ落ちて行く。脱水症状を起こすんじゃないだろうか。初夏の太陽を感じつつ、酷い眩暈を覚える。
 このままじゃ事故を起こしそうだったので路地裏に一度車を止めた。人気が無い事を確認し、ハンドルに顔を伏せる。
 涙なんて出ないし、哀しいとか悔しいとか思っても、心の何処かは何時だって冷め切っていて、自分を冷静に分析していやがるけど。

「……チックショ……」

 俺はまた、守れなかった。目の前にある大切なもの一つ、守れなかったのだ。


2008.11.30