*蜃気楼 6

 本部に、松田殉職の知らせが届いたのはそれから一時間後の事だった。一本の電話が本部長の浦和の下に行きそれが職員に伝わった時、戦慄が走った。誰一人言葉を発する事も出来なかった。
 誰も泣かなかった。誰も怒らなかった。誰も、何も出来なかった。彼女が死ぬ筈無いと、誰もが信じていたからだ。同時に届いた、黒薙が犯人である未成年者を射殺した事も、誰もが身動き一つせずに聞いていた。
 菊崎は自分のデスクに着いたまま、つい先程現場へ出向いた二人の背中を思い出す。いつものように、出発した。いつものように、帰って来る筈だったのだ。いつものように。
 激しくなる動悸を聞きながら、荒くなる息を整えながら、菊崎は一言言った。

「嘘、でしょう」

 それが冗談ではない事くらい、菊崎だって既に理解している。脳は殉職した彼女が向かう筈だった現場は誰か向かうのかまで考え出している。それなのに、僅かな希望と言う愚かしい考えが余計な言葉を発させた。時間の無駄だと、今までの仕事で培って来た冷静な脳が判断する。
 それでも。

「嘘だ!」

 松田が死ぬ筈無い。死ぬものか。
 今に笑いながら、煙草を咥えて帰って来るのだ。隣には仏頂面の黒薙がそっぽを向いて歩いている。次の仕事を確認し、また、早足で出て行く。
 今までの日常。繰り返される毎日。もう、帰っては来ない。
 理解していた筈だった。殉職者は何人も見て、その度に記録して来た。それなのに、どうして受け止められない。いつものように、殉職した彼女の二階級特進手続きを行えばいいのだ。そう、いつものように。

「嘘だ、嘘だ、嘘だ!!」

 全部理解している筈なのに、心が拒否する。受け止められない。視界が色を失って行く。

「菊崎!」
「落ち着け!」

 過呼吸を起こし始めた菊崎を、他の職員が冷静に対処する。いつもは自分のやって来た役目の筈が、今は、仲間が皆ロボットに思えた。どうして、そんなに冷静でいられるのだろう。
 仲間が一人死んだのに、どうしてそんなに冷静なのだ。
 理解出来ない菊崎は、現実を拒否するように叫び、暴れた。周りの職員は極めて冷静に彼を押さえ付けると、素早く精神安定剤いを投与した。菊崎はそのまま意識を喪失し、項垂れ、仲間は彼を医務室へと運んで行った。
 浦和は模範的な本部長として、松田の殉職に対して冷静に対処すると、素早く本部長室へ帰って行った。薄い一枚の扉の向こうから、微かな嗚咽が聞えていた事は、誰もが気付かない振りをした。
 そして、菊崎は目を覚ました。既に心は凍結し、松田の死を受け止めていた。黒い相貌から光は消え失せ、ただ静かに、胸ポケットの携帯電話から黒薙に電話を掛けた。しかし、電話は繋がらなかった。
 松田の死から、既に丸一日が過ぎようとしていた。



 黒薙は自分が無免許である事も忘れて、車を全く知らない町の路地裏に止めると、エンジンを切った。外は白い雪が降り積もり、気温は零度を切る極寒の世界となっていた。
 車の中は密室とは言え、外の冷気に冷やされ、少しずつ温度を下げて行く。黒薙はハンドルに突っ伏していた。
 外からの音は何も無い。車内は痛い程の静寂が支配し、だんだん吐息が色付いて行く。しかし、黒薙は身動き一つしない。頭の中には松田が死んだ、あの瞬間が何度と無く繰り返されていた。

――犯罪は憎いよ。だから、私はそれを終わらせる為に戦いたいの

 松田の声がした。そして、追うように銃声が響いた。
 一秒にも満たない死の瞬間。彼女の何処に非があったと言うのだ。どうして彼女が死ななければならなかったのだ。
 黒薙の頭の中には、逢が死んだあの日が思い出された。
 どうして、目の前にいるのに救えないのだ。手を伸ばせば届いたのに。
 悔しい、悔しい、悔しい、悔しい。
 結局、何も変わっていない。守る為に警察になって、その為に人を殺し続けたのに、目の前にいる女性一人救えないままじゃないか。あの夏の日から何も変わっていない。ただ、掌が汚れただけじゃないか。
 指先の感覚は既に無くなっていた。血管の収縮から、凍傷を起こし掛けている。しかし、思考の渦に取り込まれている黒薙は何も気付かない。携帯電話が何度も鳴っているというのに、何も気付かないままだった。
 やがて夜が来た。車内は闇に包まれた。温度は急激に下がり、フロントガラスには雪が積もり、車内と車外を完全に遮断した。携帯は終に充電切れになり、鳴らなくなった。
 暗所恐怖症だった逢とは違って、黒薙は闇に怯えた事など無かった。闇は幼い頃から、最も親しい隣人だった。それよりも、絶望と言われて思い付くのは何時だって白だったように思う。
 呼吸数が減り始めた。死の足音が聞えた。意識は朦朧とし、車は完全に雪に覆われている。
 死ぬと思った。それも良かった。あの世で彼女達に一目会えるのなら、その後地獄で今まで奪って来た命に責められ続けたって構わなかった。そして、黒薙は終に意識を失おうとした。その瞬間に、声が聞えた、気がした。

――約束だよ。必ず、この先も三人でいようね

 約束、結局守れなかったな。三人でいられたら、俺達、幸せだったかな。
 もう、届かない。この手は何も守れない。こんな冷たい世界で、こんな酷い世の中で、大切なものは常に奪われて。何でいつもこんな目に遭わなければならないのだろう。俺達が一体何をしたと言うんだ。大きなものを望んだ訳じゃない、小さな平穏を、守りたかっただけなのに。
 守りたかったのだ。この手で、大切なものを守りたかったのだ。
 その時だった。
 ガツン、と鈍い音がした。氷のように固まったフロントガラスの雪がざっくりと割れて、その向こうから眩し過ぎる光が差し込んだ。視界は真っ白に染まった。絶望の色だと思った。だが。
 朝日の差し込む硝子の向こうに、見覚えのある男がシャベルを片手に、無表情のまま乱雑に雪を落としている。白神だった。隣には永塚が、完全防備で雪掻きをしている。
 白神は粗方雪を下ろし終えると、助手席の硝子を割った。そのまま手を突っ込んでロックを解除し、扉を開く。終始、言葉を発する事は無かった。黒薙は何も反応を示さない。どちらかと言えば、示せないと言う方が近いが、些細な違いでしかない。

「生きてるか?」

 白い息を吐きながら、白神は言った。黒薙は身動きせず、視線を送っただけだった。永塚は自分の携帯電話で黒薙の職場へ連絡をしていた。

「死ぬのか?」
「それも、良かった」

 掠れた声で、黒薙は言った。動かそうとした腕は、まるで他人のものであるようにピクリとも動かなかった。
 白神はそれを悟って、反対側のドアをこじ開け、黒薙を引っ張り出した。

「まだ死なせねぇよ」
「どうして」
「どうして? てめぇが言ったんじゃねぇか」

 酷く苛立った口調だった。

「独りじゃないと、てめぇが言ったんだろうが」

 俺を独りにする気かよ、と白神は言った。
 黒薙は体が凍り付いたように動かせず、引き摺られるように運ばれて行くのを黙って見ている。外は既に朝を迎え、雪は止んで、白銀が朝日を反射していた。

「もう、疲れちまったんだよ……」

 白神の歩調が俄かに鈍った。黒薙の弱音を、初めて聞いたと思った。
 黒薙はそれ以上何も言わなかった。勿論、泣く事もしない。白神は既に菊崎から全ての詳細を聞いていた。今まで黒薙が人を殺し続けた事も、それが理由で精神に異常を来たした事も、そして、松田が死んだ事も。

「なら、もう諦めんのかよ」

 ここまで乗り付けた車まで黒薙を運び、白神は言った。

「てめぇが幾ら犯罪者を殺し続けたって、人は死ぬし犯罪は無くならねぇよ。だがな、てめぇが手を汚した事で助かった命がある事は確かだ」
「……でも、俺は救えなかった。目の前にある本当に大切なもの一つ守れなかったんだ。届かなかったんだ」

 白神は鼻を鳴らした。

「まだ、大切なもんがあるだろ。その為に、まだ生きろよ」
「……もう、嫌なんだよ……!」
「届かないからって諦めたら、もう目にも映らなくなるぜ? お前の目にはもう何にも見えちゃいねぇのか?」

 白神は運転席に乗り込み、永塚はその助手席に乗った。エンジンが掛かる。

「全て失うまでは、生き続けろ。……てめぇはそれを覚悟して、警察になったんだろ」

 自分自身、重い言葉だと思った。だが、黒薙ならそれを背負って歩き続けられるとも思っていた。
 黒薙は何も言わなかった。終に意識を失ってしまっていたのだが、白神もまた、何も言わずに車を走らせ続けた。



 黒薙は軽度の凍傷と、極度の疲労及び栄養失調で入院を余儀なくされた。連絡はすぐに本部にも届いたが、数日間は誰一人見舞いに訪れなかった。
 やがて三日が過ぎたある日、漸く一人目の見舞い客が現れた。
 菊崎だった。無表情の仮面を貼り付けた、いかにも仕事命という冷静な顔でフルーツバスケットを持って訪れた。黒薙は何も言わなかった。菊崎は黙ってサイドテーブルにバスケットを置き、そのまま病室を出て行こうとした。その背中に一言、黒薙が言った。

「……ありがとよ」

 菊崎の足が止まった。目から、大粒の涙が零れ落ちた。
 振り返った菊崎の顔は酷いものだったが、黒薙は当然のように無表情だった。

「灯ぃ……!」

 ゆっくりとベッドの傍まで歩み寄り、崩れるように地べたに座り込んだ。白いシーツに顔を突っ伏して、菊崎は子供のように泣き出した。

「泣いても、いいんだよな? 許されるよな……?」

 松田の死に対して、誰も涙を流さなかった。確かに菊崎もそれまではそうだった。それは間違った事だと思っていたし、殉職者に対する冒涜だとさえ思った。頭では理解出来たけれど、心には刻み付けたけれど、感情は処理出来なかった。

「泣きたきゃ泣けよ。誰かに強制されなきゃならねぇもんじゃ、ねぇだろう」

 菊崎は器用なのだとばかり思っていたが、どうやら、間違っていたらしい。彼はこんなにも不器用で、こんなにも脆い人間なのだ。いつでも支えてくれる存在なのだと思っていたが、本当は、そうした反面で彼は自分自身を保っていたのだろう。
 もっと早く、気付けた筈だったのに。

「強くなろう。……大切なものを、守る為にさ」

 過去の過ちは正せなくても、目の前に広がる未来を見詰めて歩き出す事は出来る。
 大切なものはまだ、あるのだから。

 その様子を、白神は病室の外で伺っていた。傍には永塚が、見舞いの品である花を持ってしゃがみ込んでいる。
 永塚は顔を上げ、言った。

「望んだ通りの未来になりましたか?」

 白神は答えず、黙って歩き出した。永塚は苦笑し、花を扉に立て掛けて後を追った。






 二年の月日が流れた。相変わらずGLAY対策本部では殉職者は続くし、世の中犯罪は無くならず、平和なんて想像も出来ない、黒薙は今日も銃を携帯し続けているし、掌は血塗れのまま変わらず、目の下の隈は消えない。
 そんなGLAY対策本部にも春が来た。新入職員が卒配される時期が訪れたのだった。
 その春、黒薙は初めて担当として指導する後輩職員を持った。いかにも人の良さそうな好青年だった。名前は。

「佐倉青です! 黒薙先輩、ご指導ご鞭撻の程、宜しくお願いします!」

 たどたどしい敬語で、佐倉はそう言った。黒薙は耳元で言われたので喧しそうに耳を塞ぐ。
 黒薙はちらりと佐倉に目を向け、そのまま興味無さそうに手元に目を戻す。余りに反応が薄いので、聞えなかったのかと佐倉は再び頭を下げようと息を吸い込んだ、そこで、菊崎に止められた。

「聞えてるから大丈夫だよ。灯はこういう人間なんだ」
「はぁ……」

 浦和から黒薙は本部一番のエリートだと言われていた為、色々と想像していた佐倉は拍子抜けして肩を落とした。黒薙は黙って席を立ち、真っ直ぐ本部長室へ入って行く。扉の閉まる音がやけに響いた。
 本部長室に入った黒薙は浦和の座る机の前まで歩み寄り、酷い目で睨み付けた。

「どういう事ですか?」
「何が?」
「あのガキの事だ!」

 黒薙は怒鳴った。

「俺に部下を付けるなんて、頭可笑しいんじゃねぇか!?」
「残念だけど、至って正常よ。佐倉君は所謂体力馬鹿だから、現場に出る方が向いてると思って」
「ふざけんな!」

 その声は本部長室の外にも響いている。新職員ばかりが肩を跳ねさせ、佐倉は困ったように眉尻を下げていた。

「俺……、何かしちまいましたか?」
「いいや。気にしなくていいよ」

 菊崎はそう言ったが、気しないでいられる訳も無かった。黒薙は周囲に怒気を振り撒きながら本部長室から出て来た。そのまま机には寄らずに部屋を出て行こうとしたので、佐倉は慌てて後を追おうとしたが、黒薙は睨み付け、机の上に置かれた書類の塔を指差した。

「夕方までに片付けておけ」

 そう言って、黒薙は出て行った。
 佐倉が就職してから一ヶ月が経った初夏のある日、黒薙は相変わらずデスクワークを押し付けて一人で現場へ出て行こうとした。佐倉はその背中に向かって叫んだ。

「どうして俺も現場に連れて行ってくれないんですか!」

 黒薙は足を止めた。佐倉は尚も叫び続ける。

「何時までも連れて行ってくれないから、俺は何時まで経っても何も出来ないままじゃないですか!」

 一ヶ月溜め込んだ不満の割りに、怒りはまだ穏やかな方だったが、振り向いた黒薙の鋭い目に佐倉は言った事を後悔した。頭の中には、今月黒薙が射殺した犯罪者の数が過ぎった。
 黒薙は中指を立てて言った。

「ガキの癖に、口だけは立派だな」

 それだけ言って、黒薙はいつもと変わらず部屋を出て行った。
 部屋には一瞬の静寂が訪れ、次の瞬間、佐倉は叫んだ。

「あの野郎!!」

 傍にあったゴミ箱を怒りの捌け口に蹴飛ばした。酷い音が部屋中に響いた。

「何なんだよ! ガキって、俺と大して変わらない癖に!」

 怒りの収まらない佐倉が感情のままに叫んでいる横で、同じく春就職したばかりの美月が苦笑しつつ散らかったゴミを片付けている。二年以上働いている職員ばかりが苦笑いを浮かべていた。
 佐倉は訴えた、

「菊崎さん! 俺、あの人に付いて行くの、もう無理です! あいつ、俺の事が気に入らないんですよ!」

 菊崎は苦笑し、独り言のように言った。

「……昔の傷が癒えないんだろうな」

 当然、佐倉には何の事か解らない。菊崎は言った。

「お前の事が嫌いな訳じゃないよ。きっと、嬉しいとか照れ臭い反面で恐いんだ」

 菊崎は、佐倉を置いて出て行った黒薙の背中を思い浮かべた。後輩が出来て嬉しくない筈が無い。だが、失う事が何よりも恐ろしいのだろう。彼の気持ちが解るから、菊崎も、周りの職員も何も言わなかった。けれど、菊崎は思うのだ。黒薙には、傍に守るべきものがあるべきだと。
 その夜、無事仕事を終えた黒薙が戻ってから、菊崎は話をした。

「そろそろ、佐倉を認めてやれよ。あいつは簡単に死ぬようなやつじゃないさ」

 黒薙は缶コーヒーを片手に鼻を鳴らした。松田の好きだったコーヒーだった。

「これまでずっと一人でやって来たんだ。今更、あんなお荷物連れて仕事出来るかよ」
「お前にはお荷物があった方がいいと、俺は思うけどな」

 菊崎は缶の緑茶を喉の奥に流し込み、言う。

「危険から遠ざける事と、守る事は違う事だぜ? 本当に佐倉の為を思うなら、生き残る術を叩き込んでやれよ」

 黒薙は何も言わず、また、コーヒーを口に運んだ。
 翌日、黒薙は初めて佐倉を連れて現場へ出た。すっかり黒薙を警戒するようになった佐倉は常に探るような目を向けていたが、全て無視していた。
 有り触れた、GLAY中毒者の立て篭もり事件だった。流石に緊張を隠せない佐倉を連れ、黒薙は警察の群れを横切って現場である団地の部屋の前まで向かった。
 犯人はその家の長男、人質は母と妹の二人。長男はどうやら既に正気ではないらしい。黒薙は銃弾を装填し、扉に耳を当てて中の様子を探った。

「射殺するんですか……?」

 黒薙は黙って自分の銃を見詰め、首を振った。

「いや。誰も殺さずに済むなら、殺さない」

 銃弾が勿体無いし。
 そう付け加えて黒薙は言った。
 次の瞬間、何の躊躇も無く扉を蹴破って、黒薙は部屋に押し入った。犯人を驚き、持っていた出刃包丁を震えさせた。黒薙は疾風の如くその手を蹴り上げ、包丁を弾き飛ばすと一瞬の内に押さえ付け、あっという間に制圧を完了させた。

「終わりだ」

 佐倉は金魚のように口をパクパクさせるばかりだった。警察学校で習ったものとは全く違う恐らくは我流であろうその機敏な動き。的確さ。判断力。黒薙は言う。

「強くなれ。……大切なものを守りたいなら」

 さっさと背中を向けた黒薙の後を、佐倉は無意識に追った。それまでは敵と認識し、睨み付けてばかりだった背中を初めて尊敬の眼差しで見詰めた。
 そして、帰り道、佐倉は問うた。

「どうして、そんなに強いんですか」

 電車の中だった。黒薙は軽く酔いつつ、答えた。

「そうじゃなきゃ、守れないからだ」

 この些細な事件を切欠に、佐倉は黒薙を慕うようになった。勿論、佐倉は黒薙がどんな気持ちでその言葉を言ったのかなんて知らない。知る由も無い。
 けれど、黒薙の中には今も戒めのように過ぎる無数の言葉がある。
 大切なものを一体幾つ取り零して来たのかなんて解らない。この世界は相変わらず冷たくて憎いけれど、守りたいものがある世界なのだ。
 本部に戻った黒薙は、小さく咳き込み、ポケットから煙草を取り出し、火を着けた。

――犯罪は憎いよ。だから、私はそれを終わらせる為に戦いたいの 

 松田の声が聞えた気がしたが、黒薙は振り返らなかった。

2008.12.23