*モノクローム 1


 今まで幾つもの命を奪って、傷付け、傷付けられて、大切なものはいつも理不尽に奪われて来た。
 この世界は残酷で、生きて行く事が恐ろしくて逃げ出したい衝動にも駆られる事が度々あった。――いや、俺はいつも、逃げたいと思っていた筈なんだ。この冷たい世界から、この不条理な世の中から、いつだって逃げたいと思っていた。
 なのに、どうして俺は今もここで踏み止まっているんだったっけ?
 どうして、こんなに辛くて苦しいのに、今も歯を食い縛って生きているんだろう。どうして、今もこんなに傷付きながら走り回っているんだろう。これだけ大切なものを失って、嫌な事ばかりなのに、どうしてだろう。




 
黒薙は目を覚ました。過去に回帰していた意識は既に現実に戻り、最後の記憶を朧げながら思い出させようとする。だが、黒薙は自分の周囲を見回して目を疑った。
 遠くから地を揺するような轟音が響いていた。彼方此方から黄土色の煙が立ち上り、血液中に含まれている鉄分の臭いがそこ等中に漂っている。
 血を流しすぎたらしく、頭がはっきりとしない。何が起こっているのか、ここは何処なのか、そして、佐倉は、菊崎は。
 倒壊したビルの瓦礫が頭上から降って来て、避け切れなかったのだ。大きな影が落ちて、最後に佐倉の声が聞えた気がした。しかし、その佐倉の姿は何処にも無い。一体、どうなっているのだ。
 状況を理解出来ないまま、一つ溜息を零した。その時、下半身に痺れるような痛みが走った。そこで漸く、黒薙は自分の体が半分瓦礫に埋まっている事に気付いた。そのビルの瓦礫から必死に脱出を試みるが、左腕は動かず、状況は変わらない。痛いだとか、苦しいだとか、そんな感情は頭から切り離されている。ただ、只管に見失った仲間の安否だけが気がかりだった。

「青ッ! 菊崎! 何処にいる!」

 廃ビルとはいえ、この地区で一番大きなこのビルを倒壊させる為には、一体どのくらいの爆薬を仕掛けたのだろう。誰が、そして、その目的は一体何なのだ。

「返事しろ!」

 町中から、小さな子供の泣き声や、誰かの呻き声、親しい人を呼ぶ叫び声。大災害の後のような有様だ。今も何処かで二次災害は起こり続けているだろう。これだけのものを奪って、一体何が得られると言うのだろうか。苛立ちは、それを止められなかった自分にも向けられた。こんなところで這い蹲っている暇は一秒だってありはしないのに、埋もれた下半身は今も楔のように体を地面に縫い付けている。

(クソッ!)

 心の中で悪態吐き、右拳でアスファルトを殴り付けた。その時、正面から影が落ちた。
 始めは仲間か、そうでなくとも助けだと期待したが、顔を上げて心臓が凍り付いた。

「お前は……」

 見覚えがあると、思った。
 腰に一振りの刀を差して立っている、線の細い美青年。何時何処で見たのか、思い出すのに時間が掛かった。

「和泉……?」

 漂う空気は冷たく、肌を刺すかのようだった。目に力は無く、まるで死人のようだ。
 国家破壊工作等、革命を掲げて過激なテロを繰り返す指名手配犯、和泉嵐。見覚えがある筈だ。このGLAY対策本部に配属されて、空蝉と同様に紹介された重要参考人の顔を忘れる訳が無い。
 銃は取り出せない。黒薙は瓦礫の下から脱出出来ないまま、僅かな抵抗で和泉を睨み付けた。
 身長は高くない。身体は細く、顔は中性的で、何か違和感を感じさせる。
 目の前に散らばったコンクリートの破片を踏み潰す音が傍で聞えた。和泉はもったいぶるようにゆっくりと、一歩一歩近付いて来る。居合いの達人だと聞いているが、その手には黒光りする銃が力無くぶら下げられていた。
 殺されると思った。必死に、力の限り右手に力を込めて踏ん張ってみるが、相変わらず効果は無い。寧ろ、上に重なった瓦礫は少しずつ崩れ出し、今にも降り注ぎそうだった。
 和泉は目の前に立ち、黒薙は精一杯睨み付けた。多くの犯罪者を怯えさせてきたその眼光も、今はただの強がりでしかない。
 沈黙が流れた。黒薙は高まった緊張感の中、和泉の顔を、いつか遠い昔、見た事があるような気がした。
 和泉は言った。

「何故、守ろうとするんだ」
「――何?」

 黒薙は眉を寄せ、怪訝そうな目を向ける。だが、和泉は背筋が凍り付くような虚ろな死んだ目で見下ろす。
 その時、頭上から瓦礫の欠片が埃のように降り注ぎ始めた。崩壊のカウントダウンだ。だが、それでも和泉は動かずに問い続ける。

「こんな世界、守ってどうする。政治家は肥え太り、犯罪は日々増加、凶悪化し、貧富の格差は拡大している。こんな国を、こんな汚れた国を、こんな不条理な国を、どうしてそんな姿になってまで守ろうとするんだ」

 その言葉を聞いて、黒薙は目の前の男を呆然と見詰めた。和泉の目は死んでいるのではなく、凍り付いているのだ。それこそ、嘗ての白神のように。全てを悲観して、諦めて、絶望している。
 彼に伝えなければならない事がある。言葉を探せども、心の中にフィルターが掛かっているようで形にする事が出来ない。何も答えられずに沈黙を通せば、和泉が声を張り上げる。

「答えろ!」

 悲鳴のようだと思った、その時だった。遠い昔に失った、あの笑顔がふっと脳裏に蘇った。
 銀色の髪に、青い瞳。儚くも美しいあの微笑を思い出した時、心の中に掛かっていた靄は一陣の風によって吹き飛ばされて行った。
 黒薙は目を伏せ、和泉のスニーカーの爪先を見詰めている。

「政治家? 国? 笑わすんじゃねぇ、俺が守りたいのは、そんなもんじゃねぇよ」

 タイムリミットは、下半身を埋める瓦礫のお陰で十二分に解っている。もう、余り時間が無い。それでも、黒薙は酷く冷静だった。

「こんな世界でも、必死に生きてる奴等はいるんだよ」

 助けを求める声が届いている。呪いを呟く声が聞えている。こんなに近くにいるのに、彼等に手を差し伸べてやる事も出来ない。
 黒薙は奥歯を噛み締めた。不条理に傷付く人々を助けたくて、ここにいる筈なのに。

「全てを守れるなんて思っちゃいねぇ。だけど、目の前の奴まで、どうして見捨てられると言うんだ」

 国を守るだとか、浄化するだとか、そんな高尚な事が言える程に甲斐性がある訳じゃない。でも、手が届くのなら守りたいのだ。逢を失ったあの夜のように、松田を亡くしたあの日のように、目の前で失うなんてもう嫌だ。あの時だって、手を伸ばせば届いた、助けられた筈だったのに。――それでも、救えなかった。
 あの無力さを、あの絶望感を、永遠に忘れない。あの微笑を失った事実は永遠に忘れてはいけない。

「手が届くのなら、俺は全部救ってやりたいんだ。当たり前だろう」

 黒薙は顔を上げた。視界にはもう、和泉等映ってはいない。遥か遠くの、もう届かない記憶だけの、逢の笑顔だけが浮かんでいる。

「ここはあいつが愛した世界だ! 絶対に、壊させやしねぇ!!」

 その時。上空から亀裂の入る音が聞えたような気がした。瓦礫から伝わる唸るような音、顔を上げれば上空にはあの時のように、大き過ぎるビルの破片が淀んだ空を遮っていた。
 黒薙は反射的に目を閉じ、地響きに全てが終わったと思った。
 ――だが。
 何時まで経っても痛みも衝撃も訪れない。或いは、もう死んだのかとも思った。
 恐る恐る目を開くと、視界に和泉が腰に差していた筈の銀色の刀が映った。ふと横に目を遣れば、異様な程真っ直ぐな切れ口を見せて、瓦礫は黒薙を避けるように左右に割られている。いや、恐らくは斬られたのだ。この目で見るまでは、信じられなかっただろう。
 だが、和泉は軽々とその常識を超えて言った。

「俺はいつも、自分に問う。正義とは何か」
「……そんなもん、百年考えたって解りゃしねぇよ」

 和泉はふっと笑い、

「違いねぇ」

 と言って、今度は黒薙の上に居座っていた瓦礫をいとも簡単に一刀両断した。
 和泉は黙って手を差し伸べる。黒薙はその細過ぎる手に触れ、違和感の正体に気付いた。
 肩を借りて立ち上がり、黒薙は息を零した。数奇な運命だな、と。

「お前の本当の名前を、知ってるかも知れない」

 和泉の表情が俄かに動いたが、黒薙は続けた。

「松田嵐。松田玲子の、妹だろう?」

 松田があの日見せてくれた、一枚の写真を思い出した。色褪せた家族の肖像だった。研究員だった両親と、幼い二人の姉妹。松田はあの時、初めて見せた優しい顔で守りたいものだと言った。

「松田玲子を知っているのか?」
「ああ、俺の先輩だ」
「――先輩、か」

 和泉は突然、黒薙を投げ捨てるようにして肩を振り払った。一人で立ち上がる事も出来ない黒薙はそのまま倒れ込む。黒薙は和泉を見た。凍り付くような眼光で、黙って銃を向けている。

「どうして、姉を見殺しにした!!」

 扱いなれているだろう銃口が震えていた。凍り付いている眼光の奥で、泣き声が聞えて来るような気がした。黒薙はその様を見て、滑稽だと思った。これがあの、過激派テロリストとして有名な和泉嵐なのだろうか。
 恐くて恐くて、哀しくて、一人が嫌だと叫ぶ声が、聞える気がした。
 独りにしないで、と。

「言い訳はしねぇよ」

 見殺しにした訳じゃないとか、俺だって本当は助けたかったとか、そんな事はきっとどうでもいい事なんだろう。松田は死に、妹は一人残された。残された彼女が何を思ったかなんて想像に難くない。その苦しみは先輩を目の前で失ったとはいえ、黒薙とは比べものにならないだろう。

「だからって、姉を殺されたからって、お前も殺すのか?」

 その目は泣き腫らしただろうし、喉は潰れる程叫んだだろう。世界を恨んだし、憎んだだろう。失うものは何も無いと、その手を血に染めたのだろうか。

「玲子さんは犯罪を憎んでた。だが、あの人は復讐の為に銃を握ったんじゃない。犯罪を終わらせる為に、その為に戦おうとしたんだ」

 妹の生きる世界が優しい世界であるようにと、その手を血に染め、心を鬼にした筈だ。自分のようになっては駄目だと言って、彼女は結局、自分以外の全てを守ろうとして来たんだろう。

「あの人が望んだのは、革命なんかじゃない! 犠牲の上で成り立つものなんざ、平和だろうが平等だろうが、俺はいらねぇ!」

 その瞬間、和泉の背後に影が映った。完全に気配を殺し切った玄人の鋭い一撃が、辛うじて目に見えた。和泉は腰の刀に手を伸ばして振り返った。黒薙の脳裏に、先程の見事な居合い切りが蘇る。
 右手は銃を掴んでいた。和泉の頭に狙いを定め、指先は引き金を引いていた。
 銃声が響いた。全ての罪を背負うつもりで発砲した、筈だった。
 佐倉の蹴りは、紙一重でかわされた。和泉の斬撃は佐倉の首を捉えていた筈だったが、黒薙の放った銃弾は、鞘から引き抜かれた刀を弾き飛ばしていいた。
 勢い余って佐倉は地面に転げたが、素早く立ち上がって黒薙の前に立った。

「お前、」
「灯さん」

 黒薙が先を言うよりも早く、佐倉は言った。

「犠牲の上でなければ成り立たないものもあると思います。犠牲が必要である事を、俺は否定出来ません」

 理想主義の彼らしくないと思った。

「でも、あんたがその犠牲になるのなら、俺は断固として反対します。その為なら、相手が何であろうと戦える」
「何故だ」
「当たり前でしょう。あんたは俺の世界の一部なんだ」

 佐倉は笑った。

「お袋が死んでから天涯孤独の身だった俺に居場所をくれたのはあんただった。冷たく無愛想に接しながら、俺みたいな居ても居なくても変わらない、薄っぺらな存在に意味をくれたのはあんただった」

 佐倉は横顔を向けたまま、和泉を見ている。

「大勢の中の一人じゃなくて、佐倉青という一人の後輩として見てくれたのはあんただけだった。確かに優しくはなかったけど、あんたがいなかったら俺はきっと」

 佐倉は和泉を見て、口を結んだ。
 きっと、和泉のようになったのだろう。佐倉はその言葉を呑み込んで、真っ直ぐ、自分の相似形を見詰めていた。

「だからね、俺は感謝してるんです」

 和泉もまた、佐倉を見詰めている。自分が或いは歩む筈だった道を真っ直ぐに。

「灯さん、お願いだから、死なないで下さい」

 黒薙は息を呑んだ。
 白神も、佐倉も、どうして死ぬなと言うんだろう。そんなに価値がある訳でもないのに、どうして。
 和泉は暫くの間沈黙を守っていたが、苦笑して銃を下ろした。そして、弾き飛ばされた刀を拾い上げた。

「死なないでくれと、願う者が居る事は幸せだな」

 それだけ言って、和泉は背中を向けた。黒薙も佐倉も、一言も発せぬまま、和泉の姿が消えるのを見守っていた。
 そして、その姿が見えなくなってから漸くまともに息が出来た。

「……青、状況を報告しろ」

 冷や汗を拭い、黒薙は言った。

「GLAY組織による大規模なテロが全国各地で同時に起こっています。対策本部は総動員で乗り出しています。恐らく、始まったんでしょう」
「終わりの始まりか……」
「菊崎さんは軽傷だったので、救助作業に加わっています。黒薙さんは一先ず本部に戻るようにと連絡を受けました。迎えの車がもうすぐ来る筈です」
「そうか」

 報告を聞きながら、黒薙は密かに驚いていた。知らない間に、後輩は随分と成長していたらしい。以前は報告しろと言われても、殆ど何も言えなかったのに。
 そうしている間に、美月の運転する車が滑り込むように到着した。その表情は険しい。

「灯先輩、早く乗って下さい」
「ああ」

 佐倉の肩を借りて立ち上がり、車に乗せられた。それを確認して美月は素早く発車させる。一秒でも惜しいというような機敏さに黒薙は眉を寄せた。
 瓦礫の山を避けながら、高速に乗り上げて美月は口を開いた。

「灯先輩の血液から、GLAYの解毒剤が作れたと言う話は覚えていますか?」
「ああ」

 佐倉が怪訝そうに見るが、美月は続ける。

「恐らくは以前、投与された試作品の影響で、蛋白質の構造が一般とは異なってしまった事が原因と思われます。これは他の生物とも異なる、新しいものです。それを調べた結果、GLAY中毒によって精神異常を起こした人間の血液と少し似ていた」
「……お前、人体実験したのか」

 美月は何も言わなかった。
 彼女はきっと軽く試しにやったのだろう。けれど、それは間違いなく死を連れた人体実験だ。

「血液型鑑定は済ませてありました」
「だからって……!」

 佐倉が声を張り上げる。美月は無表情に言った。

「百人救う為の一人の犠牲よ。何が悪いの。人の歴史は犠牲の歴史。発展や成果の裏側には必ず、血に塗れた犠牲が存在するのよ」
「その通りだ」

 黒薙は言った。

「戦争は夥しい犠牲を払い、文明の発展を促した。今の生活は先人の犠牲のお陰と言える。確かに、お前の言っている事は間違ってねぇよ。……でもな」

 黒薙はフロントミラーを通して美月を見る。

「お前の持論を、こいつに押し付けるなよ。……こいつはお前が当たり前に切り捨てて来た一人を必死に守ろうと……、泣きながら走り回って来たんだから」
「泣きながらは余計です」

 佐倉が恨めしそうに睨む。美月は鏡越しにちらっと顔を見ただけだった。

「で、美月。話はまだ終わってないんだろ?」
「はい。灯先輩の血液を投与した被験者は意識を取り戻し、とんでもない事を言ったんです」
「とんでもない事?」

 美月は頷いた。

「被験者、平生ヨウスケ、二十二歳」

 黒薙はギクリとした。

「彼は高校時代、アルバイト先で拉致され、GLAYを投与された。最後の記憶で彼は、空蝉の顔を見たと言っているんです」
「……それで?」
「空蝉はある場所で複数の国会議員と密談していた。その際、『黒薙灯』と『灰谷逢』の名を聞いたと」

 彼が拉致されてからもう五年は経つだろう。一体、何処から始まっていたのだろうか。黒薙は腕を組んだ。

「その密談していた場所は」

 黒薙が問うと、美月は少し黙ってから、答えた。

「国会議事堂」
「――何だと?」
「平生ヨウスケは、そう言っています。彼は親戚が国会議員で、清掃員のアルバイトを紹介されていたそうです」

 黒薙は黙った。どうして、この国の中枢と言える場所に指名手配犯である空蝉がいるのだ。
 GLAYとは何なのだろう。そして、どんな目的で誰が製造したのだろうか。
 車内には重苦しい沈黙が流れた。黒薙は暫しの間目を閉じ、考え込んでいた。そして、目を開ける。

「乗り込むか」
「……何処に」
「決まってんだろ、なぁ」

 隣に目を向けると、子供のような目をした佐倉がいる。黒薙は頷いた。

「国会議事堂に、乗り込む」

 美月は溜息を一つ零し、少しだけ笑った。

2009.1.1