*モノクローム 2

 酷い地震だった。
 白神は、黒薙の家に滞在したままだったが、それが図らずも良かった。家具が倒れ、食器類は割れ、天井の一部には皹が入った。まるで、何かの爆発事故に巻き込まれたかのような轟音だった。
 衝撃で頭を打ち付けたらしく、米神から一筋の赤い血が流れている。白神は袖で血を拭い去ると、つい先程までの面影を無くしてしまった部屋を見回し、瑠璃の名を呼んだ。

「瑠璃! 何処にいる!」

 返事は無かった。嫌な予感が頭を掠める。白神は傍にあったスリッパを履き、硝子の破片が散乱するフローリングの床を歩き始めた。最後に瑠璃は確か、この居間にいた筈なのだけど。

「瑠璃!」

 その時、微かな声が聞えた。

「龍……」

 瑠璃は瓦礫の下からひょっこりと、その顔を覗かせた。白神はほっと胸を撫で下ろし、傍に駆け寄る。

「無事か?」
「うん……」

 頷き、瑠璃は苦笑した。
 部屋の中は酷い有様だった。白神も無傷とは行かなかったが、瑠璃は無傷で、白神の怪我に気付いて救急箱を探しに行こうとした。白神はそれを制し、懐から携帯電話を取り出す。
 永塚に掛けようとしたのだが、どうした訳か、携帯は繋がらなかった。
 一体何が起こっているのだろう。白神は窓の外に目を凝らす。そして、呆然とした。
 彼方此方から黄土色の煙が立ち上り、数時間前に見た景色は面影を無くしている。一体、何が起こったのだろう。死傷者は零ではないだろう。いや、ざっと見ただけで何百人もいるだろう。倒壊した建物は一体何棟あるのだろうか。

(一体、何が起こっているんだ……)

 繋がらない携帯電話を握り締め、白神はただ窓の外を見詰める。そして、不意に黒薙の事を思い出した。
 期待はしていなかったが、もう一度その携帯電話で黒薙に掛けてみるが、やはり、繋がらなかった。電話局の方に何かが起こっているらしい。この有様を見れば電話局だけの問題では無さそうだが。

「瑠璃、外へ出よう。第二波があったら、一溜まりもねぇ」
「……うん」

 瑠璃は傍にあったハンドバックを拾い、救急箱を抱えた。

「そんな大荷物、置いて行けよ」

 しかし、瑠璃は首を振った。

「灯はきっと、また怪我してると思うから……」

 白神は苦笑し、奪うようにして瑠璃の持つ救急箱を持つと、玄関へと歩き出した。
 玄関の扉は拉げていて、中々開かなかった。体当たりをして見ても、鉄の扉はびくともしないので、仕方なく廊下に面した窓から脱出した。
 廊下から見る景色もまた、地獄絵図だった。窓越しに見るよりも現実味を帯び、彼方此方から悲鳴が、怒号が、呻き声が聞えていた。

「酷い……」

 瑠璃がポツリと言った。小さな掌は口を覆い、大きな瞳には涙が浮かんでいる。
 誰かが泣いている、誰かが助けを求めている。その傍で誰かは死んでいる。白神は今にも走り出そうとする瑠璃の肩を掴んだ。

「まだ危ねぇ、行くな」

 だが、瑠璃はその手を振り払った。そのまま救急箱を奪おうとする瑠璃に向かって、白神は言った。

「危ねぇって、言ってるだろう! お前が巻き込まれたら、俺は灯に合わす顔がねぇよ!」
「――ふざけないで!」

 瑠璃は救急箱を引っ手繰って、白神を睨み付けた。

「こんなに近くにいるんだよ?」

 助けを求める声は、少女だろうか。決して遠くではない何処かで、誰かの泣き声が聞える。

「灯だって、きっと同じ事をしたよ。誰一人死なせたくないから、自分の事なんて忘れて走り回ったよ」
「ああ、そうだろうな。あいつは早死にするタイプさ」
「でもね」

 瑠璃は背中を向けた。

「あたしは、そんな灯が好きだった」

 瑠璃は走り出した。その背中に、白神は逢の面影を見た。瑠璃の黒髪が、逢のあの銀髪に見えた。酷い錯覚だった。けれど、あの言葉はまるで逢のようだった。

「何で」

 間違った事は何一つ言っていない。だが、正論が正解とは限らないのだ。
 瑠璃の背中はどんどん遠くなって行く。白神は、ぐっと拳を握って後を追った。その背中はあっという間に目の前に迫る。振り返りもしない瑠璃は、額から血を流して泣き叫ぶ少女の傍に跪いた。
 白神は瓦礫に下半身を奪われた男性を救うべく、崩れたビルの破片だろう鉄筋コンクリートを持ち上げる。だが、その下は血の海だった。左足は無く、出血多量だろう顔は酷く蒼い。意識は無く、辛うじて脈はあるが死亡は時間の問題だろう。
 救急箱から包帯を取り出し、止血を図る。救急車を呼ぼうにも道は無い。止血を行う横で誰かが助けを求める声がする、人は死んで行く。

(何だ、これは)

 地獄だ。泣き出したい衝動に駆られながらも、必死で手当てを行い続ける瑠璃の横顔を盗み見た。瑠璃は泣いていた。泣きながらも手は止めず、黙って手当てを続ける。
 人が死ぬ。助けられない。それでも、瑠璃は手を止めない。心の中では誰よりも助けを求めているだろう。
 その時、ポケットから携帯電話の微かな電子音が聞こえた。それが救いだとでも言うように白神は取り出し、慌てて通話ボタンを押した。

「もしもし!」
『――俺だ』

 聞き慣れた声は低く、掠れていた。

「灯! てめぇ、一体何処で何してんだよ!」
『瑠璃は無事か?』

 人の話を聞こうとしないその態度に白神は舌打ちした。焦っているのは、お互い様だと言うのに。

「ああ、無事だよ!」
『良かった……』
「なあ、灯。一体どうなってるんだ、この地震、対応はどうなってる」
『こいつは地震じゃねぇよ。人為的な、テロだ。恐らくGLAY組織によるものだろう』
「これがテロだって言うのか!」
『そうだ。地下鉄が爆破されたんだ』

 ひゅっと息を呑む。この国の地下を縦横無尽に走る地下鉄通路を爆破すれば、このような惨事になるのかも知れない。けれど、そんなことを淡々と当たり前のように話す黒薙の声は硬かった。

『瑠璃のこと、頼んだぞ』

 顔は見えないけれど、黒薙の感情が解るような気がした。何処か使命感を帯びた口調は、まるでこのまま二度と戻らぬ遠い場所へ行ってしまうような錯覚をさせる。白神は慌てて言った。

「どういうことだ」
『それから』

 白神の言葉など始めから聞く気も持ち合わせていないような冷静さで、黒薙は呟いた。

『死ぬなよ』

 通話は既に切られていた。空しい機械音の中で、余りに自分勝手な相手を思い浮かべて舌打ちする。
 白神が電話をしていたことにすら気付かぬまま瑠璃は震える手で手当てを行っている。終わりの見えない作業だ。元々医者でもなんでもない自分達にできることなんて限られているのに、それでも何かせずにはいられない。その姿はまるで、自分が嘗て愛した少女を思い起こさせる。

(なあ、逢)

 此処にお前がいたら、何て言うかな。
 返って来る筈のない問いに自嘲の笑みを零し、白神は拳を握った。
 こんな大惨事を引き起こしたGLAY組織が許せない。けれど、死者に会えるという幻のドラッグは今でも目の前に出されれば悩んでしまう。幻でも構わないから、逢いたかった。
 黒薙は、瑠璃は、そうは思わないのだろうか。そうした思いをどうやって乗り越えているのだろうか。死者は死者などと、割り切って考えることなどできはしない。限りあるものが美しいなどと、きれいごとは口が裂けても言えない。だから、聞いてみたかった。
 携帯をポケットに押し込むと、白神は瑠璃へと向かって歩き始めた。






 
通話の切れた携帯を眺め、黙って電源を落とした。この電話が何処かへ繋がっていると思うと、最後の最後に踏み止まってしまうような気がしたからだ。
 死ぬ気はない。けれど、死んでも構わないと思う。そう考える自分はきっと、少しおかしいのだろう。疲れているのかもしれない。
 黒薙は大きく息を吐き出した。閉じた瞼の裏側に、携帯の小さなディスプレイで笑う逢と龍が浮かび上がった。あれは大学の入学式。もう二度と戻れない鮮やか過ぎた思い出の春。
 タイムマシンがあったら、過去と未来どちらへ行く。そんな問いを思い出す。言ったのは誰だっただろうか。確か、佐倉だった。
 その問いに、少しだけ驚いたのだ。タイムマシンが未来へ行けるということに気付かされた。過去に戻りたいと祈ることはあっても、未来へ行きたいと願ったことは一度だって無かった。結局、自分の人生は失敗と後悔の連続だった。
 日常のふとした瞬間に、逢との約束が蘇る。ずっと三人でいたいと願った彼女が強欲だったとは欠片も思わない。それでも、願いは叶わず彼女は死んだ。
 携帯を耳に当て、忙しなく何処かへ連絡を取り合う佐倉の横で、黒薙は後ろに飛んでゆく景色を見ていた。割れたアスファルト、折れた電柱、引っ繰り返った車と動かぬ血塗れの人間。その中で車を運転する美月の表情は硬い。

「酷いですね」

 独り言のように、美月が呟いた。黒薙は何も言わなかった。

「この国は、このような事態を想定できなかったのでしょうか」
「……想定も、何も」

 黒薙は小さく息を吐いた。

「国を動かす議員も、GLAYに侵されていたんだろ」

 誰が敵で誰が味方なのか、何が正義で何が悪なのかも解らない。ただ、自分の信念と異なるものを崇拝することはできない。洗脳でもされているなら解らないけれど、正常なままの自分は自分の意志でしか動くことはできなかった。

「死者逢える幻のドラッグか……」

 そんな噂に突き動かされるほど薄っぺらな人間ではないんだと、思おうとしていた。ドラッグなんかで彼女に逢いたくはなかった。けれど、幻でもいいから逢いたいと願う人間の気持ちが解らない訳ではない。
 そうした愚かな人間の欲望がこの事態を引き起こした。罪無き加害者と、罪深き被害者。
 自分は果たして、どちらなのだろうか。黒薙はポケットを探り、愛飲する煙草を取り出した。これも一つの中毒だ。

「人って弱いですね」

 絞り出すような声で、佐倉が言った。車窓を食い入るように眺め、黒薙に向けられた後頭部からは何の表情も窺えない。けれど、鼻を啜っている。煤で汚れた袖で何度も顔を擦っている。佐倉は続けた。

「脆くて、愚かで、醜くて、罪深くて……」
「青……」
「それでも、俺、人を助けたいです」

 道端に倒れている人間は果たして息をしているのだろうか。瓦礫に埋まった人間は救出されるのだろうか。窓に遮られて手を伸ばすことも出来ず、飛び降りて彼等に駆け寄ることもしない自分は極悪非道の人間に思えた。佐倉の声は震えていた。

「助けたいんです……!」

 そう言って、鼻を啜る。黒薙は、やはり何も言わなかった。
 佐倉は黒薙を見て、微笑んだ。鼻が赤く、泣いていたことは一目瞭然だった。

「灯さんと会ったときのこと、思い出してました」

 突然、佐倉は言った。

「デスクワークを押し付けて、現場には全く連れて行ってくれませんでしたね。俺が何を言っても取り合わないで、黙って背中を向けた。嫌なやつだと、ずっと思っていました」
「ああ」

 黒薙が興味も無さそうに返事をすると、佐倉は笑った。

「人を殺すときに何を考えますかと訊いたことがありましたね。灯さんは、何も考えないと言っていました。でも、嘘でしょう」

 黒薙は答えない。

「確かにあなたは笑いもしないけど、泣きもしない。人を殺す、その人の命を搾取し、人生を終わらせる。それはきれいごとじゃ語れない、揺るぎない事実だ」

 車が曲がる。鮮やかにハンドルを切る美月の背中を見ながら、佐倉は言った。

「笑いながら人を殺す人間がいる。けれど、無表情に人を救い続ける人間もいる。その事実があるから、俺は前に進めるんだ」

 ゆっくりと車は停止した。目の前にはテレビで幾度となく見た国会議事堂が凛然と佇んでいた。
 佐倉はそれ以上何も言わず、黙って車を降りた。黒薙も同様に反対側の扉を開けた。シートベルトを外そうとする美月を見て、黒薙は眉を寄せた。

「お前は来るな」
「え……」
「死ぬかもしれねぇんだぞ」
「構いません」
「馬鹿言うな、困るんだよ」

 乱暴に、扉を閉める。半分程開いた窓の向こうで、美月が不安そうに黒薙を見ている。

「薬の特効薬は、お前にしか作れないんだ。なら、お前は何があっても生きなきゃならねぇ」
「それなら、灯さんも同じです。あなたの血液から特効薬はできた」
「俺の血液のデータさえあれば十分だろ、お前なら」

 本当は、佐倉も此処に残して行きたかった。けれど、彼は何を言っても付いて来る。それを阻む術を黒薙は持たなかった。
 まだ何か言おうとする美月に背を向け、黒薙は歩き始めた。何の被害も受けていない建物は、崩壊した周囲の街並みから浮かび上がるようだった。けれど、その姿こそがこの国の本当の姿のようで不快だ。
 足を踏み入れた塀の内部は人の気配がない。通常と変わらずである筈なのに、警備の者すらいないというのは不可解だ。だからといって立ち止まることもない。黒薙は黙って侵入していく。
 静寂の奥に佇む真実は、洞穴のように大きな口を開けて二人を待っている。そんな気がして、黒薙は拳を握った。


2010.10.23