*モノクローム 3 全ての音が消えた無音の空間は、脳に響く高音の耳鳴りを運んで来る。 平日の筈だと、黒薙は自身に確認するように思った。通常通り議会が行われている筈の国会議事堂には、議員はおろか警備員すらいない。確かに外は天災でも起こったかのような状態だ。避難したと考えられなくはないが、それでも柱に罅一つ入っていないこの強固な建物から全ての人間が逃げたとは考え難い。 絨毯に足音が吸い込まれる。静寂の中に、微かな呼吸音だけが響いていた。佐倉は不安そうに周囲を見渡して、まるで秘密の話をするかのように声を潜めた。 「どうなっているんですか、これ……」 そんなことは、黒薙にだって解らない。佐倉の言葉には何も返さず、只管に歩を進める。速くなった歩調に佐倉が慌てて後を追った。 この場所の何処かに、ずっと探し求めたものがある。黒薙は何となく、だが、確信していた。本物のGLAYがある。空蝉がいる。全ての答えが此処にある。 そう思い至ったとき、黒薙は隣の青年を見た。二年の間に成長した後輩。人を救いたいと願う優しい青年。彼を死なせてはいけない、死なせるものかと思う。けれど、彼がGLAYに魅せられたとき、自分は彼に引き金を引かなければならない。 「お前は何時か、目の前にGLAYを差し出されたら頷いてしまうかも知れないと言ったな。それは……、今も変わらないか?」 佐倉には黒薙の表情が見えない。迷いなく早足に進み続ける背中は真っ直ぐに伸び、振り返ることもない。佐倉は目を伏せ、息を吐くように微笑んだ。 「……死者に逢えるなんて、甘美な言葉ですよね。もし、もう一度逢えたら。そう願わない訳ではないです」 黒薙の足は止まらない。佐倉はその何の迷いもない背中を見詰め、言った。 「でも、俺はいりません」 黒薙の歩調が、俄かに鈍った。振り返ることも無ければ問い掛けることもないけれど、その一瞬の反応も既に何事も無かったかのように繕われてしまっているけれど、佐倉は笑った。 「だって、俺は生きているから。前に進みたいから。……過去ばかりに縛られて、本当に大切なものを失いたくないから」 「本当に大切なもの?」 振り返ることもなく、黒薙は佐倉の言葉を復唱する。 「大切なものは失ってから気付くと言う。お前には、大切なものが何か解るのか?」 佐倉は笑った。 「失わなくたって、大切なものくらい解ります」 「それは何だ」 佐倉は、答えなかった。二人はエレベータの前に到着し、黒薙がボタンを押す。会話は途切れ、目の前に開く狭い個室に乗り込む。扉を閉めたその瞬間、行く先を指示しなかった筈の密室は突然上昇を始めた。思い掛けない振動に二人の体が揺らぐ。 「何処へ……!」 膝を着いて電光板を睨む佐倉の横で、壁に手を添えて黒薙は独り言のように呟いた。 「屋上だ……」 Hの文字がオレンジに光る。ヘリポートがあるのだろう。黒薙は奥歯を噛み締めた。 国会議事堂は一年程前に改築し、内部は地上六階建てになった。伝統ある建物を改築することに反対は出たけれど、全てを退けてこの国は改築を強行した。一般人を議員として議会に参加させる法案が可決されたことから、増築したのだとか尤もらしい理由を並べてはいたが、何か他に理由があるだろうと黒薙は思っていた。何しろ、この国は既に国民の為になど機能していない。 扉が開いたその瞬間、銀色の閃光が走った。 「灯さんッ!」 佐倉が叫んだ瞬間、黒薙の体は地面に叩き付けられた。 背骨に走る鈍痛に眉を寄せたその時、青空を背景に日本刀を携えた少女が見えた。まるで男のような恰好で、相手を呪い殺すかのような眼光で、自分達を睨む少女はつい先程別れたばかりの嵐だった。 「嵐……!」 つい数時間前とはまるで別人のような雰囲気に、黒薙は目を丸くする。嵐の皮を被った別人では、と希望的観測を思い浮かべた自分を𠮟咤する。佐倉は扉を手で押さえ、嵐を睨んだ。 屋上の一つ下、六階。壁全体を窓にした広々とした空間には無数の机と椅子が、サイクロンにでも巻き込まれたかのように転がっている。通常と何一つ変わらずにいた建物内部の筈なのに、何故、こんなにも荒らされているのか。黒薙は嵐を見詰めた。 「如何して、此処にいる……」 「お前を、殺す為だ」 切っ先を向けた先は、黒薙だった。 「ならば、あの時、何故殺さなかった」 「五月蠅い!」 日本刀を引き、一直線に走って来る嵐に黒薙は身構え立ち上がろうとして、阻まれた。嵐の姿を遮る背中。 振り下ろされる刃を、嵐の手を掴んで防ぐのは、佐倉だ。黒薙が叫んだ。 「青ッ!」 佐倉は少女とは思えぬ怪力に押されながら、振り向かずに言った。 「灯さん、行って下さい!」 「――ざけんなッ!」 お前を残していけない、と黒薙が応戦しようとすれば、佐倉がそれを遮るように叫んだ。 「あんたには、やることがあるッ!」 ギリギリと両手で嵐の腕を押す佐倉は、何時になく余裕のない焦った声で叫ぶ。 「そうでしょう、灯さん……!」 黒薙は黙った。佐倉を信用できない訳じゃない。彼は強い。けれど、彼女はそれ以上に強く、数時間前と異なり鬼気迫るものを感じる。丸腰の佐倉に勝機はない。だが、それでも佐倉が言う。 「大切なもの……。その答え、きっと見つかりますよ」 佐倉が横顔を向けて微笑んだ。黒薙に食い下がる言葉はなかった。唇を噛み締め、扉を閉ざす。けれど、その刹那、親友へ向けた言葉を叫んだ。 「死ぬなよ、青ッ!」 低い音を轟かせ、扉が閉ざされる。佐倉は微笑んだままだった。 僅か一階上がるだけなのに、随分と永い時間に思えた。祈るような気持ちで、拳を握る。頭に浮かぶのは、佐倉や菊崎、瑠璃や白神の顔だ。 (死ぬな死ぬな死ぬな死ぬな! 頼むから、誰も死ぬな……!) 神など信じていない。けれど、それでも願いたかった。誰も傷付くな、誰も悲しむな、誰も死ぬな。そう強く願った。 扉が開く。其処には突き抜けるような蒼穹が広がっていた。 * 黒薙との連絡が途絶えた後、白神は呆然と立ち尽くした。溢れ返る重症者。鳴り響くサイレン。奔走する瑠璃の後ろ姿。 悲鳴が、怒号が、嗚咽が、ぐちゃぐちゃに混ざり合って不協和音となる。両耳を塞ぎたい衝動に駆られながらも、白神は唇を噛み締めて歩き出した。此処で立ち止まっている場合ではないと思った。 瑠璃が奔走したところで状況は何も変わらない。重症の人間を前に素人に何ができるというのだ。 諦めることは誰にでもできる。それでも人を救いたいと願うのは傲慢なことだろうか。無駄な努力と更なる絶望を前にそれでも諦めない瑠璃の強さを見て、黙って立っていられる程、白神は軽薄ではなかった。 黒薙が死ぬなと言った。あのとき、言いたかった言葉があった。白神が瑠璃を追って走り出そうとしたその時、すぐ横に一台の車が滑り込んだ。 「龍ちゃんッ!」 車窓を半分開け、奈那子が顔を出して叫んだ。常に冷静さを失わない彼女の切羽詰まったその声に、何故だか白神は冷静になった。 「奈那子、無事だったんだな」 「龍さん。一体、どうなっているんですか」 車を降りた永塚が、呆れたように言った。この状況で何の動揺も見せない永塚の姿を見て、流石だと白神はほくそ笑んだ。助手席で明日香が困ったように眉を寄せる。 「病院も警察も消防も、何処も繋がらないの! 携帯も電波が込み合って通じないし……」 何の怪我もない三人の姿に、白神は口元に笑みを浮かべる。殺しても死なないような連中だ。無事だとは確信していたが、実際に見れば驚きを隠せない。 白神は奈那子に言った。 「頼みがある」 「何?」 「瑠璃を頼む」 瓦礫の下に埋もれる人を助けようと、必死に地面に爪を立てる瑠璃を顎でしゃくる。奈那子は眉を寄せた。 「解ったわ。……あなたは?」 「用事が出来ちまった」 悪戯っぽい口調とは裏腹に、表情は常とは異なる真剣そのものだった。その顔に何かを感じたらしい永塚が白神の横に並ぶ。 「俺も行きます」 「幸太郎」 「一人より二人でしょう?」 明日香は車を降り、永塚を見た。 「龍さんは任せたよ、幸太郎」 そう言って、明日香が瑠璃の下へ走っていく。奈那子が同じように後を追う。白神は叫んだ。 「お前等、――死ぬなよ!」 当たり前じゃない、と奈那子が振り返って微笑んだ。白神は永塚を一瞥し、言った。 「灯の居場所が解るか?」 「黒薙さんは解りませんが……」 と言って永塚はポケットから携帯を取り出す。 「佐倉君の居場所なら」 発信機を付けておきました、と平然と永塚は笑って言った。抜け目ないこの青年に拍手を送りたい気分だった。 黒薙が佐倉と共にいる可能性は極めて高い。発信機はある場所を示している。 「国会議事堂ですね」 「何だってそんなところに……」 そうは思うが、幸運だった。この場所から国会議事堂は離れていない。地下鉄に乗れば十分程で到着する。今は地下鉄が動いていないけれど、此処には奈那子の車がある。 「運転しますよ、龍さん」 永塚が早々と運転席に乗り込み、白神は黙って助手席に座った。 車は瓦礫を避けながら、それでも荒れた道に揺られて進む。車内はガタガタと振動が喧しく響いていた。二人はそれをBGMに沈黙を通す。こんなときは演技がかった喧しさで喋り続ける永塚が、無言で運転しているのは不自然だった。それまで黙っていた永塚が、前を見据えたまま漸く口を開いた。 「国会議事堂に、一体何があるのでしょうか」 車は、罅割れたアスファルトを避けて緩やかにカーブを描く。 「この国の中枢で、一体何が起きているのですか」 「さあな。だからこそ、それを確かめに行くのさ」 白神は薄く笑った。 「俺からも質問だ。幸太郎、お前如何して付いて来た?」 永塚は無表情だった。国会議事堂へと延びる一本道は、所々裂けている。それを慣れた手付きで運転して避けながら、永塚はゆっくりと言った。 「俺がGLAYを憎んでいることは、知っていますね?」 白神は黙った。 永塚は国を代表する暴力団の跡取り息子だ。だが、GLAYの暴走を止める為に奔走した組織は結果として壊滅し、永塚ただ一人が生き残った。今も彼は生きているけれど、全てを許し忘れた訳ではないだろう。 「あの場所に、空蝉がいます。GLAYの重要参考人。俺がずっと探していた男だ」 以前、拉致されたときに顔を見た覚えがある。 寒気を帯びた気配の青年。GLAY組織の長とも言える立場であるとは思えぬ若さだった。永塚にとっては仇とも言える存在だろう。白神が黙っていると、永塚は更に言った。 「あいつに会いたいんです」 「……会って如何する。殺すのか」 永塚は答えなかった。車が国会議事堂に到着したのだ。 白神が車を降りると、永塚も同じく後を追った。建物内部は無人だ。崩壊した街並みとは異なり、通常と変わらぬ姿を保っている。 「誰もいませんね……」 「おかしいな」 誰かがいては侵入などできなかっただろうが、無人というのは不自然だ。白神は周囲を見回しながら慎重に足を運ぶ。やがて現れたエレベータを見て、永塚が言った。 「屋上にありますね」 Hの文字がオレンジ色に光っている。誰かが屋上に向かった証拠だ。 何の確証もないが、白神は、黒薙だろうと思った。迷わずボタンを押す白神を尻目に、永塚は感情を隠し切った笑顔を貼り付けている。 「なあ、幸太郎」 白神は言った。 「お前は今まで、憎しみだけで生きて来たのか?」 エレベータが到着する。永塚はやはり笑顔を貼り付けたままだった。 永塚が憎しみを糧に生きるのは尤もだった。けれど、それでは空し過ぎると思うのだ。黙って屋上へとボタンを押す永塚は静かに言った。 「何か一つを生き甲斐にしていくのは危険なことだと思います」 笑顔の仮面は外された。酷く真剣な目で、閉ざされた扉を睨んでいる。 「それを失ったとき、生きていけなくなる。俺は何時だって、大切なものの為に生きて来た」 永塚は白神を見た。 「誰かを憎んで生きていくのは、空しいんですよ。俺はね、此処でケジメを付けたい。どんな結果が訪れるのかは解りません。それでも、俺は前に進みたい。憎しみが壁になるなら、乗り越えたいんです」 それが、俺の見つけた答えです。 永塚はそう言って微笑んだ。ああ、と白神は思う。この青年は本当に強い。出会ったときは全てを諦めようとしていたのに、あれから数々の出会いを経験して、とても強くなった。 「お前にとって、大切なものとは何だ?」 何がこの青年を強くしたのだろう、と思った。白神が問い掛けたとき、永塚は微笑んで答えた。 「仲間です。それから、俺が出会って来た全ての人です。……絆と言ったら、ちょっと臭過ぎますか?」 悪戯っぽく笑って舌を出す永塚。白神は何も言えなかった。 その時、エレベータは五階で突然停止し、扉を開いた。壁一面に広がる窓に映る蒼穹。そして、黒服を身に纏った男達が銃を構えて此方を見ている。 咄嗟に永塚が扉を閉めようとするが、動かない。黒服の一人が、言った。 「永塚幸太郎だな」 永塚は動きを止めた。 「お前をずっと探していた」 降りて来い、と銃口を向けて男が言う。永塚は何か悟ったように両手を上げると、白神を見た。 「俺に用事みたいだ。すぐ行きます。先に行って下さい」 ゆっくりとエレベータを降り、永塚は笑った。 「おい、幸太郎ッ!」 「これは、俺の因縁なんです。言ったでしょう。俺は此処にケジメを付けに来た」 後を追おうとする白神を制し、永塚は常と変らぬ穏やかさで言う。けれど、その眼は真剣だ。 目の前に並ぶ男達が何者なのか、白神にも解った。これは、永塚が暴力団の跡取りであった頃の因縁。白神には口を挟む権利がない。だが、それでもこんな場所に彼一人を残して行くことはできなかった。食い下がる白神を一瞥し、永塚はそっと扉を閉めるボタンを押す。 閉まっていく扉の向こうで、凛と背筋を伸ばした幸太郎が親指を立てた。白神は奥歯を噛み締め、言った。 「待ってるぞ、幸太郎」 扉が閉じる刹那、永塚は微笑んだ。白神は永塚の姿を消し去った扉を叩いた。 鈍い音が響く。けれど、扉はまたすぐに開いた。五階と同じ作りの部屋が現れる。けれど、其処には白神にとって予期せぬ再開が待ち受けていた。 2010.12.31 |