*モノクローム 4

 白神と別れた後、永塚は無数の銃口の前に丸腰で立たされていた。
 父が長を務めた暴力団と敵対する組織が、GLAY組織と手を組んで薬をばら撒いていることは知っていた。家族とも呼べる仲間が殲滅され、一人生き残った永塚はその世界から随分と遠ざかっていたけれど、結局自分はこの裏世界の人間なのだと思い知る。
 仲間と出会って、絆ができて、温もりを知った。その中で生きて行けるのなら、他のことはどうだってよかったのだ。父の仇だとか、恨みや憎しみだとか、そんなものは溝に捨てたって構わなかった。そう言い切れるだけ、永塚は既に大切なものを持っているからだ。
 勝算などない。ただ、此処に白神がいたところで何も状況は変わらないだろう。自分を絶望から引き揚げてくれた白神を自分の因縁の為に死なせる訳にはいかない。

「俺をずっと探してたなんて、妬けるなァ」
「ほざけ、お前を殺す為にどれ程の労力を掛けたと思ってるんだ」

 黒服の一人が言った。若いが、雰囲気が違う。こいつがトップだな、と永塚は悟った。

「何処に隠れていたのか知らないが、お前の運も此処までだ」

 隠れていたつもりはない、と言えば嘘になる。あれから永塚はマスコミを避け、自分の情報が漏れることを恐れた。自分の生存が知られれば、自分だけでなく周囲の人間にも危険が及ぶ。
 そう解っていたのに、一人で姿を晦ますことはできなかった。そうすれば誰も傷付かなくて済むと解っていたのに、手に入れた温もりを手放すことが出来なかった。全ては自分の弱さが招いた結果だ。
 永塚は目を伏せた。予想できた事態を避けられなかった自分の甘さと弱さ、そして、未熟さを痛感する。けれど、それでも、後悔はしていない。反省するべき点がある。だが、これまでの道程を否定したくはなかった。顔を上げた永塚の目に映り込むのは無数の銃口という絶望の景色。だが、永塚の目は死んでいない。

「やれよ」

 黒服の男が、小さく舌打ちをした。

「言い残すことはあるかと、聞いてやろうと思ったんだがな」
「余計なお世話さ。俺には、何の悔いもない」

 そう永塚は言い切った。けれど、一つだけ願ったのだ。
 もっと生きたかった。一緒にいたかった。もっと、もっと。
 引き金が引かれる。その刹那、走馬灯は一瞬にも満たぬ刹那に通り過ぎた。暴力団と恐れられた自分の家族が、悪戯に正義を振り翳して殲滅された。世間の笑い者だった。だけど、それでも永塚は自分の家族の行為を愚かだと思ったことは一度だってなかった。自らの誇りを貫こうとしたその生き様を笑うことなど出来る筈も無かった。
 全てを失って、生きることを諦めて、白神と出会った。全てを失くしても生きられるのだと証明して見せろなんて、酷く勝手な理由を押し付けられて、それでも生きようと思った。生きてやろうと思ったのだ。
 それから、奈々子や明日香に出会って。白神が親友と呼ぶ黒薙や、その部下の佐倉にも出会った。そうして繋がっていく世界がとても愛しかった。だから、この世界を守りたいと思ったのだ。
 独りきりで生きるのは辛くて苦しい。でも、白神は人間は皆独りで悲しい生き物だと言った。全くもって、その通りだ。現に自分は今、こうして独りきりで死のうとしている。

「――悪くない人生だった」

 永塚は目を閉じた。口元には、微かに笑みが浮かぶ。
 その時、銃声が尾を引いて響いた。全ての終焉だと悟った。――なのに。

「……伏せろッ!」

 遠い昔に聞いた覚えのある声だと思った。永塚が目を開いたその世界に、頭から血を吹き出す黒服の男がいた。崩れるように倒れ込むその男の後ろで、部下達がざわりと揺れる。
 鼓膜が破れそうな発砲音。映画のような銃撃戦。反射的に身を屈める永塚の前に、グレーのスーツを着た男が躍り出る。向けられた銃口、引き金が引かれる。けれど、また発砲音。
 黒服の男が次々に倒れていく。自分が全てを失ったあの日と酷似する。あの日の自分はどちらが前なのか、自分は今立っているのか走っているのかすら解らないまま、無我夢中で逃げ出した。自分を守ろうと死んでいった仲間。撃ち抜かれる背中。

「止めろおおおぉぉおおおッ!!」

 永塚が敵を蹴り飛ばしたと気付いたのは、その空間が制圧された後だった。空中に跳び上がって蹴り飛ばした永塚はそのまま床に倒れ込む。
 何が何だか解らないまま、永塚は肩で必死に息をした。其処に、グレーのスーツを身に纏った男が手を差し出した。

「無事か?」

 掠れた声だった。黒だろう髪は煤で老人の白髪のようになっている。恐らく自分も同じだろうと思いながら、永塚はその手を取った。
 見覚えのある顔だと思った。この男を知っている。

「貴方は……?」

 光が男の横顔を照らす。

「GLAY対策本部で刑事をしている。菊崎というものだ」

 ああ、と永塚は納得する。何時か、黒薙とこの男が話しているのを見た覚えがある。
 上司の女性が死んで、黒薙に縋り付くように涙を零していた男だ。

「菊崎さん……、俺、貴方のこと知ってます」
「光栄だね。俺は、ずっと君を探してたよ」

 永塚が立ち上がると、菊崎は乱れたスーツの襟を整えながら言った。

「一颯組若頭、永塚幸太郎。組が壊滅した後、君の消息をずっと追っていた」

 怪訝に眉を潜める永塚を見て、菊崎は咳払いをする。

「形は違っても、俺達と一颯組のやろうとしていることは同じだった。そんな彼等が殺され、若頭の少年は行方不明。GLAY対策本部では管轄外だから、公の捜査はできなかった。だから、俺は密かに君を保護する為に探していたんだ。同じく君を探す敵対する暴力団への情報操作や寄せられる膨大なそれらしき情報のお蔭で、……休憩時間も無いに等しかった。でも、君が生きていて良かった……!」

 菊崎が、永塚の肩を強く握る。微かに震えていた。

「黒薙から君の生存を知ったときは、本当に嬉しかった。一颯組には借りがある。様々な情報の提供、警察という枠組みでは如何しても救い切れない命の保護。やっと、彼等に返せた……!」

 永塚は何も言えなかった。自分のいた一颯組がそれ程、警察と深い繋がりを持っていたなど知らなかった。そして、ただの幸運で生き長らえた命と思っていたけれど、こうして知らなかった誰かによって守られていた。それは全て、家族と呼ぶべき一颯組の仲間のお蔭だ。自分は今も、彼等に守られていた。
 呆然と立ち尽くす永塚の後ろから、カツカツと足音を響かせて浦和が歩み寄る。

「今は感傷に浸る時間は無いわ。急ぎましょう」

 そう言ってエレベータを見る。エレベータは一つ上の階、六階で止まっていた。






 銀色の閃光が空間を切り裂いた。頭上を通り過ぎた刃に、佐倉は思わず声を上げた。壁はまるで抉り取られたような傷跡が深く残っている。同じように斬り付けられたエレベータのコントロールパネルがバチバチと火花を上げる。それを横目に、背筋を冷たいものが走った。
 嵐はゆっくりと日本刀を引いた。その眼は佐倉を捉えている。

(本気だ)

 本気で、自分を殺そうとしている。
 自分よりも幼いだろう少女とは思えぬ怪力で振り切られる刃は、受けてしまえば文字通り一刀両断だろう。
 数時間前に会った彼女とは明らかに様子が異なる。刃を向けても尚、獲物を前に手を引いたのは間違いなく彼女だった。それなのに、如何して彼女は今、自分達を殺そうとするのだろう。一体、何が今彼女を突き動かしているのだろう。

「――おいッ! お前!」

 佐倉が叫んだと同時に、銀色の刃が振り切られる。転がるようにして避ければ、後ろで積まれていた椅子が音を立てて崩れた。
 切り離された金属パイプに背筋が寒くなる。何の容赦も躊躇も無い。
 当然だろうと、佐倉は思う。彼女は和泉嵐と呼ばれ、過激派テロリストとして数々の仲間を殺してきた。殺してやりたいと思うのは嵐だけではない。自分も同じだと、佐倉は嵐を睨む。
 嵐の刃が振り切られる刹那、佐倉は床を蹴って足を振り上げた。空中では避けられない。けれど、佐倉の右足は嵐の頭を確実に捉えている。
 鈍い音が響いた。散乱した椅子に衝突しながら、嵐の小さな体が床を滑る。

「痛ッ」

 佐倉の振り切られた右足は出血していた。骨を折るつもりで蹴り飛ばした嵐の首は赤く腫れ、周囲には青黒い痣が浮かぶ。ゆっくりと起き上った嵐は痛みすら忘れたように無表情で佐倉を睨んでいた。
 自分が蹴るあの一瞬で、蹴りに対応しただけでなく反撃して来ると思わなかった。佐倉は忌々しく嵐を睨んだ。

「お前、目ェラリってんぜ」

 嵐の目は数時間前とは違い、焦点が合わず濁っている。それはこれまで見て来た薬物中毒者と同じだ。

「何呑んだか知らねぇけど……」

 佐倉は体制を整える。出血する右足で、これまでと同じように動けるとは思えない。けれど、此処で死ぬ訳にはいかない。
 黒薙と約束した。後を追わなくてはならない。

「薬中見逃す訳にはいかねぇんだ」

 ゆっくりと、懐から取り出す黒い鉄の塊。できれば二度と使いたくなかった。感情で人を殺すなと黒薙は言っていた。今、自分に問う。銃を向ける理由は何だ。何の為に人を殺す。これは正しいことか、間違っていないか。後悔は無いか。
 頭の中は酷く冷静だった。銃を持つ手に震えは無い。此処で自分が嵐を殺しても、咎めるものはいない。ぴたりと動きと止めた嵐だが、口元は弧を描く。狂っている。そう思った。
 引き金を引こうとしたその瞬間。声が聞こえた。
 百人救う為の一人の犠牲。嘗て美月が言った言葉が蘇る。犠牲とは、目の前にいるこの少女のことだろうか。
 人を救いたい。そう願った。

(俺は、この子を、――救いたい)

 殺すことは容易い。でも、自分はこの少女を救いたいのだ。
 警察という枠組みでは如何しても救い切れない命がある。だからといって切り捨てていいとは思わない。救えるものは全部救いたい。守りたい。
 引き金は、引けなかった。一直線に駆けて来る嵐は刀を引いている。殺す気だろうと解っていたけれど、それでも佐倉は銃を持つ手を下した。
 目の前で嵐が刀を振り上げる。佐倉は目を閉ざした。
 斬られる。そう思った瞬間、叫びにも似た声が響いた。

「嵐ィッ!!」

 佐倉は声に驚いて目を開いた。よく知る金髪の男が、嵐に飛び掛かる。予想だにしなかっただろう嵐が横に倒れた。
 椅子や机が薙ぎ倒される騒音に驚く。

「し、白神さん!」

 だが、佐倉の声など届かないように白神は組み敷いた嵐の顔をじっと見ている。何時だって飄々として、本心を見せないいけ好かない男だと佐倉は思っていたけれど、そんな男がこんなに真剣な顔をするとは知らなかった。
 白神は言った。

「嵐、お前……」

 濁っていた嵐の目が、徐々に白神を見詰める。驚いたように目を見開くその様は年相応の少女に見えた。

「龍……、本当に?」

 白神は答えなかった。何も答えられないまま、強く、強く抱き締めた。
 その腕が震えている。絞り出すような声で、白神は言った。

「馬鹿野郎……!」

 嵐も、何も言えなかった。震える声で白神が言う。

「俺がどれだけ、お前のこと、探したと思ってる……。お前に、逢いたかった……!」

 そう告げた瞬間、嵐の目からぽつりと涙が零れ落ちた。
 白神には一人幼馴染がいた。ある事件を切欠に自分の前から姿を消した少年の行方を、白神はずっと追っていた。目の前にいるのは少女だ。けれど、嘗ての面影を持つその少女は間違いなく自分の探し続けた人物に違いなかった。
 ゆっくりと嵐から離れながら白神はその顔を見詰めた。

「お前、女だったんだな」

 そう言って笑った白神に、嵐は言った。長い髪に隠れ表情は窺えないが、頬を幾筋もの涙が伝う。

「……ッ、何だよ、ソレ……!」

 笑おうとして、失敗した。嵐の声は震えている。
 和泉嵐。GLAY対策の一環として研究を行う科学者を両親に持っていた。幼い頃に両親をテロによって失くし、唯一の肉親であった姉と離れ親戚に引き取られたという。白神が出会ったのはその頃だった。少女とも少年ともつかない中性的な顔立ちと、飾らないあっけらかんな性格から白神は彼女を男と思った。自分の弟分として毎日のように遊んだ。そんな彼女が消息を絶ったのは、中学の卒業式。私服通学の中学で、彼女はいつも少年のような服装をしていた。色褪せたジーンズを握り締めて、バイバイと言った。
 彼女は知らなかったのだ。事故と信じていた両親の死が、GLAY組織によるテロであることも。実の姉はその事実を知ってGLAY対策本部で命がけで戦っていることも。自分だけがぬくぬくと生きていたと知り、責任感の人一倍強かった彼女が思ったことなど容易い。
 初めは、GLAY組織について知りたい。そう思う程度だっただろう。白神は、一体何が、彼女を過激なテロリストへと変えてしまったのかなど解らない。
「なあ、嵐。お前は如何して……」

 白神の問いに、嵐は距離を置いて言った。荒れ果てた室内の様子は、崩壊した街並みと似ている。嵐は、まるで独り言のような小さな声で呟いた。

「姉が、殺されたんだ」

 誰も何も言わなかった。沈黙の中で、嵐だけが言葉を続ける。

「名前は、松田玲子。GLAY対策本部の刑事だった」

 佐倉が「あっ」と声を上げる。聞き覚えのある名前だった。白神がじろりと視線を向ければ、佐倉は神妙な面持ちで言う。

「二年くらい前に殉職した……、灯さんの先輩だ」

 会ったことがある訳ではないが、白神も黒薙の先輩という存在は知っていた。彼をこの警察組織に引き込んだ人物でもある。そして、彼女が死んだときのことはよく覚えている。
 一度だって弱音を吐いたことのない黒薙が、初めて漏らした弱音を白神は今でも覚えている。逢が死んだときだって必死に前を向こうとして来た強い男が、零したたった一言の泣き言だった。

「ずっと、この世界を恨んで来た。私から姉を奪った世界が憎かった。消えてしまえばいいと思った」

 佐倉は理解できないとでも言いたそうな目を向けるが、白神には痛い程解った。家族を失ったとき、白神も同じことを思ったのだ。あの時、黒薙と逢に出会わなければ自分も嵐のようになったかも知れない。
 嵐は無表情だった。

「そうしたら、聞いたんだ。松田玲子はGLAY中毒者に殺された。だが、仲間に見殺しにされた。そうも言っていた」
「そんな馬鹿な!」

 佐倉が叫んだ。

「松田さんの死は事故だった! GLAY中毒者の撃った流れ弾で、即死だった!」
「如何してそんなことが言い切れる! お前はその場にいたというのか!」

 嵐の叫びに、佐倉が黙り込む。

「仲間の名は、黒薙灯だと聞いた」
「灯さんはそんな人じゃない……!」

 佐倉が言い返す。嵐は一瞥しただけだったが、白神も同じように言った。

「同感だ。灯とは長い付き合いだが……あいつは、そんな男じゃねぇよ」

 松田玲子が死んだ日のことは解らない。けれど、彼女を失った後の黒薙を知っている。
 すると、嵐は溜息を零すように笑った。

「ああ。……本人に会った。この男は、そんな人間ではないと確信した」

 この男なら、即死でさえなければ何に替えても助けようとしただろう。倒壊したビルの瓦礫に埋もれながら、激昂したように叫ぶ男を思い出す。

「憎しみだけで生きて来た。目標を失った私に、ある男が言った。松田玲子を蘇らせる方法があると」
「誰だ、それは」

 一呼吸の後、嵐ははっきりと言った。

「空蝉」

 やはりな、と佐倉は思う。GLAYは死者に会えるという幻のドラッグ。姉を失った嵐がそれを欲しない筈が無い。例えそれが肉親の仇であったとしてもだ。

「……空蝉は、何処にいる」

 静かに白神は言った。その男が全ての元凶だ。

「屋上」

 嵐が答えると同時に、はっとして佐倉が走り出した。屋上に向かったのは、黒薙だ。
 これまでの話を聞いて、空蝉の目的が何か解った気がした。空蝉は黒薙を待っていたのだ。慌ててエレベータのボタンを押すが、動かない。嵐が斬り付けた為、故障しているのだろう。他に道は無い。

「くそォ! 動けよ!」

 叩いても何も変わらない。だが、佐倉は縋り付くように扉を叩いた。その時。
 扉の向こうから、低い音が響いた。ガタガタと揺れ、扉はゆっくりと少しずつ開く。機械ではなく、誰かが力でこじ開けようとしているのだ。
 何だ、と思い僅かな隙間を覗く。声がした。

「青ッ!」
「き、菊崎さん!?」

 微かに顔を見せたのは確かに菊崎だった。けれど、もう一つ覗き込む顔がある。白神が慌てて駆け寄った。

「幸太郎!」

 白神と佐倉もまた、同じように扉をこじ開ける。隙間が広がると、永塚に続いて菊崎が転がるように出て来た。二人とも頭から煤を被ったように真っ白だ。
 肩で必死に息をする様を見て、白神は永塚に駆け寄った。

「お前、よく無事で……」
「この人に、助けてもらいました」

 小さな咳払いの後、永塚は菊崎を見た。
 そうか、と白神は他に何も言わず、安堵の息を漏らす。

「エレベータが動かないので、ロープをよじ登って来ました」

 疲れたと首を鳴らす永塚は何処か晴れやかな笑顔だった。白神は二人の背後にある半開きの扉の奥をじっと見る。それに気付いた永塚が問い掛けた。

「屋上へ行くんですね?」
「――ああ」
「俺も行きます!」

 そう叫ぶ佐倉の右足は出血している。嵐によって斬られた傷だ。その体で油で滑るだろうロープを登れるとは到底思えなかった。

「俺が行く。お前等は待ってろ」
「龍さん」

 付いて行きます、と言おうとした永塚を目で制す。

「お前等は来るな」

 それだけ言って扉に手を掛ける。食い下がろうとしない佐倉を菊崎が抑える。その横で永塚は、付いて行こうともせず穏やかに微笑んだ。

「龍さん」

 白神は振り返った。永塚は、言った。

「龍さんは前に、人間は皆独りだと言っていましたが……、俺はやはり、人間は皆独りなんかじゃないと思います」

 立っているのもやっとだろう永塚は、そんな様を欠片も見せずに笑って言う。煤だらけで、服装にはいつも気を使っているだろう永塚が気にもせずに笑うその理由は何だろう、と白神が目を向ける。

「親が死んでも、仲間がいなくなっても、思い出は消えない。温かさを知っている俺は、決して独りなんかじゃない。自分が孤独だと思ってる人はね、きっと知らないだけなんです」

 永塚は笑った。

「此処にいます。だから、忘れないで下さいね」

 永塚の後ろに、奈々子や明日香が立っているような気がした。それだけではない。失った家族や、逢が其処にいるように見えた。
 一瞬の幻は、瞬きの後に消えていた。白神は小さく笑った。

「ありがとう、幸太郎……」

 白神は背を向け、歩き出した。冷たい空気の支配する空間が広がっている。白神の乗って来たエレベータは少し下にある。天井が開いているところを見ると、永塚等がその個室を通過して上って来たのだろう。
 こんなところを上る羽目になるなど想像もしなかった。店の常連に会ったら笑われてしまうなと白神は溜息を零し、地面を蹴った。

2011.1.1