*モノクローム 5 耳鳴りが鋭い針のように脳を刺激する。狭い密室のエレベータだというのに、頭痛はまるで大勢の足音のように頭蓋骨の内部に響いている。眩暈と立ち眩みで立っていることすらできず、崩れるようにして黒薙は壁に凭れ掛かった。 揺れの少ない密室は絶叫マシーンのようだった。胃の奥から湧き上がって来る吐き気を口を塞ぎながらやり過ごす。 耳鳴りは時折、人の声に聞こえた。聞き覚えのある何処か懐かしい声。 誰の声だっただろうか。凛と響く女性の声だ。何を言っているのだろうか、と目を閉ざし耳を澄ます。それでも聞き取れず集中する間に異変に気付いた。 如何して、扉が開かない。 佐倉と六階で別れ、目的地の屋上は一つ上の階だった。それ程に時間が掛かる筈がない。 力の入らない体を�叱咤しながら、黒薙は扉を叩き、叫んだ。だが、その分頭の中に不協和音が反響する。頭が痛い。気持ち悪い。それでも弱音を吐かないのは、これまで大勢の仲間が自分を支えて来てくれたことを知っているから。佐倉が、菊崎が、浦和が、美月が、支えて来てくれた。彼等は今も戦っているのに、自分だけこんな場所にいる訳にはいかない。 「開けッ、こ、の――!」 ドアを蹴飛ばそうと床を踏み締めたその瞬間、頭上から突然白い煙が降り注いだ。紫煙とも違う無臭の煙に脳の芯が痺れる。毒か、睡眠薬か。寒気を帯びた震えが体を占拠する。ぐらりと揺れる体に、その煙が何かを悟った。 (GLAY、だ) 気付いたその瞬間、吸い込むまいと口元を覆う。この煙を吸ってはいけない。 GLAYの依存性は従来の違法ドラッグとは比べ物にならない程に強い。偽物であっても、一度口にすれば二度と手放すことはできない。そして、それが本物であれば、二度と正気は保てない。 吸い込まないようにと口元を覆いながら、必死に扉を叩いた。此処にいてはいけない。出なければいけない。 けれど、そのとき、あの声がした。覚えのある懐かしい声。 ――灯 自分の名を呼ぶ女の声。誰だっただろうかと思いながら、黒薙は終に意識を手放した。 気付いたとき、黒薙は白い靄の中を歩いていた。自分が何処へ向かっているのかも解らない。ただ、その白い靄はGLAYの煙とは全く異なる何処か温かく心地よいものだった。あんなに酷かった頭痛も吐き気も眩暈も耳鳴りも、始めから存在しなかったかのように、とても体が軽かった。 此処は何処だろう、と思った。早く行かなければ、という思いが胸の中にあった。けれど。 (俺は、何処に行くんだ) 少し考えて思い出すのは仲間の顔。今もきっと傷だらけだろう。無茶ばかりする仲間だが、皆無事ならそれでいい。誰も死ななければそれでいい。そう考えながら歩いていると、前方から床を打つようなカツンカツンという足音が聞こえた。 規則正しく等間隔なのは、姿勢が良いからだ。そして、自分はこの足音の主を知っている。 「玲子さん……?」 白い靄の中から、薄らと顔を覗かせる。黒髪を後ろで束ねたスーツの女性。松田玲子が、黒薙の前に立っていた。 黒薙は動けなかった。松田は死んだのだ。二年も前に自分の目の前で。そう解っているのに、其処に立つ女性は松田以外の何者でもない。少しだけ微笑み、松田は黒薙を呼んだ。 「灯」 聞き覚えのある懐かしい声。自分のことをずっと呼んでいたのは、彼女だった。 自分の指先が震えていることに気付き、黒薙は拳を握る。疑い、驚き、恐れ、そして――、喜び。 「れ、い、こ、さん……」 黒薙は動けなかった。足が鉛のように重く、動かない。松田はそんな黒薙の様子など気付かぬように傍に歩み寄り、強く抱き締めた。 「灯……」 死んでいる筈の松田は温かかった。自分は夢を見ているのだとすぐに思った。だが、同時に思い出すのはGLAYという麻薬の謳い文句。GLAYは死者に逢える幻のドラッグ。 これは薬の見せる幻覚だ。そう解っているのに、黒薙には松田を振り払うことが出来なかった。脳裏に過るのは、松田が死んだあの瞬間。未成年のGLAY中毒者による、無差別銃乱射事件。その流れ弾によって彼女は目の前で呆気無く死んだ。呼吸を止めた彼女を抱き留めた感触、掌に広がる血液の温度。全てが生々しく蘇る。 (俺は、この人を) 守ることが出来なかった。目の前にいたのに、救えなかった。 松田は黒薙を抱きしめたまま、噛み締めるように言った。 「灯、もういいんだよ。もう……」 自分に言い聞かせるような響きを帯びたその口調も、生前の松田そのものだった。黒薙は振り払うことも抱き返すことも出来なかった。 松田はゆっくりと離れると、黒薙の両手を握った。 「今まで、よく頑張ったね。本当によく頑張った。全部、見てたよ」 「玲子さん、」 「だから、もういいんだ。楽になっていいんだよ」 どうして、そんなことを言うのだろう。 そう考えた瞬間、動かなかった足が持ち上がった。黒薙は一歩、松田から離れる。驚いたように目を丸くする松田に居た堪れない気持ちになって、黒薙は目を伏せた。 「……あんたは、玲子さんじゃない」 え、と松田が動きを止める。黒薙は目の前にいる彼女を睨んだ。 「玲子さんは、そんなことを言う人じゃない。あの人は自分がどんなに傷付いても守る為に戦いたいと言った。それなのに、俺に、全部投げ出せなんて言う筈がない」 胸の中にマグマのような感情が満ちる。怒りとも悲しみとも、憎しみとも苦しみとも付かない奇妙なドロドロとした感情だ。黒薙は叫んでいた。 「お前は誰だ! 玲子さんを汚すんじゃねぇ!」 叫んだ瞬間、周囲を満たしていた白い靄は灰色に濁り、やがて闇へと姿を変えた。松田の姿は闇の中に溶けて消え、黒薙だけが一人残された。 「死者に逢える、幻のドラッグか……」 ぽつりと、黒薙は呟いた。漆黒の闇は黒薙の体を巻き込んで渦のように溶けていく。不思議と恐怖は無かった。黒薙は目を閉じ、流れに身を任せた。 そして、再び目を開いた其処には突き抜けるような青空が広がっていた。 慌てて起き上ると、硬いコンクリートの地面に骨が軋んだ。此処は何処だろうと、辺りを見回す前に気付いた。此処は屋上だ。どうにかして自分はあのエレベータの中から脱出出来たのだろう。そう思って安堵の息を零す。と、同時に頭上から声が降った。 「呑気なものだな、黒薙灯」 体が硬直した。声の方を振り向けば、太陽に背を向けて立つ空蝉がいた。無表情のまま、黒薙は体を引き摺るようにして後ずさる。 「空、蝉」 GLAY組織の幹部とも、首領とも思われる謎の男。だが、危険人物であり、重要参考人なのは間違いなかった。懐から拳銃を取り出そうとして、自分の体の異変に気付く。腕が動かない。 ずきり、と頭が痺れる。蟀谷を抑えたいのに腕が上がらない。この場から離れたいのに足が動かない。耳の奥で声が響いている。誰かが自分を呼んでいる。 一歩。空蝉は黒薙との距離を詰める。 「体が動かねぇだろ」 確認するようで、此方からの答えなど必要としていないような物言いだった。体が軋み、動かない。黒薙は空蝉を睨んだ。 「て、めぇ……。何しやがった……!」 空蝉は、嗤った。 「GLAYだよ」 黒薙は何も言えない。GLAYは嘗て投薬されたことがある。その後、角膜の変色という異常が現れたが他は何も変わらなかった。否、変化に気付かなかった。 嗤いながら近付く空蝉が酷く恐ろしく感じた。逃げるものかと叫ぶのはプライドだ。だが、動かない体はそれでも逃げたいと願うように微かに震えている。 「死者に逢えるドラッグなんて、存在すると思うか?」 口角を吊り上げて、空蝉は皮肉っぽく笑った。 「そんなもん、存在しねぇんだよ。人は死んだらお終いだ。そんなに逢いたきゃ、てめぇも死ねってな」 その言葉は何処か自嘲するような響きを帯びている。空蝉は続けた。 「昔話をしてやるよ」 口元だけで笑い、目は虚ろだ。黒薙は黙っている。 「昔、あるところに若い研究者がいた。そいつは世間で出回る、死者に逢えるという麻薬について研究していた。始めは犯罪が許せないという若いが故の正義感。来る日も来る日も、寝る間も惜しんで研究した」 空蝉は鋭い視線で黒薙を見下す。獲物を睨む蛇のような目だ。 「だが、その思いはある出来事を境に変わった。男の務める研究所が麻薬組織のテロによって爆破され、慕っていた先輩や恩師が殺されてからだ」 研究所爆破のテロを、自分は何処かで聞いたと黒薙は思った。だが、如何しても思い出せなかった。空蝉の声に耳障りな不協和音が耳鳴りとなって響く。 「男には恋人がいた。それは男の恩師である研究者の娘だった。その娘は、両親がテロによって殺害されたと知ると、組織を壊滅させると警察に入った。だが、男は正反対だった。男は死者に逢えるという甘美な謳い文句に釣られて、麻薬組織に入った。死者に逢う為にな」 くつくつと可笑しそうに喉を鳴らしながら、空蝉は続けた。 「来る日も来る日も研究の日々。死者に逢いたい、その一心でな。だが、ある日気付いちまったんだ。……死者に逢えるドラッグなんて、存在しねぇってことに」 そこで空蝉は、自嘲のように一声笑った。 「自分の研究は全て無駄だ。そうして絶望の中にいた男に、更なる絶望が襲った。恋人が麻薬中毒者に殺されたってな」 空蝉はもう、可笑しくて堪らないというように腹を抱えて笑い出した。 「気付いた時はもう、何もかも失った後だった! 死者に逢う手段はねぇ! そんな幻想を追っている間に、本当に大切な者まで失くしちまった!」 それが誰の話なのか、黒薙は既に気付いていた。酷く滑稽な話だ。笑うことすらできない。 「……だが、男はこう思った。無いのなら、作ればいい。それまでの膨大な研究データを前に、男は思った」 「馬鹿な」 「ああ。死者を蘇らせることは……、不可能だった」 当たり前だ、と黒薙は思う。それは神の領域だ。神など信じてはいないが、人が踏み込んでいいものではない。 空蝉は顔を上げ、黒薙を見て不敵に笑った。 「其処で男は思った。死者を蘇らせることは出来なくとも、死者の人格を人工的に作ることは出来るのではないかと」 「人格?」 「性格という器を作り、其処に記憶というデータを入れる。学習し成長するプログラム。所謂AIだ」 身近な家電製品などにある所謂機械学習という機能とは違うものだ。空蝉は言った。動物の体は複雑な機械だと聞いた覚えがあるな、と黒薙は思った。 「アンドロイドでも作るつもりか?」 黒薙が問うと、空蝉は首を振って言った。 「現在の科学では、機械には限界がある。だから、男はずっと機械に代わる器を探していた。他者の人格を植え込んでも尚、壊れない強い器を」 他者の人格。その言葉に、冷たいものが背中を走った。黒薙は信じられないものを見るような目で空蝉を凝視した。 今も頭に響く声は、一体誰のものだ。そして、この男の語った昔話の『娘』とは、誰のことだ。気付いたとき、目の前に見たこともない景色がふつりと浮かんでは消えた。 冷や汗が頬を伝う。 「漸く見付けたぜ」 感情の読めない空蝉の、酷く嬉しそうな顔。 GLAYという麻薬。偽物と言えど強い依存性を持つ。そして、本物を摂取したものは廃人になる。それは、脳が耐え切れなかったせいだ。他者の人格を受け入れられる筈が無い。だが、GLAYを投薬しても尚、正気を失わなかった者が現れた。 頭の中で声が響く。目の前に浮かんでは消える知らない景色。耳鳴りが止まない。 「死者に逢いたいと、願ったことがあるだろう?」 視界が白く霞んだ。既に起き上っていることすら、黒薙には困難だった。 「玲子、やっと、お前に逢える……!」 酷い頭痛と眩暈の中、目の前にいる筈の空蝉の声が遠く響いた。 頭に浮かぶ見たこともない景色は松田玲子の記憶なのだろう。優しく微笑む男女は両親だろうか。幼い妹と繋いだ手。大勢の人間との出会い。空蝉と過ごした日々が浮かんでは消える。 そうして、彼女の記憶に呑まれ、自分は消えていくのだろうかと思った。もう力を入れることも出来ない四肢を投げ出したまま、冷静に考える。だが、それもいいかと思ったのだ。 佐倉は、無茶ばかりするお調子者だ。自分が守ってやらなければならないと思っていたのに、何時の間にか自分のことを守れる程に成長していた。 菊崎は自分がいなくても、対策本部の中で上手くやって行けるだろう。確かに武闘派ではないけれど、それを補っても余りある頭脳と決断力と、他者を認め許す優しさがある。 美月はまだまだ精神的にも弱く、自分に依存していた。けれど、たった一人でGLAYの特効薬を作る程の優秀な研究者だ。彼女のこともきっと周りがフォローしてくれる。 浦和にはとても世話になった。若くしてGLAY対策本部の長を務めるだけの器がある、自分には過ぎた上司だった。これからも彼女の下で優秀な警官が育ち、この国を守ってくれる。 瑠璃には何も言えなかったし、遺せなかった。自分がいなくなれば、彼女はきっと泣くだろう。とても弱い子だ。けれど、弱いが故の強さと、脆いが故の優しさを兼ね揃えた彼女はきっとこの先、多くの人に愛されるだろう。 白神もまだ不安が残るけれど、守るべきものがある。彼には支えてくれる仲間がいる。瑠璃のこともきっと守ってくれる。本音を隠して意味のない嘘ばかり吐く男だ。強がっているが、本当はとても脆い男だ。良い仲間に恵まれてよかったと、心から思う。 死者に逢いたいと思ったことはある。逢が死んだとき、松田が死んだとき、現場で命を落とす数々の仲間を前に、何時だって願った。死なないで欲しい。生き返って欲しい。強くそう祈った。だから、空蝉の気持ちは痛い程によく解るのだ。 松田玲子の人格が生まれた後、自分の人格は消えてしまうかも知れない。ほんの少しだけ残って、彼女として世界を共に見られるのかも知れない。だが、どちらでも構わない。だって、自分にはもう、消えて困る記憶など無いのだ。 仲間も友も大切な人も、自分がいなくても立派に生きて行ける。青空だった筈の空は何時の間にかモノクロに染まっていた。激しい鼓動を聞きながら、黒薙は目を閉ざす。だんだんと穏やかになっていく鼓動。酷く安らかな気持ちだった。 けれど、漆黒に塗り潰された瞼の裏に突然、鮮やかな青空が浮かび上がった。そして、懐かしい声がした。 ――約束だよ その声を聞いた瞬間、鼓動が鳴った。 ああ、駄目だ。消せない。 満開の桜の下で、初めて三人で写真を撮った。 人の良さそうな笑顔を浮かべる白神。目を細めて笑う癖のある逢。仏頂面の自分。 ――必ず、この先も三人でいようね 果たせなかった約束がじりじりと胸を焦がす。 俺は、お前に逢いたかった。彼女にずっと、逢いたかった。この冷たい世界で初めて、自分に手を差し伸べてくれた彼女に逢いたかった。目の前で冷たくなった彼女を救いたかった。 ゆっくりと体を起こす。目の前で、空蝉が目を丸くして一歩後ずさる。何か叫んでいるが、解らなかった。 油が切れてしまったかのように全身が動かし辛い。あんなに鮮やかな青空を見たというのに、視界は不明瞭に霞んでいる。眩しい程の日光を感じるのに、雨でも降っているのか、頬に滴が伝った。 (消せない。忘れられない大切な記憶が、俺にはある) 逢が、龍が、待っている。 死んだ人に逢いたいと願うことは止められない。戻らない過去を振り返って嘆くことも止められない。それでも。 「……それでも、俺は進まなきゃならねぇ……!」 記憶の中で生きているだなんて、容易く言えはしない。ただ、忘れられないだけだ。 辛くて苦しくて、悲しくて逃げ出したいのに、如何しても思い出は消えない。消えてくれない。逢が笑うから、松田が背中を押すから、何処にも逃げないと誓った。どんなに残酷な世界でも、辛くても苦しくても、前を向くしかない。 それが、漸く辿り着いた答えだから。 起き上った黒薙を前にして、空蝉は後ずさることしか出来なかった。計算外の事態にエラーを起こしたかのように身動きが取れない。そして、計算外がもう一つ。 黒薙の後ろで、閉ざされていたエレベータの扉が開いた。こじ開けられた半開きの扉の隙間から、機械油で頬を黒くした、煤塗れの白神が顔を出す。振り向いた黒薙の顔を見て、白神は力なくへらりと笑った。 「――よォ、やっと着いたぜ」 こういう泥臭いのは専門外なのにな、なんて笑いながら、扉から這い出る。それはナンバー1ホストとは思えない滑稽な姿だ。黒薙は、隣に歩み寄った白神を見て口元を歪めた。 自慢の服が台無しだな、なんて笑いながら。 白神は、黒薙を横目に見ながらも何も言わなかった。表情を消失し、感情を凍結させた筈の男が泣き、笑っている。暫しの沈黙の後、白神は無表情に言った。 「お前、独りでどうするつもりだったんだ」 たった独りでどうにかなると思ったのだろうか、と白神は黒薙を一瞥する。満身創痍なのは一目で解る。 この親友がただ無鉄砲なのではなく、死にたがりなのも知っている。仲間を絶対に死なせないと第一線で戦いながら、本当は死に急いでいたことも解っていた。 「お前、全部独りで背負って、死ぬ気だったのか……?」 黒薙は何も言わなかった。否定する言葉を持ち合わせていなかった。白神は激昂したように叫んだ。 「この際だから言っておいてやるけどな、お前のそれは病気だぞ!」 座り込んだままの黒薙の両肩を掴み、白神は叫んだ。幾度となく自分に偉そうに説教して来たこの男は、本当に強い男だ。けれど、強いが故の脆さを併せ持っている。 白神はその両肩を掴みながら、絞り出すように言った。この言葉が、彼に届けと願って。 「お前の『ただいま』を、待ってる奴等がいるんだよ……!」 自己犠牲が当たり前を思うこの男に知って欲しいのだ。お前が大切なのだと。他の誰かではいけない、掛け替えのない存在なのだと。 黒薙は少し目を伏せて、息を吐くように答えた。 「ああ、知ってるよ……」 また、ぽつりと涙が零れ落ちる。白神は舌打ちと共に立ち上がり、身動きできずにいる空蝉を睨んだ。 「お前がラスボスか」 空蝉は数秒の沈黙の後、額を抑えて笑い出した。 空に木霊する笑い声を聞きながら、その様を凝視する白神の横で、黒薙は言った。 「死者に逢いたいと、思わない訳じゃねぇ」 ぷつりと笑い声は消え、虚ろな目で空蝉が黒薙を見る。黒薙は言う。 「正しいものが何かなんて、俺には解らねぇよ」 思い出したように黒薙は懐から煙草を取り出し、ゆっくりと火を点けた。慣れた手付きで口に咥え、離すと煙を吐き出す。紫煙を燻らせながら、その火を空蝉に向けた。 「ただ、やっぱりどう足掻いたって失ったものは戻っては来ねぇ。だから俺は、もう過去に囚われるのは止めにして、前向いて走ることにするよ。間違ったときは、俺には殴ってでも連れ戻してくれる仲間が、親友がいる」 再び煙草を咥え、灰を煙で満たして吐き出す。白神には、風に崩れていく紫煙を見詰める黒薙の横顔は何処か寂しげで、黒曜石のような瞳は何故だか笑っているように見えた。 空蝉は何も言わず、少しだけ俯いて笑った。そうして顔を上げたとき、瞳はもう虚ろではなかった。 「……なら、必死こいて守るんだな。てめぇの大事なもんをよ」 そう言って、空蝉は背を向けた。そのまま屋上の淵まで歩いて行くと、黒薙と白神を見て笑った。 「じゃあな。もう二度と会うこともねぇだろうけどな」 そうして、踏み切った。空蝉の体は風に揺られながら二人の前から消えた。動けない黒薙は目を丸くし、白神は慌てて追い掛けた。空蝉が飛び降りたその下を、恐る恐る覗き込む。ぐちゃぐちゃに潰れた空蝉の死体が其処には――無かった。 空蝉の姿は何処にも無かった。周囲を見回しても、何度覗き込んでも空蝉はいない。狐につままれたような顔で戻って来る白神を見て、黒薙は少し笑った。白神が眉間に皺を寄せ、不満げに言う。 「……んだよ」 「いや、変な顔してやがるなと思って」 舌打ちをしながら、白神は黒薙に肩を貸す。栄養失調気味の体は軽かったが、それでも全体重を預ける黒薙に白神もまた少し笑った。こうして歩くのも随分と久しぶりだ。 「腹減ったなァ」 「そうだな」 そうして、動くとは思えないがエレベータまで歩いて行く。ぶちぶちと文句を並べる白神の声を聞きながら、黒薙は誰かに呼ばれたような気がして振り返った。 ――ありがとう 松田が其処に立っている。だが、瞬きと同時に消えた彼女の幻に、微笑みを浮かべる。礼を言うのは此方の方だ。彼女の言葉が今でも自分を支えている。 貴方に逢えて良かった。もう届かない思いを胸の内で呟き、黒薙は瞼を下した。 ――あんたはきっと大丈夫。この世界を愛してるから 2011.1.3 |