*モノクローム 6

 目を開けたとき、よく知る顔が其処に並んでいた。
 白い天井とクリーム色のカーテンが視界の端に映る。誰に言われなくとも、此処が病院であることはすぐに解った。黒薙は数度瞬きをした後、再び目を閉じようとする。だが。

「あ、灯さん! 寝ないで下さいよ!」

 聞き慣れた喧しい声は佐倉のものだった。渋々といった調子で視線を遣れば、佐倉と菊崎、美月が笑っていた。
 酷く体が重かった。あのビルを後にしてから、一体どれ程の時間が経ったのだろう。顔にガーゼや絆創膏を貼る菊崎と佐倉は既に手当てを終えている証拠だ。倒壊していた町はどうなっただろうか。
 ぼうっとそんなことを考えていると、心中を察したらしい菊崎が言った。

「町はもう大丈夫だ。死傷者も多く、首都圏の被害は大きいが……、地方病院や消防が応援に来てくれている。お前が三か月眠っている間に、随分と状況は良くなった」
「三か月!?」

 驚いたように体を起こすと、美月が慌てて諌めようとする。途端に体中がギシギシと痛み、嫌な汗が流れる。動かし辛い身体にデジャヴを感じる。この体は未だ薬に浸食されているのではないか。そう思ったとき、美月が言った。

「三か月の間に、GLAYは消滅しました。中毒者の治療は進み、灯さんの体内に残っていた成分も消えています。それから、組織自体も既に壊滅と等しい状況です」
「そうか……」

 そのまま、黒薙は体を倒した。眠っている間に全ては終わっていたらしい。
 空蝉と共にGLAYは消えた。それは、黒薙にとっての戦いに決着が着いたということだ。コカインベイビーとして生を受け、生まれながらに悪と蔑まれた幼少期、両親の虐待と事故死、逢の死、松田の死。背負って来た過去や矜持も全て、何もかもが終わったのだ。
 それはこの上なく嬉しいことであり、――少し、寂しいことだった。
 自分を此処まで押して来たものが無くなり、歓喜の中で、胸の中に大きな穴が開いたような空虚感があった。そう思うことは今まで自分を支えて来てくれた人々への裏切りに他ならない、と自身を𠮟咤しながらも、黒薙はただ俯き黙ることしか出来なかった。
 黙り込んだ黒薙を見詰め、菊崎は少し笑った。

「まだ、終わりじゃねぇよ」

 黒薙は顔を上げた。菊崎は笑った。太陽に背を向けた菊崎の顔は暗く、はっきりと見えない。

「確かに俺達はGLAY対策本部だが……。それ以前に、俺達は警察だ。GLAYがあってもなくても、俺達のやることは変わらない」
「そうだな……」

 ありがとう、と礼を言おうとして黒薙は止まった。
 これまで一体どれ程、彼等に礼を言ったのだろう。ありがとうでは伝えきれない感謝を、どのようにしたら伝わるだろうと考える。
 けれど、考える必要もないと思い至って、黒薙は――笑った。

 その意味を知る者は余りにも少ない。けれど、それは言葉以上のものだ。
 菊崎が、佐倉が、美月が動きを止める。それは、黒薙の笑顔など見たことが無かったからだ。コカインベイビーとして生まれながらに表情の欠落と感情の凍結という障害を負って来た黒薙を、これまで多くの人が冷血漢だと蔑んだ。身近な者は皆、彼が決して何の感情も持たない人形のような人ではないと解っていた。その瞳にありありと映る喜怒哀楽を知っている。
 けれど、それでも。

「灯」

 菊崎が、微笑んだ。GLAY対策本部へ務めることとなってから苦楽を共にしてきた同期の仲間だ。
 黒薙が言おうとした言葉を、菊崎は言った。

「ありがとう」

 それは俺の台詞だ、と黒薙は言おうとして違和感に気付く。
 頬を伝う生暖かく透明な液体。雨ではない、汗でもない。これは何だ、と思ったとき、目の前で美月と佐倉が同じようにその液体を頬へ一筋流していた。

「ありがとう、灯さん」
「ありがとうございます」

 数え切れない感謝の言葉を送る仲間を前に、黒薙は瞠目する。
 自分は、彼等の前にいる価値があるのだろうか。不気味だと、気持ち悪いと蔑まれた自分は彼等と共にいてもいいのだろうか。そう思うと、何か言葉を返さなければと思うのに喉に言葉が閊えて声が出ない。
 どうしたら伝わるだろう。この胸一杯の感謝を、どんな言葉にすれば伝わるだろう。
 出て来ない声を絞り出そうとする黒薙の耳に、久しく聞かなかった声がした。

「――灯っ」

 扉を破る勢いで、転がるように飛び込んで来た少女。吹き抜ける風が彼女の髪を揺らす。日光を反射する黒髪がまるで銀色に見えた。宝石のような青い双眸がまるで。
 まるで、灰谷逢のように見えたのだ。

(逢……)

 反射的に体を起こした黒薙に、まるで弾丸のように飛び込んでいく少女。日光がカーテンに隠れ、その髪は漆黒に戻る。
 少女を抱き留めた手が微かに震えたことに気付いたものはいなかった。逢ではない。

「瑠璃……」

 逢の唯一の肉親である妹の瑠璃だ。包帯の巻かれた黒薙の手を握り締める瑠璃の顔は俯き、表情は窺えない。けれど、その震える掌は余りにも、逢の葬式の夜に似ていた。
 手を握って泣きじゃくる瑠璃を、膝を抱えて蹲る白神を、守らなければならないとあのとき思ったのだ。逢を救えなかった自分への罰として、そして、償いとして。けれど、本当は気付いていた。解っていたのだ。そんな償いは自己満足でしかないということも、守られていたのは自分であることも。

「瑠璃、顔、上げろ」

 ゆっくりと顔を上げた瑠璃の目からは、一筋の涙が零れ落ちる。その涙で歪む視界には、泣きもしなければ笑いもしない仏頂面の黒薙がいた。
 黒薙は瑠璃の顔を両手で包むようにして、乱暴な言葉からは想像も付かないような穏やかな声で言った。

「クソガキ、泣いてんじゃねぇよ」
「だって……!」

 瑠璃は、青い双眸を擦りながら叫ぶように言った。

「灯が、死んじゃうと思ったんだよ……!」

 その言葉に、ギクリとする。
 空蝉の元に向かったとき、自分は何を思っただろう。全ての決着をつけてやろうと思った。その為にどんなに傷付いても、例え死んだって構わないと思った。それが自分の仕事だと信じていた。だが、こうして自分を待っていてくれる人がいることに気付けなかった。

――お前の『ただいま』を、待ってる奴等がいるんだよ……!

 白神の激昂の意味を考える。如何して彼はあんなに怒ったのだろう。如何して瑠璃は泣くのだろう。如何して仲間は感謝を口にするのだろう。死なないでくれと彼等が願う、その意味は。

――解らない?

 不意に何処からか、逢の声が聞こえた気がした。

――皆、貴方が大切なんだよ。他の誰でもない貴方自身が。貴方と共に笑いたいから、貴方と共に泣きたいから、貴方と共に生きたいから

 逢の諭すような穏やかな口調が耳の奥に響く。それでも、その温かさを必死に否定する自分がいる。
 違う、そんな筈ない。そうして温もりから逃げようとするのは、失った時の辛さを知っているから。臆病な自分を知られたくないから。欠陥品だと切り捨てられるのが怖いから。
 けれど、カサカサに乾いた心に逢の声が染み込んで行く。

――欠陥品だなんて言って自分を遠ざけないで。灯は独りじゃない

 独りじゃない。
 失って苦しむくらいなら、始めから独りでいればいい。それでも、何時の間にか多くのものを背負い込んで、そして、その多くのものに支えられて来た。
 大切なものは、ずっと傍にあったのに、気付かない振りで遠ざけて来たのは自分だ。
 伝え切れない感謝だとしても、伝わるまで何度も繰り返す。何時か死ぬその瞬間まで、何度も何度も。


「ありがとう」

 と。






 黒薙の病室の前で、白神は見舞いの品を手にぶら下げたまま立ち尽くしていた。
 共に来た瑠璃が病室に飛び込んで、自分はすっかり置いてけ堀だ。三か月ぶりに意識が戻ったと聞いて駆け付けてみればこの様か、と溜息が零れる。部屋に入るタイミングを見失ったばかりか、居場所も無さそうだ。
 そんな白神の横で、永塚が苦笑する。

「帰りましょうか、龍さん」

 そうだな、と白神も苦笑を浮かべる。
 駐車場へと向かいながら、白神はこの三か月を思い返す。GLAYとの決着をつけ、世界はまた落ち着きを取り戻している。麻薬組織と政府の癒着が公のものとなり、毎日テレビに映るのは議員の汚職や何やらと下らないいたちごっこ。けれど、それでも犯罪は確実に減少している。
 あの大規模なテロの爪痕は深いが、人も町も回復を始めた。人は強い。欲望や憎悪に弱いけれど、温もりを糧に何度だって前を向いて歩き出すことができる。
 一颯組の若頭として生き残った永塚は、警察組織であるGLAY対策本部が秘密裏に彼の存在を探し、守っていてくれたことを知ってから変わった。笑顔の仮面で本当の気持ちを隠し続けて来た永塚にも本当の笑顔が増えた、と白神は思う。必要最低限の人間関係のみで世界を構築しようとしていた永塚が、GLAY対策本部の佐倉青と飲みに行ったと聞いたときは相当に驚いた。正反対の性格である筈の二人は水と油と思っていたが、裏表ない佐倉の竹を割ったようにさっぱりとした性格は合っていたようだ。
 かなりの酒豪である筈の永塚がべろべろに酔っ払って来たときは驚いたが、後日、佐倉は笊どころか枠なのだと菊崎から聞いて笑ってしまった。白神も仕事上酒には強いが、永塚と飲み比べられる人間など今まで中々いなかった。同い年の友達が出来たと、呂律の回らない口調で話す永塚はとても嬉しそうだった。
 駐車場には奈那子が待っていた。助手席に座る明日香が大きく手を振る。永塚は笑顔を見せ、駆け寄っていく。

「お待たせしました」

 退屈そうにガムを噛んでいた明日香が横目に白神の手にある見舞いの品を見る。定番のフルーツバスケットは此処へ来る直前にスーパーで買った安物だが、昏睡状態から目を覚ましたという黒薙の為に買った品だ。
 白神は後部座席の扉を開き、乗り込みながら言った。

「見舞いは不要だったみたいでさ」

 苦笑いを浮かべる白神は何処か嬉しそうだった。奈那子は微笑み、車を走り出させる。
 休日の街は静かだった。道路の亀裂はまだ多く、道は荒れ、限られた通路は渋滞している。舗装されていない裏道を通れば怪しげな浮浪者が其処此処に溢れている。白神は横目に見ながら溜息を零す。
 この国の貧富の差は拡大している。犯罪は減少していても無くなることはなく、歴史は必ず繰り返す。こんな世界はクソだと唾を吐き付けたこともあった。けれど、それでも、この世界を守ろうとする人がいる。この世界を愛した人がいる。

「……奈那子」

 窓の外を眺めたまま、白神は言った。

「行きたい場所があるんだ」

 静かに行先を告げる白神を、奈那子は黙って見ていた。奈那子は勿論、永塚や明日香も行ったことのない場所だ。けれど、その場所に何があるのか、どんな意味を持つのか。問わなくとも解った。
 黙って頷き、奈那子は方向転換する。車は裏道を通り、町から離れていく。閑静な住宅街を抜け、開発されていない緑の多い道を進む。その先にぽっかりと、土の露出した広場が現れた。集合墓地だった。
 この地区の死者は纏めてこの場所に埋葬される。人種や国籍、宗教を越えて埋葬される彼等は殆どの場合身寄りがないか、引き取りを拒否された犯罪者だった。そして、この場所に埋葬された人間を白神は知っている。
 降り止まぬ雨の中、大勢の人間に見送られながら冷たい土の中に消えて行った灰谷逢。けれど、白神はその葬儀以来この場所を訪れたことは無かった。それどころか、葬儀のときのことすら、白神ははっきりと覚えていない。
 彼女の死の瞬間を目の前で見たのも、葬儀の最中一度として目を背けることをせずに見続けていたのも、泣きじゃくる瑠璃の手を握っていてやったのも、膝を抱え蹲ることしかできなかった自分の隣に立ち続けていたのも、全て黒薙だった。冷たい現実から簡単に逃げ出した自分の代わりに、全て受け止めて待っていてくれたのは黒薙だった。
 逢の墓は綺麗だった。墓石は磨かれ、供えられた花は瑞々しい。三か月の昏睡状態にあった黒薙が此処に来た筈は無いのだから、他の誰かが墓参りをしたのだろう。
 墓石の前に立ち尽くす白神を、永塚は静かに見詰めていた。
 誰にでも大切なものはあるけれど、それに気付くものはとても少ない。そして、多くのものが失ってからその大切さに気付くのだ。過去を語ろうとしない白神にも、大切な人を失った記憶がある。永塚は黙り込んだ白神の背中をじっと見詰める。
 この墓地に眠るのは逢だけではない。白神の家族も眠っているのだ。

「俺の大切な人が、此処に眠っているんだ」

 ぽつりと、呟くように白神は言った。

「家族と、大切な友達が」

 背中を向けた白神の表情は解らない。奈那子は目を伏せた。
 白神の家族がGLY中毒者によって惨殺されたことは知っていた。普段は検事として務める奈那子が白神と出会ったのは、彼の一家惨殺事件を通してのことだった。犯人の行方を追っていた白神が奈那子の元を訪れたときには、犯人は既にこの世にはいなかった。GLAY対策本部の捜査によって追い詰められた末、人質をとって立て篭もり、射殺された。
 憎しみだけで生きていた彼にとっては余りにも残酷な事実だ。ホストとして生計を立てていた彼がこれ以上堕ちてしまわないようにと、希望を込めて揉め事解決屋という副業を勧めた。その副業の中でGLAYに関する情報が得られることに希望を託した。けれど、それは結果として彼の生きる目的を憎しみとして、再びこの冷たい現実に縛り付けただけに過ぎない。
 だが、その憎しみから彼を解き放ったのは。

「龍」

 呼ばれて振り返った先に、黒薙がいた。ついさっきまで病室にいた筈が、いつもの何の面白味もない黒いスーツを着込んでいる。隣に立つ佐倉と、黒薙が脇に抱えるヘルメットで納得する。
 あの後すぐに、佐倉のバイクで此処へ向かったのだろう。白神は苦笑した。目覚めてすぐに墓参りに来る、何時まで経っても変わらない真面目な親友。
 黒薙の手には四つの花束があった。

「……墓参りか?」

 白神が問い掛けると、黒薙は黙って頷いた。
 GLAYとの決着を墓前に報告に来たのだろう。逢と、松田玲子と、白神の家族と。

「その花は?」

 黒薙は手に持った仏花を見て、答える。

「逢と、玲子さんと、お前の家族と……。俺の、両親に」

 静かに風が通り抜けて行った。
 黒薙の両親は、麻薬中毒者だった。コカインベビーとして生まれた黒薙を五歳の頃まで『欠陥品』と蔑み虐待し、事故で死んだ。恨みこそすれ、墓参りに来る義理などある筈もない。彼の両親は、彼のことを愛したことは一度だって無かっただろう。
 白神の思考を察し、黒薙は無表情に白い菊の花を見て言った。

「親が死んでから、一度も墓参りに来たことは無かった。単純に忙しかったということもある。でも、俺は、此処に来ることが恐ろしかったんだ。此処に来たら、また俺は『欠陥品』と蔑まれるんじゃないかと思った。そうしたら、もう立ち上がれないと思ったんだ」

 白神は黙った。
 無条件に愛される筈の親に否定され続ける苦しみなど、白神には解らない。生まれながらに欠陥品と蔑まれて来た彼の抱える劣等感がどれ程のものかも解らない。

「でも、逢やお前と出会って、仲間が出来て……、欠陥品なんかじゃないと、お前が大切だと何度でも教えてくれて漸く此処に来ることが出来た」

 黒薙の隣で、佐倉が悲しそうに俯く。相変わらずの仏頂面で、黒薙は続けた。

「俺は両親を恨んだことはねぇよ。それはさ……、俺は今でも、あの人達に愛して欲しかったから」

 口にしたことなど無かった。見知らぬ親子が幸せそうに歩く姿を遠くから眺め、通り過ぎるだけだった。羨ましいとも言ったことがなかった。自分には初めから存在しなかったその愛情を、欠陥品の自分が受けていいものではないと思っていた。
 そうして諦める癖がついて、此処まで来てしまった。だが、何度でも自分に欠陥品なんかではないと教えてくれる仲間がいる。
 両親を恨んだことはなかった。それは事実だ。けれど、愛して欲しかった。まるで汚いものを見るような目で睨まれて、殴られ蹴られて来たけれど、それでも、いつか、いつか自分を抱き締めてくれるんじゃないかと祈っていた。
 どんなに祈っても届かない願いがある。それは仕方がないと諦める癖がついた。そうして、両親の気持ちが解った。

「あの人達も辛かったんだ。苦しくて、全て投げ出したくて……、それでも、俺を育ててくれた」

 確かに抱き締める腕は無かった。温かい食事も無かった。けれど、育ててくれた。
 冷たい目でも、決して逸らすことはしなかった。欠陥品だと呼びながら、向き合ってくれた。漸くそれに気付いた。

「もう、それで十分なんだ」

 白神は何も言わなかった。否、言えなかった。
 そう言った黒薙が微笑んで、満足そうだったから。まるで肩の荷が下りたような、腫物が落ちたような穏やかさだった。そうして逢の墓前に花を供え、手を合わせた。目を閉じて黙る黒薙は今、全てが終わったことを逢に報告しているのだろう。白神はその後ろで、奈那子や永塚に視線を送った。
 少し、二人で話がしたかった。佐倉は思い出したように言った。

「飲み物買って来ますね。無糖のコーヒーでいいんですよね」
「ああ、頼む」

 佐倉は笑って背を向けた。奈那子や永塚も同様に、背を向け歩き出す。
 目を閉じたままの黒薙に佐倉の声が届いたのかは解らない。

「なあ、黒薙」

 白神は言った。

「覚えてるか?」

 黒薙は目を開けた。

「俺とお前と、逢と、三人で初めて旅行したときのこと」
「ああ」
「俺が逢のことを好きだったことも、知ってただろ?」
「ああ」
「……逢が、お前のことを好きだったことも?」

 じっと正面を見詰めたまま、黒薙は黙った。
 黒薙は、逢のことが好きだという白神を応援すると言った。けれどそれは、黒薙のことが好きだった逢にとってどれ程残酷なことだっただろう。逢は、黒薙は家族愛以上の愛情を理解できていないと言っていた。けれど、本当は解っていたのではないかと思うのだ。
 同じように逢は、黒薙は表情がないのではなく、その使い方が解らないのだろうと言った。感情が凍結しているのではなく、感情が理解できないのだろうとも言った。だから、あの頃の彼が一体何処までのことを理解していたのか解らない。
 暫しの沈黙の後、黒薙は静かに、まるで声を押し殺すように答えた。

「……知ってたよ……」

 白神は目を閉ざした。
 やはり、と思う。黒薙は自分のこととなると鈍いと、逢は言った。けれど、彼は決して愚鈍ではない。全て解っていて、気付かないふりをし続けたのだ。

「如何して……」

 白神が問い掛けると、黒薙は向き直った。目を開いた白神の目に、少し俯いた黒薙のばつの悪そうな顔が映る。

「俺は、ただ」

 彼にしては珍しく、歯切れ悪く言った。

「ただ、お前等と一緒にいたかったから……!」

 その絞り出すような叫びが全てなのだと、白神は悟った。否定されても、傷付いても、何を言われても、そのただ一つの願いの為に此処まで来たのだ。
 逢の気持ちに気付かないふりをすることで、ずっと三人でいられると思ったのだ。それは彼にしては余りにも単純で、幼稚な考えだ。それで逢が傷付くことも知っていただろう、自分が苦しいと解っていただろう。だけど、それでも。

――約束だよ。必ず、この先も三人でいようね

 逢の願いを叶えてやりたかったのだろう。それが、黒薙の願いでもあったから。
 この世界は冷たい。彼等の願いは、これ程までに傷付かなければならない程に傲慢なものだっただろうか。一緒にいたいとただ願っただけだ。その為にどれ程傷付いて来ただろうか。
 愛して欲しかったと願う彼だから、周りの全ての人間を必死に愛そうとして来た。守る為に、失わずに済む為に。

「今でも夢に見る。逢が死んだ瞬間や、玲子さんを失ったあの日のこと。目の前で取り零した命の無念さを。何度繰り返しても救えなくて、どんなに願っても叶わなくて……」

 絶望した日もあった。諦めようと思うときもあった。仕方がないんだ。もういいだろう。そう思う度に、声が聞こえる。
 逃げるなと。負けるなと。此処にいる、と。

「どうしたら逢を、玲子さんを、仲間を救えただろうと思うよ。だが、今思うのは」

 黒薙は目を閉じ、そして、ゆっくりと白神を見た。
 何の迷いもない漆黒の瞳が真っ直ぐに白神を射抜く。口元に浮かべた微かな笑みが、彼の胸中の全てを物語っている。


「この世界は冷たい。だが、それでも、前を向くしかない」


 白神は、笑った。出会った頃から変わらない真面目で真っ直ぐな男だと。
 その時、土を蹴る足音が響いた。

「灯さーん」

 缶コーヒーを手に持った佐倉が大きく手を振りながら駆けて来る。その後ろで、永塚が不満そうに唇を尖らせ追い掛けていた。その缶コーヒーを手渡しながら佐倉が笑った。

「はい、缶コーヒー。俺の奢りです」
「よく言うよ。買ったのは俺じゃないか」

 文句を言いながら、永塚も同様に白神に缶コーヒーを手渡す。

「じゃんけんに負けたお前が悪いんだろ」
「次は負けねぇ」

 そう言って睨み合う二人がとても楽しそうだから、白神も笑ってしまった。
 黒薙は手の中の缶コーヒーが温かいことに気付き、眉を寄せる。八月だというのに如何してホットなんだと文句を言おうとしたとき、涼やかな風が吹き抜けた。
 青葉を揺らす一陣の風は、夏の終わりを告げていた。季節は秋になろうとしている。
 文句を呑み込み、言い争う二人を眺めながら缶コーヒーを開ける。と、その時、懐の携帯が震えた。

「はい、黒薙――」
『H地区で立て篭もり事件発生。現場に急行しなさい』

 早口に告げる浦和の声に溜息が出る。けれど。

「了解」

 コーヒーを喉の奥に流し込み、通話を終える。同時に白神の携帯が鳴った。

「はいはい、白神でーす」
『リューちゃん? 今日、出勤するわよね?』

 ホストクラブの桃木の、女性のような口調に笑ってしまう。白神は零れそうな笑いをコーヒーと一緒に呑み込んだ。

「ああ、行くよ」
『よかった。あんた指名のお客さんが待ってるわよ。タカがアル中で病院送りになってねえ』

 呑気に話す桃木は何処か嬉しそうだった。白神も苦笑し、通話を終えた。
 携帯をポケットに仕舞うと、同様に通話を終えた黒薙と目が合った。黒薙は少し微笑んで、拳を向ける。

「じゃあな、龍。俺は行くぜ」
「ああ。……気ィ付けろよ」

 柄でもないか、と言った後で白神が後悔すると、やはり驚いたように黒薙が目を丸くする。けれど、すぐに可笑しそうに笑って言った。

「バーカ、誰に言ってやがる」
「そうですよ。この人は、殺しても死にませんって」

 佐倉が横から口を出し、黒薙が拳を落とす。
 頭を押さえて痛みをやり過ごそうとする佐倉を無視して背を向け歩き出す黒薙が、最後に振り返った。

「死なねぇよ。俺には大切なものがあるからな」

 に、と笑って早足に歩いて行く。慌てて追い掛ける佐倉が振り返って手を振った。
 帰り際に花を供えていくだろうその几帳面さを思い、笑う。小さくなっていく背中は途中でしゃがみ、花を供えている。両親の墓だろう。
 そのまま二人が見えなくなり、白神も歩き出す。永塚が言った。

「大切なもの」

 まるで呪文のようだと思う。大切が故に傷付くこともある。けれど、それがあればまた歩き出せる。
 空を見上げると、夏の終わりを感じさせる太陽の静かな輝きが其処にあった。






the end.




2011.1.10